空のグラスに溺れて




   ❄

 雪は嫌いだ。眩しくて、赤が映えるから。
 地元は例年雪が積もるような場所ではなくて、大寒波の影響で数年ぶりに数センチ積もったのだ。学校指定の白いスニーカーに、しみてくる冷たい感覚と、後ろをついてくる見てはいけないもの。
 今週末は私立の高校受験が控えているから、いつもより長く塾の自習室に残っていたのが良くなかった。この辺りは街灯も少ないから、徒歩で夜通るのは避けていた。だが雪のせいで自転車にも乗れないし、迎えにも来てもらえなかった。傘の柄を握りしめる。手袋を忘れた指が悴んでいる。
「人間じゃないものを見つけたら、目を合わせてはいけないよ」
 昔おばあちゃんがそう言った。おばあちゃんだけが、私のことをわかってくれていたけど、もう誰も理解してくれない。おばあちゃんがあれに殺されたのも、こんな雪の日だった。
 なるべく息を乱さないように、石みたいになった足先で歩道の雪を踏みしめる。
 こんなに家までの道のりが長いなんて思っても見なかった。
「アンタダケ」
 地面の雪と泥が混じったような声が、私の背中をさしてくる。
「ズルイ」
 繰り返し、壊れたおもちゃの人形みたいに、見てはいけないものがブツブツと言っている。
 怖い。でもあともう少ししたら明るいところに出られる。
 あの角を曲がっていけば、
「ドコ、イクノォォォォ」
 電柱の裏、長い何かが目の前をずっと伸びてくる。
「ひっ」
 声が漏れ出てしまい、咄嗟に口を押さえたけれども遅かった。後ろのやつと、今出てきたやつ、両方が私の体を掴んだ。
 いやだ、離して! 誰か!
 叫んだのかもわからない。絡まってくる何かを、何度も必死に手で引きちぎる。ドロドロと何かが手について気持ちが悪い。キリがない。幻覚ならどれほどいいか。
「動かないで」
 突然、低い男の人の声がした。
 ハッとして顔を向ければ、いつの間にか近くに来ていて、体が固まった。
 二回、その人が何かバットみたいなものを振り下ろした。私についていたのは半分に割れて消えた。一瞬のことで、目を丸くする。何をしたんだろう。
 そばに膝をついて、私の顔を覗き込む。真っ黒な学生服に反して白い肌と、白金の髪が微かな遠くの明かりを受けて光を放っていた。
「大丈夫ですか?」
 答えようにも、声が出ない。震えているのを感じて、自分の両手を見る。さっきのがへばりついていたままだ。気付けば赤黒い染みが足元にできていた。
「……これで拭いてください」
 差し出されたハンカチは、半ば無理矢理に私の手に乗せられて、そうっと押さえられた。冷たいので痛いのか、怪我をして痛いのかわからないくらい、凍えていた。
「痛みがあるかもしれませんが、少しだけ我慢できますか?」
 私が頷くと、その人は僅かな笑みを見せた。
 いつの日か行った美術館で見た、鎧を着て剣を手にもった天使と同じだった。
「よく頑張りましたね」

   ❀

 山の中をスーツケースを引っ張っている。お寺みたいな神社みたいな、こんなところ東京にあったんだなあ、と感じるような場所にやってきた私は、坂道のせいで上がった心拍数に気持ちも引きずられていた。あの人にまた会えるかもしれない。

 あの雪の日、親切な天使のような人に家まで送り届けられた翌日、夜蛾先生というちょっと強面な先生が来た。私があの気持ちの悪いもの、彼らが呼ぶところの呪霊が見えるということで、呪術高専と言う呪術を専門に学ぶ学校へ進学しないかと言われたのだ。退治するやり方を学ぶことができるそうだが、あの人みたいに機敏には動ける気がしない。受験の必要がほぼないと言うことで、受験勉強の苦しみから逃れるようにして、スカウトを受けることにしたのだった。
 ひとまず面接、入学試験のようなものを通過して、晴れて呪術高専の入学許可を得た。
「一年生は苗字、お前だけなんだが」
「え、そうなんですか?」
 荷造りをしながら、夜蛾先生から電話越しに伝えられた事実に肩を落とした。
「何も珍しいことじゃない。いくらか上級生もいるし、卒業生もよく顔を出しているから心配はするな。少々、癖はあるが……」
 そう言われたことを思い出しながら、地図を見ながら寮までスーツケースをガラガラと音を立てて進んでいた。案内してくれる先輩が来てくれるということだが、どこにいるのだろうと少し辺りを見回す。人影は見当たらない。
 古い木造建築の建物が、木々に囲まれていて、どれが何の建物なのかわからなくなりそうだし、何なら寮が今目の前に見えているものであっているのかすら不安になってくる。
「あれ、君、新入生?」
 私の後ろから石段を登ってきた人が声を掛けてきた。長身で白髪、真っ黒のサングラスをかけていて、先輩にしては年上すぎるような気もした。
「は、はい!」
 失礼になってはいけないと返事をしてお辞儀をする。威圧感があって、何か並々ならぬ人物なのではないだろうかという感覚がある。なんとも気まずい沈黙の間、風が木々の葉を揺らしていた。
「……ふーん」
 探ってくるような視線を感じて、そろりと顔をあげて目の前の男性をもう一度見ようとしたら、
「何、後輩いびりしてるんですか、五条さん」
 という溜息混じりに聞いたことのある声がした。先程見えていた建物から、歩いてきた人。あの時助けてくれた人だった。
「挨拶してるだけじゃーん」
 唇をへの字に曲げると、五条さんという人は私から目を離した。
「はあ……。というか、用事があって来ているんじゃないんですか? こんなところで油売ってていいんですか」
「よくないんだよねえ〜。めんどくさいよ、ほんと。じゃ、新入生ちゃんまたね〜」
 ひらひらと手を振りながら別の小道を入っていった五条さんを、唖然として見送っていると、咳払いが響く。
「すみません、待たせましたね。案内を頼まれた四年の七海建人です」
「えっと、苗字名前です……」
「伺っています。行きましょうか。とりあえず荷物を」
 すっと私の手からスーツケースを取って、七海さんが先へと進んでいくので、慌てて後ろを追いかけていく。

 寮はお寺の宿坊のような外観だが、部屋には洋風の家具。そのチグハグさに目を丸くしたが、住めば都というし、すぐになれるだろう。女子寮には入れないからと、七海さんが外で待ってくれていることを思い出して、携帯と小さなメモとペンを持って急いで出た。
「部屋の場所は大丈夫でしたか?」
 壁にもたれて携帯を開いていた七海さんは私に気付いてポケットにしまう。
「はい。あ、荷物もありがとうございました」
「いえ。じゃあ、校舎にいきましょう」
 さっきと同じように、スタスタと次の目的地へと歩いていくから、また早足に追いかける。
 私が追いついたら歩幅を狭めてくれたように思ったが、気のせいだろうか。
「……この間の怪我、大丈夫ですか?」
 七海さんの淡々とした口調だが、気遣ってくれているようで少し顔が熱くなる心地がした。あの日は寒さと恐怖で感覚はなかったが、私の手はズタズタになっていた。今もまだ、薄く痕が残っているが痛くはない。
「もう治りました。あの時は、本当にありがとうございました。まともにお礼も言えなくてすみません……」
 ちらりと七海さんの切長の目が私を一瞬捉える。長い石段を登り終えて、大きな鳥居が聳え立つその先に、校舎と思しき建物がみえた。
「それならよかった。謝らなくていいですよ。ああいう場面で怖いと思うのはおかしなことではないですから。ただ……」
 口籠る七海さんをもう一度見上げる。少し寂しそう、いや、どこか悔しそうに見えたのはどうしてだろう。
「……あなたをここに連れてきてしまったことを、私の方こそ謝りたい」
「それって、どういう……」
 私の質問が不躾だったと気づいた時には、七海さんの表情は元に戻っていて、校舎の入り口の扉を開けていた。

   ❀

 呪術師の見習いとして、広い校舎の小さな教室でひとり勉強して数週間たった。先輩たちとの交流はあるようでない。二つ上の伊地知先輩は実戦で一緒になることがあり、帳の張り方や呪術師の仕事のうちの細々としたことを教えてくれたがそれきりだった。五条さんは案の定卒業生で、たまに私の授業を見にきているのだが、よくわからない人だ。彼の同期という家入さんは、同性同士ということで、私のことを少し気にかけてくれているようだった。医務室に彼女がいるときはなるべく顔を覗かせているが、結局二、三言話すだけだ。
 それでも七海さんだけは、四年生で卒業後の進路のことなどを考えるので忙しいだろうに、私の実技の練習の相手をしてくれたり、図書室で自習していると本を借りにきたついでだと言って教えてくれたりした。たった一人の四年生の先輩が、憧れに変わるのはそう難しいことではなかった。

 私は体術の授業を終えて更衣室に向かう途中、七海さんが車から降りてくるのが見えた。任務を終えて帰ってきたのだろう。葉桜の緑が目に痛いくらいの五月を背に立つ七海さんは、やつれて見えた。
 声をかけるかどうか渋っていたら、補助監督の方との話を終えたらしく校舎へと歩いてくる。立ち止まっていた私に気がついて、七海さんはきつく閉ざしていた唇を緩めた。
「苗字さん、授業終わりですか」
 彼の声は穏やかで、肌に触れるとこそばゆい新芽のような柔らかさだった。
「っ、はい! 七海さんも任務お疲れ様です」
「……ありがとうございます」
 少しだけ目を見開いて、七海さんはふっと前を見た。何かあったろうかと私もそちらを向くが、いつものなんの変哲もない学校の風景が広がっているだけ。首を傾げていると、先へと歩く七海さんが振り返る。頬にかすり傷が見えた。
「苗字さん?」
 ついぼうっとしてしまっていた私は、七海さんに呼ばれて早足に彼を追いかける。
 隣に行くと、七海さんは細くため息を吐き出した。私が何かしてしまったかといえば思い当たらず、とすると任務で何かあったのだろうかと、無言で歩いていく七海さんの少しこけた頬を見上げた。
「怪我、痛みますか?」
「え? ……ああ、これ。大したことないですよ」
 自分の頬を指さしながら聞いてみる。七海さんは肩をすくめてまた前を見つめて、言葉を続ける。
「何か聞きたそうですね?」
「あの、あんまりこういうの聞いていいのかわからないんですけど、不快に思ったら」
「別に構いませんよ」
 食い気味に応えるので僅かに狼狽えたが、私の話を促すようにちらりと目線を投げかけてくる。七海さんと目が合うと、どうしても鼓動がうるさい。
「……任務で何かあったんですか? 七海さん、少し疲れて見えたので」
 歩みを止めた。
「あの、すみません、やっぱり聞かなかったことに」
 慌てて言う私に、七海さんは首を小さく横に振って、消えてしまいそうな微笑みを浮かべた。
「無事に帰って来れて安心したんです」
 握りしめた切り傷だらけの右手を見つめて、七海さんは独り言のように答えた。

   ✰

 任務の概要が書かれたメールを確認して、帳をおろす苗字さんを見た。自分がこの世界へ引き込んでしまったようなものだという一種の罪悪感から、彼女と行く任務ではいつもより緊張感があった。蝉の声が遠くなる。
「七海さん、できました」
 振り返った彼女の背にある呪具は、どれだけの呪霊を祓ってきたのだろうか、と考えてもしようがないことを思い浮かべる。
「行きましょうか」
 一歩踏み出すと隣をついてくる。雪に凍えて呪霊に怯えて泣きそうだった少女は、今や自分の後輩として任務に赴いている。一般家庭出身で、同じようにスカウトで入ってきたこの後輩を、気の毒に思っていた。
「今日の任務、二級なんですよね?」
「そうです。蠅頭の群れも確認されているので、気を抜かないようにしていきましょう」
「はい」
 見上げてくる瞳は、暗い帳の中で光って見えた。
 呪具を取り出す苗字さんに気付き、自分も鉈を手にした。合同での任務は梅雨の前に行った以来だった。ここに来るまでに決めておいた行動を確認していく。一つ言うたび、きちんと覚えて動く、後輩として申し分ないほどに「良い子」だ。彼女の痛々しいほどの真面目さが危ういと思いながら見ていたのはきっと、二の舞になってほしくなかったから。
「残穢、あっちの方に伸びてます……他のところにはなさそう」
 首を回して辺りを確かめている後輩は、呪具の柄を握りしめている。夏服の袖から覗く腕に青い打撲痕があった。
「なら、二手に分かれるのは無しですね。とりあえずこのまま進みましょう」
 そう言いながらほっとしている自分がいた。何かあればすぐに助けられる、と思ったのは苗字さんに対して少々失礼かもしれない。しかしここに引き込んだことの罪悪感、それ以上の何かが自分の行動を臆病にさせる心地がした。

 夏休みの小学校がこの日の任務地で、狭く見える廊下を歩いていきながら残穢をたどっていく。階段の上へと続いていくのを認め、苗字さんに声をかけようと横を見れば、同じタイミングで後ろを振り返って固まっていた。
「苗字さ、ん……」
「っ……!」
 声を殺して見開いた彼女の目の先には呪霊。どうして気づかなかったのか。知恵が働き、そしてこの感覚は一級程度ではないか。気配を隠していたのだろう。彼女が気付いたのは幸か不幸か。自分が気づけなかったことを悔やむ間も惜しいと思えば、体は動き叫んでいた。
「苗字さんはあの残穢を追って!」
 彼女の前に躍り出て、後ろ手に階段の方へと押し込み、現れた呪霊に対峙する。
「七海さん……!」
「いいから!」
 一、二秒の躊躇いのあと、駆け上がっていく足音を確認してから、鉈を握り直して舌打ちをした。また、報告ミスだ。
「……舐めやがって」
 窓ガラスを震わせる唸り声をあげながら、呪霊が向かってくる。自分の手に力が入るのがわかる。今、はっきりと理解した。
 あの子を失うのが怖いのだ。
 これ以上、彼女に近づいて、また失うことになれば自分はどうなってしまうのか。
 その苛立ちと悲しさを鉈を振って、呪霊もろとも叩き祓う。

   ☽

 夏休みが明けた。私にも後輩ができて、私も一人で任務に行くようになった。傷跡が増えて、助けた命も助けられなかった命も増えた。憧れの人はもういない。
「七海の学年、元は二人だったんだよね」
 教師となって戻ってきた五条さんが黒板の前で話し始めた。自習の時間だったが、気まぐれに、こうやって頼んでなくとも七海さんのことを教えてくれるのだ。
「あー、これは僕の独り言だから聞かなくてもいいんだけど」
 手元に広げた数学の問題は何一つ頭に入っていかない。それでも、私はシャーペンを握ったまま並んだ数字を見つめていた。
「苗字と七海が行った任務の中で、等級違いの呪霊出たでしょ? あれとよく似た一件で、あいつが二年の時に同期が死んだ。結構仲良くしてたみたいだから相当ショックだっただろうね。あの年は災害も重なって呪霊がわんさか出てくるし、その後先輩が、僕の同期のことだけど、呪詛師になって出ていくし、あいつも慕ってたから色々考えることもあっただろうなー。ま、これは僕の推測でしかないんだけどさ、君の生真面目なところ、七海が気にしていた理由なんだろうね」
 五条さんは言い切ったとばかりに、再び黙って自習監督らしく窓の外を眺めていた。
 どうして私にそんなことを教えてくれるのだろう。私が七海さんのことを憧れていることを知っていてもそうでなくても、彼が苦しんでいた話をされたところで、私がどうこう出来るわけでもないのに。
 出来ることなら私が同い年で、七海さんがきっと辛かっただろうという時も、一緒にいられたらよかった。もしそうだったたなら、疲れきった表情でここを去って行った七海さんを、何も言えないまま見送ることなんてなかったのかもしれない。私を見る目が違うかったかもしれない。支えられたかもしれない。彼の口からこの話を聞きたかった。ずっと隣でいたかった。そんなことを思うことすら、烏滸がましいのだ。
 いつも気遣ってくれた七海さんの優しさを思い出して恋しくなって、もういっそこの気持ちが本当の刃になって私を突き刺したら、どれだけ楽だろう。私は、七海さんにとっての特別なんかじゃなかったのだと言い聞かせようとするほどに、手の傷痕が彼が助けてくれたことを思い出させて、ガラスの破片が秋風に混じって飛んできたみたいに、私の胸は痛いと言う。
 数字がぼやけて、ペン先すら見えない。
 私はまだこの場所にいる。

   ☽

 なんのために、私はこの数字を追いかけているのだろう。今や電子上でやり取りされる形のない価値を商売道具にして、金のためにやつれていきながら、幸せとは程遠い生活で感情が殺されていく。
 四年前の自分は、金があったら自分の自由やそれなりに幸せな人生が保たれるとでも思っていたのだ。忌々しい呪いだとか、誰かが死ぬとか殺されたとか、そういう面倒事に覆われる環境から逃げたはずなのに、高層ビル群の夜景を作る一人になっていた。面倒な上司、理不尽な仕事。どこも変わらない。
 苗字さんが悲しそうに私の卒業を見送ったことを不意に思い出して、窓ガラスに映った自分に溜息が出た。苗字さんは自分の怪我は放っておいて、他人に優しかった。自己犠牲が美しいとは思わないが、どうにも目が離せなかった。彼女が自分を慕って呼ぶことを満更でもないと思っていたことも確かだ。晩秋の突き刺す風から覆い隠してくれるブランケットのような彼女の優しさが、悲しいほどに愛おしかったことを鮮明に思い出した。
「ちゃんと寝れてます?」
 昼休みに近くのパン屋に寄ると店員に声をかけられてハッとする。この人の肩に載っている蠅頭はまだ祓われないでいる。
「貴女こそ、疲れが溜まっているように見えますが」
 ここで私が何かをしたところでと思いながらも、自分の口はベラベラとパン屋の店員に不満をこぼしている。我ながら呆れる。
「一歩前へ出てもらえますか」
 手を振れば払えるほどに簡単なことだが、土気色の顔に赤みが戻り驚愕と笑みを見せた店員が、雪の日のあの子に重なった。
「ありがとう!」
 背中に叫ばれる感謝の言葉が、目の奥を突き刺している。
 スマホを取り出して鳴らす先輩の電話。明日にでも伺うと言えば、何か堪えるように笑われた。
「オマエは一回あの子に謝ったらいいよ」
 切る前に含み笑いで五条さんが告げた一言に、深く溜息が出た。
 自ずから離れたことを知って初めて、苗字さんの優しさに浸っていたことに気づいたのだ。呪術師をやめると言った日、「七海さんは、優しすぎるんです」と泣いていた傷だらけで固く握りしめていたあの子の手を、私が包んであげられたらよかったのかと、今になって後悔した。

   ❄

「七海さん……! あの、お疲れ様です」
 窓越しに見つけた姿に、思わず投げかけた声は震えてはいなかったか。振り向いたその瞳は、私の頬が熱いことに気づいているだろうか。
「お疲れ様です。あなたもまだ残っていたんですね」
 任務帰りなのだろうということはすぐにわかった。手にタブレットを持っていた。報告か、もしくは次の仕事の確認だろうか。
 彼がこの業界に戻ってきて二年、私が母校で働き始めて一年が経とうとしていた。初め、五条さんから連絡をもらった時は驚きと同時に喜びがあった。短大に通いながら、呪術師としての任務を続けていた私は、いつか七海さんが戻ってくることを願っていたのだ。
「また残業ですか? 良く働きますね」
 溜息混じりに呆れたように言う七海さんは、かけていたメガネを外して目頭を押さえていた。お疲れだろうし、早く帰りたいだろうとは思うのだが、七海さんと話せることが嬉しくてつい引き止めるような口調になってしまう。
「ハハ……ちょっと書類を頼まれまして」
 私が声をかけてしまったばかりに、彼は職員室へと入ってくる。きっと気になんかしていないんだろうけど、「また」なんて言われてしまうと私の事を気にかけてくれてるのかな、と初心で馬鹿な学生時代のような考え方をしてしまう。
「それは災難ですね。断れば良いものを……期限は?」
 何でもないように覗き込んでくる七海さんを直接見ることなどできず、横目に、彼の鼻頭が赤いことに気がついた。外は寒いのだろう。机に並べた資料とデスクトップの画面に視線を戻して、七海さんが近くにいることに少し緊張しながら答える。
「えーと、明日の昼です。今日はもう予定もないですし、先に終わらせようかと」
 曖昧に笑ってみても、ぎこちないような気がした。
「……急がないのであれば、それは置いて気分転換でもどうですか?」
 驚いて顔を横に向けると、思ったより近くで七海さんの目が私を映し出していて声が詰まる。
「無理は言わないので、もしよければ」
 返事のない私の先を促すように七海さんは続ける。かたん、とタブレットを机に置く音が、やけに大きく聞こえ、私の心音すら職員室に響くようだった。絞り出した二音は、笑えるくらいに掠れていた。
「ぜひ」

 七海さんの車に乗るのは初めてだった。他人の車の助手席に乗るのも初めて。静かに、ラジオの声が小さな音量で流れてくる車内は、走行音と、七海さんの腕がハンドルを動かすときの渇いた空気の音で満たされていた。
「……嫌いな食べものはありますか?」
「なんでも食べますよ」
「ワインは飲めますか?」
「はい」
 初対面の人間が初めて食事に行くようなやり取りだ。私は七海さんの苦手な食べ物は知らなかった。どこへ連れて行かれるのかわからなかったが、どこだっていいと思った。
 車は暖かな光が漏れる店の前で止まった。呆然としていると、助手席のドアを開けた七海さんが私を覗き込む。彼の目が、レンズに遮られずに私を写していた。
「行きましょうか」
 慌てて降りて、スーツの裾を少し伸ばしながら彼の後ろをついていく。任務地に赴くのではなく、感じのいいイタリアンのお店の狭くて暗い通路を。
 テーブルには上品なレースの真っ白なクロスがかかっていて、薄赤い照明が七海さんのブロンドの髪に染み込んだように光っている。平日だからか客入りは少なく、七海さんと私の他には老夫婦がいるだけだ。
「……色々勝手に頼みましたが、大丈夫ですか?」
 青いグラスの中の水を飲んでから七海さんが聞いた。穏やかに流れているチェロの音が、彼の声を解いていく。
「ええ、私は迷いすぎちゃうので……それより、私だけ飲んでしまっていいんですか?」
「運転手ですから気にしないでください。ここはモクテルも美味しいので」
 テーブルに置かれた二つのグラス。片方はペールローズの液体が小さな泡をゆらし、もう片方にはライムとミントが沈んでいた。私がスパークリングワインを手に取ると、七海さんはライムが差し込まれたグラスを持ち上げて、微笑んだ。
「息抜きも大切ですよ」
 そう言った彼の目元が二年前よりも健康的で、見惚れながら私もグラスに口をつけた。冷たい甘さが、雪を食べたみたいだった。
 一つ料理が運ばれるごとに、七海さんことを一つずつ知っていくようだった。爽やかなドレッシングのサラダはスパークリングワインに良く合った。彼の目が柔らかく私を見ているような気がして、ちゃんと味を感じられていたのかは確かではなかったけれど。
 私たちはとてもゆっくりと話をした。途切れさせたくないと思えば、フォークを口へ。七海さんが先輩の悪戯をぼやくと、私は思わず声を出して笑った。尋ねられて短大時代の話をすれば、彼は目尻を下げて相槌を打つ。皿が空いていくのが惜しく、三杯目に頼んだ赤ワインの残りが数ミリになっていくのが寂しかった。
「……とても突拍子もない話題ですが」
 七海さんは夜明けの色をしたモクテルを飲み切っていた。首を傾げて続きを待つと、
「どうしても忘れられないことがあれば、苗字さんなら忘れようとしますか」
 不思議な質問だった。彼の右手が触れているグラスには、飾りの小さな菫が氷の上に横たわっていた。
「私は……忘れようとして、思い出してしまいます」
 七海さんの手に、グラスの表面に結露した水滴が流れておちた。
「他のことで忘れていたのを思い出したら?」
「……気になっていると言うことかな、と。どちらにしろ忘れられないと思います」
「もっと気になってしまって、循環してしまうと言うことですか」
「そう言うことだと思います。結局、潜在意識にひっかかっているのかもしれないですね」
 七海さんの手が、テーブルに何気なくおいていた私の左手に伸びた。
「……苗字さんには、そう言う人がいますか?」
 彼の指先が触れそうになって止まった。触れられていないのに、熱い気がした。
「いるかもしれないです」
 一ミリの隙間を開けて、七海さんの手がテーブルに降りる。大きく白い手が、私の傷跡の残った細い指と向き合っているようだった。
「恋人、ですか」
「いないですよ。恋愛なんて出会いも、時間もなくて」
 彼の目を見た。ずっと私を見ていたように、カチリと視線が合わさり、逃れられないように感じた。
「私では、あなたの手を取るには不十分でしょうか」
 見つめ合ったまま独り言のように私に告げた。答えられずにいると、七海さんは私の飲んでいたワインに目を移し、私もそれを追いかけた。あの日雪に落ちた私の血のように、グラスのそこに溜まっているほんの一滴。
「苗字さんをこの世界に引き込んだのは私の罪だと思っていました。死なせてはいけないと思っていた」
 口は乾いて声を生み出せなかった。
「でも違いました。罪悪感だけで死なせてはいけないと思ったのではなくて、単に、私があなたを失いたくなかった。あなたのことを忘れたくないと思ったんです」
 手がそっと触れた。彼の指先は雪のようなのに、熱い。
「戻ってきたのは、私のせいですか」
「それは私自身の決断です。苗字さんのせいじゃない」
 私の左手は痺れたように動かせなかった。七海さんの手に包まれた。割れ物に触れるように丁寧な仕草だった。
「あなたが傷ついていたのに、私は逃げてしまった。失いたくないと思っていたことに気づいた時には、あなたの隣にいなかった。気づいたらあなたのことばかり考えていた。あなただけだ」
 七海さんの唇が私の左手に触れた。溶けた氷がカランと響いて、グラスの中の菫は薄青の中に落ちた。
「名前、好きです。忘れられないくらい」





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un reve fraise