A Tricked Out Night
君は「影たちの夜」を知っているかな?
エメラルドやサファイアの仮面。
蝋燭に揺らめくのはアメジストの炎。
不気味に笑うガーネットのランタン。
煌びやかなクリスタルのシャンデリア。
古びた洋館の飾り立てられた舞踏会。
真っ赤なカーテン。
真っ暗な影。
これは僕が経験した、ある不思議な夜の話。
☾ ☆ ☾ ☆ ☾
日本、東京、十月三十一日。
ここは、とにかく新しいもの好きだ。
街中が外の文化に染っている。オレンジ色の西洋カボチャを模した飾りや、コウモリのガーランド、鼻の長い魔女のシルエットがあちこちに見られる。
いつからだろう。気がつけば当たり前の顔をして、トリック・オア・トリートって言う。それが何かを知らない奴らが、元がどうなど一度だって知ろうとしない奴らが騒いでいる。
「お前らも随分信心深いんだな」
教室に行けば、笑うカボチャの入れ物が俺の机に置かれていた。
「斜め上の嫌味だな」
硝子が突っ伏していた顔を上げて鼻で笑う。
「悟はそういう所、案外冷めてるね」
「んだよ、傑まで」
思ったこと言っただけだ、とかぼちゃの入れ物をひっくり返すとバラバラと、フィルムに包まれたどこか懐かしいラムネ、飴、チョコレート。
「これくれんの? ハロウィンだから?」
安っぽい包装を剥がして、青い飴玉を口に放り込んだ。ぱちぱちと口の中で弾けている。
「イベント事は好きなのかと思ってね。お菓子だ何だって、言われる前に私たちは用意してたんだけど……」
「あー……結構どうでもいい」
椅子に座って空っぽになったカボチャをボールのように、天井に当たらない高さまで投げてつかむ。
呪力で圧力をかけて潰し、教室の端に置いてあるゴミ箱へ投げた。紙屑が受け止めただろう乾いた音がする。
「ホールインワン」
「しょーもな。てか、五条が行事に興味ないって、今日雪でも降る?」
「硝子、お前、まじ失礼」
「フフ、悟に失礼って概念あるんだ?」
「あるわ」
「お、珍しい、全員時間通りに揃っているな」
俺たちが騒いでいると教室に夜蛾先生がきた。朝のホームルームなんて、あってないようなもんだけど。
「今日は、五条、お前指名の任務がある」
「は、俺?」
間抜けな返事をしたと自分で思ったところで、ごつん、と頭を叩かれた。ぼうりょくはんたーい。
☾
「闇より出でて、闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
どろり、と暗幕に覆われた洋館の雰囲気はバッチリだ。前に見た映画、ただ驚かせようとしているのが見え透いているばかりに、怖くなかった海外のホラー映画を思い出した。
言い渡された任務は、郊外にある洋館の一級程と思われる呪霊を払うこと。夕方ごろから夜にかけて何かが現れるらしい。普段、人の出入りはなく、おおよそ呪霊の仕業だろうことは判断に難くない。
一級というが話を聞く限りもっと低級なものだろうし、俺じゃなくてもいいだろうとも思うが、学生を適当に任務にあたらせていたりするんだろうな。今日は帳を忘れずにおろした。
一応、この建物は文化財だとか言うものらしく、全壊させるなという指示があった。ぶっ壊しておしまい、とは行かないようだ。
「はァー……だっる。さっさと終わらせよ」
独りごちて古びた扉に手をかける。つるり、とした木の扉を押せば、古い建物によくある埃っぽい、木がかびたような臭い……はしなかった。
当然木の香りがすることにはするが、ビターチョコレートのような深みのある甘さ。図書館の古い書棚の間を通っているようだった。実家にある誰が使っているのかもわからない書斎もこんな香りがしていた。
建物に両足を踏み入れて、また不思議に思った。バタン、と背後に扉が閉まる。押しても引いても開かない。思いっきり蹴っても呪力をぶっ放しても無駄。
敵の領域か?
なら本体を叩かないと出られないだろう。
「めんどくさ」
苛立ちまじりに呟き、濃紺のカーペットがひかれた玄関ホールを進む。
ここには「人ならざるもの」の気配を感じるが、呪力とは言い難い、よくわからないものがある。閉じ込める能があると分かれば、特級呪霊と言っても間違い無いだろう。しかし、こうも個体によって気配が変わるものだろうか。
そう思った、次の瞬間。
「ようこそおいでくださいました」
何もいないと思っていたところから現れたものに心底驚いた。
お化け屋敷のどっきりのようなことでは、終ぞ驚いたことなどなかったと思うが、後にも先にもこの日だけは、純粋な「驚愕」で心臓が止まるかと思った。
まず、こいつには敵意もなければ呪力もないのは、六眼が捉えないことから明らかだ。
黒の燕尾、白い手袋、顔のない黒い体。
顔はないのだ。
まるで影のように表情も見えなければ、顔であるはずの場所は立体感はなく、のっぺらぼうのような、暗黒。うっすらと向こう側が透けて見えなくもない。
「舞踏会へはこの通路をお進みください」
殴ろうとしてみるが、触れられないし通り抜けもしないし、空気のようだ。いや、「影」がやはり正しいのだろうか。影と言っても、御三家の一つの相伝術式の「影」とは違い、シルエットだとか、一般的な、光が遮られてできる暗い部分。
「何? お前」
「舞踏会へは、この通路をお進みください。
俺の質問に答えず、燕尾の影は繰り返す。舞踏会だって? 時代錯誤、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
通路の先には先ほどから感じている、妙な気配がある。影が言う「主人」が、今から俺が祓おうとしているやつのことだろうか。
不毛なやりとりはやめて、通路の壁にそって、通行人の邪魔にならないよう立っている燕尾の影を通り抜けた時、古い本の匂いが強まった。
「なッ?!」
まただ。
先程の燕尾の影のような存在が無数に現れた。それには口がないが、それでも何やら盛んに話をしているようだった。俺の存在など気にも留めていないように、横を通り過ぎていく。
「今日は楽団が来ていると。手練のピアニストもいるそうな」「それは楽しみ。バッハは勿論演るだろうね?」「貴殿は口を開けばバロック。近代的な曲もお聴きになるべきだ」「おじ様たちは飽きもせずあのようなことばかり」「それしか話すことがございませんのよ」
どの影も顔があるはずの場所には豪華絢爛な仮面。目元のみを覆うものや顔全部を覆うもの、多種多様だが、どれもがまるで仮面舞踏会にでも参加するかのような影たち。目の部分には宝石が、それこそ目玉の代わりだというように光っている。あんなもの、見たことがない。
影の波に飲まれながら、俺は先へと急いだ。
これは何なんだ。
早く、「主人」とやらを祓ってしまわないと。
どこか気味の悪さに焦りながら走っていくと、大広間のような場所にたどり着いた。座席のない劇場のようにも見える。奥には舞台、ご丁寧にオーケストラピットまである。天井には、あのオペラ座にあるような絢爛たるシャンデリア。落ちたらたまったものではないだろう。
「お嬢様、こちらの羽飾りの帽子にお取り替えくださいまし」「嫌よ。お母様の時代の古いものなんか嫌だわ」
令嬢と従者のような影が、立ち尽くす俺の横を通り過ぎる。大振りの孔雀の羽と造花が飾られた、つばの広い帽子を巡って言い争いをしている。彼女らにもやはり、俺は影のように見えていないようだった。
「これはまた趣味の良い絵画を飾っている」「あのお方はウォーターハウスがお好きなのか?」「頽廃的なものは全て好まれるらしいが」「精緻に構築されたものもご趣味だとお聞きしましたわ」
あのお方、というのは燕尾の影が言っていた「主人」だろうか。影の間を縫って進みながら、辺りを探る。この目が役に立たないのも、この日が初めてだ。傑や硝子、みんな、こんな風に何も見えないんだ、いや見えすぎないのが普通なのか。
「おお」
一つの影の声に、他の影も動きを止めた。囁きが
深紅のカーテンがいつの間にか舞台を覆っていた。そこに「妙な感じ」の本体が居る。
そこに居ると感じるのに、目には映らない。
「あのお方だ」「あの方だ」
「お美しいあの方が」「あのお方の前では女王も形無し」
静かな歓声の中、幕が開く。
帷よりも、雨の夜よりも、何よりも黒い衣装を着たものが表れた。裾の長いコートのようだし、ドレスにも魔術師のローブのようにも見え、聖職者の祭服のようでもある。
感じていたのはこいつだ。間違いない。
呪力はまるで感じられない。だから呪霊だと断定できないし、ましてや人間とも言い難い。気持ちが悪いかといえば、そうでも無いのが余計に不思議だ。
こいつには顔がある。だが、男か女かも分からない。
目元は白い仮面が覆っていて、唇は血に濡れたように赤い。髪は顎の辺りまでに切りそろえられたシルバー。黒い服が故に病的なほど青白く見える肌。衣服と同じ黒の長い手袋をはめている。
それは大仰な一礼をすると、影たちの拍手を浴びて真っ赤な唇を開いた。
「皆様、ご機嫌よう」
静かに顔のないピアニストが演奏を始めた。どこかで聞いたことのあるような、穏やかな旋律。
それを合図にしたかのように、俺のそばで灯が点った。次々と、知らぬ間に現れていた様々な種類の蝋燭が紫色の火を、緋色の丸いランタンが妖しげな光をゆらしていく。
天井のシャンデリアも煌めきを放っている。
オーケストラがピアノに重なって音が厚みを持っていく。
同じように、ざわめきは喧騒のように大きくなり、周りの影は舞踏会の参加者らしい振る舞いをしはじめた。ダンスをするもの、おしゃべりに夢中になるもの、空のグラスをあおるもの、空の皿を前に舌鼓を打つもの。口はないのだが。
異様な光景に俺は絶句した。
こんな領域、今まで見たことが無い。まさか、本当に呪霊の仕業ではないのか。
なら何だっていうんだ?!
視線を感じて、身構えた。
それの顔が俺の方へと向いていた。真っ直ぐに、俺を見ている。
「迷い込んでいるね」
舞台の上からそれなりに遠いが、その声は確かに俺の耳に届き、震えた。柔らかな羽根で頬を撫でられたような、静かで清らかささえ感じる、囁くような声だった。
「っ……」
思わず息を飲んだ。応えるのが先か、攻撃へと向かうのが先か。考える必要などないと言うのに、俺は考えてしまっている。
そうするしかないかのように、この俺の思考は普段通りではない。もどかしく、それでいて例えようのない……
安心感。
でも、なぜ?
「こちらへどうぞ、ターコイズの瞳のお方。眼鏡を直して差し上げましょう」
サングラスを外して、手の上で回して見てみるが、当然のことながら割れてもいなければ折れてもいない。こいつは何を言ってるんだ?
「……壊れてなんかねえけど。何なのお前?」
「それでは間違えて攫われますよ」
「何に攫われる? お前は何だ? 俺の質問に答えろ」
「精霊たちに。私のことは後です」
ざわめいている影たちは、俺のことも、あれのことも何も気にしていないようだ。影は、自分たちのことだけしか見えていないようだ。
「ほら、その格好ではいけないと言ってるのですよ。何も取って喰おうなど思っていない」
動かないでいる俺に攻撃を仕掛けるだろうかと思ったが、むしろ逆だ。呪霊にしては知能が高すぎる。こんなことは考えたくもないが、俺には歯が立たない可能性は大いにある。
「証拠は」
「あなたのターコイズが伝えてくれるのでしょう?」
その名称の宝石は、きっと俺の目を指しているのだろう。なぜ、六眼がよく見えるとわかっているような言い方をするのか。やつは痺れを切らしたのか、それとも呆れているのか、肩をすくめて俺に向かって歩いてくる。影たちは「あのお方」と崇めていたような人物が歩いてきても我関せず。勝手に避けて道を作っている。
「こちらへ」
数歩先で止まって俺に手を差し出す。ついてくるように言っているようだ。
これでは埒が明かないと思い、押し問答は諦めて俺は一歩踏み出した。やつの口元は笑っている。不気味ではあるが、そいつの後ろをついていくことにした。ちらりと後ろを振り返って見るが、影たちは変わらずの様子だった。
壇上に戻り、上手の舞台袖へと歩いていく。影たちのざわめきと、音楽が遠ざかっていった。舞台裏の通路の先は小綺麗な部屋に続いていたようで、やつが椅子に腰掛けると、どこからともなく現れたもう一脚の椅子が俺の足を掬って座らせた。
「うわっ」
「元気がいいでしょう、その椅子」
まるで活きがいい魚のように言うが、今は俺を座らせて満足しているのか静かに、椅子らしくしている。懐古趣味的ではあるが、他の家具もよく手入れされ、統一感がある。
「何の真似だ?」
「嫌だなあ。もてなそうとしているのに。敵意なんてないですよ、ほら」
そいつは両の手を開いて見せる。ほっそりした長い指。黒い手袋は少し光沢がある。
「だから何なんだよ。祓うぞ」
「出来ないことを言うものじゃありませんよ。君たちが祓っているようなモノと同じにしてもらっては困りますね。悪魔やら、呪いやら、その辺のものとは違いますから」
しかし、見るからに怪しい格好をされていては、おいそれと信じることもできない。祓えないなどと言われては、俺だって不服だ。こちらの要求に応えるか、それを見せてもらわねば。
「仮面、取れよ」
肌よりも少し灰色がかった白の仮面。何の変哲もなく、目の部分は黒く何かで覆われて見えない。「目は口ほどに物を言う」というように、隠されていては何も分からないのと同義だ。
「いいですよ」
存外に軽く応じてくれたことには少し驚いたが、それよりも俺の心臓が跳ねるほどの衝撃はその仮面の下であった。
顕になった面立ちは端正で、どこかで見た事があるような相貌。言うなれば、親戚にいてもおかしくない、そんな親しみやすさ。先程抱いた安心感はこのせいだったのだろうか。
よく見てみると、瞳は人間には珍しい色をしている。例えば、俺の眼が氷河の青だとすれば、こいつの眼は
ボーンチャイナのようにつるりとした白い肌に映える、赤い瞳、唇。俺を見て微笑んでいる。
美しい。そう形容したくなった。
「ね?」
「……呪霊じゃないことはわかった」
呪霊が持つ「邪悪さ」のようなものはなく、明らかに違うのは気配からもわかってたことだが、仮面の下を見て確信に変わった。
これは、呪霊なんてものよりずっと厄介なものだ。
「なあ、これから質問するけど、嘘つかずに答えてくれる?」
縛りを結ばなくても、先程の行動からも分かるが、今は確実性が欲しい。
「ええ、いいですとも」
そいつは微笑んで、続きを促すように俺に手を差し出す。
「お前は神か?」
「違いますね。一つ目の問いがそれとは、なかなか良いですよ」
「お前よく喋んね。じゃ、人間でもない?」
「人間には……近いでしょうか。しかしあなたとまるきり同じかと言われれば、否」
「んーーー……幽霊?」
「いいえ。霊でもない、呪いでもない、神でも天使でも悪魔でもない」
こいつは愉しげに俺の質問に答えていくが、全てに「いいえ」と言っていく。
「えー? マジでわかんねーんだけど!」
お手上げと俺は手を伸ばして、脚も投げ出した。
きっと糖分が足りてないから頭が回らないんだ、と思ったが、お菓子があったのを忘れていた。ポケットに手を突っ込んだら、かさ、とフィルムが指に触れた。チョコは溶けると嫌だから教室で食べきって、ラムネと飴は残していたのだ。
「甘いの食べなきゃやってらんねーよ。ん、これあげる。お前は飴って食べれる?」
赤いフィルムに包まれた飴玉を手のひらに乗せ、ずいっと差し出す。そいつは目を丸くしていた。丁度この手に乗っているものと同じように。
「普段は食べませんが食べられますよ」
「いるの?いらねーの?」
「勿論いただきます」
伸びた黒い腕。細長い指の先で飴をつまもうとした時に、思い立ってそれを掴もうとした。
が、失敗して俺はただ握り拳を作っただけに終わる。
やられた、と前にいるやつを見ると赤い口を開いて赤い飴玉を食べるところだった。
「美味しいですね」
薄い唇が弓形になれば、俺の心臓はまたひとつ、ドクリ、大きく鼓動を打つ。これは恐怖か? 頭を振ってその考えは霧散させる。馬鹿馬鹿しい。
「……で、結局お前はなんなの?」
食い下がる俺に、そいつは口元を押えてクスクスと笑う。
「あなたが闇に近づく時、分かるかもしれませんね」
「……何それ」
「謎謎です」
人差し指を立てて食えない笑顔を見せられれば、もうこいつと遊べばいいじゃないかと思い至る。どうせ呪力もないようだし、こちらに一切攻撃しようとしないんだ。何かあれば向こうが手を出そうとした時に応戦すればいい。だって俺だし、最強だし、大丈夫でしょ。
だから、今日ばかりは、俺の中の「普通」を手放してやる。
「ハハ! いいね。俺そういうの好き」
「そうでしょうとも」と、やつは近くに置かれていたチェストに手を伸ばし、引き出しの中から白い仮面を取り出す。今さっき、やつが外したものと同じように目元だけが覆われる形のものだ。
「おめかしをしましょう。こちらの仮面を」
差し出されるままに受け取る。よく見てみれば、同じ白で細かく装飾が入っていることに気がついた。角度を変えてみればキラキラと光に反射している。ちょうど眉間の当たりには、控えめに青い石が埋め込まれている。黒いリボンが横から二本垂れていて、これを結んで顔に固定するのだろう。
やはりというか、この仮面は呪具ではないが、やつと同じような気配を感じる。人にとって悪いものでも無いようだが、良いものなのかは定かではない。まだ着けるのはやめておこうか。
「精霊ってのに見つからないように?」
「そうです。今宵はハロウィンですから、あなたのような人がここに居るとなっては大問題でしょうし。要は、目眩しです。」
「大問題なの?」
「あちらにとっては、ここに居るのが生身の人間となると都合が悪いようです。もっとも、私やここの客人たちは一向に構わないのですよ」
「あちらって?」
「万聖節の主役たちですよ。今晩の私たちを特に嫌がるようで、常と違うことをすれば、それはもうどちらが悪者かという顔でとっ捕まえにやって来ますからね。それは勘弁願いたいわけです」
「ふーん。じゃ、お前たちは悪者なの?」
俺の質問に心外だ、というように目を見開いて前のめりになる。
「とんでもない! 私たちはただ単にこの時間を楽しんでいるだけです。何にも悪さはしませんし、あなたのようなお客があったとしても丁重にもてなしますし、傷ひとつ付けやしませんからね。凡そ明日の主役が奪われてしまうとでも思っていらっしゃるのでしょうが、無駄な心配です。で、その仮面、つけてくれませんか?」
一気に捲し立てたと思うと、「コホン」とひとつ咳払いをしてまた姿勢を伸ばす。「さ、ご遠慮なさらずに」と小首を傾げて目を細める。胡散臭さを感じないわけではないが、悪意のようなものはないとみて、恐る恐る仮面を目元に当てる。
ひんやりとした感覚。肌触りは良い。
「とってもお似合いですよ」
どこぞのショップ店員よろしく、やつは手鏡を俺の顔の前に掲げる。やつと同じ白の仮面。眉間に[[rb:填 > は]]められた青い石が、目の色と同じように、かすかに光った。
「それで私たちの中に紛れることができますから、精霊たちに連れて行かれることもないでしょう」
満足げに頷いたと思えば、立ち上がって俺に向かって手を出す。
「何?」
「ここで居ても退屈でしょうし、屋敷を案内しましょう」
そういうことね、と俺も続いて立ち上がる。仮面をつけたからといって特に視界が悪くなるということも、具合が悪くなるということもなく、一先ずは大丈夫だろうとポケットにサングラスをしまった。
ふと前を見ると、赤い唇をへの字にした奴が残念そうに溢す。
「お手を取っていただけるかと思ったのですが」
「普通に一人で歩けるし。……てか、お前には触れるの? さっき入ってきた時にいた影は透けてたんだけど」
「触れてみますか?」
躊躇して俺は行き場のない手と視線を彷徨わせる。聞いてみたはいいものの、これで何かあったら只事ではない。やつは迷っているのに気づいてか、その黒い手を俺に伸ばし、指先だけを触れた。
「あ」
驚いて思わず声が出てしまう。別段心配したようなこともなく、呪力はからっきし、悪意もない。そして温度もない。空気に触れているように、冷たいだとか熱いだとかは感じられない。俺の体温と同じである時にそう感じるように。
☾
広い洋館はかつて外国人商人が建てた別荘の一つだという。文化財指定をしているが、老朽化が進んでいると考えた自治体の人間はここを立入禁止区域にしているそうだ。
とはいえ、俺が足を踏み出せば木の軋む音こそすれ、そのまま崩壊してしまうような脆さは感じられない。手入れの行き届いた手すり、鈍く輝くドアノブ、壁に飾られた異国情緒漂う絵画。そういえば、さっきホールで退廃的な趣味がどうとか聞こえたような。こいつが管理をしているのだろうか。機嫌よく部屋の説明してくれている。
二階をまわってから、ホールに面したバルコニー席のような場所で俺は手すりに寄りかかって下を眺めた。影たちが楽しげに見える。やはり顔は見えない。音楽はここまでしっかりと聞こえてくる。
それにしても不思議な場所だ。今まで案内してもらった部屋などは、洋館「らしい」ところがたくさんあった。どれほど綺麗で大きな屋敷だと言っても、ただの商人がこんなふうに小劇場など拵えるだろうか。その疑問は隠す必要もない。俺の横で音楽に合わせて鼻歌を歌っているやつに聞くだけだ。
「この屋敷は何?」
「夜に開く世界です。ただ楽しむための夜」
柔らかな笑顔を俺に向けて、心より楽しんでいると声色が伝える。
「何も俺達には害を与えないのは本当?」
「本当。あなたに何もしなかったでしょう?」
「確かにな。俺も、触る以外は何も出来なかった」
そいつの手に自分の手を重ねた。触れているけど、温度はない。この感触は確かなものなのか不確かだ。
また階下に目を向け、ゆらゆらとしている舞踏会の参加者たちを指さした。
「あれは何?」
「あれは『影』」
「呪霊じゃない?」
「そう。言うなれば幻影」
「お前とは違うの?」
「違います。それに、彼らに私のことは見えてるようで見えていない」
「俺のことも?」
「ええ」
「すっげ」
クスリと笑ったやつに、また息が詰まる心地がした。
そんな俺を知らない様子で、やつは下を覗き込んで何か考えるようにしてから口を開いた。
「下へ行きましょうか。あの中で踊るのは如何でしょう」
「踊れるのか?」
「言うまでもなく。あなたも踊れるでしょう?」
「当然だ。エスコートしてやるよ」
御三家のひとつに次期当主として生まれるからには、洋の東西を問わず一流が身につけるべきことは教え込まれる。嫌でも体が覚えているというものだ。
見えていたところへ降りてくれば、音楽は休止していて、影たちの宴を楽しむ声だけが場を満たしていた。
俺が手を出すと、やつは小さくお辞儀をして手を取った。
「あなたのお好きな服に着替えましょう。イヴニングドレス? それともタキシード?」
俺が少し考えて希望を伝えると、そのように服を変えた。
緩やかに形状が変わっていく様子は、初めて目にしたマジックや魔法だった。黒い衣装なのは変わらず。少し丈はやはり長めなのがこいつの好みなのか。
「綺麗だ」
ホールの中央で俺は一礼し、そいつの手を取り直した。ここにあるのが正しいというように、とてもしっくりくる。やつの手は黒の手袋に覆われたままで、ある種の敬意を込めて唇を寄せた。
「そうでしょう」
自信たっぷりに微笑む顔は、この世のものとは思えない。
「音楽を」
やつが顔のない影の指揮者に告げれば、オーケストラは意気揚々と楽器を構えた。
穏やかな弦楽器の響きから次第に、囁き声のように、重なり合っていく。
柔らかで、厳か。軽やかで、寂しい。
あたたかく、つめたい、三拍子。
俺とやつの足は正しくステップを踏む。
初めの曲を終えると、室内楽形式で、ピアノだけ、コンチェルトなど。そう、クラシックだけでもない。ジャズのような耳馴染みの良いものもコントラバス、ピアノ、トランペットが奏でた。俺たちは影の間、緩やかに揺れ、音に乗り、踊った。
さまざまに形態を変えて何曲と流れていった。何日も踊っているようで、永遠にこうしているような気がした。でも、まだ少ししかこいつの手を取っていないのに、と俺は近い位置にある赤い瞳を見つめた。
あれ、今は何時だろう。
「万聖節……あなたは、帰らなくてもよろしいので?」
やつはふと思い出したように呟いた。
「あ……」
俺が足を止めると、やつも止まった。
そんなに経っていないと思ったのに、もう日が変わってしまうのか。惜しい。この手をずっと握っていたいし、こいつを見つめていたい。
「もっと踊っていたっていいんですよ。私は嬉しい!」
赤い目が優しく細められて、その表面に映る俺の虚像は僅かに歪み、瞬きと共に赤い多角形に張り付いた。俺の姿をそこに留めて置けるだろうか。
しかし俺はここに「呪霊討伐」で来ているのだ。踊りに現を抜かしているとは、あいつらに笑われてしまう。呪霊はいないんだから、帰らなきゃ。
「帰らなきゃ。でも」
「でも?」
首を傾げた。手はまだ俺に触れている。
「なんでだろ、お前を置いて行きたくない」
不思議な感覚だった。こいつがいることが当たり前で、いないことはおかしいのだと思うような。信用ならぬ感情の、信頼できる感覚。
「また来たら会える?」
「いいえ、『私』はいないかも」
「お前はここから出られるのか?」
「さあ……どうでしょう、私だけでは……」
歯切れの悪い返事がもどかしい。なぜだろう。もうこれ以上いることは危険なような気がする。今日はやっぱり俺の普通は狂ってしまっているみたいだ。
「どうしたらいい? 俺となら外に行ける?」
両手を掴んでやつの目をまっすぐに見た。
「ええ。あなたとなら出られます」
満開の笑みとはこのこと。やつを写したように俺も嬉しくて口角があがる。
「マジ? なら俺と一緒に来いよ! お前のことすげー気に入ったし、祓ったりなんかしないから!」
「勿論。あなたと一緒にいきましょう」
そうと決まればすぐに、やつの手を引いて入ってきた扉を目指した。オーケストラは次の曲を演奏し始め、談笑し続ける影は俺たちを避けていく。
「お前は、他の奴には見える?」
「いいえ。あなただけにしか見えません」
どんどん走っていく。
息も上がらず、ついて来てくれる。
そんなに長くないはずなのに、廊下は延々と続いているように思える。
燕尾の影がいた場所はこの辺りだったろうか。扉が見えた。あとはこの先へ、外へ戻るだけ。
俺は振り向いてやつの肩を掴んだ。縛りを結んでおかないと、どうなるかわからないから。俺と一緒なら出られると言っておいて、そうではなかったら嫌だから。
「ずっと俺と一緒に居てくれる?」
「約束しましょう」
細められたやつの赤い瞳が、「やっとだ」と吐露する息と共に俺に近づく。
「さあ、早く私の名前を呼んで、悟」
赤い唇が触れた。
やつと俺の境界がどこにあるのか、もうわからなかった。
頬を撫でた冷たい風に、はたと意識をすれば、夜は明けていた。
帳は消えていた。
扉も固く閉ざされてしまった。
渡された鍵はいつの間にか壊れてしまっている。己の目を覆った仮面もろとも、影も、豪華なホールも何もかも、一夜の全ては闇の中へ帰っていったのだ。
俺はたった一人で朝焼けの中にいた。
歓喜に満ち溢れたようなやつの笑い声が、微かに耳の奥で響いている。
☾
☆
☾
☆
☾
「あー、ほんと、ここ暇すぎて色んなこと思い出すわ」
踊る骸骨はからからと骨を鳴らして五条の周りを揺れている。
「……そうか、あいつは僕で、僕はあいつなんだよ。やっと意味がわかった」
ぼんやりと浮かび上がってきた黒い霧。次第に輪郭が明瞭になり、形を成した。
「おや、ようやく私の名が分かりそうですか?」
血濡れたような唇が微笑んで、五条の耳元で囁いた。
「前に会ったのは、護衛任務のときだ。久しぶりだね」
肩に触れていた黒い指先に、五条は彼自身の手を重ねた。温度は感じなかった。
「私はそうでも無いですよ」
それは五条の傍らにゆったりと腰を下ろし、骸骨たちの廻る様子を眺めている。
「そりゃそうだよね! だって、君は僕とずっと一緒にいるって約束したから」
五条は、それの赤々とした瞳を覗き込んだ。頷きの代わりに、それは瞬いた。
「当然だ! 離れられるはずが無い。そうでしょ?」
「ええ。そうですとも」
それの黒い指が、五条の角張った手の甲を撫でた。
「君は僕の■だ」
「フフフ」
☾
☾
☾
☾
五条悟
誕生石はターコイズ、ヘキサゴナル・ルビー。
■
人でもなく、神や仏でもない。
天使や悪魔でも、呪や霊でもない。
何も恐れなくていい。
あなたは私で、私はあなた。
一人にひとつ、一人に一度。
あなたの傍を離れない。
最後の日まで約束しよう。
あなたが闇に融けるとき、
あなたが闇に触れるとき、
私の名前がわかるだろう。
私の名前を知ったなら、
あなたの最後を共に踊ろう。
☾
終
☾
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