藤を抱いて、涙の意味を知る

 藤哉がとある不思議な人形屋を訪れたのはただの偶然ではなかった。ある目的のため、そのために最も必要な材料・・・・・・・となるそれを集めにやって来たのだ。店主は訳知り顔のように、その顔を見た瞬間、静かに微笑んだ。彼の目的が何であるのかをよく分かっていたからだ。

「最上級品の少女プランツを見せてもらおうか」
「ええ、ちょうどいらっしゃる頃合いかと思い、いくつかご用意させていただいています」

 こちらにどうぞと店主に案内されるがまま、藤哉は奥へと足を運ぶ。店内で焚き染めた白檀の甘い香りが鼻腔を擽った。

「翡翠≠ノ柘榴=A白雪≠ネどもございますが、いかがでしょうか?」
「月華≠ヘいないのか? あれは随分と気難しかっただろう。僕の目的に使う・・には最も最適な少女プランツだ。成功例・・・も一番多い」
「あいにく少し前に目醒めてしまいましてね。引き取られたばかりなのですよ」

 それは惜しかったなと感じた藤哉は僅かに眉を顰める。必ずしも月華≠ナなければならない理由はないが、出来るだけ環境は整えておきたかったというのが本音だ。店主が勧める他の少女プランツも、十分に最上級品として良い品であったが、これと決め手には欠けるものばかりだった。

「他に珊瑚≠烽イざいますが、如何なさいますか?」
「それ、分かってて聞いてるんだろう? 僕が望んでるのはその色ではないよ」

 縁起でもないことを言わないでくれとばかりに顔を背ければ、店主は「そのようですね」と微笑を浮かべる。その微笑がどうも癇に障った。

「まぁいい。ないものを強請ってもしょうがない。適当に起きたのを貰っていくとするよ」

 観用少女プランツ・ドールの一番面倒で、最も重要な初期段階。名人の称号を持つ職人の丹精込めた逸品ともなれば、持ち主を自ら選ぶ≠烽フだ。どれだけ買い求めたいと願っても、選ばれなければ所有できないというのだから、随分と生意気な話だと藤哉は思う。けれど、そういった逸品だからこそ価値があるのもまた事実であり、藤哉は母に与えられた密かな課題にもある程度の意欲を見せていた。

「そうだね、まずは翡翠≠よく見せてもらおうか。先々代は彼女で成功・・してる」
「はい、ではそのように」

 柔らかな亜麻色の髪をした少女プランツの顔がよく見えるように、店主が整えようとしたときだった。
 ほとんど体当たりのように、何かが藤哉の腰にぶつかってきたのは。

「! いきなり何だ……って、少女プランツ?」

 それは鮮やかな藤色の髪をした少女プランツだった。鮮やかに花が咲いたような、屈託のない表情かおを藤哉に向けて、微笑んでいる。観用少女プランツ・ドールにしては随分と表情が豊かな少女だった。
 店主は目醒めてしまった少女を前に、密かに頭を抱えた。まさか、よりにもよってこの少女プランツと波長が合ってしまうとは。藤哉が何というだろうかと、とりあえず彼の出方を伺うことにした。

「……これは?」
「一応そちらも最上級品です。名人は瑠璃≠ニ名付けておりました」
「瑠璃=H 聞いたことがないな」
「そうでしょう。瑠璃≠ヘこの子が初めての型でして、出回りも他にはありませんので」

 つまり、目の前の少女が現状唯一の瑠璃≠ナあるようだった。
 髪の艶、はだの透明感に宝玉のような瞳の煌めき。確かに藤哉の目からみても、それは文句なしの逸品であった。
 観用少女プランツ・ドールを目醒めさせるのは、簡単なことではない。こればかりは巡りあわせがものをいう。その点でいえば、この瑠璃≠ニの出会いは歓迎するべきものと言えたが、藤哉は彼女を引き取るのに難色を示した。

「ダメだな。感情表現が豊か過ぎる。とてもじゃないが、繊細な感情を感じ取れるとは思えない。出直してくるんだね」

 フン、と藤哉に振られた瑠璃は、ガーンと効果音がつきそうなほどショックを受けた表情かおで、それでも諦めきれないのか、藤哉に身振り手振りで何かをアピールしている。それすらも鬱陶しがるように藤哉がそっぽを向くので、瑠璃は半泣きになっていた。どうしても、藤哉についてゆきたいらしい。
 二人の様子をそっと見守っていた店主は、瑠璃の熱意を感じ取り、ふむとひとつ頷いて、一計を講じることにした。

「感情というものは、元より繊細で曖昧なものです。目醒めて早々、こんなにも懐くのは珍しいことだと、あなた様もご存じのはず。余程相性がよかったのでしょう。まだ目醒めてもいない少女プランツよりは、あなた様の微弱な感情も伝わりやすいかと」
「……そうやって僕にこれを押し付けようって魂胆かい? 不良品じゃないだろうな」
「いえ、まさか」

 胡散臭さの抜けない店主の微笑みに藤哉はじとりとした視線を向ける。相性がいい、なんて耳障りの良い一言が妙に鼻についた。店主の援護射撃を受けた瑠璃≠ヘこの千載一遇のチャンスを逃すまいと何やら懸命にアピールしている。そのアピールの仕方が少女プランツにしては力強い抱擁であったり、ぐりぐりと頭を腹に押し込んでくる動物じみたものだったりと、もっとどうにかならないのかと思ったが、梃子でも動かぬ様子の瑠璃≠ニ、にこにこと微笑む店主との暫しの攻防に先に音を上げたのは、やはり藤哉の方だった。

「……引き取ればいいんだろう。引き取れば」

 ぱっと少女の表情かおが華やいだ。
 今から他の少女プランツと交渉するより、この少女プランツで妥協した方が楽だと思ったのだ。

「ありがとうございます」
「どうせ僕が引き取らなきゃ枯れる運命だからね。だったら、どんな風に枯れるかくらいは僕が選んだっていいだろう。後から貴重な一点物だからって返せと言われても僕は知らないよ」
「ええ、存じておりますとも」

 藤哉が契約書にサインするのを瑠璃≠ヘキャンディのように甘い輝きを持つ瞳をキラキラと輝かせながら見つめていた。観用少女プランツ・ドールに必要なミルクの他に、煌びやかなドレスや化粧品を揃えていくのを初めはそわそわと見ていた瑠璃≠セったが、それがどんどん山積みになっていくと明らかに慌てだした。くい、と袖を引いてきた瑠璃≠ノ、藤哉はハッと鼻で笑った。

「僕の懐を心配してるのか? お生憎様。そんな必要はないよ。この程度で破産するようなら、そもそもここにはいないさ。君も僕の少女プランツになったからには、それに相応しい所作を身に着けてもらうよ。まずは形からだ。今着ているドレスは僕の趣味じゃない。こっちに着替えてくれる?」

 そう言って藤哉が差し出したのは、袖のたっぷりとした振り袖だった。帯も美しく、簪一つにしても品がある。はじめて藤哉が選んでくれた衣裳に頬を紅潮させた瑠璃≠ヘ何度も頷いて、奥へ着付けに向かった。
 流石は老舗の人形屋。着付けも躾済みらしい。これは手間が省けたと藤哉は満足げな表情を浮かべた。
 どうせ、すぐにいなくなる・・・・・のだ。これも目的のための必要な投資だとゆるりと桐椅子に腰をかけるのだった。











 瑠璃≠連れ帰ってから、藤哉は彼女にルリ≠ニいう名前を与えた。正直名前などどうでも良かったのだが、本人が期待するような瞳で名前を強請ったのと、名前があった方が都合が良かったので、そう与えたのだ。
 ただカタカナに変換しただけのそれに嫌がるかと思った藤哉だったが、彼には意外なことにルリはそれでも嬉しかったのか、極上の笑みを浮かべてみせた。変な少女プランツだと思ったのは言うまでもない。ただ、たったこれだけのことでもこんなに喜んでしまうのであれば、目的のものが手に入らないのではないかと、それだけが気がかりだった。

「ルリ」

 読書をしていると、視線を感じて、本へ向けた視線はそのままに名前を呼べば、まるでうさぎのようにぴょんぴょんと跳ねてやってくる。そのまま無造作に頭を撫でてやれば、嬉しそうにしているのが手に取るように伝わった。
 そう、何をしても、いくら雑に扱おうと、このようにルリは喜んでしまう。人々が渇望する少女プランツの極上の笑みを容易く浮かべてみせるどころか、天国の涙さえ流してしまいそうな危うさがあった。藤哉はこれを瑠璃≠ニいう型の性質かと疑ったほどだ。真偽を問おうにも、瑠璃≠ヘ未だこの一体だけなので、どうにもわからないままだった。
 順調といえば順調で、けれど、藤哉の懸念は正しく積もるばかりでいた。

「僕に君を惜しい≠ニ思うだけの情がわけばいいのだけど」
「……?」
「何でもないよ。部屋に新しい本が届いていたはずだから、それでも読んでくるといい」

 嬉しそうに部屋へとぱたぱた駆けていくルリに、藤哉は静かに息を吐く。ぴこんとウサギの耳が立っていたような気がしたのは気のせいではないだろう。観用少女プランツ・ドールの中には歌うものや踊るものもあるという。ついに動物の特性を取り入れ出したのかもしれないと思う程度には、当初思い描いていた計画からは逸れつつあった。

(本当に上手くいくのか……?)

 憂鬱なのは間違いない。けれど、藤哉が求めていた憂鬱はこれではない。何をしても喜ぶ少女プランツ。それは少女プランツとして間違いなく喜ばしいことであり、誰もが歓迎するものだ。でも、それでも。そうだとしても、藤哉が求めているものはそう≠ナはなかった。
 部屋から本を持ってきたルリが、そっと伺うように扉の入り口からこちらを見ているのにも気づいたが、どうにも声をかける気にはなれず、沈黙することを藤哉は選んだ。
 それからしばらくしてからだった。密かに発芽させた苗を取り出して、ルリの前へと持ってきたのは。最初から、このためだけに引き取った彼女に、自らの望みを明かしたのも。







 拍子抜けするほど穏やかだな、というのが藤哉の感想だった。
 あの日、藤哉が持ってきた苗は、今はルリの頭のてっぺんで花冠のように佇んでいる。その形状から花冠ティアラと名付けられたそれは、見た目の愛らしさとは反対に、残酷な寄生植物で、観用少女プランツ・ドールを宿主として彼女たちの養分を奪い、見事に鮮やかな花を咲かせる。花冠ティアラというに相応しい美しい花なのだが、その代償は大きく、宿主とされた少女プランツは死ぬ運命にあるのだ。当然だ。普段ミルクしか飲まない少女プランツの小さな身体では、花を咲かせるのが精一杯で何も残れやしない。その挙句、咲いた花は一瞬で消えるというのだから、無情なものだと藤哉は思う。
 けれど、それでも、藤哉がそのために観用少女プランツ・ドールを探していたのは、次期当主の座をかけた妹との戦いに、この課題が示されたからだった。

『より美しい花を咲かせた方を次期当主とします。それまで各々励むように』

 それがありがたい現当主様のお言葉である。主人の愛を受け、満たされた観用少女プランツ・ドールを宿主とした花は、色鮮やかな珊瑚色になる。けれど、最上級の観用少女プランツ・ドールになればなるほど、微妙な愛情を受けとめることができるという。愛情の奥にある哀しみ。そういったものを甘美な憂鬱として受け入れることができるようになる。そうやって甘美な憂鬱を受けて育った花冠ティアラは幻の青い花を咲かせるのだ。
 藤哉はこの課題に勝つため、母に己を認めさせるために、ただの花冠ティアラではなく、幻の青い花を完成させることを目標としていた。
 これをルリに打ち明けた時、藤哉は泣いて嫌がるだろうと思っていた。お前に死ねと言っているのも同義であるからだ。藤哉にこんなにも懐いている少女プランツが、近いうちに別れなければならないのを受け入れるはずがないと、そう思っていた。
 だが、藤哉の予想に反し、ルリはそれをあっさりと受け入れた。むしろ、役に立てるのが嬉しいと言わんばかりの、極上の笑みを浮かべて。思わず『いいのか』と問うたのは、自分では理解できない選択だったからだった。人懐こい表情かおで頷く彼女に、何と返事を返しただろう。藤哉はそれをよく覚えていない。
 花冠ティアラを戴いたルリはどこか誇らしげな表情かおをしていた。ヴィデオに撮る間、ずっと別人を見ているようだった。何だか彼女が、知らない誰かに見えて。こんなにもう美しかっただろうかと、浮かんだ問いは静かに溶けて消えた。

(僕は……君を失うことを『惜しい』と思えるだろうか)

 品は揃った。後は、自分の愛情にかかっている。ルリを失うことを憂う心。それと同じくらい、いやそれ以上に、花冠ティアラを咲かせた彼女を渇望する気持ち。そんな繊細な感情を自分は抱けるのだろうか。疑念はずっと、ここにある。

「何だい? 綺麗かって僕に聞いてるのか?」

 ぴょこぴょこと近寄ってきたルリが何か言いたげなのを感じてそう口にすれば、ルリはこくこくと何度も頷いた。キャンディのように甘い瞳をきらきらとさせて。まるでパーティーのためのおめかしにしか見えなかった。

「……そうだな。馬子にも衣裳ってやつかな」
「……!」

 ガーンとショックを受けたような表情かおは、いつも通りの彼女に見えた。それが少しだけ安心するなんて、どうかしてしまったのだろうか。
 しゅんと垂れ下がったうさぎの耳が見える。「冗談だよ」と何でもない風に口にして、ミルクを温めて、にこにこと笑う彼女をぼんやりと見つめていた。
 極上の笑みが惜しみなく向けられる。花冠ティアラが根ざしてから、花が咲くまではそうかからない。数日、数日でどちらに転ぼうとこの少女プランツとおさらばなのだと思うと、『やっと静かになるな』なんて感想が浮かぶ。何だか少しだけ、胸に小さな穴が空いたような、不思議な感覚だった。
 だからだろうか。藤哉はあれから少しだけ、気まぐれ≠起こすようになった。具体的に並べるのならば、傍で本を読むことを受け入れたり、たまにだが、そっと髪を撫でてやることもあった。ミルクを温める回数を数えていく度、ただの記録に過ぎないそれに妙に胸が騒めいた。たっぷりと膨らんでいく蕾は重たげで、宿主は皮肉なことに日毎美しさを増した。

「ルリ」

 名前を呼ぶ。それだけで極上の笑みを浮かべてぽてぽてとやってくる少女プランツ。綺麗な綺麗な、操り人形。

「……それ、とってやろうか?」

 するりと口から出た言葉はほとんど無意識だった。ルリを試したいのか、そもそもこんな出鱈目な課題が馬鹿らしくなったのか、藤哉は自分でもよくわからなかった。

「は……そんな顔するなよ。分かってるのか? このままじゃ、君は死ぬんだぞ」

 ルリは哀しい表情かおをしていた。それでも、頷かなかった。頷くどころか首を振った。

「大好きな本だってもう読めない。ミルクもそうだ。綺麗な着物だって着れやしない。君の存在はヴィデオの中にしか残らなければ、花だって一瞬だけしか咲きやしない」

 つらつらと出てくる言葉が自分のものだと藤哉は認識できなかった。胸に熱いものがこみ上げてくる。どうしようもなく苛立ったようなその声が、自分のものであるなんて理解できなかったのだ。
 だって、これじゃあ、まるで――。

「そんなことをされたって、僕は……君に少しも感謝なんてしてやらないんだぞ……!」

 ルリを失うのを、認められないみたいじゃないか。
 不意に、ルリの小さな両手が頬を包む。慰めるような仕草は優しく。けれど、彼女は笑っていた。もう充分だというように。極上の笑みで。笑っていた。
 だから、分かってしまったのだ。ルリが何を望んでいるのかを。

「……それが、君の望みなのかい?」
「……」

 沈黙に少女は柔らかに頷いた。それが答えだった。

「……観用少女プランツ・ドールはより美しくありたいという根源的なものを抱えているというのは、本当らしい。今の君を見ているとそう思うよ」

 だから、観用少女プランツ・ドールは自分を一番輝かせてくれるものを選ぶ≠フだと。話半分に聞いていたそれが、今になって現実味を帯びてくる。

「ルリ……君は僕がこうなることを分かっていたのか……?」

 キャンディのように甘い瞳が憂いを帯びる。今度は沈黙だけが答えだった。
 長い葛藤だった。数分のことだったかもしれない。けれど、藤哉には今までのどんな時間の何よりも、長く感じられた。

「はぁ……分かったよ。僕がはじめたんだ。最期まで責任は持つさ」

――ルリ、君をどんな少女プランツよりも美しくしてあげよう。

 その言葉に、少女はにこりと頷いた。嬉しそうに笑う彼女が、憎かった。







 青い花冠ティアラを咲かせるために必要なのは、甘美な憂鬱である。確かな愛情と、その裏側にある哀しみを受けて、初めて咲かせることが出来る。
 ルリをどんな少女プランツよりも美しくさせるという宣言通り、藤哉は今まで以上にルリに手を尽くすようになった。今では傍らで本の読み聞かせをしてやることだって、何てことはなかった。
 あれほど母に己を認めさせると躍起になっていたというのに、不思議なことに今となってはそんなことはもうどうでもいいとすら感じていた。ただただ、ルリの願いを叶える為だけに、藤哉は青い花冠ティアラを咲かせようとする。その結果、ルリを喪うことになったとしても。藤哉はそうすることを選んだのだ。

「こうして猫と兎は青い空の下で、優しい風に吹かれるままに。どこまでも自由に、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし――」

 ぱちぱちと小さく拍手が鳴る。キャンディのような甘い瞳がきらきらと瞬いて、極上の笑みを形作った。

「君もよく飽きないな。同じ本だっていうのに、毎回初めて聞いたみたいな反応をする。僕はもう見なくたって話せそうだよ」

 とっくに暗記してしまった童話に、藤哉は僅かに眉を下げる。ルリがいなくなったら、彼女のものはすべて処分してしまおうと思っていたのに、こんな置き土産をされるとは予想外だった。これじゃあふとした時に思い出してしまいそうで、彼の繊細な心は少し複雑だった。

「大分蕾も膨らんだね。随分と重そうだ」

 ルリの頭より大きく育った蕾が、今にも開花しそうで、藤哉は目を逸らしたいような、逸らしたくないような、そんな気になる。ルリはどこか誇らしげだ。本当にこの意味が分かっているのだろうかと不安になる。

「開花したら僕とはお別れだ。君はヴィデオの中だけにしか留まれないし、それを僕が見返すこともないだろう。本当に……いいんだな?」

 その問いかけはきっと、素直でいられない彼の願い≠セった。
 どうか、嫌だと言ってほしい。泣いて嫌がってほしい。そうしたら、そうしてくれたのなら、すぐにだってその忌々しい花を毟り取ってやれるのだから。
 いくらだってミルクを温めてやる。毎日だって新しい着物を買ってやろう。着物に飽きたならドレスでもいい。大好きな絵本だって、君が望むなら何度でも読んでやる。
 だから、どうか――。
 けれど彼の切なる願いは届かないまま、ルリはポロリと涙を零した。天国の涙だった。美しい、藤色を閉じ込めた、美しい涙だった。

「藤色……? いったいどこで……」

 そうして、はたと気づく。庭先に植えられた藤の花。藤哉の名前の由来にもなったそれは、母が気まぐれで植えさせたものだった。特段思い出などなかったけれど、そうだ。ルリは、藤哉と同じ名をしたこの花を気に入っていたように思う。自分より余程、ルリの方が合っているそれ。同じ色をしたその髪は、藤哉だって悪くないと思っていたのに。
 ぽたりと雫が流れ落ちた。とめどなく頬を濡らすそれは、まるで雨のようだった。

「君は残酷だ……最期に残すものが、よりによってこれだなんて。こんな皮肉が他にあるかい……? 君はもう、僕の傍にはいないのに……っ」

 藤の花言葉。それは「優しさ」「歓迎」「恋に酔う」「忠実」……そして、「決して離れない」
 はじめから「歓迎」することはできなかった。
 為すべきことに「忠実」であろうとした。
 君の「優しさ」に救われて。
 愚かにも「恋に酔い」
 そして、君を喪う。
 呪いでもいいから傍にいてくれと、縋れたらよかったのだろうか。あんな苗なんか最初から燃やしてしまえばよかったのか。せめてもう少し、もう少しだけ植え付ける判断を遅くしていれば、なんて、たらればばかりが心に浮かぶ。
 あんなに事を急いたのだって、後戻りができないようにするためだったのに。

「――好きだ」

 ぽろりと閉じ込めた本音が零れ出す。

「君が……好きだ……」

 雨雫のように吐露して。消え入りそうな声で泣き縋った。

「だから……逝くな……逝かないでくれ……」

 その瞬間だった。無情にも、花冠ティアラが開花したのは。
 大きく膨らんだ蕾が、弾けるように輝きを放ち、青い花を咲かせた。呆然とする藤哉に、ルリは微笑を浮かべて口づけた。最期の別れを前に、藤哉の悲鳴が飲み込まれる。
 美しい青い花が、弾けて、消えた。










「本当にいいのですか? この対決はあなたの勝ちだというのに、妹に譲って」
「何度も言わせないでくれ。別に、もういい。今の僕には何の意味もないからね」
「そうですか……では、そのようにしましょう」

 次期当主をかけた戦いは、青い花冠ティアラを咲かせた藤哉の勝ちだった。けれど、藤哉はこれを辞退し、妹にその座を譲った。前代未聞の選択に、母をはじめとする重鎮たちが藤哉のもとを訪れたが、彼の選択は変わらなかった。
 それもそのはずだ。あんなことになったのだから。
 藤哉は用が済んだら帰れとばかりに母親を追い出すと、少女プランツが過ごしていた部屋へと向かった。それは当初の予定通り、粗方片付けられていたが、同じだけ、いや、それ以上に新しいもので溢れかえっていた。何せ、ここの新しい主人には新しいものが必要だったからだ。
 藤哉がノックする間もないまま、扉が開く。ほとんど体当たりのようにぶつかってきた彼女を、藤哉は馴れたように受け止めた。

「まったく、君は相変わらず落ち着きがないな――ルリ」

 以前よりずっと成長したルリが、そこにはいた。
 あのころと変わらない、極上の笑みを浮かべる彼女は、紛れもなくあの少女だった。

「まさか、青い花冠ティアラを咲かせた観用少女プランツ・ドールは大人になるなんてね。本当に、意味が分からない。この上当主になるなんて、時間がいくらあったって足りないったら。あいつに押し付けて正解さ」

 ぽんぽんとルリの頭を撫でつけながらごちる藤哉に、ルリは不思議そうな顔を浮かべる。
 最初は藤哉もまさか最初からこうなることを知っていたのかと疑ったものだが、成長した本人であるルリも驚いていたので、疑うことすら馬鹿馬鹿しくなった。
 藤哉が当主の座を自ら放棄したと知ったルリは、どうして、というように驚いていたが、その反応が腹立たしくて、藤哉はまだ言えないままでいる。
 誰が言えるだろう。君と過ごす時間がなくなるのが嫌だから、だなんて。恥ずかしいったらない。
 恥ずかしいと言えばもう一つ。青い花冠ティアラの記録に伴い、音声こそ入っていないものの、みっともなく泣き縋ったり、キスしたりといったシーンがばっちり残っていることだ。資料として再生される度あれを見られるのかと思うと、テープを燃やしてやりたくなる。あれは母が厳重に管理しているので、それは難しそうだが。何にせよ、ルリを引き取ってからというものの、どれだけの恥をかいたのかしれない。不本意と言えば不本意で、けれど不思議と以前よりずっと、心は満ち足りていた。

「ほら、新しい本だ。ああ、しょうがないから読んでやるさ。そういう約束≠セからね」

 そうして今日も、藤哉は極上の笑みを見る。
 温めたミルクに、優しい物語を添えて。めでたしめでたしと結ぶ日まで。窓辺から覗く藤の花が、柔らかに風に揺られていた。