森の匂いがふわりと変わる気配を敏感に察知したルリは、大きな樹の下でひとまず雨宿りをすることにした。薬草の青い香りが濡れた風に混ざり、スメール特有の湿り気が静かに肌に張り付く。
小さく立てていたはずの雨音は、今や大きく響き、葉脈をぼたぼたと揺らしていた。
「ふぅ……近くに雨宿りできる樹があってよかった〜。しばらくここで雨宿りしていこうかな」
此処から拠点にしているところまではまだ遠く、この大雨では着く頃には服も髪もぐっしょりと濡れてしまうだろう。そうなったら後が大変だと思ったルリは、暫しこの大樹に身を寄せることにした。
なかなか止む気配のない雨に、どうしようかと思っていると、通りを歩く少年の姿が目に入った。少年はこの大雨をものともせず、彼方此方に興味を惹かれたようにふらふらと彷徨っている。笠を流れ、雨風が稲妻風の着物をどんどんと色を濃くしていくのを見たルリは、迷わず大きく声をかけた。
「ねえ、そこのあなた!」
「? ……僕、ですか?」
「そう! こっちにおいでよ! この樹の下なら雨宿りができるよ!」
彼女の持つ藤色の髪がまるで目印のように少年の瞳に鮮やかに飛び込んでくる。手招きするルリに、少年は素直に寄ってきた。風のように軽やかな足取りと共に、大きな笠から顔を覗かせた少年に、ルリは愛想よく『大変だったね、もう大丈夫だよ』なんて声をかけようとして――言葉を失う。
笠に隠されていたその顔が、あまりにも美しかったからだ。
「ちょうど雨宿りができないか探していたところだったので、助かりました。ありがとうございます、ご親切な人」
柔らかな声だった。温かくて、丁寧で。発する言葉の一つをとっても、確かな品位を彼からは感じられた。
ルリは言葉を返すことができなかった。いつもならにこにこと人懐こい微笑みを浮かべて、初対面とは思えぬほど打ち解けてみせるのに。お喋りなお口はぽかんと小さく開いたまま、心臓は苦しいほどに鼓動を奏で、頬は茹ったように火照ってしまってしょうがなかった。
何も言わず、呆けるルリに少年はどうしたのだろうと思い、心配げに声をかける。
「あの……僕の顔に何かついていますか? それとも、どこか具合でも悪いのでしょうか?」
それだったら大変だと、少年はルリが頷くのなら、今にも薬を買いに走りだしてしまいそうだった。ルリはようやくはっとして胸の前で両手をぶんぶんと横に振る。
「う、ううん! 大丈夫だよ。ただ、あなたのお顔が……まるで王子様みたいで……つい、見惚れちゃっただけなの」
「僕の顔が……ですか?」
「うん……すごく、素敵だなって」
ありのままの好意を伝えるだけで、ルリの心臓は今にも飛び出そうなほどに苦しかった。
まともに彼の顔が見れないような、でも見ていたいような、否、それよりももっと鮮烈に目を奪われて、惹かれてやまなかった。胸が鼓動を刻む。一拍ごとに火傷してしまいそうなほど熱いものがこみ上げてきて、生まれて初めて言葉を紡ぐのが難しいと感じた。
少年はその声と品のいい顔立ちと同様に、心根も素晴らしいようで、挙動不審気味なルリに対しても寛容な態度を示し、柔らかに表情を綻ばせる。
「ありがとうございます。あなたのような綺麗な方にそう言ってもらえるととても嬉しいです」
「え……あ……き、きれい……?」
「ええ。とてもお綺麗ですよ。雨の中に咲く一輪の花のように、あなたには人の目を惹きつける魅力があると思います」
少年の手放しの世辞に、ルリは瞬く間に頬を染め上げた。恥ずかしくて、照れてしまって、思わず俯いてしまう。消え入りそうな声でお礼を口に出すのが精一杯だった。
そっと盗み見るように見上げた彼は、やはり美しく、ルリの胸をときめかせた。視線に気づいた彼がこちらを振り返る。目が合えば肩と一緒に胸がドキッと跳ねた。優しい微笑みが陽だまりのようだった。ついと見惚れて、やがてルリもへにゃりと笑った。
雨が降っている。葉脈を打ち付けるその音が、今は遠くに聞こえた。雨粒に羽を濡らした小鳥が、ぶるりと身を震わせる。ぽたりとした雫がルリの頭上に滴り落ちた。
「わっ」
「どうしましたか?」
「あ、雨粒が、落ちてきた……みたい……?」
くしくしと袖で拭って目を開けると、思ったより近くに少年の顔があった。驚いて目を瞠るルリに彼は更に顔を近づける。白檀とも違う、もっと自然な木々と森のような香りがふわりと鼻腔を擽った。
「じっとして。少し見せてください」
「ぁ……えっと……」
「怖がらないで。目を傷つけていないか見るだけですから」
覗き込む紺青の瞳は真剣な眼差しをしていた。頬に寄せられた手はどこかひんやりとしていて、火照った熱を微かに冷ます。少しだけ冷静になると、次は絶えず早鐘を打つ心臓の音が彼に聞こえてしまいそうで、別の気がかりがぼんやりと頭の片隅に浮かぶ。鼻先が触れ合いそうなほど近づいた彼の顔は、神様が一等愛情を注いで創り上げたのではないかと思うほど、端正で、やはり美しかった。
「うん、大丈夫そうですね。水が入っただけのようです」
「そ、そっか、見てくれてありがとう」
「いえ。それより……頬に触れた際に、少し熱を感じました。そちらの方が心配です。具合は大丈夫でしょうか?」
心配そうに眉を下げる少年にルリはびくりと反応する。心臓の音こそこの雨で気づかれなかったようだが、頬の火照りの方は誤魔化しきれなかったらしい。何て言ったらいいのかルリにも分からなかった。彼を一目見た瞬間から、身体がおかしくなってしまった気がする。逆上せ上ったような感覚と、忙しない鼓動がついて回って、彼から少しも目が離せそうになかったのだ。
「だ、大丈夫だよ! 私、
「そうだったのですね。何事もなくてよかったです」
嘘ではなかった。妖怪の血を引くルリの体は、その特徴を少なからず受け継いでいる。少年がその言葉の意味を正確に理解しているわけもなかったが、咄嗟に出た言葉にしてはある程度の説得力を持っていたようで、素直に納得してくれたのが救いであった。
「……雨、やまないね」
「ええ。でも、こうして静かに景色を見ているのも僕は好きです」
「うん……私も、そういうのは好き、だな」
何気ない好意を表すのに、こんなにも苦労したことがなくて、ルリは戸惑ってしまう。本当にすっかり自分はどうにかしてしまったらしい。柔らかい微笑みと共に「同じですね」と告げる彼がとても眩しくて、冷たいはずの雨風が心地よく感じられた。
静かな時間だった。静寂が場を支配することはなく、けれど、騒音が奏でられることもない。雨音と葉擦れの音。それから胸を打つ鼓動が十分な音楽だった。
その時間は長かったかもしれない。あれだけ降っていた雨は今は小ぶりになって、晴れ間が覗いている。けれど不思議とルリにとっては短い時間だったように感じられた。
「あ、雨が上がりましたね。もう移動しても大丈夫そうだ」
少年はそう口にすると、ルリに振り返る。礼儀正しく姿勢を保ったまま、彼は礼を言った。
「ありがとうございました。何かお困りのことがあればいつでも仰ってください。僕でよろしければ、出来る限り力になりましょう」
「ううん、そんなに気にしないで。困っている人を助けるのは自然なことだから……もしかしたら、困ってはなかったかもだけど……」
「いえ、そんなことはありません。おかげでずぶ濡れにならずに助かりましたから」
彼の声は相変わらず優しくて、雨音が消えた今はその声がよく耳に馴染んでくる。玉が転がるような、透き通った美しい声だ。語尾は柔らかで、端々に気遣いと慈愛が滲んでいて、彼の良く出来た人柄を何よりも雄弁に物語っていた。
素敵な人だと思う。まるで絵本の中の素敵な王子様みたいに。これでさよならになってしまうのは悲しくて、また彼に会いたくて、ルリは別れを惜しむような眼差しで口を開いた。
「また、明日も会えるかな……?」
「……僕と、ですか?」
「うん……このままお別れするのは悲しいなって思って……」
飾り気のない、素直なその言葉に、彼は僅かに目を瞠る。そんな風に面と向かって言われるのは予想外で、返答するのに少しだけ間が開いた。その反応に困らせてしまったかもしれないと眉を下げたルリが「ダメかな……?」と尋ねると、少年は緩く首を振る。
「ダメではありません。僕でよろしければ明日もここで会いましょう」
「! ありがとう! 私、明日もここで待ってるね!」
今にもぴょんと跳ねてしまいそうなほど喜ぶルリに、彼は穏やかな眼差しを向ける。彼女の頭にあるはずもない兎の耳が見えたような気がした。
さよならの代わりに「また明日」と挨拶を交わして、じゃあねと大きく手を振りながら、ルリはぴょんぴょんと跳ねるように駆けていく。その様子を少年は微笑まし気に小さく手を振って見送った。
雨上がりの空に、掛かった虹色が眩しく映る。まるで彼女の笑顔のようだと彼はくすりと笑うのだった。
それからというものの、二人はここで会うことが自然と日課になっていた。わざわざ約束をせずとも、それが当然であるかのように。時間が出来ればあの樹の下へと足を運び、その日に起きたことや、互いに興味がある話題を出したりしながら、緩やかな風と共に、穏やかな時をゆっくりと重ねていた。
そうして時を過ごしていくうちに、ルリは自分の中に芽生えていた感情に、名前を付けられるようにもなった。彼を目にするたび、柔らかに声を掛けられるたび、高鳴るこの胸の鼓動の正体を彼女は漸く知ったのだ。
――恋をしているのだと思う。どうしようもないほどに、少女は彼に惹かれてやまなかった。
少女は彼の名前が知りたかった。大切な人の大切な名前を、呼びたいと思ったからだ。けれど、奇麗な彼は緩く首を振った。名前を教えたくなかったのかもしれないと縮こまる少女に、彼はそうではないと、小さな秘密を打ち明ける。『僕には、それまでの記憶も名前もない』のだと。
そう口にした少年は一等美しく、物哀し気な横顔をしていた。
それを聞くや否や、少女は一つの提案をした。『それなら私に名前を贈らせてはくれないか』と。
胸を締め付けられるような、稚さを感じたのは恋心故だったのか、それとも別の何かを感じたのか、それは少女にも分からなかった。
少年は思ってもみない申し出に僅かに形の良い瞳を丸くした。逡巡を乗せたそれは、けれど確かめるように『いいのですか?』と言葉を紡ぐ。そこには微かな期待の色が滲んでいた。
少年の反応に、少女は大きく頷いた。『きっと素敵な名前をあなたに贈るね』
少女が差し出した小指に少年は同じように絡める。『ええ、きっと。楽しみにしています』
少女がくれる名前を少年は楽しみにして待っていた。少女もこの美しい少年に贈るに相応しい名前をああでもない、こうでもないと、うんと考えた。そうして長い思考の末に、少女はついに、『藤哉』という名前を彼に贈ることに決めた。
「藤哉……? それが僕の名前ですか?」
「うん。稲妻の言葉なんだけど、『哉』っていう字には始まりの意味があるんだ。新しい人生を始めるにはぴったりかなって」
「では、藤の方は? こちらにも何か意味があるのでしょうか?」
「それは……私が一番好きな花だから――」
薄く染まった頬と陽だまりのような微笑みに、少年は、藤哉は見惚れてしまって暫し言葉を失う。この頃になると、藤哉はルリが自分へと抱く感情の正体に気づきつつあり、自身もまた、それと似たような感情をルリへ抱いていることを察しつつあった。「あなたにもそう思ってもらえたら嬉しいな」そんな些細な願いを乗せる彼女に、藤哉は柔らかな微笑みを浮かべる。
「きっと好きになると思います。その花は……あなたの綺麗な髪と同じ色をしてるだろうから」
それはとても素敵なことで、喜ばしいことなのだろうと藤哉は思う。この優しい少女の祝福を受けた、始まりの名前。過去を知らずとも、これからの未来を明るく歩んでゆける。そんな気がするのは、きっと彼女のおかげなのだろう。
――いつか、藤の花をこの目で見てみたい。芽生えた感情は淡く、けれど美しく。鮮やかな色をして、真新しい熱を宿していく。この感情にきちんと名前をつけることが出来る時が来たならば、そのときはきっと、藤の花を見に彼女を誘おうと思う。そこで新たな関係を二人で始められたらいいと、彼はそっと、その小さな願望を胸の奥にしまい込む。
今はまだ、このままで。緑が生い茂る大樹の下、陽だまりのように笑うあなたをただひたすらに見ていたかった。
しかし、順調かに思えた二人の間に、突如として不和が訪れる。それは暗雲のように漂い、激しい雷雨を伴って何者をも介入を固く拒んでいた。暗黙の了解であった、日々の逢瀬はある日を境にぱたりと途絶え、藤哉はルリの前から一方的に姿を消した。一日、また一日と経過するにつれ、最初は楽観的であったルリも、異変に気づきだす。『彼の身に何かあったのではないか』と。
心配で堪らなくなったルリは、けれど同時に一つの真実に辿り着いてしまう。明確な名前もなければ、明日の約束すらない関係である自分には、それを知る術がないことに。
彼が過去を知らないように、ルリだって彼の過去を知らない。それを置いても、どこで何をして、どう暮らしているかなんて何も分からなかった。どんな友達がいるのかさえ、ルリは何も知らないでいた。彼が意図的に隠していたのか、たまたまそうだったのか、どちらにせよルリに彼を探す手が掛かりはそうなかった。
だがしかし、それでもルリは彼を諦めることが出来ず、積極的に町へ繰り出し、彼の痕跡を探ることにした。何か大変なことに巻き込まれてなければいいと。そう願いながら。
その努力の甲斐あって、ついにルリは彼と再会した。遠目からみても元気そうだった彼は、名前を呼びながら駆け寄ってきたルリを一瞥すると、嫌そうに顔を顰める。『人違いだよ』
ルリはその冷たい声と表情に衝撃を受けた。かつての少年の柔らかなそれとは似ても似つかなかったからだ。実は双子でしたと言われても、思わず信じてしまいそうになるほど、容姿こそそのままであったが、その中身には相違が見えた。
けれど、ルリは直感的に、もっと言えば本能にも似た感覚で、彼が探していた藤哉自身であることを敏感に察知した。そのまま振り切ろうとする藤哉の手を取って、怪訝げな表情を向ける彼に真っ直ぐ伝える。『間違ってないよ』
無言の圧力が藤哉から発せられても、ルリは怯えた様子もなく、ただ彼の無事を確かめるように言葉を重ねた。
『大丈夫? 怪我してない? 何かあったんじゃないかって心配してたの』
心地のいい声だった。優しさと思いやりに満ちた、柔らかい愛情を包んだ花束のように。それは惜しみなく藤哉へと与えられた無償の温もりだった。
今まで何の連絡もなく、一方的に関係を断つような真似をした相手に対し、ルリはあまりにも寛容で、無垢で、何よりも――素直であった。
『藤哉くんが無事でよかった』
へにゃりと柔らかに垂れ下がった眉に、麗らかな春を彷彿させる陽だまりのような微笑み。以前と何も変わらない、彼女がそこにはいた。
ここで藤哉が『ありがとう』だったり『ごめん』などを口にしさえすれば、二人はめでたく元の関係に戻れるだろう。たった少しの違和感もいつかは風に攫われる葉っぱのように、豊かに茂った緑が奇麗な過去へと変えてくれる。この手を取ることができたのなら、御伽噺の登場人物にだってなれてしまう。誰もが納得する大団円が、ここに――そう思ったら、彼はどうしようもなく、吐き気がした。
『よかっただって……? これがいいわけあるか』
『え……?』
ぽたりと、雫が地面に滴り落ちる。藤哉が泣いているのかと思ったルリは、そっと彼の頬に手を伸ばそうとして、勢いよく弾かれる。笠から覗くその瞳はまるで近づくなとでもいうように鋭い光を放っていて、何故だかとても痛々しく見えた。
空を割くように稲妻が走り、風が荒れていく。ぼたぼたと土が濡れ、肌を刺すような痛みに、ようやくルリは藤哉が泣いていたわけではないことを悟る。
『僕はもう、君が好きな藤哉≠カゃない』
それは明らかな拒絶だった。嘲りを浮かべた表情は藤哉とは似つかず、品の良かった藤哉とは反対に、いくらかの粗暴さが見てとれる。ルリへと向ける感情ですら、柔らかで穏やかだった藤哉と違い、ともすれば憎しみすら伺えるような気がした。
突然のことに躊躇いがちに藤哉の名を呼ぶルリに、彼は皮肉気に『そいつはもうどこにもいない』のだと伝える。否、最初からどこにもいなかったのだと。その意味はルリには分からなかった。
『君が好きなのも、用があるのも藤哉≠セろう。僕は関係ない。もう、僕と関わろうなんて思わない方がいい。君のためにもね』
――夢は、美しいままで終わらせた方がいいだろう?
それこそが唯一の慈悲であるかのように、藤哉は呆然とするルリに背を向けた。『待って』と引き止める彼女の声など聞こえないとでもいうように。彼は一度も振り返ることなく、豪雨の中、静かに身を眩ませた。
雨が降っている。遠く遠く、鳴り響く雷鳴が、誰かの泣き声のように聞こえて。ルリは暫くその場から動くことが出来なかった。
あれからルリは彼が言っていた言葉の意味を考えるようになった。
自分はもう藤哉≠ナはないとはどういう意味なのだろう。彼の曖昧な記憶が戻ったのか、何かしらの心境の変化が起きたのか、いずれにしても想像の域を出ることはない。その答えを知っているのはルリではなく、やはり彼なのだから。
ルリは胸に手を当てて、自分の心と向き合ってみた。確かに彼は変わってしまった。それは揺ぎない事実である。ルリが好きだった穏やかな微笑みも、柔らかな声も。今の彼にはないものだ。冷たい表情も、突き放すような刺々しい物言いも。藤哉≠ノはなく、苦い物が胸の中に広がっていく。甘く優しいものだけをくれた藤哉≠ニは何もかもが違ったように見えた。
(私が……好きなのは……)
ルリは自分は藤哉の何が好きだったのだろうと考える。それはほとんど一目惚れから始まったもので、彼を一目見た時からまるで絵本の中から飛び出てきた理想の王子様のようだと、すぐに夢中になった。そうして接していくうちに、彼の穏やかさと優しさに更に心惹かれ、気づけばどうしようもないほどに恋をしていた。
彼の言うように、自分が好きだったのは優しくて穏やかな、理想の王子様である藤哉≠ニいう存在に対してだったのだろうか。それじゃあ、王子様でいることをやめた彼≠フことは好きではないのだろうか。
だから――彼≠ヘ自分の前から姿を消してしまったのだろうか。
今自分が悲しいと感じて、胸が痛むのは、藤哉≠ニの別れが辛いという理由からなのだろうか。
じゃあ、どうして、こんなにも彼の顔ばかりが頭に浮かぶのだろう。どうしてあんなにも諦観に満ちた顔をしたのだろう。どうしてこんなに放っておけないんだろう。どうしてこんなに気になるんだろう。どうして、自分はこんなにも――。
情けないんだろう……?
ぐっと握り閉めた両手。俯いた顔から雨のように零れ落ちる涙をルリは乱暴に拭った。歯を食いしばり、思いっきり両頬をパンッと叩く。上げた顔はもう、泣いてなどいなかった。
(藤哉くんに……ううん、彼に……会いに行こう!!)
弾丸のように家を飛び出したルリは、彼の影を探してスメールを駆けまわる。自分の中で彼への想いに名前をつけることはまだできなかったけれど、それでも、だからこそ、ルリは彼を探した。
(私が好きだったのが藤哉≠ュんだけだったのか、あなた≠烽セったのかはまだ分からない。分からないよ、そんなの……だって私、まだあなたのことなんにも知らないんだもん!)
だから知らなくちゃとルリは彼を探す。この感情に名前をつけさせてほしい。どうしてあんな顔をしていたのか、その心に触れさせてほしい。
今、ルリが彼に与えらえるものは、そんなに多くはないのかもしれない。けれど、どうしたって放っておけないのだ。
藤哉≠ニ同じ顔が傷ついているのを見たくないから?
それともただの同情?
そんなことルリだって分からない。分からないから確かめに行くのだ。なぜならルリは彼のことがまだ好き≠ネままなのだから。終わってないのだ。この恋を、勝手に終わらせてもらっては困るのだ。
(私まだ、告白だってしてないよ……!!)
返事はそれからだっていいだろう。本当に自分の好きな人に、ちゃんと告白するために。ルリは駆け回る。名前を呼べないのがもどかしかった。あの時に『じゃあなんて名前なの?』って聞けたなら、もっと早くにこの答えも見つけられたかもしれないのに。
あの時手を放そうとしたのは彼だったけれど、放してしまったのはもしかしたら自分の方だったのかもしれない――。
その答えに辿り着いた瞬間、ルリは教令院の前で見覚えのある大きな笠を被った少年の後姿を見つけた。柔らかな風に袈裟が揺れ、彼の静謐な美しさを際立たせる。声をかけるのを躊躇わせる雰囲気は、さながら彼が隔てた見えない壁そのもののように感じられた。
それをルリは大きく息を吸って、力いっぱい叫ぶようにしてぶち破る。『見つけた!』
彼は億劫そうにルリを振り返ることなくその場を去ろうとした。『待って!』
何も最初から聞こえていないような彼に、ルリは大きく跳ねて、彼の元へと飛翔する。逃げようとする彼の手を今度はちゃんと掴んだ。反射的に振り返る彼。伝えたかった言葉をありったけの力を込めて叫ぶ。
「あなたのことを私に教えて!!」
キラキラと、キャンディのような甘い瞳が星のように瞬く。雑音でしかなかったはずの彼女の声が、彼に初めて届いた気がした。
今から、ここからはじまる。それは新たな物語の幕開けだった。
ルリが踏み出した一歩に対し、少年は最初こそ強硬な態度を取っていたものの、こればかりはルリの方が上手であった。『名前を教えてほしい』という彼女に、彼は『君に名乗る名はない』と取り付く島も与えないことで自らの態度を示したつもりだった。彼の頭の中ではお手上げだと参った様子の彼女が浮かんでいたが、だが実際にはどうだろう。彼の予想に反し『まだ答えたくない≠ェ今のあなたの気持ちなんだね』ルリはそう笑って彼の意志を尊重してみせた。
いつになるかもわからない、最初から答えるつもりもない彼に『私に教えてもいいって思える時がきたら、その時にまた、教えてくれたらうれしいな』なんて希望を託す。彼はこれを愚かで盲目でどうしようもないと詰ったが、少女の受容は変わらなかった。
それからも彼女の問いは続く。『あなたは何が好き?』
それならばと、少年はわざと悪意を忍ばせて口にした。『甘いものは嫌いだ』
藤哉≠ヘルリに勧められるがまま、甘いものを口にしていたのを思い出す。次の質問は、
彼女は頷く。「じゃあ、苦いものは好き? 辛いのも大丈夫かな?」
少年は僅かに目を瞠る。少しだけ、それは予想外だった。『……そんなくだらないことを聞いてどうするのさ』
ルリは言った。『くだらなくなんかないよ』『あなたのことが知りたいの」「そしてまた……今度はあなたと仲良くなりたいんだ」
馬鹿げていると一蹴しようと口を開いたはずだった。けれど、出てくるはずの罵詈雑言は不思議なことに喉につっかえたまま、言葉の意味を果たしてはくれなかった。「……嫌いじゃない」
それはほとんど独り言のような、小さな呟きだった。ようやく貰えた返事に、ルリは花が咲いたような笑みを浮かべた。
「そっか! じゃあ、今度美味しいものを持ってくるね! 大丈夫だよ。私、苦いのも辛いのも、甘いものと同じくらいちゃんと美味しいものを知ってるから」
期待しててほしいと微笑む彼女に、彼は何も言わず、黙って笠を引き下げる。どうしてそんな風に笑えるのかも、向き合えるのかも。どんな顔をしていいのかさえ彼には分からなかった。
ふわりと胸に浮かんだその思いは、あまりに複雑で。名前を付けるのは彼には難しかった。
(知ってるさ……君が食べることが好きなことくらい……僕は……)
小さな音がする。それは硝子が割れる音にも似ていて、どこか不安を掻き立てる。
藤哉≠ェルリへと抱いていた感情の輪郭に、彼≠ヘどう向き合っていいのか分からないでいた。
藤哉≠ヘルリが好きだった。ふたりは両想いで、御伽噺のように結ばれることが出来たはずだった。けれど、その藤哉はもうどこにもいない。御伽噺は未完のまま、誰の目に触れることももうないのだ。
残り火のように藤哉≠フ想いが自分の中に残っているだけ。これ≠ヘ、自分の想いではない。そのはずだった――少なくも、彼はそう、思っていた。
律儀に『待っている』なんて約束の言葉を彼はルリには残さなかった。いつだってこれが最後だとでもいうように、彼は常に別れのつもりでルリへと接した。けれどルリは対照的に『またね』と約束の言葉を託してきた。何度も、何度も。
どこにいるかも分からない、彼の姿を探すことから始め。取り留めのない話ばかりを持ってきた。ルリの質問に彼がろくに答えを寄こさなかったのも理由ではあるだろうが、元来ルリという少女は話好きで、人懐こい性分である。彼の沈黙や、邪魔だと訴える視線も大した脅威にはならず、ルリにはそれよりもっと困ることがあるのだから、こうなるのも必然と言えた。
「あのね、あれから考えてみたんだけど……私、あなたのことが好きだよ」
それはルリが一方的な交流を続けて暫くした頃だった。白い頬を薄桃に染めて、夢見るような瞳で彼女の口が甘く囁いた。彼でなくとも一目でわかるほど、彼女は明らかに恋をしていた。
「何度も考えたんだ。私が好きな人は誰なんだろう? って。藤哉≠ュんが好きだったのはそうだけど、あなた≠フことも私は好きで……それで、気づいたの。藤哉≠ュんも あなた≠烽ヌっちもあなたなんだって」
麗らかな日差しが柔らかに差し込み、少女の藤色の髪が一層美しさを増している。温かさに満ちた声が蜂蜜のようにとろりと溶けて、鼓膜を揺らす。
『あなたのことが好き。大大大好き! これが私の答えだよ』
陽だまりのような微笑みが惜しみなく向けられる。
少女がこの答えを出すのに珍しく何度も何度も思考したのだろうことが伺えた。そうでなければ、こんなにもこの気持ちを言葉にするのに時間はかからなかっただろうから。それが不用意に自分を傷つけないための優しさからきた行動だと分からないほど、彼はルリのことを知らないわけではなかった。
少年はその手を取ろうとして――思い切り、振り払った。
『面白くないね』
『え……?』
そこにあったのは侮蔑だった。ルリが語る好意はあまりにも美しく、完成されていて、彼には吐き気がした。まるでこの手を取りさえすれば、全てが元通り。全てが上手くいって、何もかもが報われるお奇麗な物語への招待状を差し出されたようで、そんなことは冗談じゃないと彼はどうしたって受け入れる気など起きるはずがなかった。
そんなことは彼の望みではない。まして、自分と藤哉≠ェ同じだなんて、そんな在り得ないことをどうして受け入れられるというのか。腹立たしいことこの上なかった。
『僕とあいつが同じだって……? そんなわけあるか! 都合のいい妄想を広げるのも大概にしろ! 君の理想に僕を巻き込むな……!!』
はっと息を飲むルリが、傷ついたような表情を浮かべる。何かを言おうとする彼女の声を遮るように、彼は言葉を捲し立てた。自分の声ですらどこか遠くで聞こえ、言葉は棘を増す反面、意識は躰の外側にあるような変な感覚だった。
『君はいつもそうだ! 僕の話なんてろくに聞きやしない! 僕はあいつとは違うし、あいつが君を好きだったからって僕が君を好きになるとでも思ったのか? とんだ思い上がりだ。僕は君のことなんて好きじゃないし、君が好きなのだって僕≠カゃない。あいつとの思い出を失くしたくなくてそう思い込んでるだけだ』
心を持たないはずの自分の声が随分と感情的であることを、俯瞰する意識は気づいていた。何をそんなに熱くなっているのか、たかが少女の幼い恋にこうも反論するなんて、少しやりすぎなんじゃないかと肩を竦める。けれど、少女のことを好きじゃないと口にして、きゅっと唇を引き結んだ彼女を見た瞬間、何故だかないはずの心がツキンと痛んだような気がした。
どうしてこんなにも、熱くなっているのか。
どうしてこんなにも、腹立たしいのか。
どうしてこんなにも、胸を締め付けられるのか。
その答えは、きっと――。
(そうか……僕は……)
『
皮肉だと思う。同じ器を持っているのに、こうも違うせいでままならない。どうして信じられるというのか。人当たりがよく、優しかった藤哉≠ニはこんなにも違う自分を好きになるだなんて。
ルリに好かれるような、今の自分だけのいいところなんて、逆立ちしたって思い浮かびそうにはなかった。今だってこんなにもルリを傷つけているのに、好いてくれる訳なんて、どこにもあるはずがないとそう思ったその時、ルリの温かい手が、彼の冷たい頬に触れた。まるで、泣いている子供を慰めるように、目が合った彼女は心配げな表情を浮かべていた。
『私、確かにあなたのことあんまりよくは知らないけど……あなたが本当は優しい人だってことは分かるよ』
『……何を』
掠れた声。何がわかると吐き捨てるつもりの声は、覇気がなかった。頬に触れる手を、払いのけるのさえ億劫だ。
『質問にははぐらかしても、私のお話は何だかんだいつも最後まで聞いてくれたよね。何日か前に話したことも、あなたは覚えててくれた。雨の日や風の強い日は、屋根のあるところにいてくれたよね。私が強引にマーケットに連れ出した時も付き合ってくれたし、お腹いっぱいだからってわざと私が好きなものを残してくれたり……他にも、たくさん』
誰の話をしているんだと言いたいのに、彼はそれを言葉にすることが出来なかった。どうしてだか心当たりがないと言い切れなくて、喉が震える心地がした。
遠くに聞こえたはずの声が、段々と現実味を帯びて胸に響いてくる。こんな感覚は初めてだった。
「今まで言ってなくてごめんね。不安だったよね。もう大丈夫だよ、あなたが優しい人だってあなたが信じられるようになれるくらい、私が何度でもあなたのいいところをたくさんたくさん、教えるから!」
――あなたのことが大好き。
それはまるで、花束を贈るように温かで、ありったけの光を束ねた愛だった。
少年は少女に対し、言葉を返すことはしなかった。否、出来なかったのだ。恋と愛を重ねてラベルを貼られ贈られた感情は真新しく、受け取っていいのだと言われても、信じられなくて、壊れそうで、繊細で。枯らさないように、散らさないようにと両手に抱えるのが精一杯だった。
今すぐにだってここを去ってしまいたいような、このまま一緒にいたいような、自分がどうしたいのかさえ曖昧で。澱んだ空に、彼女が色を重ねて美しい景色を彩っていくのを、ただただ、見つめていた。
――自分は悪人である。
それは彼自身が定義する揺るぎない事実であった。数え切れぬほどの悪行を犯してきた記憶は洗い流せるものではない。ルリがどれだけ自分を優しい≠ニ定義したとして、己がそう思う日が来ることなどないことを彼はよくわかっていた。
故に、この好意に自分が想いを返すことはないだろうと彼は思う。ルリは、彼女は、優しい人が好きなのだから。
「君は本当にバカだね」
呆れを滲ませたその声は、けれど、彼がルリに発した言葉の中で最も柔らかい響きを含んでいた。
ふわりと、少女の藤色の髪が柔らかに風に揺れる。陽だまりのような微笑みを浮かべる少女に、彼はまた、呆れたように息を吐いた。
音がする。硝子が罅割れるような、何かが砕け散る音が。不安は少し、けれど彩度を増した世界に彼はその正体に漸く気付く。分厚い壁が壊れたことに。拒んでいたのは世界ではなくて、もしかしたら自分の方だったのかもしれない――なんて、殊勝にもそんな思いが浮かんだ、麗らかな午後だった。
あの告白から半年、彼はルリの訪れを拒むことはなくなった。だからといって、彼がルリの気持ちに応えたわけではない。自身に宿った恋心を自覚しながらも、ルリの好意に明確な返事を返すことはないまま、現状維持を続けていた。
何せ、彼は悪人なので。ルリが自分を好きな間は彼女の好きにさせることにしたのだ。
いつかは本当に優しい人≠ニやらを見つけて、そちらにいくかもしれない。それはそれで大口を叩いておきながらやっぱり大したことなかったなと嫌味の一つでも言ってやろうとは思うものの、人の心とは移ろいやすいものであることを彼もよく理解している。伊達に長生きはしていない。ましてや、明確な返事の一つも寄こさない自分に心変わりを咎める資格はないのだと、そんなことも分かっていた。要するに、彼はそうなったときに彼女の良心を僅かばかりに刺激して、こっちから願い下げだとのしをつけて返してやろうと思っていたのだ。――ちょうど今、この時までは。
「……は?」
自分でも分かるほど低い声が零れた。眉間に寄る皺も、眼光の鋭さも、彼の中の不快感を如実に示している。眼前に広がるのはごく有り触れたマーケットの風景。その中で、ルリと人の好さそうな青年が何やら楽しそうにお喋りをしているではないか。それだけなら、人懐こいルリのこと。いつも通りと言えばそうだったが、彼はあの青年がルリに好意を抱いていて、なおかつもうアピール中であることを知っていた。それはもう、よく。
その話を聞いたのは、取り留めのないルリの話の中に、妙にその青年の話が混じるようになったのに気づいてからだった。忘れ物を届けてくれた、というベタな出会いから始まり、たまたま外出先で会っただとか、そのとき読書好きなのが分かっておすすめの本を教えてもらったとか――それが面白かったからぜひ読んでみてほしいとルリは更に彼に勧めてきたが――ここまでくれば、察しのいい少年はその青年がルリに気があることに気づく。何も分かっていない様子のルリに『その気がないなら期待させるような真似はしないことだね』と一応の忠告をしたわけだが、それも効果などないことは分かりきっていた。何せ、ルリ自身がああ≠ネので。
だがこれは聞いてないと彼は腸が煮えくり返るような思いを抱く。近い。近すぎる。何だあの距離は、傍から見れば恋人にしか見えなかった。愛想のいい彼女はにこにこと気の抜けそうな顔で笑っていて、彼は一瞬彼女が心変わりをしたのかと思ったほどだった。いくら何でも早すぎじゃないかと詰ろうとして、彼に気づいたルリがぱあっと輝くような表情で手を振るものだから、何だ違うのかと少年は少しだけ溜飲を下げる。だが、だからといってこの怒りはなかなか収まりそうにはなく、ルリの明らかな表情の変化に戸惑い気味の青年は「えっと……? どちら様?」と少年を見てきたので、彼はフンと鼻を鳴らし、会心の一撃をお見舞いした。
「彼女の恋人だよ」
「「えっ」」
ふたつ上がった驚きの声に青年が確かめるようにルリを見つめる。何か困っているなら力になるよとでもいうような視線に、余計なお世話だと、少年はルリに問いかけた。
「で? 君は僕の何がいいんだっけ?」
随分と意地の悪い質問だった。ルリは驚きのあまり咄嗟に言葉が出なかったが、促すような彼の視線に、ぴょんと跳ね上がり、その勢いのまま彼へと抱き着いた。
「恋人がいい! 恋人がいいよ! だってあなたのことが大好きなんだもん!」
それでいいと少年は満足げに笑う。恋人の特権である抱擁を交わして、実に勝ち誇った表情を青年へと向けた。
「というわけだ。残念だったね」
あんまりな仕打ちだった。突然の失恋にふらふらとした足取りで去っていく青年を鼻で笑った少年には、優しさの欠片も感じない。むしろその点でいえばあの青年の方がずっと優しさを持ち合わせているだろう。
にもかかわらず、このような行動に出てしまったことに、彼はいい加減、自身の中にある欲望と感情の答えと向き合わねばならない時だと悟る。
ルリの思う優しい人でなかったとしても、今更違うと泣かれたって、手放してやる気が失せてしまったのだからしょうがないじゃないか。何せ彼は、悪人なので。悪人らしく自分から転がり落ちてきたこのお間抜けな兎をぱくりと丸呑みしたって誰も咎められなどしないのだから。
「名前が知りたいって言ったな」
「あ、うん。! 教えてくれるの!?」
「まぁ。こうなった以上、知らないと何かと不便だろう」
いつまでも「ねぇ」だの「あなた」だの、そんな他人行儀な呼び方ばかりされたら虫よけの意味もない、なんて。わざわざ言ってやる気は彼にはなかったけれど。
期待に胸を膨らませ、キラキラとキャンディのように甘い瞳を輝かせる少女の耳に、そっとその名を囁く。「藤哉だ」その名前を聞いた瞬間、彼女の瞳が大きく瞬いた。
「え……その名前って……」
「何を驚いてる。君がつけた名前だろう?」
「そう、だけど……でも……違ったんじゃ……」
何度だって彼は藤哉≠ナはないと口にして、その名で呼ぶことをルリに禁じた。実際に、旅人に貰った名前も別にある。けれど、彼はルリに呼ばれる名前を敢えてそれに固定することにしたのだ。
「始まりの名前なんだろ。そして、君が一番好きな花の名前だ。僕は僕を一番にしないやつと恋愛するほど酔狂ではないよ。それならこの名前で十分だ」
新しい関係を始めるこの日に、明かす名前として。ルリの一番であるという意味として。まるで呪っているようだと藤哉は自嘲にも似た思いが湧き上がる。ふわりと、柔らかな風が少女の鮮やかな藤色を攫う。揺れるその髪色を少年は美しいと感じた。
「私、藤哉くんがこの名前を好きになれるくらい、何度も呼ぶね。大好きだよって、聞こえるように」
「……まぁ、精々頑張るんだね」
「うんっ!」
麗らかな日差しの下、陽だまりのような微笑みと共に、綺麗な藤色の花が咲いている。
藤哉はいつかの日と同じように、咲きこぼれる藤棚の夢を見る。いつか、藤の花をふたりで見れる日が来たなら、その時は――今日の始まりを本当の意味で歓迎できたらいいと、そっと花びらに願いを込めて。
「大好きだよ、藤哉くん!」
「――知ってる」
御伽噺の続きを。今、ここから──。