父のことが大好きだったのだと、そう口にした少女は日溜りのように微笑んだ。
それは木枯らしの匂いをしていた。少しだけ、冷たい空気を孕んでいた。一等温かい記憶だった。
それは藤の花を彷彿させた。父の愛した花だった。少女の髪の色もまた、藤色であった。
父は少女の髪を毎朝丁寧に丁寧に結った。色鮮やかなリボンで飾るのが、お約束だった。
少女の髪を見つめる父の瞳は温かく、愛に溢れていた。そこに、ほんの僅かに、哀しみの色が滲んでいたのを少女は知っていた。尋ねることはできなかった。何となく、その訳を察していたからだった。
少女の鮮やかな藤色は、母親譲りだった。父は、母を愛していた。心から、腹の底から。
その愛の残り火こそが、父を生かしていたのだと、少女はずっと、とっくのうちに知っていた――。
「今日はどのリボンにしようか? 何か希望はあるかい?」
そう尋ねる声は、髪を束ねる手つきと同じで、柔らかで、穏やかなものだった。いつもならここで抽斗に眠る大量のリボンから、あれがいい、これがいいと取り出されるものだったが、暫くしてみても、娘からの反応は返ってはこなかった。
父親はもう一度、今度は「ルリ」と名前を呼びかける。ハッとした様子で振り返る少女の瞳は、飴玉のようにころんとした丸みを帯びていた。
「あ、えっと。どうしたの? お父さん」
「どのリボンにするか聞いていたのだけれど……まだ悩んでいる途中だったかな?」
「う、うん……そうなの。どれも可愛いからなかなか決まらなくて……すぐに選ぶね!」
どれにしようかな、と声に出しながら選ぶ様子は些か大袈裟で。何かあったのだと察するには十分で。憂いを帯びた青緑色の瞳が、その小さな背中を静かに見つめていた。
やがて選び終えたルリが、溌溂とした様子で掌を差し出した。色とりどりのリボンが何本も束になって巣を作っている。迷いに迷って、ついには選びきれなかったらしい。今日は少しだけ、いつもより華やかな装いにしてみようかと、父親はそれらを手に取り、丁寧に藤の髪を編んでは結んでと、実に器用に指先を動かしていく。その様子にどこか無理を感じたルリの表情が自然と綻んでいくのを見て、父親はゆっくりと口を開いた。
「何か悩み事でもあったのかい?」
穏やかな問いかけだった。頼りないそよ風のようで、しっかりと根を張った一本木のような、妙な安心感を感じる声だった。
一瞬、ルリは息を飲んだ。何でもない振りをして、見破られるなんて思わなかったのだろう。この子はどうにも、なかなか随分と素直な娘だった。
「……妖術の練習、頑張ってるんだけど……みんなみたいにはなかなか上手くいかなくて……みんなと何が違うんだろうって、ちょっと考えてたんだ」
兎狸にとって、妖術――特に変化の術――というものは、そのほとんどが呼吸と同義である。成長すると共に自然と身についていくものだが、母親が人間であることが災いしてか、半妖のルリはその面で大いなる苦戦を強いられていた。こうは言うが、意地の悪い狸たちにそのことで酷く揶揄われたのだろう。陽気な彼女には珍しく傷心した様子に、父親は静かに胸を痛めた。
「人と違うのは間違いではないよ。違うからこそ見える景色だってあるからね」
「お父さんはそう思うの?」
「うん」
きっと、自分とは違うからこそ、憎んだり、傷つけたりしてしまうのだろうけれど。それと同じくらい、愛したり、惹かれたりするんだろう。そういった感情は大抵が隣り合わせに出来ていて、全く同じ同一体だけで構成されただけのそれでは、きっと虚しさしか感じない。自分で自分を慰めるには限界があって、抱きしめてくれる誰かがいて初めて安寧を得られるのだと、遠い日の思い出がよみがえる。
「ルリは物語を書くことが好きなんだね。いいことだ」
「えへへ、いつもお父さんが童話を読んで聞かせてくれたからだよ。私もあんな素敵なお話を書いてみたいって、そう思ったんだ」
父の穏やかな声で語られる童話が、ルリは何よりも好きだった。軽妙な語り口も、頭を撫でてくれるその大きな手の温もりも。それら全てが、愛しい時を形作っていた。
「言葉は誰かの心を救うことがある。不思議でやさしい力だ。ルリもそうやって、誰かの心を照らす時が来るかもしれない」
「そうかな? そうだったらいいなぁ」
童話の中の世界は、いつだって温かいもので満ちている。波乱も、試練も数えきれないくらい訪れるものだけれど、それでも愛と正義が、信じる心と仲間と共にやさしい結末へと導いていく。そんな素敵な世界に魅了されて、焦がれて、求めて、愛して、信じて。
めでたしめでたしで終わった後の御伽噺が、続く先の未来も、美しく在れたらいいと。祈るように目を伏せる。最後に残っていたリボンを結んで、完成したのはいつもよりちょっと素敵な、彼の小さなお姫様だった。再び開いた青緑色の瞳は、凪いだ湖のように穏やかな慈しみを湛えている。藤の花によく似たそれを見つめる時、その瞳は決まってそういう色を宿していた。
「あ、そうだ。帰ってくる途中の道に藤棚があったよね。もうすぐで咲きそうだったよ。楽しみだなぁ」
「ルリは藤の花が好きかい?」
「うんっ、好きだよ。綺麗で、甘い香りがして。ちょっと葡萄に似てるよね」
「葡萄かぁ、そう言われると確かに似てるかもしれないね」
つぶらに膨らんだ葡萄を想像したのだろう。ルリの表情はどこかふくふくとしていて、幸せの味を閉じ込めたようだった。それを微笑ましく思っていると「お父さんも藤の花が好き?」と尋ねられる。その答えは最初からひとつしか持ち合わせていなかった。
「……私も好きだよ。君のお母さんの髪と同じ色だからね」
それがセピアの残像に過ぎずとも、藤棚に垂らされた美しい花の香りが、木枯らしのそれであろうとも。日溜まりのように輝くあの美しい人の顔がどれだけ爛れようとも。花びらのように柔らかな声が鋭利なまでに尖ろうとも。それだけは、どうあろうと変わらぬまま、胸の奥、心の深い場所で輝き続けている。身体が燃えるようだった。きっと、燃えていた。燻るように、揺らめく炎が、そこにはあったのだ。
「お父さんはお母さんのことが大好きなんだね。何だか嬉しいなぁ」
夢を見るようにふわりとした声が印象的な響きだった。「嬉しい……?」朧げな欠片を拾い集めるように聞き返せば、彼女は随分と大人びた眼差しで愛を語った。
「うん。だって、お父さんはお母さんと出逢えて幸せだったんでしょ? それってすっごく素敵なことだよね。好きな人と出逢えたことも、好きな人を好きなままでいられるのも、とっても素敵なことだと思うから……」
「私、お父さんのことが好き。だから、お父さんが幸せだったって知れて嬉しいなって思ったんだよ」
「ルリ……」
その時渦巻いた感情を何と喩えればいいのか、彼は分からなかった。
その色を見つめれば、鮮明にあの日溜りのように美しい人を思い描くことができてしまうほどに、愛していたのだと過去にすらできないまま、今なお往生際も悪く、生まれたての感情がこの胸から溢れ出して止まない。どうしようもないほど、その色に焦がれ、面影に縋って生きているのに気づかれたような、そんな気がした。
「──……」
ようやく、彼が口にした言葉に、少女は笑った。温かい笑い声がからからと響いていた。そのすぐ、もうすぐだった。
春の盛りが終わりを迎えようとしていた。
見事な藤棚が芳しい匂いを漂わせていた。桜はとっくに散りまして、代わりに夏の足音がだんだんと近づいてきていた。
藤棚の下、淡い紫の房が風に揺れていた。甘い香りが空気を満たし、木漏れ日が少女の影を柔らかく縁取る。
「ねえ、お父さん。今、幸せ?」
ルリは立ち止まり、以前より低く編まれた自身の藤色に触れた。色とりどりのリボンが、陽光に照らされてきらきらと瞬く。
父からの返事はなかった。けれど、何となくその返事は分かっていたように思う。
風が頬を撫でるように藤の花房を揺らす。それは柔らかな初夏の匂いだった。
藤の花びらが、ひらりと舞い落ちる。美しい花だった。彼女の髪と、よく似ていた。
「また来るね。じゃあまた、お父さんっ」
花びらを握りしめたまま、大きく手を振ってルリは藤棚の下を駆けていく。軽やかに弾むその髪を見つめる父の瞳は、どこまでも穏やかで、慈しみに溢れていた。
──ああ、幸せだよ。
そう言われたような気がして、ルリは日溜まりのように笑う。
藤の花が揺れている。誇らしげに咲き誇る。甘い香りの中、木枯らしの匂いが入り混じる。一等特別な、温かい色が、広がっていた──。