後日談
「た、ただいまぁ〜」
へとへとの身体をほとんど引きずるように帰ってきたルリに、藤哉は「おかえり」と声をかける。夕飯の準備はとっくに整えていたのだろう。良い匂いが部屋の中には漂っていた。
「わぁ、いい匂い。今日はシチュー?」
「そうだよ。もう出来てるから手を洗って席に着くといい」
「ありがとう〜!」
ご機嫌な様子を隠しもしない自分の姿には、やはり違和感しか感じなかったが、その間抜け面に関しては藤哉はもう諦めることにしていた。家の中まで自分を演じろというのはルリには酷な話だ。自分だってへらへらと締まりのない顔を四六時中浮かべるのは遠慮したかった。
「あれ? 今日いつもより品数も量も多い……?」
「……色々おまけしてもらってね。せっかくだから新鮮なうちにと思って作ってみたんだ」
「そうなんだ。藤哉くんの作るご飯はどれも美味しいから嬉しいなぁ」
いただきますと両手を合わせて、ルリはぱくぱくと料理を口に運ぶ。それはもう幸せそうだった。自分もこんな表情ができたんだなとある種の感心さえ覚えた。
「教令院ではどうだった? 何か困ったことにはならなかったかい」
「あ、うん。みんなすっごくよくしてくれたよ。藤哉くんのお友達ってみんな素敵な人なんだね」
助かっちゃった、と口にするルリに藤哉は僅かにぴくりと眉を動かす。
「は? 友達……? そんなものになった覚えはないけど……」
「そうかなぁ。私にはお友達にみえたけど……」
「まさかとは思うけど、変に友達ごっこなんてものはしてないだろうな?」
「だ、大丈夫だよ……藤哉くんがしなさそうなことはやってないと思う……たぶん」
何とも不安な返答に藤哉は深い息を吐いた。しょうがない、あまりの忙しさにどうかしていたのだと言えばある程度は誤魔化せるだろう。他に特筆すべき事項もないようであったから、藤哉も打ち合わせの内容について話すことにした。
「最近の流行は桃色のうさぎらしい。うさぎの色を桃色にして、表紙と背表紙にもいれてほしいそうだ」
「そういえば私も見たかも。うん、わかった。ありがとう藤哉くん。後で修正しておくね」
「ああ」
どんな構図がいいかなぁ、と頭の中で練っているルリに藤哉は料理を手際よく切り分けて皿へと移す。一度考えだすと止まらないから、こうして世話を焼いてやるのにも慣れたものだった。
「あ、そうそう。藤哉くんがくれたメモなんだけど」
「? あれがどうかしたかい」
「うん、すっごく助かっちゃった! ページまで暗記してるのってすごいよねえ。おかげさまで私も何とかなったよ」
あれがなかったなら何にもわからなかったと眉を下げるルリに、藤哉は僅かに視線を下へと向けた。畑違いもいいところだったと思う。学者どころか、学問の道に進もうなどルリは思ったことなどなかったはずだ。そんな彼女に仕方がなかったとはいえ、一人向かわせたことには少なからず罪悪感にも似たものがあった。
「でね、私最初はどのページに何があるのか分かっちゃうくらい、何度も何度も読み返したのかなって思ってたんだけど……多分、それだけじゃないんじゃないかなって思って」
「ルリ……?」
「藤哉くん……みんなに教えてあげるために、そうやって覚えてたんじゃないかなって、思ったんだ」
僅かに目を瞠る藤哉に、ルリはやっぱりそうだったと眉を下げた。
一緒に作業をしていくうちに、前に論文の誤謬を教えてもらっただとか、行き詰っていた時にさりげなくヒントをもらったとか、そういう話をたくさんの人から聞くことが出来た。だから、そうじゃないかと思ったのだ。
藤哉は素直な人ではない。親切に真正面から優しさを届けてくれる人ではないかもしれない。けれど、そうやって分かりにくくても、ちゃんと目を向ければそこに彼の優しさは確かに存在しているのだ。それはまるでそよ風のように。強く荒々しいものでも、全てを包み込むような受容でもないけれど。その優しさがルリは好きだった。
「……別に。いざというときのために効率を重視しただけだよ。何においても、どこに何があるのかを把握しておくのは悪いことではないからね」
藤哉らしい返答だった。ルリの身体だからだろうか、ほんの少しだけ耳の先が赤くなっているような気がした。
「うん、だからやっぱり『ありがとう』って伝えたくて。ありがとう、藤哉くん!」
僅かに「フン」と鼻を鳴らす藤哉に、ルリはにこにこと笑う。やっぱり入れ替わったのも悪いことばかりではなかったのだと思う。藤哉もそうだったらいいと思う。曇り空は少しだけ気分を重くさせるけれど、そんなときほど蛍が綺麗に光るみたいに。知らなかったことをまたひとつ、知っていくみたいに。そんな風に過ごせるのは幸せを見つけるのと同じで素敵なことなのだから。
その次の日のことだった。朝目が覚めると、お互い元の身体に戻っていて、特に異常も見つからなかった。機械遺物のコアに滞留していた微弱な元素エネルギーは沈黙し、ただのヘンテコなオブジェへと様変わりした。
知論派や妙論派、素論派の学者たちの見識を交えても、これらは何らかの儀式で使用されていた精神干渉を目的とする遺物である、という結論で落ち着いたものの、また何かの拍子に入れ替わるなんてことが起きれば面倒なので、ナヒーダが直々に保管する運びとなった。
この騒動は、これをもってひとまずの区切りをつけたのだ。
日常を取り戻した二人はというと、特に変わった様子もなく、片や創作活動、片や因論派に籍を置く遊学者として過ごしている。極一部からは若干、以前よりとっつきやすくなったという声も上がる藤哉だが、その理由は定かではない。少なくとも、当人たちを除いては。
一方、新たに桃色のうさぎを加えた表紙のデザインを無事に担当者に提出したルリは、グランドバザールにやってきていた。ついつい担当者とナッツの話で盛り上がってしまって、どうしても食べたくなってしまったのだ。クルミにしようか、カシューナッツにしようか。ピスタチオもいいかもしれない。そうやってうんうん悩んでいると、不意にルリを呼ぶ声が聞こえた。
「あ。あなたは雑貨屋さんの……」
「ええ、そうです。すみません、この間急ぎの用事があるとかで渡せずじまいだったものを改めてプレゼントしたくて」
「? プレゼント……?」
急ぎの用事って、何かあったかなと首を傾げるルリに、青年は「これです」と藤の髪飾りを差し出す。きらきらとしたそれは随分と精巧なものだった。
「わぁ、綺麗……これを私に……?」
「ええ、以前藤の花が好きとお伺いして、それで……」
「そんなわざわざ……えっと……」
何て答えようとルリが視線を彷徨わせたのは、ほんの僅かな間だけだった。
息を吸って、ルリは落ち着いた表情で柔らかに首を横に振る。
「ごめんね、受け取れないや」
「ルリさん……」
「せっかく準備してくれたのにごめんね」
ルリがこんなにもきっぱりと断るとは思わなかったのだろう。青年は驚いた様子で、けれど「いえ」と首を振った。そんな顔をされては、何を言われなくたって彼女の気持ちがどこにあるのかは明白だったからだ。
「困らせてすみません……その、上手くいくといいですね。もしかしたら、もうそうなのかもしれないけど」
「……ありがとう。あなたにも素敵な出会いがありますように」
「……はい」
それじゃあまたと別れるその後姿を、呆然と見ていた藤哉は暫くそこから動けなかった。ただ、一連の出来事が少年にとっても意外な結果であったとしか言いようがないだろう。微かに、重い沈黙だった。
(もしかしたら、僕の方が……彼女のことを分かっていなかったのかもしれないな)
その日の夕食は、ルリの好きな物ばかりが食卓に並んだ。あれ以降、品数も量も増したそれは一段と豪華で、思わず「お客さんが来るの?」とルリが尋ねたほどだった。
「別に。ただの気まぐれだよ」その気まぐれが、所謂彼なりの『ごめんね』であると知るのは、もう少しだけ先の話――。