露地から差し込む日差しをほんの少しだけ含んだ茶室は、精神を落ち着かせるには最適だった。書斎までとはいかずとも、真新しい畳の匂いに心が惹かれる時もある。昔ながらの日本家屋で生まれ育った藤哉にとって、それらは馴染み深いものだった。
 たまにではあるが、抹茶を自分で点てることもあった。甘いものは好きではないから、もっぱら茶菓子は干し餅なんかが多かったけれど。自分のために用意された屋敷であるから、甘味なんてものは用意していなかった。わざわざ来客する者だっていないのだから、それは当然であったのだが……ここ最近では、それも少し事情が変わった。

「わぁ〜! 綺麗……! これもお菓子? 食べていいの?」

 繊細な形をした上生菓子を前に、瞳をきらきらとさせるルリに、藤哉は静かに頷いた。

「そうだよ。ただの和菓子だ。好きに食べるといい。ただし――」
「わぁい、いただきま〜す! あーん……んん〜っ! おいしい!」

 藤哉の忠告を前に、よほど我慢していたのか、ルリはぱくっと練り切りを口に入れて飲み込んでしまった。相変わらず豪快な食べっぷりだ。いったい誰に似たのだろうと藤哉はやれやれと頭を抱える。メランコリィの花冠。あの青い花冠ティアラを咲かせて大人になったのはいいが、どうやらティアラと一緒にメランコリィも吹き飛んでしまったようで、思った以上に快活なルリに藤哉はどうしてこうなったと自分の育て方を少し疑った。それでもまあ、今更元に戻れなどという気もなかったのだけれど。
 これはこれで、藤哉も君らしいととっくに受け入れていた。こんな些細な悩みさえ、失うかもしれないと葛藤したあの頃と比べれば愛しく思えるのだから、愛の力というものはつくづく偉大であった。

「あれ……? もうなくなっちゃった……」
「おばかさんだね。なくなってることにも気づかないだなんて……今から抹茶を点てるっていうのに、お茶請けなしで飲むつもりなのかい?」
「う……つ、つい……おいしくて……」

 気がついたらなくなっちゃってた、と。ごにょごにょと恥ずかし気に口にするルリに、藤哉は仕方ないなと眉を下げる。

「そんなに美味しかったのか?」
「う、うん! とっても!」
「そうかい。ならもう少し食べるといい」
「えっ、いいの!?」
「今日は特別だよ」

 まだ慣れないだろうからなんて、そんなもっともらしい免罪符を与えるものの、きっとこれからも同じようなことが起きる度、そのもっともらしい理由を探すのだろう。「ありがとう! 藤哉くん!」と満面の笑みを浮かべて、ただの甘味に幸せだという表情を惜しげもなく表すルリが、結局のところ可愛くてしょうがないのだ。どうしても甘くなってしまうのは仕方のないことだろう。俗にそれを惚れた弱み≠ニいう。

「着物こそ僕がずっと着せ付けしてたからか様になっているけど、君はまだその姿にはなれないだろう。人間の真似事をするのは大変なことだ。一つずつ覚えていけばいい」
「えへへ、藤哉くんが教えてくれるから、私何でも楽しいよ。物覚えはあんまりよくないけど……頑張って藤哉くんの役に立てるようにするね」

 ぐっと両手を握りしめて屈託のない表情を浮かべるルリに、藤哉は僅かに沈黙する。嫌だとかお節介だとか、そういった感情はなかったけれど、それでも少しだけ、それ前々から気にしていたことでもあった。

「それだけど……別に、僕の役に立とうとして、君が何かを頑張る必要なんてないんだ」
「……藤哉くん?」
「分かってる、君がそんな風に思うようになったのは、僕が散々君を利用しようとしたからだって。僕の役に立てと、君にそう言い続けてきた」

 それは懺悔にも似ているかもしれない。不思議そうにきょとんとしたルリの表情に、藤哉は言葉を探す。言いつくろう気は今更なかったけれど、だからといって、伝えるべきことを伝えない選択だってもうする気はなかった。

「ルリ、僕はもし君が、このまま面倒な作法を嫌って、覚えたくないと放棄したとしても、それでいいと思ってる。君はもう君の好きに生きていいんだ。僕や、他の誰かの役に立つために頑張らなくていい。君は君のためだけにもっと我儘になっていいんだよ」

 自由に生きてほしい。たとえその結果、ルリがやっぱり自分ではなく、他の誰かを好きになって、その人と生きていきたいというのなら、それは悲しくて辛いことだけれど、君の幸せになるのならと今なら飲み込める気さえした。失ってようやく気づいた愛というものが、藤哉はようやく理解できた気がしたのだ。
 そしてこれは、同時にきっと、自分が与えてもらいたかった愛なのだとも。

「もしそれで無礼にも君を叱りつけるような不届き者がいるのだとしたら、僕が決してそいつを許さない。君は誰かに軽んじられていい存在ではないし、軽んじてもいけない。君の幸せは君が決めていいんだ。何故なら君が幸せになることを、誰だって、何だって、阻むことはできないのだから」

 幸せになってほしい。それが純然たる藤哉の願いだった。ルリがルリらしくあれるように、何だって協力は惜しまない。かつて自分が残した呪いの言葉が、これ以上ルリを蝕まずに済むように。そう在ってほしいと思う。
 ルリは暫く沈黙していた。彼女にしては静かで、何かを飲み込むようだった。

「それなら……やっぱり私は、藤哉くんのそばにいたいなぁ」

 呆気ないほどに、純粋な響きをしていた。藤哉の瞳が僅かに丸みを帯びた。

「お作法を覚えるのは難しいけど、本当に嫌じゃないんだ。ちゃんと覚えたいって言うのも、藤哉くんのためっていうより、自分のためだよ」
「……自分の?」
「うん。誰から見ても、藤哉くんの立派な奥さんだね、って認めてもらえるような人になりたいんだぁ」

 そのためにお作法を頑張ってるのとはにかむルリに、藤哉は言葉を失う。まさか、そんな理由でと湧き上がる困惑と同時に、それ以上にぶわりと胸に熱いものが込みあがってきた。慌てて顔を隠す藤哉に気づいたルリが、きょとんとした表情で首を傾げる。

「あれ? 何だか藤哉くん……顔が赤いね?」

 大変、お熱かなぁ、と熱を測ろうと額を近づけるルリに、藤哉の左手が慌てて制止した。なんだ、これは。これではまるで形勢逆転じゃないか。

「なっ、んでもない……! ああもう、君ってやつは……! 本当に……!」

――いつだってそうやって、何でもない顔で、僕が渇望する以上のものを容易く与える。それがどんなに僕を救っているのかなんて、知らないんだろう。

 メランコリィの花冠。吹き飛んだのは、彼の憂鬱もなのかもしれない。
 その後、藤哉がルリに今までよりずっと、熱心に教育を与えたのはいうまでもない話だった――。