花に言葉の意味を添えるなんてことをはじめたのは、いったいどこの誰なのだろうと、藤哉は思う。
 目の前にはいわゆる��善意�≠ナ差し出された花の束が並んでいる。『大切な恋人さんに』なんて聞こえのいい言葉と共に、にやにやとした顔には、また別の感情が潜んでいることもありありと伝わってきた。とどのつまりは��お節介�≠ニいうやつだ。

「あいにく記念日でもなんでもなくてね。日常的に花を贈る習慣もないし、遠慮しておくよ」

 いったいどこの気障な男だろう。フォンテーヌあたりであれば、そういったことを習慣にする人々も多いのかもしれない。束ねられた花の中で、ひときわレインボーローズの存在が目立つのもきっとそのせいだろう。
 花びらの先がほんのりと光を帯びるように黄色がかった、ピンク色をしたその花は、なるほど確かに女性受けが良さそうだった。

「何でもない日に花を贈るからこそ喜ばれると思いますよ」

 自分がそういうことをするようなやつにみえているのだろうか。そう考えて、即座にいや、それはないなと藤哉は結論付ける。自分に愛想というものがないのは誰に言われずとも自分がよくわかっていた。

(花……花ねぇ……?)

 それにしてもよりによって花かと藤哉は思う。帰り道にバザーを立ち寄って、食材を買い足すついでにいくつかのおやつになりそうなお土産を買うのと、花を買うのとでは藤哉の中には一定の壁やハードルというものが存在していた。
 頭の中に浮かべる彼女といえば、天真爛漫を絵に描いたような少女で、底抜けのお人好しで、ちょっと抜けたところのある——色気より食い気という印象の強い相手だった。現に、彼女はよく食べる子で、何でも美味しいと出したものならばぺろっと平らげてしまう。必然、彼女に日常的な贈り物でもしようかと思うのならば、それは花よりずっと、お菓子の方が自然で、それがすっかり、藤哉にも染み付いてしまっていた。

——そう、要するに藤哉は花を贈るのがいやなのではなく、急に花を贈ったりして、ルリはどう思うだろうと迷っているだけなのだ。

(……ルリのことだ。喜びはするだろうけれど、でも……)

 花束を渡してみるのを想像すれば、すぐに『わぁ! 綺麗なお花。ありがとう、藤哉くん!』と笑う姿が目に浮かぶ。そして続けざまに『でもお花なんて珍しいね? 急にどうしたの?』なんて純粋な眼差しで尋ねてくるのも想定内だった。
 その時自分はきっとこう答えるのだろう。

『生論派のやつらに捕まってね。しょうがないから受け取ってやることにしたんだ。君も花は好きだろう?』

 我ながらなんとわかりやすい回答だろう。特に変なことでもなければ、このまま乗ったところでまさに事実であるのだからその通りなのだが、素直に頷けないのは、やはり最近の生論派と知論派による共同研究に、少なからず関わる機会があったからだった。

『各地に生息する花々と、その花の持つ言葉について』

 いわゆる花言葉についての研究に、起源はどこだ、いつ頃から広まったのか、因論派の有識者からも知恵を借りようと、白羽の矢が立たれたのが藤哉だった。その幅広い知見を買われ、こういった助っ人に呼ばれるのも珍しいことではなかったが、研究が進むにつれ、真顔だった藤哉の表情がげんなりとしたものに変わるのにそう時間はかからなかった。
 何せ、こういった花言葉には、多くが恋や愛などといったメッセージや物語が秘められているものだ。いくら知恵を求め教令院の狭き門を潜り抜けようと、まだまだ年若い学生たちがそういうことに興味を示さないはずもなかった。
 はじめはそう、遥か遠い昔にどこどこの誰々が広めた伝承だとか、一世を風靡した劇中に用いられただとか、なになにの象徴であったとか、そんなまだ至って普通の、知性ある講義であったと言えよう。けれどもその中で、荒々しくも美しい恋の象徴となった事例などが出てしまえば、やはり多少なりともそちらに気が逸れていくのは仕方のないことだった。

『それなら私も聞いたことがあるわ。有名な童話だもの。最近でも映影の題材に使われてるものも多いわよね』
『それなら僕も覚えがある。娯楽小説の中にもそういった演出に用いられることも多い』
『それを言うなら絵だってそうだ。何気なく風景に溶け込んだ花ですら、その花言葉で真意を語ることだってあるのだから』

 実に分かりやすい例えだった。元より優秀な頭脳を持つ学生たちだ。こうして身近なものを題材にしてやれば、藤哉が一から十までもをわざわざ語ってやる必要などなく、勝手に広げて議論を白熱させてくれる。こうなれば、後は答え合わせの際に力を貸すだけで、苦い茶を伴に景色の一つでも眺めておけば何ら問題はなかった。答えが導き出されたのを見計らって『議論は終わったかい?』とでも口にして。短い答えを与えてやればそれで解決するはずだった。そう、いつもならばそれで終わるはずだったのだ。

『そういえば、卒業生にこういった花言葉を使ってプロポーズした人がいたのを思い出すな』
『それ私も知ってるわ。よく花を贈っていたのよね』
『モンド人の彼女の風習に従ってたんだったか』
『いやいや、あれはフォンテーヌ人の彼による愛情表現だったように思うよ』

 それは藤哉も知らない、彼が因論派に席を置くより以前の話。
 入学するのも難しければ、教令院を卒業するのは更に困難なことだ。日々研究や論文にと没頭する学生らにとって、それこそズバイルシアターなどの演目にも持ってこいの身近な浪漫溢れる恋物語というものは、何よりの娯楽に他ならなかった。
 モンドでは、言わずとしれた風花祭が毎年開催されている。モンド中を花で飾り付け、各々が思う風の花を見つけ、それらを風神へと捧げるのだ。『自由』という言葉を冠するだけはあり、それに必ずと決まった様式などは存在しないのだが、モンドの民にとって、花や風に酒というものは随分と身近にあるようだった。
 そんな彼女のために、情熱的で紳士的なフォンテーヌの男がどういった行動をとったかなど、想像に容易い。断片的な情報を拾い集めただけでも、藤哉にはその全容が手に取るようにわかった。

『でも素敵ね。恋人のためにロマンチックなことをしてくれるんだもの。付き合うならやっぱりこういう男の人がいいわ』
『わかるなぁ。愛情表現はわかりやすい方がいいわよね』
『とはいうが、そんな男がホイホイいるのか?』
『だからこそ、こういうのが如何に大切かを広める必要があるんでしょう? そのための研究なんだから』

 話が脱線するのも、いつの間にか当初の目的がすげ替わるのも珍しいことではないが、これには藤哉も密かにやれやれと肩を竦めた。研究に意欲が湧くのは結構なことだけれど、このままでは脱線に脱線を重ねそうだ。現に男性陣からは早くも困惑や不満の色が僅かながらにも出てきている。このままでは研究どころではなさそうだ。本格的に面倒なことになる前に軌道修正を図ろうと口を開きかけたところ、ここで思わぬ白羽の矢が藤哉に立てられた。

『細かいだ面倒くさいだと言うけどねえ……現にそういった気遣いをしてくれる人も結構いるんだから!』
『はっ、本の読み過ぎで、創作物と現実の区別もつかなくなってしまったのか?』
『まさか! いるわよ! すぐそこに! 例えばそう——そこにいる笠っちさんとか!』
『…………は?』

 そのときの藤哉の表情はといえば、鳩が豆鉄砲を食ったそれと近しいものがあっただろう。それだけよりによってこの議題において、優良な代表格として取り上げられるとは思ってもみないことだった。

『ちょっと待ってくれ、僕は花だ何だといった、君たちが言うところの浪漫とやらを語った覚えはないんだが。一体何と勘違いしているんだい』

 何でもない日に花を贈るだなんて、そんな気障ったらしいことを習慣にした記憶は当然ながら藤哉にはない。恋人のために詩を考えてみたり、それを脚本にしてみたりなど、もっとない。強いて言うなれば恋人はいるわけだが、まさかそれだけで引き合いに出されるなんてことはないだろう。そうだとするなら、期待はずれだとばかりに手のひらを返されるであろうことまで先読みして、藤哉は厄介なことになったと眉間に皺を寄せた。

『だって、ねぇ……?』
『ねー?』

 だが藤哉の思いと裏腹に、周りの反応は皆訳知り顔だった。女性陣のみならず、対立していた男性陣までもが『ああ』と納得する始末だ。藤哉はますます意味がわからなかった。

『だって、笠っちさんといえば……』

 そうして語られるのは、日頃グランドバザールで見かける買い出しの風景や、トレジャーストリートに並ぶカフェや酒場でのやり取りに、知恵の殿堂での書籍の貸出記録など。それらは確かに、藤哉にも覚えのある、彼なりの思いやりに満ち溢れたあれそれであった。

(……まさか、こんなにも見られていたとはね……)

 ルリに隠し事なんて無理なことは最初からわかっていたことで、そもそも付き合うと決めたのもそれだけが理由ではないにしろ、嫉妬が主な要因であったことは間違いない。変に隠れる気も隠させる気もなかったが、こんなにも関心を寄せられていたとは少々予想外だった。
 人の関心とは、見ず知らずの遠くの人物より、どうしても知っている身近な人間へと移りやすい。それみたことかと藤哉を引き合いに今度は白熱するちっとも嬉しくはない議論に、藤哉は静かに遠い目をするのだった。
 閑話休題。そうして何とか軌道修正を施し、議論がある程度落ち着いたところで解散となった後、資料の一環として生論派の学生らが用意した花々を、せっかくだからと今度は持ち帰りを勧められた。その意図するところが何であるかなど、火を見るよりも明らかだ。どうにもこうにも、二番煎じどころか数えられぬほど煎じすぎたロマンスの実演など、遠慮したいのが本音であった。どうにもらしくなくて、けれど容赦なく一蹴するには彼女の喜ぶであろう顔と、目の前の学生たちの期待が妙に重くのしかかった。ついに、溜息と共に吐き出した藤哉の答えは「考えておくよ」という、つまるところ限りなく了承に近いそれであったのだから、彼らは目出度くこの勝負に粘り勝ちをみせたのだった。

(とは言っても……何を選べばいいんだ)

 生論派が集う共同研究だけあって、用意された花々はそれはそれは豊富な彩りをみせていた。
 モンドの蒲公英から璃月の霓裳花。稲妻の桜にスメールの悼霊花。フォンテーヌのレインボーローズときて、ナタのシャクギク。ナドクライに咲く宿影花に、果てはスネージナヤのフロストフラワーまで揃えてある。もちろん、これらは目についた一部を取り上げただけに過ぎず、藤哉に言わせれば花屋でも開くつもりなのかと疑いたくなるほど、その品揃えは豊富だった。それこそ、適当にそこらにあるものを取りでもすれば、あれこれと勘繰られるか、非難されるか。あるいはそのどちらも向けられるような気がしてならなかった。
 面倒なことになった。これはとても、面倒なことになってしまった。

「〜〜っ、これにする」

 思考の末、藤哉が手に取った花に、周りが色めき立った気配を感じた。囃し立てられる前に「それじゃあ僕はこれで失礼するよ」とそそくさと退席した彼の背中を見送る学生たちの視線は、それはもう好奇や羨望といった、どこかゆるりとした、熱を感じるものだった。

「ほらね、だから言ったでしょう? しっかりロマンチストなんだから」
「人は見かけによらないもんだなぁ」

 なかなかどうして、不遜な態度ながらその実繊細で風流な趣がある。美しいのは顔だけではないということか。

「いつか二人も、ズバイルシアターの人気者になったりしてね」
「おいおい、流石にそれは大きく出過ぎじゃないか?」
「あら、忘れたの? 笠っちさんの彼女といえば——人気童話作家のルリさんじゃない!」

 ありえないことはないでしょうと夢を見るような眼差しは、奇しくもルリの童話を読む人のそれとよく似ていた。
 花の匂いが芳しい。このまま枯れるに任せるには偲びないと、学生たちは何に役立てるかを話し合う。花に隠すのが言葉ならば、思いというものを込めるのは何になるのだろう。その答えは、きっと——。






「へ……へ……へっくしゅん!」

 同時刻。天気がいいからと外に出ていたルリは、突然のくしゃみに鼻を鳴らした。ぐすんと鼻先をこすこすと擦りながら、瞳をしょぼしょぼさせる。噂をされるとくしゃみが出るのはあながち嘘ではないらしい。気分転換にと広げていたスケッチブックに、細い線が走っていた。

「はっ、こんなところに線が……」

 はずみで走った線に気づいたルリは、それを消そうとして、はたと止まる。先程まで描いていたのはスメールローズだった。スメールのいたるところに生息している花は、別名「地脈マーカー」と言われるほど地脈の変動に敏感だ。芳しい匂いを発するこの花は、人々を立ち止まらせることが多々あると同時に、一定の昆虫類にも好まれている。ルリは手にしていた消しゴムで消すのをやめて、ささっと筆を走らせることにした。引かれた線にさらに線を重ねて描いていく。そうするとそこには、どんぐりを両手に持った、子リスが瞬く間に出来上がった。

「ふふっ、さっきよりこっちの方がずっと素敵になっちゃった。やっぱり、色んなものがたくさんあった方が賑やかでいいよね」

 それはちょっとだけヘンテコで、メルヘンチックを体現したような絵だった。現実的な観点からみれば、どこをどうやったらこんなにも大きなどんぐりが花びらにのるのかや、そもそもこんな大きさのどんぐりは存在しない、だとか。どうして子リスがこのどんぐりを持てているのか、とか。疑問は尽きないだろう。魔法をかけるみたいに丁寧に丁寧に色を塗り重ねて。そうして出来た作品は、童話のような温かさに満ち溢れていた。

「次のお話はこの子リスさんを主役にしたものにしてみようかなぁ」

 スメールローズと、どんぐりと、子リスのお話。それはどんなものになるだろうとルリはうんうんと頭を捻ってみる。論理立てて話を考えるより、ルリはずっと感覚派だ。考えるより先に手が動くというのか、とりあえずルリは他に何枚か目についた景色などから着想を得て、思うがままに描き散らしてみることにした。

「大きな蓮の葉っぱさんと、アマガエルさん……うーん……あ、サングラスとかつけてみちゃおうかな」

 スメールには広大な砂漠地帯が広がっているのもあり、他所からくる観光客などは、日中燦々と照りしきる日差しに堪えるようで、サングラスを持参しているのをちらほらと見かける。ここに来る途中、キャラバン宿駅へと向かっているであろう人々も、同じようにサングラスをかけていたのを思い出し、ルリはそれをアマガエルにかけてみることにした。シンプルなサングラスもいいけれど、星とかつけてみたら可愛い気がする、なんて、なんとなくの感覚でつけてみれば、意外にもそれは結構良かった。

「わ、なんだかワイルド……! 両腕……両足っていうのかな……前足……を、こうして組んでみて……うん、いい感じ!」

 大きなハスの葉っぱの上に、サングラスをかけたアマガエルが前足を組んで仁王立ちする構図はなんだか威厳を感じられた。まるで子りすを導く師匠のようだ。そこまで関係に思い当たると、ルリの頭の中にはするすると物語の種となるアイディアが次々浮かんできた。

「なんだかシムランカを思い出すなぁ。フロベールくんたち、今頃どうしてるかなぁ」

 思い出すのは鮮やかな色をした紙カエルたちのこと。不思議で素敵な、優しい童話の王国、シムランカの住民たち。あの世界での出会いと冒険は、ルリの中でキラキラと星のように今も輝いていた。
 シムランカを行き来することはそれほど難しいことではないけれど、最近は色んなことが起きて、慌ただしい日々を送っていたのもあり、彼らを思い出すと何だか懐かしさを感じる。王国の危機が去って以降、プリンセス・シメストの主導のもと、フロベールらの尽力もあり「守護者」の育成はまずまずといった具合のようだった。勇敢で賢い祝福の森のプリンセスに、慎重ながらも粘り強い雨歌の池のチャンピオン。また次にシムランカに向かったときには、更なる発展を遂げた光景がきっと見られるだろう。それが今からずっと楽しみだった。

「ん〜……うん、決めた!」

 カラフルに着色した色彩に、花を咲かせるように模様を描いていく。スメールローズの花びらにはきらきらと煌めく宝石を。小さな子りすの尻尾には燦々とした太陽を。大きなハスの花托には蔦のように捻れる虹を描いて、サングラスをかけたアマガエルにはもくもくとした雲とぴかりと光る稲妻を走らせた。広がる大地には星空を散りばめて。空には海を抱かせる。トビウオが跳ねる度、星が雨のように降ってくる。雨は飴になって、わたあめが雲みたいに泳いでいる。そんなへんてこりんで、あべこべで、メルヘンチックを絵に描いた、新しい世界がそこには完成していた。

「えへへ、続きを書くのが楽しみだなぁ」

 筆を置いて、うんと伸びをする。良い天気だ。とてもとても、良い天気だった。よく晴れた青い空に、白い雲がふわふわと浮かんでいる。まあるく焼いて、三つ重ねたパンケーキにちょっとだけ似ている気がした。
 風が柔らかく吹いて、結んだ髪を揺らす。スメールローズの匂いだ。芳しいその香りが昼下がりの午後を一層素敵なものにさせてくれる気がした。

「……ん? あれ? なんだかいい匂いが……」

 スメールローズとは別のエキゾチックな匂いがした。くんくんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでみると、どこかそれは香ばしさを感じた。覚えのある匂いだ。鳥肉とバター。そして、ほのかに感じるパティサラの香り。グランドバザールで数え切れないほど食べてきた、それは——。

「タフチーンだ……!」

 ぱっと表情を華やがせたルリがキラキラとした瞳で振り返ると、そこには微妙な顔でこちらを見つめる藤哉がいた。
 思わぬ人物の登場に、あれ、と瞳を瞬かせるルリに、藤哉はやれやれと息をつくと、ふっと表情を和らげ近づいてきた。

「相変わらず、食べ物に関して、君は驚くほど鋭い嗅覚を持っているね」
「藤哉くん……」
「ご名答、タフチーンの差し入れだよ」

 そう言って藤哉が差し出した紙袋を素直にルリが手に取ると、ずっしりとした重さが伝わってくる。開けてみると、三ピース分のタフチーンが入っていた。二つはルリで、一つが藤哉の分だ。袋から広がったスパイスの香ばしい匂いにつられて、ぐぅ〜と鳴ったお腹にルリはあわ、と恥ずかしそうに俯いた。

「どうせ根を詰めている頃だろうと思っていたけど、思ったとおりだ。僕は差し入れとしてはちょうどいい時間に来たみたいだね」
「お、お恥ずかしい限りで……」
「今更だろう? ほら、まだ温かい。今のうちに食べるといい」

 タフチーンを食べるなら、なんと言っても焼きたてが一番だ。冷めてしまうと油分やヨーグルトの層がどうにも固くなってしまって、美味しさが半減してしまう。そのためにわざわざグランドバザールからここまで文字通り飛んできたのだから、早めに食べてもらわないと困るのだ。
 照れ照れと恥ずかしそうにしていたルリも、そうやって藤哉に促されると調子を取り戻したようで、タフチーンを藤哉に一切れ渡し、一切れを紙袋の中に入れたまま、もう一切れをルリはほくほくと口に運ぶ。パリッとしたおこげの食感が幸せの音を響かせる。思わず「ん〜〜っ!」っと満足気に両頬を膨らませる姿に、藤哉もふっと表情を綻ばせた。

「やっぱりグランドバザールのタフチーンは格別だね。ほっぺたが落ちちゃいそう……!」

 そう口にしながらも、ルリは大きく口を開けてパクパクとタフチーンを飲み込んでいく。相変わらず惚れ惚れするほどの食べっぷりだ。作り甲斐があるとか、食べさせ甲斐があるとか、見ているだけで幸せになるだとか、そんな気持ちのいい食べ方だった。

「お天気がいいから、こうしてお外で食べるともっと美味しいね」
「そう言って、雨の日に家で焼いても『ゆっくり味わえるからか、いつもと違ってまた美味しく感じるね』なんて言うのはどこの誰だろうね」
「う……それは……わ、私です……」
「素直でよろしい」

 あう、と恥ずかしそうに俯くルリの頭に、垂れ下がったうさぎ耳の幻覚が藤哉には見えた気がした。ほんの軽口だ。
 気を取り直すように瞬く間に一つ目のタフチーンをお腹の中に入れたルリは、そのままガサゴソともう一切れを紙袋から取り出す。一口目と二口目、そして三口目の食感が変わっていくのをゆっくりと楽しんでいる藤哉の横で、パクパクと口にするルリの瞳は、やはり爛々と輝いたものだった。

「でも、お外で食べても、お家で食べても、特別に美味しく感じるのは、藤哉くんと一緒にいるからだと思うよ」
「一人より二人で食べる方が美味しいってやつかい」
「そうだけど……それだけじゃなくて。やっぱり、好きな人と食べるご飯は、いつも特別なものだから……だから、どこで食べても美味しいんだと思う」

 小さな告白をするみたいに、ルリはちょっとだけ照れくさいような気持ちでえへへと笑う。藤哉はそれを横目で眺めては「知ってるよ」なんて口にする。表情はずっと柔らかで、くすりと笑う仕草はどこか楽しげだった。声音には温かさが滲んでいる。知っていた、とっくのとうに、そんなことは知っていた。ただただ、言わせたかっただけだった。

「僕も君とそうやって食べるのは……悪く……」
「藤哉くん?」

 途中で言葉を切った藤哉は何かを考え込むように言い淀む。不思議そうに見つめてくるルリを見つめ返した藤哉は、何かを決めたように静かに瞳を瞬いた。

「悪くないどころか……僕も——好きだと思う」

 それは柔らかな告白だった。ふわりと花びらが風にそよぐみたいに。ふっと綻ばせた表情が彼の内に秘められていた優しさを顕にしていた。
 しばらくルリはぽかんと小さく口を開けたままだった。大きな瞳をぱちりと見開いて、固まっていた。けれどはっとして、意識が戻った途端、ルリの頬は瞬く間に薔薇色へと染まってしまった。

「は、はわ……」

 思わず両頬に手をつけてみる。熱かった、火傷しそうなくらい、熱かった。今、とんでもないことを言われた気がする。ちらり、と藤哉の顔を見れば、どこか気恥ずかしそうな彼のツンとした表情が見えた。『何だよ』と今にも言いそうなのに、言わないのは何故か、なんて。わからないわけじゃなかった。
 それでも何て言葉にしたらいいのかわからなくて、わたわたと慌てたルリは、やや挙動不審な素振りを見せつつ、あわあわと声にならない叫びをぼそぼそと口にする。そうしてはっと目についたそれに救いを求めるように、ルリは藤哉が手にしている花に着目した。

「そ、そういえば藤哉くん! それどうしたの? す、素敵な藤の花だね!」

 上擦った声といい、視線の向きだったり、ルリの動揺は明らかだった。けれどそうして振った先の話題が、もっと自分を混乱させることになんて、ルリはもっと思わなかった。

「これは君に持ってきた花さ」
「……へ? 私に……?」

 今日って、何かの記念日だったっけとルリは記憶の中のカレンダーを振り返ってみる。そういった催しごとにも心当たりはなくて、僅かに戸惑うルリの反応は藤哉が想像していた通りのものだった。

「……藤の花の花言葉が何か、君は知っているかい」
「花言葉?」

 それは意外げな響きを含んだ声音をしていた。藤の花の花言葉。それは昔、聞いたことがあった。

「『優しさ』『歓迎』……『恋に酔う』」

 ルリと同じ髪の色をした、遠い面影の人。ルリの大好きなお父さんが、愛した人。
 父はルリを優しい子だといい、母への恋に殉じた人だったのを思い出す。

「そうだけど、紫の……君と同じ髪の色をした藤の花には、こういう意味が添えられるらしい——『君の愛に酔う』ってね」

 はっと、視線を上げたルリの手を藤哉が引く。ひと呼吸の合間に、ルリの身体は容易く彼の胸へと収まった。
 綺麗だと思った。すぐそこで揺れる前髪から覗く蒼紺の瞳が、すごく、綺麗だと思った。息を、忘れてしまうくらいに。

「僕は約束を破られるのが嫌いだ。叶えられない願いを口にするのも……嫌気がさす。不確かな何かを与えるのだって億劫だ」

 何かを思い出すように、そう口にする藤哉の瞳には、どこか翳りが見える。けれど、それも一瞬で、次の瞬間にはそんな憂いはどこにもなかった。

「でも、それでも……僕は君にこの花を贈ろうと思う」

 それは心の奥底に仕舞い込んだ、彼の純粋な気持ちだ。朝露に濡れる花は瑞々しく、澄んだ清らかさを感じる。それはきっと彼の心と同じように繊細な形をしているのだろう。
 どうか受け取って欲しいと、その花を差し出すのにどれだけの勇気がいったのか。ルリにはもうわかっていた。その花に隠された、言葉の意味さえも。

「ルリ、君の好きに解釈しなよ」
「——うん。うん。大丈夫、ちゃんと伝わってるよ。藤哉くん!」

 この物語をはじめたのは、ルリからだった。
 ルリは『優しさ』をもって、彼を『歓迎』し。初めての『恋に酔う』
 彼の持つ『気品』に惹き付けられて。それが彼という人の優しさと脆さなのだと気づいたときには、どうしようもないほどに抱きしめたくなって。ひとりじゃないよと伝えたくなったのだと言えば、きっと彼は怒っただろうけれど。それでも、一緒にいたいのだと追いかけて、伝えるうちに、彼はその優しさを不器用にルリに分けてくれた。自分の想いに、相手に『忠実』であること。その姿勢に、何も思えなかったなら、きっとふたりは出会うことすらなかったのかもしれない、なんて。こんな皮肉を愛せるまでに、彼の想いもまた、とっくに育っていた。

「藤哉くん」

 意味もなく、ルリはその名前を口にする。

「聞こえてるよ」

 声音は優しく、表情は穏やか。やっとの安息の地を手に入れた猫みたいに、藤哉は笠を脱いで、ごろんと横になる。
 大きな樹の下。木漏れ日がキラキラと反射して、ゆっくりと息ができた気がした。
 同じようにルリも横になって、また、藤哉の名前を呼んだ。その響きが、心地よかった。

「やっぱり藤哉くんって、絵本の中に出てくる王子様みたいだね」
「またそんなことを言って……本当にいい趣味をしているよ」
「えっ、えへへ」

 照れたように笑うルリに、藤哉はやれやれと温かな息をつく。褒めてないんだけどなと思うその心さえも、今はただただ、爽やかだった。

「それなら君がお姫様なのかな」
「……えっ」

 固まったルリは、藤哉が次の瞬間には『なーんてね』と冗談だよと言い出すのだろうと思って、けれど、一向にその言葉はでなかった。どころか「どうなんだい」なんて追い打ちすらきて、ルリの顔はぷしゅっと熟れきった林檎みたいに赤くなってしまう。

「え、と……その……そ、そうだったらいいな、って……思う、よ……」

 そっと恥ずかしげに顔を隠すルリを横目で見た藤哉はふぅんと言いたげに鼻を鳴らす。

「そうじゃないと僕が困る」

 ふわりと、風が藤の花の香りを運ぶ。やっぱり王子様だと思った。初めて会った時と同じときめきが、あの時以上になって、鼓動する。
 あの日、この場所で会った彼は、まだ藤哉ではなかったけれど。今日みたいに晴れてもいなかったけれど。いつだって、ルリの中でキラキラと輝く王子様のままだった。

「私、藤の花が一番好きだよ」

 知ってると、藤哉は心の内で答える。

「だから……藤哉くんがその名前を気に入ってくれたなら……私は嬉しいなぁ」

 それはルリにとって、一番確かな繋がりで、思い出のものだから。大好きなあなたとも、そんな繋がりを持ちたかったのだと言ったのなら、呆れられるだろうか。それとも——。

「愚問だね。名前を呼ぶ度に大好きだって聞こえるように伝えるなんて、大口を叩いたのは君じゃないか」

 しっかり覚えていた藤哉に、ルリはうっと言葉を詰まらせる。日差しが温かい。昼寝をするにはぴったりだ。

「僕も……この花が好きだよ。君の髪の色と同じで、どこにいたって見つけやすいからね」

 それは鮮やかな色をした花だ。整えられた藤棚は美しく、世話のしがいがある。香りの主張は激しいけれど、どこにいるかわかってむしろありがたい。払っても払っても追いかけてくるから、仕方ないと諦めてやるのだってわけもなく。いないといないで落ち着かない。
 周りの人々が期待するようなロマンス通りになんていかないけれど、ルリに伝えるには、これで十分だった。

「それって……」
「寝る」
「ええっ」

 目を閉じて、静かに寝息を立てる。ぽかんとした表情を浮かべるルリが、その意味に思い当たりぼんっと顔を赤くするのを、そっと盗み見て、藤哉は満足げに口元を緩めた。
 藤の花に隠した花言葉(メッセージ)。それは、固い約束。気障な言葉も、情熱的な愛の台詞も、言えやしないけど。約束を交わすことをしてもいいのだともう一度思えたことに、意味はあるのだと藤哉は思う。

(ああ……春の匂いだ)

 遠く過ぎたはずの香りがそばへと響いていた。きっと、ずっと、これからも。この香りが続くのだろう。
 恋に酔っている。きっと、ずっと、これからも。瑠璃に酔う——。