契約者パロ

 陽の当らない、奥まった一室。座敷牢ともいえるその場所で、ぴちゃぴちゃと水音が奏でられている。時折仔猫の鳴き声にも似た少女の嬌声が零れては、眉を顰めた主人がそれを鬱陶しがるように首に繋いだ鎖を引っ張っては咎めたてた。

「っあ!」

 憐れにも力任せに引っ張られた少女は、反射的に目を瞑る。次に目を開けたときには、整った主人の顔が目と鼻の先にまで近づいていた。それにドキリと胸を高鳴らせたことを嘲笑するかのように、主人は皮肉気に美しい表情を歪めた。

「お前は本当にどうしようもない奴だな。自分ばかりが気持ちよくなって、無様に濡らしてばかりだ」
「ぁ、う……ごめん、なさ……」
「またそれだ。君のごめんなさいはとっくに聞き飽きたさ」

 仕置きをするように主人の指先が、些か乱暴に少女の秘部を搔き乱す。愛情の欠片も感じない、正しくモノに対する扱いだというのに、少女のそこはきゅうきゅうと主人の指先を締め付け、しとどに濡らした。
 嬌声が零れないよう必死で嚙み殺すも、結局は我慢できず、高い声で鳴く少女に、主人は侮蔑ともいえる目を向け、更にその痴態を嘲るように罵った。

「こんなものでも感じるなんて……好きモノにもほどがあるだろ。君を見ていると、そこらの犬猫の方がよっぽどましな交尾をしているように思うよ」
「ふ、ぁ、や、……そんなこと……いわ、ない、でぇ……っ」
「言われたくないならもう少し堪え性を持つんだな」

 そんな話をしている間にも、ぴしゃぴしゃと噴き出た潮が手首どころか腕まで伝って濡らしてくる。下衣まで潮が飛んだことで、主人は機嫌悪そうに「ちっ」と舌打ちを零した。

「あ、ごめんなさ――」
「何度も言わせるな」
「……っ、でも……」

 なおも謝罪を口にしようとする少女の気配を感じた主人は、キッと睨みつけて言葉を制止させる。びくりと震える少女の様子を気にも留めず、けれどそのまま終わらせるには僅かな苛立ちが邪魔をして、主人はそうだと一つ思いついた様子で、再び鎖を引き寄せて少女の顔を近づけた。

「そんなに僕に申し訳ないと思うなら、言葉ではなく態度で示してもらおうか」
「たい、ど……?」

 どうしたらいいの、と潤みを帯びた瞳が途方に暮れたように主人を見上げる。彼はそれに短く鼻を鳴らすと、試すように口にした。

「這いつくばって舐めろ。ルリ=v

 その瞬間、少女の意志とは関係なく、主人の股座に身体が跪く。戸惑うように見上げる視線は、それでも身体は勝手に下衣を寛げ、未だこれといった反応をみせないそれを丁寧に取り出していた。

「ん……ちゅ、ふ……」

 丁寧に主人のモノへと唇を触れ合わせるその行為は、まるで神聖な儀式のようで、主人は皮肉気に表情を歪める。異能力者と調律者の契約はいつだって理不尽で、つくづく救いようのないものだと思わずにはいられない。これが異能力者にとって都合のいい奴隷でないというのなら、なんだというのか。
 絶え間ないリップ音と、ちろちろと何の抵抗もなく舐め上げられていくその感触に、生理的な快楽が滲むのと同時、僅かに覗く嫌悪感にも似たそれに、主人はルリの頬を柔く撫でつけると、次の瞬間には軽く叩いてみせた。

「とう、や……く……」
「呼ぶな。僕は許可してない」

 そう冷たくルリを突き放せば、彼女はまた「ごめんね……」と痛々しい顔を覗かせる。軽く張ったつもりが、良いところに入ったのだろうか。白い頬が微かに赤くなったのを見て、藤哉は僅かに瞳を揺らした。けれどそれも一瞬でふんと鼻を鳴らして顔を背ける。いいから続けろとでもいうように鎖を引き寄せた。

「んっ、ちゅっ、ふ……」

 相変わらず拙い奉仕だった。上手いか下手かで言えば、間違いなく下手だ。仮にもそれなりの期間を他の異能力者と契約を交わしていた調律者だというのに、こうも拙いとはどういうことなのだろうか。最も、多くの異能力者にとって調律者など使い捨ての駒に過ぎない。わざわざ自分好みに仕込むなんて手間をかける物好きの方が少数派だろう。調律者なんて、所詮異能力者のための道具でしかないのだから、精々媚を売って身の安全を確保する他ないというのに――技巧の欠片もない奉仕に呆れると同時、必死になって口に頬張るその様子が、ありもしない錯覚を彷彿させて、神経が逆撫でされるようだった。

「……もういい!」
「あっ」

 ルリを半ば突き飛ばすように無理矢理離すと、ルリは傷ついたような顔を浮かべる。それがまたざわざわと気に障って舌打ちを零した。するとルリはへにゃりとした表情で伺うように見上げてくる。

「あんまり上手じゃなかったよね……」

 ごめんね、とまた口に出そうとして、藤哉の鋭い視線にはっとしたように口を噤む。しょも、と落ち込んだように視線を下に向けるルリを一瞥すると、藤哉はやや乱暴にルリを押し倒した。

「自覚があるのは結構だ。それならこっちで僕を悦ばせてみせろ」

 そう言って、強引に股を開かせると、藤哉はその中へと無遠慮に自身を沈めていく。唐突に訪れた圧迫感に口をはくはくとさせるルリとは対照的に、きゅうきゅうと締め付ける中が与える快感を噛み殺すように藤哉は唇を引く結んだ。

「とう、や、く……っ、ぁあ」
「呼ぶなって言ってるだろ。気が散る」

 まったく気遣いのない、自身の昂ぶりを収めるためだけの動きを藤哉は静かに続ける。暴力こそ振るってはいないものの、乱雑な性交は一方的な捕食関係を表しているようだった。
 それでも調律者という性がそうさせるのか、秘所はびっしょりと濡れ、肌のぶつかる音とは別に、水音を奏でる。明らかに自身のものではない分泌液が股座を濡らすのがどうも不快で、それを責め立てるように藤哉はいっそう動きを激しくした。

「ぁっ……ふ、ぁ、あ……ッ!」
「相変わらずよく濡らすかと思えば、よく啼くな。お前を見ていると調律者として生まれた奴らに憐れみさえ感じるよ。こんな愛のない、一方的な行為にだって感じるんだから……さ!」
「ひゃあんッ! ぁ、あッ、あ〜〜ッ!」

 びくびくと身体を震わせ、感じることしかできていないルリを見ていると、少しだけ溜飲が下がるのを感じる。そうやって大人しく自分の下で啼いていればいいと思うのと同時、どんなに乱暴にしても感じるその様に言いようのない苛立ちが湧き出てくる。
 自分でも消化しきれない、理由のないそれに神経を逆撫でされるのが気に食わず、藤哉はルリの身体を反転させると、腰を高く持ち上げて後ろから穿った。

「っ、ぁあ〜〜!」
「はっ、本当に犬猫じゃないか。ご主人サマの服をダメにするなんてどうしようもない奴め」

 そう言って、藤哉はお仕置きだと目の前にある丸い尻を叩く。「ひゃんっ!?」というルリの高い声が鳴ると同時に、きゅうきゅうと締まる中の具合に藤哉は気を良くして、もう二、三度それを繰り返した。

「ひゃっ、ひゃんっ! ひゃあ……っ!」

 まるで音のなる玩具のようだと感じて、ふっと笑う。視線を下げれば白い肌に若干薄桃が広がっていた。しょうがないからこの辺にしてやろうと、両手でしっかりと腰を持つと、容赦なく抽送を繰り返していく。
 先程まで落ち着いていた中のモノが突然暴れ出したことで、ルリは目を白黒させる。ひっきりなしに零れる嬌声に藤哉はうるさいとでもいうように、自身の指先をルリの口へと突っ込んだ。

「んんっ! ふぁ、ぁ……ふぅ、ん……ッ!」
「喘ぎ過ぎだ。そうやって指でも舐めて大人しくしてろ」

 繊細な指先が、ルリの舌先に触れると、そのまま口内を弄ぶ。唾液が口内を満たして顎を伝うのをおかまいなしに、藤哉は抽送を繰り返す。

「ふ、ぐ……ッ、ん、ふッ」
「っ……はぁ……くっ」

 動きが速くなるにつれ、締め付けが増していく。こちらを搾り取るような動きに、藤哉はそろそろ頃合いだろうとその動きに身を任せることにした。

「ほら、受け取れ……ッ! く…ッ」
「ふぁ、ぁ、ぁあ――ッ」

 解き放たれた精がルリの胎内へと収まっていく。それと同時に、身体の内側から満たされるような、温かい力を感じる。びくびくと震えるルリの身体からモノを抜き出して離れると、藤哉は力なく転がるルリに冷たい視線を向けた。

「供給はこの辺でいいだろ。後は自分で何とかしろ」
「はぁ……はぁ……う、ん……」

 くたりと力の抜けた身体はまだ言うことをきかないのか、無造作に床に転がる姿は憐れそのものだった。何も知らない人間がこの光景を目撃でもしようものなら、凌辱された後だとしか思わないだろう。
 それでも、一般的な異能力者と調律者の関係としてはまだマシな扱いなのだから、この世界はやはりどこか狂っているのだろう。藤哉はすっと目を細めると、その従順なルリの姿勢すら気に入らないとでもいうように、鎖を手繰り寄せて無理やりルリの身体を引き寄せた。

「忘れるなよ。誰がお前をあの地獄から救ってやったのか」

 そう口にされた途端、ルリの脳裏に悍ましい過去の記憶がよみがえる。血の気を失くし、カタカタと恐怖に震えるルリを一瞥すると、藤哉はぱっと鎖を手放した。

「あんな生活に戻りたくないってんなら、精々、僕の役に立つんだな」

 お前の代わりはいくらでもいる、と口にして。藤哉はもう振り返らなかった。足音が遠ざかり、光のないこの部屋で、僅かに満たされたはずの力を感じながら、それでもルリは虚無に呟いた。

「また…伝わらなかったなぁ……」

 しょも、と落ち込むルリの藤哉がいた先を見つめる視線は熱っぽいものだった。それは正しく、恋する乙女の視線であり、真実ルリは藤哉に恋をしていた。
 どんなに冷たくされようと、乱暴にされようとも、この想いは変わることなく募るばかりで、「好き」という二文字を紡ぐことすらままならない。
 身体はこんなにも繋がっているのに、心はどこまでも遠く、隔たりを感じる。ルリが何かを話すことさえ煩わしがるように、藤哉はルリに発言権をあまり持たせてはくれなかった。

「今度こそ、伝わったらいいな……」

 藤哉くんが好きだと、伝えたらまた嫌がるかもしれないし、彼のことだから正気を疑うかもしれない。それでも、そうだとしても、藤哉のことを心から自分が慕っていることをルリは知っていてほしかった。
 調律者としての運命に翻弄され、どうしようもない地獄にいた自分を救い出してくれたあの日から、藤哉はルリにとって、初めて差し込む光だったから。そう、あの日から、ずっと――。








 この世界は不条理だ。たった一握りの異能力者がいて、世界を裏側から守っている。そんな英雄たちが築く平和の下で、陽の当たらないまま、調律者という名の生贄は、今日も静かに死んでいく――そんな、不条理がこの世界なのだ。

「おら! ちんたらすんな! 早く共鳴しろ! さっさと力を寄こせ!!」
「きゃっ! や、やめて! 乱暴しないで……っ」

 藤色の豊かな髪を乱暴に引っ掴むのは、無理やり契約させられた異能力者だった。異能力者はそれぞれが持つ異能を国のため、組織のため、私利私欲のためと様々な目的で駆使する者たちのことを示す。大抵は争いからは逃れられず、修羅の道を歩む者が殆どだった。
 だが、異能も万能という訳ではない。異能力者として生まれたものは、一部の例外を除き、絶えず心身を蝕まれる運命にある。それを唯一ノーリスクで軽減できる存在として、異能力者よりも更に稀有な存在、調律者バランサーの存在があった。
 異能力者は調律者と血の契約を交わすことで初めて安寧を得る。そればかりか、大幅な能力強化など様々な恩恵を受けることが出来るが、対して調律者側には多くのリスクが伴うという、契約とは名ばかりの一方的な関係にあった。そのため、調律者は異能力者の救世主的存在でありながら、異能力者から軽んじられることも珍しくはない、ありふれた光景だったのだ。そう、だから、ルリの傍に理由のない暴力や悪意があるのだって、当たり前だったのだ。

「高い金出してお前を引き取ったんだ! その分働いてもらわなきゃ割りにあわねぇだろうが! おら、さっさとやれって!」
「ひぅ…っ」
「それともまたアレ≠されてぇか!?」

 その言葉を聞いた瞬間、ルリの身体が硬直し、ぼろぼろと涙を零す。カタカタと震える身体で、必死にその腕に縋った。
 脳裏には自分が自分でなくなるような、悍ましさと恐怖を煮詰めたようなそれが過る。言うことを聞かなかったとき、上手くできなかったとき、日々振るわれる暴力が優しいと感じるほど、細い銀針から噴き出るその液体が身体を巡る絶望がまたすぐそこにやってくるのを感じた。

「あ、あれだけはやめて……! 他のことは何でも、何でもするから……っ、だから、あれだけは……! アッ!」
「いやならはやくしろ!」
「ぅ……はい……」

 容赦なく張られた頬がじんじんと痛む。これは腫れてるだろうなとすぐにわかった。一方的な主従関係。望まない契約。それでもしょうがない。異能力者の家系に生まれ、待望の調律者として生を受けたのもつかの間、調律者としては落ちこぼれもいいところだった自分はこうして大金と共に売り払われる未来しかなかったのだから。何てことはない、よくある話だ。この世界では、ありふれた地獄のうちの一つに過ぎなかった。

「――エンゲージ。モード・騎士ナイト

 血の契約によって交わされたそれは、調律者によって異能を何倍にも膨れ上がらせることができる。けれどそれを使う度、ルリは頭が割れるような頭痛を感じてしまう。これも自分が調律者として落ちこぼれだからだろう。ルリの苦痛と引き換えに力を得た契約者は、喜色満面の笑みを浮かべると、近づいてくる足音に自信満々な様子で迎え撃った。

「おおっ、これならアイツにも……!!」
「はっ、随分とバカにされたものだな。その程度の力で僕に敵うと思っているだなんて」

 心外だよ、と皮肉気な笑みと共に現れたのは、フードを被った少年のようななりをした人物だった。顔こそ見えないものの、雰囲気からして相当な実力者なのが伺える。先程まで彼の追跡から必死で逃れていた人物とは思えないほど、契約者はやや尊大な態度で彼に挑んだ。

「はっ、ほざけ! 調律者もいねぇ異能力者なんてたかがが知れてんだよ! この力の前にひれ伏せ……!!」

 雄たけびを上げて向かってくる契約者にも特に気にした風はなく、少年はそこに変わらず佇んでいた。思わずルリが「危ない!」と叫び、訪れる衝撃に目をぎゅっと瞑るも、契約者の意気揚々とする声が聞こえないことを不思議に思い、そっと目を開ける。するとそこには信じがたい光景が広がっていた。

「言っただろ。その程度の力で僕に敵うわけがないって」
「ガッ……ハッ……!」

 少年はその細腕からは想像もできない力で、契約者の太い首を片手で持ち上げる。契約者の屈強な身体はすでにぼろぼろとなっており、満身創痍であることが伺えた。

「異能力者の誰もが調律者に頼ってると思わないことだね。僕は調律者がいなくたって十分すぎるほど強い。まぁ、君が言うように調律者がいれば、もっと強いわけだけど」
「ぐっ、が、ぁ……! はな、せ……」
「は? 離してください、の間違いだろ」

 誰にものを頼んでいるんだと首を掴む力が強さを増す。男の苦し気な悲鳴が漏れ出たところで、少年は「ん?」と何かに気づいたようにルリに視線を寄こした。

「お前……」
「……え?」

 じわじわと男の首を締めながら、少年はルリを注意深く観察する。男の喉骨が折れる直前で、漸くルリが「いたっ」と首を気にする素振りをしたことから何かを確信したようだった。

「……へぇ、こんなところにレア≠ネのがいるとはね。ふーん、予定変更だ。飼うのはコレにする」

 その言葉の意味は、すぐに分かった。彼がすぐにルリにとって悪魔そのものであったその男を葬ったからだ。契約者の死と共に、ルリは解放され、そして――。

「やぁ、お嬢さん。いい夜だね。悪い奴はもういないよ。よかったら僕と今度は契約しないかい?」

 フードを払い、月明かりに照らされたその顔が、まるで昔、絵本で読んだ王子様みたいで。ルリは呆気なく恋に落ちてしまった。差し伸べられたその手が、救いの手に見えて。その手を取ることに何の疑いも抱かなかった。

「……は、い」

 ドキドキと忙しない鼓動が胸を刻む。
 ただ、ルリはよくこの状況を理解してはいなかった。飼い主が変わっただけで、その本質は変わらないということを。調律者が異能力者である契約者に従事するのは、当たり前であるということに。そこに、彼の思惑が絡んでいることなど、何も、知らなかったのだ。









 それはすぐに分かった。彼は最初こそルリを丁重に扱う素振りを見せ、ルリに安心をくれたが、ルリの傷が癒えた頃を見計らい、新たに血の契約を結んだものの、彼の期待する効果が得られなかったからだ。

「よし。これで僕たちの契約は完了した。僕の契約者つがいである以上、これからは誰も君を害せない」

 安心するといいと、ぽんとルリの頭を撫でる彼の手は確かに優しかった。異能力者にとっては面倒な契約のステップをきちんと踏み、スタンダードかつ簡易的な契約とは違い、より強固な契約を結ぶためにお互いに名を与え、誓約を交わすといった破格の対応をしてくれた。
 彼はルリ≠ニいう名前を贈り、どんな時も味方であることを約束してくれて、そんな彼にルリは藤哉≠ニいう名を贈り、ずっとそばにいることを約束した。
 ルリが笑ったのは藤哉がルリに確かな地位をくれたからじゃない。ただ、藤哉が自分を守ると思いやってくれた優しさが嬉しかったからだった。

「早速だけど、細かい調整といこうか。今の内から色々慣れておきたい」
「う、うん! 私にできることなら……!」

 協力的なルリの姿勢に藤哉はふっと笑みを浮かべると、すっと手を差し伸べる。ドキドキと胸を高鳴らせながらその手を取ると、ルリは身の内に宿る神聖力を解放し、藤哉に同調させた。

「エンゲージ……」

 心拍が上がると同時に、契約者と呼吸が一つになる感覚が生まれる。頭が割れるような痛みを覚悟して、けれどそれは終ぞやってくる気配はなく、代わりに今まで得たこともない充足感が湧いてくるのを感じた。溢れ出る神聖力による眩い光が収まると、すぐに藤哉の満足げな表情が目に入った。

「へぇ、すごいじゃないか。テストにしては上出来だ。今ので突破する感覚が掴めたよ」
「え……あ……」
「? どうかしたのかい?」

 戸惑うようなルリの反応に藤哉が首を傾げる。ルリは両掌を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「痛く、ないのが……不思議で……」
「痛い?」
「うん……前までは、力を使う度に頭がすごく痛かったんだけど、今回は痛くなくて……むしろ……あったかかったっていうか……」

 今まで感じたことのない、不思議な感覚。どうしてだろうと不思議そうにするルリに対して、藤哉はどこか得意げな表情で口を開いた。

「簡単なことだ。前の契約者とは相性が悪かったのもそうだけど、あんな半端者じゃあ、調律者の神聖力を奪うだけ奪って、活かしきれないからな。要するに……あいつが下手だっただけのことだ」
「へ、へた……」
「そう。まぁ僕はそんなヘマはしないからな。その点は安心してくれていい」

 異能力者にとって調律者はなくてはならない存在だが、調律者の扱いには大分才能がものを言うらしい。ルリは朧気ながらそんなことを父親から聞いたような気がしたが、それも随分と前のことではっきりとは思い出せなかった。父親から聞いたことで今も胸の中に残っているのは、ルリの大好きな、ロマンチックなお話だった。

「藤哉くんは……聞いたこと、ある?」
「? 何がだい?」
「異能力者と調律者の中には……運命の人がいるって話」

 父が教えてくれた、秘密の話。ルリが何度も聞かせてと強請った、素敵な恋のお話。
 異能力者と調律者の間には、運命の人が存在すること。その人と出会ったら、一目で分かること。そうして契約した二人は、幸せになれること。全部、全部、夢みたいな話。けれど、そうだったらいいなとずっと思っていた話だった
 藤哉は僅かに考える素振りを見せると、ふっと表情を和らげる。交わった視線に、どうしようもなくドキドキした。

「知ってるさ。結構有名な話だからね」
「! じゃあ……!」
「あるんじゃないかい? 少なくとも僕は……君が僕にとってのそうなんじゃないかと思ってる」
「――!!」

 ふわりと胸がときめく。身体が軽くなったような、顔が熱いような、そんなふわふわした心地になる。夢にまで見た運命の人が目の前にいて、それが自分を救ってくれた人だということに、胸がいっぱいになった。
 はわわ、と嬉しさと、緊張と、衝撃で動かない口をぱくぱくして、声を振り絞る。

「わ、たしも……そうだったらいいなって、思うよ……!」

 もしも、もしも、そうだったなら。それはなんて幸せなことなんだろう。調律者として生まれて、大変なことや辛いことの方がずっとずっと多かったけれど、もしそれが、藤哉に会うための必要な過程だったのだとしたら、喜んで受け入れられるような気がした。
 真っ赤になったルリを真っ直ぐに見つめる藤哉は、それはそれは綺麗に、意地悪気な顔をして笑った。

「知ってる」

――藤哉くん、藤哉くん。私、あなたのことが……好きみたい。

 これは恋だ。紛れもなく、嘘偽りなく、恋である。ルリは藤哉に、ひたすらに恋をしている。
 初めて会った日から、その手を差し伸べてくれた日から。ルリの世界は、藤哉によって染められたのだった。

 その日、初めてルリは藤哉に抱かれた。契約を結んだこともあり、神聖力を補給することをもっともらしい口実にして。一等優しく訪れたこの夜を、ルリはずっと、忘れない――。

「……っ、痛くないか?」
「うん……へいきだよ」

 今まではずっと、モノ扱いだったそれ。その行為に愛なんてあるはずもなくて、ただ暴力で支配されるだけの、拷問でしかなかった時間がこんなにも愛しいものであったなんて、初めて知った。
 藤哉の繊細な指先が、壊れ物を扱うようにルリに触れる。花を愛でるかのように頬を撫で、柔く唇を吸った。

「……ごめん、嘘を吐いた。神聖力の補給なんてただの口実だ。本当は僕が……ただ君を抱きたかっただけだ」

 軽蔑するかい、と首筋に擦り寄ってくる藤哉をルリの柔らかな腕が抱きしめる。

「ううん、ううん。すごく、嬉しいよ……私今……すっごく、幸せなんだぁ」
「……そう。それなら、よかった」

 心の内側からぽかぽかと満たされていく。自然回復の他に、異能力者から精を得ることでしか失った神聖力は回復しない。その機能を恨めしく思ったことだってあったけれど、今はもう、そうは思わない。だって、これから先、それを口実にいくらだって甘えることができるだろうから。
 藤哉なら、きっと許してくれる。受け入れてくれる。そんな安心感がほっと心を満たした。

「動くよ。掴まって」
「う、うん……ぁっ、あんっ、ふ、ぅ……っ」

 優しい愛に満ちた行為が、心をふわふわと浮き立たせる。見つめ合う視線が甘くて、苦しくて。余裕のない藤哉の表情が愛しかった。
 きゅうっと握りしめた繋がった手を合図に、吐き出される精にこれ以上なく幸福を感じた。

「ルリ……お前はもう、僕のモノだ」
「……うん、藤哉くん……」

 重なった唇と同じように、離さないでと願いを込める。この幸福が永遠のものだとルリは微塵も疑わなかった。その終焉が、すぐそこにあるとも知らないで。
 彼が偽りの仮面を被っていることなど、まったく気づきもしなかったのだ――。







 血飛沫が舞った。紫電を纏う翠石の槍が藤哉の肩を貫いた。ルリの悲鳴と同時に、膝をついた藤哉は荒い呼吸の中、それでも不敵に笑った。
 挑むような視線で見据える先にいるのは、藤哉が挑んだ同組織内のエースだった。下剋上を果たさんと挑戦状を突きつけた藤哉に、彼は余計な争いをする気がないと渋ったものの、彼の契約者である調律者が受け入れたことからこの試合は開催されることとなった。
 気に入らないこの男を捻り潰すまたとない機会に、藤哉は入念に準備をした。相手は依然無傷も同然で、相変わらず異能力者らしからず調律者を騎士のごとく護っている。それがまた、藤哉は気に入らなかった。

「本当に、これじゃあどちらが主人か分からない奴らだな」

 侮蔑ともいえる言葉を皮肉気な表情で投げかける藤哉に対し、彼は自分の調律者を視線から庇うように向かい立つ。その仕草に藤哉はよく躾けられた犬のようだとさえ感じた。

「異能力者が調律者に飼い慣らされるなんて、NO.1エースが聞いて呆れるね。一体どんな理不尽な契約を結んだのか少し興味があるよ。もっとも、簡単には教えてくれないんだろうけど」
「……余計なことはいい。降参するなら今の内だ。我は無暗に弄ぶような真似はしない」

 その怪我ではろくに肩も上がらないだろうと冷静に見据える黄金色の瞳に、藤哉はふっと口元を綻ばせる。確かに、こうも的確に身体を崩されては対抗どころかまともに抵抗すらできない。潔く負けを認めなければ、大怪我は必至だろう。けれど、避けては通れない未来がすぐそこに迫ってきてもなお、藤哉は不敵だった。

「僕一人なら、ね……」
「? 何を――」

 する気なのだと続くはずの声は、藤哉の叫びに掻き消される。

「ルリ=I 僕に応えろ!!」

 強固な血の契約で結ばれた異能力者と調律者の共鳴エンゲージは、それまでの力を遥かに凌駕する。目の前のエースがエース足りえるのもまた、その力が大きく影響していた。
 調律者としての出来でいうのなら、まず彼の契約する調律者に匹敵する者はそうはいない。純粋な血統が他とは一線を画すのだ。けれど、例外がないわけではない。

「調律者の最大の弱点は、契約する異能力者の傷がそのまま調律者自身にも跳ね返ってくることだ。調律者が使い物にならなくなって初めて、戦場の勝者が決まる」

――だから君は、極端に傷を負うことを避ける。そう口にする藤哉に対し、彼は否定を発しなかった。ただ静かに黄金色の瞳が藤哉を見据え、雷光を纏う翠石の槍を構えるだけだった。
 ルリは一瞬言いようのない戸惑いと違和感のようなものを抱いたが、それらを振り払うように頭を数度横に振ると、藤哉の呼び求める声に応じた。

「――エンゲージ」

 神聖力を解放し、契約者である藤哉とルリが共鳴していく。膨れ上がる力に、藤哉を軸に風が巻き起こる。それに対抗しようと、自らを庇う契約者の手をあちらの調律者はそっと取り、祈るように額を触れ合わせた。

「エンゲージ――」

 凄まじい風圧がまた一つ発生する。「下がっていろ」と調律者に声をかけると、彼はその身を槍と化し、藤哉へと向かった。
 掌から爆風を巻き起こした藤哉がそれをいなす。目にも止まらぬ速さで続けられる連撃に、ルリは圧倒されながら「藤哉くん……」と祈るように呟いた。
 次第にそれは激しさを増し、風と共に頬にべとりとした感覚がして、指先で拭うと、そこには鮮やかな色をした血が付着していた。どちらとも分からないそれに、ルリは視線を彷徨わせる。藤哉のものであってほしくないと思うと同時、あちらの調律者が声を上げた。

「魈。もういや。早く終わらせて」

 それはまるで、幼い子供のような物言いだった。はっとして視線を向けると、少女は片腕を抑えており、指先からぽたり、と赤い雫が滴り落ちていた。目立った傷ではなかったためよく見なければ分からなかったが、少女はしょもりとした表情でへなへなと座り込んでしまった。

「あ……」

 ルリが心配して思わず駆け寄ろうとした瞬間、ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。本能的な危機察知能力が発動したように、ルリは自然と後ろを振り返ると同時、爆発的な風圧が辺りを支配した。

「すまない、珠蓮。すぐに片づける」

 黄金色の瞳が冷たい輝きを帯びる。掌から溢れ出る青翠色のエネルギーが儺面を具現化させ、それをすっと顔に被せた。今までとは違った禍々しささえ感じる不穏な気配に、藤哉が構えを取る。

「――靖妖儺舞」

 それは、正しく鬼神の如き戦舞であった。蹂躙の限りを尽くし、ルリの悲鳴は遠からず苦痛へと変貌した。時間にして僅か数秒のことだった。
 たった数秒で、この勝敗が決したのだ――。

 倒れ伏した藤哉には気にも留めず、魈はすぐに少女の元へと駆け寄った。指先からの出血は、よくよく見てみれば、爪先からの出血だけで、まったくもって酷いものではなかったが、たったそれだけでも痛ましいとでもいうように、魈は丁寧に処置を施した。

「すまない。痛かっただろう」
「あんまり痛くないから大丈夫よ。魈はいつも大袈裟ね」

 そう言葉では言いつつも、珠蓮の表情はどこか嬉しそうだった。丁寧に巻かれた包帯は些か大袈裟で、魈の過保護がよく現れている。それに満足げに笑うと、甘えるように魈を見上げた。

「でも疲れちゃった。もう帰っておやすみしたいわ」
「ああ、分かった。そうしよう」

 当然のように珠蓮を抱え上げて踵を返そうとするその後ろ姿に、声がかかる。

「待ちなよ……まだ、戦いは……終わって……ない、だろう……?」

 ゆらりとぼろぼろになった身体をふらふらと彷徨わせながら、藤哉が立ち上がる。真っ直ぐに魈を見据えるその蒼い瞳には、相変わらず煮えたぎるような闘志が宿っていた。

「まだ動けるの……? 相変わらずすごい人……」
「やめておけ。骨をいくつか断ったところだ。安静にしていろ」

 冷静な魈の言葉が、かえって癪に障ったのか、藤哉は意地でも身体を動かしてにじり寄ってくる。この状況下にあっても、彼の不敵さは健在だった。

「勝手に終わった気でいるなよ……僕はまだやれるさ」
「その状態でどうやって戦う気だ」
「このままなら、そうかもね……だけど、僕にはルリ≠ェいる」

 その言葉に魈は怪訝な表情を浮かべる。珠蓮もまた何を言っているのだろうと言いたげに不思議そうに首をかしげていた。

「君の調律者が特別製であることは最早疑いようのない事実だ。でも、特別なのが……君の調律者だけだと思うなよ」
「調律者……?」
「ああ、そうだ。僕のルリ≠ヘ契約者の傷を同期シンクロさせない。つまり……ルリ≠ェ生きている限り、僕は何度だって君の前に立ち塞がるってことだ」

 異能には、限度がある。それがどんなに優れた異能であろうとも、唯一つの例外なく、異能である以上、限界が訪れるものだ。それを補完する唯一の術は調律者による調和のみ。魈の調律者である珠蓮がどんなに優れていようとも、魈の傷を同期する以上、終わりは必ず訪れるのだ。
 そう、この稀有なルリの性質こそ――。

(それが、僕がルリ≠契約した選んだ理由だ……!!)

 藤哉は呼ぶ。その名前を、高らかに――。

「僕に応えろ! ルリ=I!」

 けれど、呼び声に応える声はなかった。しんと静まり返る空気に藤哉が怪訝な表情を浮かべる。それに対して、珠蓮は魈を見上げると、魈は軽く首を横に振った。
 珠蓮はどこか気の毒そうな顔を浮かべると、藤哉に向かって口を開く。

「あの子なら……あそこで倒れてるわ」
「!? な……っ」

 振り返る藤哉の目に映ったのは、色鮮やかな藤色の豊かな髪だった。力なく倒れ伏した肢体に、藤哉は声を上げた。

「寝てるのか!? 何してる起きろ! ルリ=I!」

 靖妖儺舞の余波だろうか。それとも、魈の覇気に飲まれたのか。どちらにしろこんな時に限ってという思いが湧き出てくる。何度声をかけても反応しないルリに痺れを切らした藤哉が、ルリの元へと足を運ぶ。頬の一つでも張りたいのを我慢して、抱き起すと、そこには信じられない光景が広がっていた。

「……は、?」

 赤く、鮮やかな血がルリの身体のいたる所から流れ出ていた。それは奇しくも、己の負った傷とよく似ていて――否、まったく同じであることの意味を飲み込むのに、かなりの時間を要した。信じたくなかったからだ。

「なんだ……これは……? どういうことだ……? なんで、ルリに僕と同じ傷が……」

 レアだと思った。契約者の傷を同期させない、稀有な調律者だと。けれど、それはあくまで藤哉がそう思い至っただけで、ルリは一言もそうは言っていなかった。
 この試合に至るまで、様々なテストを施した。けれど、靖妖儺舞ほどの大技を受けることなど、あるはずもなかったのだ。

「つまり、なんだ……? ルリ≠ヘ……僕が望んだ、調律者では……ないのか……? っ、そんなはずはない!!」

 そんなことがあるわけがないと叫ぶ藤哉の冷静な頭の部分では、そうであったということが理解できていた。理解できてしまっていた。だからこそ、それを否定したくて、彼はありったけの叫び声を発した。

「う、うわあああああああああ!!!!」

 藤哉の口から「冗談じゃない」「何のために契約したと思ってる」と残酷な言葉が絶えることなく出ていく。聞くに堪えない異能力者の調律者への執着に、魈はすっと珠蓮の耳を塞ぎ、軽蔑するような視線で藤哉を一瞥すると、少しも長い居はしたくないとばかりに踵を返した。
 魈が珠蓮を連れていなくなったのにも気づかぬほど、狼狽した藤哉は、魈が予め派遣していた組織の医療班が到着するまでの間、正気を失くしていた。

 それからだった。藤哉はルリの運命の人でいることをやめた。あの甘く優しい時間が幻であったというように、冷たい執着だけが残るようになったのだった。







 組織の医療班によって治療を受け、目覚めたルリの世界は反転していた。否、戻ったというのが正しいのかもしれない。御伽噺の夢物語から目覚めたかのように、暗い現実が押し寄せてきたのだ。

「随分暗い顔をしているな」
「あ……あなたは……」
「組織の医療責任者のルピノアだ。好きに呼ぶといい」

 ルリに宛がわれた病室に幼い少女が顔を出す。白い髪に赤い目をした少女はルリの治療を担当してくれた医療班の者で、その幼い容貌に反してどこか貫録を感じさせる少女だった。

「そんなにあれに言われた言葉がショックだったのか?」

 無遠慮ともいえるルピノアの問いかけがルリの胸をじくりと穿つ。キャンディのように甘い瞳が揺らぐ様子に、ルピノアは己が失言したことにようやく気付いたようだった。

「すまない……無神経だった」
「あ、ううん……気にしないで。私の方こそいつまでも引きずっちゃって……いい加減立ち直らなきゃ」
「それは……。そうか……キミがそう思うのなら……我もそうしよう」

 気まずい沈黙が場を支配する。もっともそう思っているのはルリだけなのかもしれない。ルピノアは相変わらず何を考えているのか分からない様子で佇んでいた。
 脳裏を過るのは、目覚めてからの藤哉の豹変だった。甘く優しく見つめてくれていた蒼紺の瞳は憤怒の色に染まり、彼の憤りを露わにしてルリへと牙をむいた。

『藤哉……くん……?』
『今後二度と、許可なく僕をそう呼ぶな』
『え……? どうして……』
『そんなの決まってるだろ。お前が僕の求めた役割を果たせない成り損ないだったからだ』

 その意味がルリは暫く分からなかった。けれど、自分と同様傷を負った様子の藤哉を見て、浮かんできたのは疑問や疑念より先に純粋な心配であった。

『藤哉くん、怪我して――きゃっ』

 気遣うように伸ばされたルリの手を、藤哉がパシンと容赦なく叩き落とす。じんじんと痛む手と比例するように、胸がズキンと棘をさしたかのように痛んだ。

『聞こえなかったのか。僕の許可なく、その名を呼ぶなと言ったばかりだろう。相変わらずの鳥頭だな』
『え……あ……』

 心底軽蔑するような藤哉の瞳に見下ろされて、ルリは呼吸を忘れる。はくはく、と音もなく閉口する口が、空気を食らって喉が渇いた。

『次の調律者獲物が見つかるまではこのままでいてやる。だけど見つかればもうお前はいらない。その時はどこへなりと消えればいい。恋愛ごっこはもう終わりだ』
『! まって、それだけは……! 私なんでもいいから! なんでもするから、それだけはやめて! 藤哉くんのそばにいさ――』

 パシンと、今度は手ではなく頬を打たれた。『呼ぶなって、言ってるだろ……!!』煮えたぎるような怒りを込めた声だった。それは憎悪にも似ていて、そこで初めてルリは圧倒されて口を噤んだ。
 藤哉はそれから舌打ちをすると、話は終わりだとでもいうように踵を返した。追いかけようにも足が動かなくて、待ってと見えなくなったその背中に手を伸ばして追いすがるルリに声をかけたのが、ルピノアだった。
 幼い少女の形でありながら、ルピノアは組織の医療分野においての最高責任者を任されているらしく、そこそこの位につく藤哉のことはもちろん、魈や珠蓮についてもある程度のことを知っているようで、混乱するルリに少しだけ事情を教えてくれた。

「気にすることはない。あれは存在証明に躍起になっているだけに過ぎない。最初は己の力のみに拘っていたが……巡り合わせが悪くてな。うちの切り札の特殊な相互関係に、自らの足りぬ理由を見出してしまった。愚かな傀儡かいらいだ」

 圧倒的な力を誇る、組織のエース。降魔大聖との呼び声高い魈と、その調律者にして彼の唯一の姫君である珠蓮。藤哉の調律者になる形で組織に入って日が浅いルリでも、切り札が誰のことなのか分かるくらい、その関係は特殊で、圧倒的なものだった。

「憐れなものだ。自らを捨てた母に認められるため、己を捨てたことを後悔させるためだけに、修羅の道を歩もうというのだから。届かぬ月に手を伸ばしたところで、待ち受ける結末は破滅のみだ」

 やれやれと肩を竦ませるルピノアの言葉はルリには少し難しく感じた。けれど、藤哉の過去に触れるその言葉をルリは聞き逃さなかった。

「捨てられたって……どういう……」
「言葉通りの意味だ。国内でも有数の名門に嫡子として生を受けたものの、母親である当主の関心を得られず、妹に後継としての全てを奪われ、出奔した試作品・・・……それが彼だ」

 試作品という言葉に引っかかりを覚えたものの、そこには言及せず、ルリは藤哉の知られざる過去に静かに胸を痛めた。
 その様子にルピノアはどこか不思議そうに瞳を瞬く。

「胸が痛むのか? この手の話はそう珍しくないだろう。キミも異能力者の家系なら知っているはずだが……」

 俯いたまま、うまく言葉に言い表せないルリはきゅっと口を噤む。その仕草にルピノアなりに何かを察したようだった。

「それほど……あれを愛していたのか。そうか……気の毒だな」

 ルピノアの同情が尚更藤哉がぶつけた言葉の真実味を帯びて、ルリの胸に突き刺さる。
 恋愛ごっこ。藤哉にとっては確かにそうだったのかもしれない。でも、ルリにとっては──。

「初恋、だったんだ……すっごく、素敵で……かっこよくて……運命の人だと、思ったの……」

 ルリの目に映る藤哉はキラキラしていた。すごく、すごくかっこよかった。ずっと夢に見ていて、少しだけ諦めかけていた、運命の人が逢いに来てくれたのだと、本気でそう思った。

「そうだと、思ってたのになぁ……」

 ぽろりと、ルリのキャンディのような瞳から雫が零れ落ちる。露玉のようなそれが手の甲に弾けて、視界がぼやけた。

「ふ、ふぇ〜〜っ!」

 えんえんと絶え間なく涙が零れ出る。ベッド横まで来たルピノアが背中を擦ってくれて、素直に嗚咽が零れた。

「よしよし……」

 相変わらずその声には温度が乗っていなかったが、無機質ながらにルピノアの不器用な優しさが身に沁みる。
 そうして一通り泣くと、ルリのうさぎのように真っ赤になった瞳を見たルピノアが、今度は濡れタオルを用意して出してくれた。

「あ、ありがとう……ごめんね、急に泣いちゃって……」
「かまわない。人にはそういった感情の整理が必要だ。多少なりとも落ち着いたのなら、それでいい」

 だから気にしなくていいとルピノアは背伸びをしてルリの頭を撫でる。それから思い出したようにまた付け加えた。

「もちろん、落ち着かなくてもかまわない。キミがしたいようにあるがままを振る舞えること。それが何より大切なことだ」

 焦る必要も、悪いと思う必要もないのだと宥めるように頭を撫でるルピノアに、ルリは胸の中が温かいもので満たされていくのを感じる。
 ルピノアの言葉が妙に印象的で、ふと考える。自分のあるがままに振る舞うこと。自分は一体どうしたいのだろうと見つめると、それは以外にもすぐに口から出てきた。

「私……やっぱり、藤哉くんのことが好き」

 それは何よりも素直な気持ちだった。朝露のようにルリの純粋な思いを乗せた小さな告白を聞いたルピノアは確認するように問いかける。

「キミが見てきた彼が……作られたものだとしてもか?」
「うん……それでも、私は藤哉くんのことが好き。藤哉くんがくれた言葉や、私にしてくれたことが、何かの目的のためにしたことだとしても……私が藤哉くんに救われたことまで嘘だったわけじゃないから」

 たとえそれが、藤哉の本心でなかったとしても。何か別の目的があったがために取った手段なのだとしても。それでも、ルリの中に芽生えたこの気持ちだけは、本物だった。

「好きだよ。藤哉くんのこと。藤哉くんが私のことを好きじゃなくても……私は藤哉くんのことが大好きなんだぁ」

 もしかしたら藤哉はしつこいと嫌がるかもしれないけれど。それでおとなしくごめんね、もうやめるねとは言えそうにないくらい、その気持ちは大きくて、ルリの胸の中できらきらと眩い光を放っていた。
 まだ、ここに光はある。あの日、胸に灯った温かい光は、潰えることなくここに今も輝いている。それだけで、それがわかっているだけで今は十分だった。

「……そうか。キミはそう、決めたのだな」
「うん。心配してくれてありがとう、ルピノアちゃん。でももう大丈夫。自分がどうしたいのか見つけたから、後はもうそれに走っていくだけだもん」

 大丈夫、もう私は走れるよと口にするルリの表情は穏やかで、全くの強がりを言っているようにはルピノアの目からも見えなかった。
 赤い瞳をゆっくりと瞬かせたルピノアは、小さな手をルリの頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。まるでよくやったと褒めるかのように。

「キミは強いな。その強さは紛れもなくキミの美点だ。心のままに走るといい。そうして、走り疲れたときは我のことを思い出せ。直すのは得意だ。そう望まれて我はここにいるのだからな」

 そう口にしたルピノアは「もう痛くないだろう」とふっと表情を緩める。その言葉に一瞬遅れて、ルリは身体の痛みが綺麗に消えているのに気づいた。

「傷が……」
「キミが帰りたくないというのならもう少し残しておこうと思っていたのだが、その必要はないようだからな」

 むしろ一刻も早く駆けていきたいところだろうと推察するルピノアに、お見通しだったことを照れくさく思ったルリがえへへと笑う。
漢字ふりがな
「ありがとう、ルピノアちゃん……何から何まで……」
「気にするな。これも我に割り振られた役割の一つに過ぎない。行ってくるといい。住まいまで変えてはいないはずだ。場所はわかるだろう」

 あれに虐められたらすぐに言うのだぞ、とルピノアにしてはどこか茶目っ気を感じる物言いが、なんだかおかしくて、温かかった。
 頷いて藤哉を追いかけようとするルリの背中にルピノアが声をかける。

「ルリ」
「うん?」

 振り返えって見えたルピノアの表情は慈愛を感じさせる、例えるならばまるで母のような眼差しをしていた。自分よりずっと年下であるはずの少女の容貌からは些かアンバランスなその表情に、ルリは不思議と惹き込まれるのを感じた。

「頑張れ」
「! うんっ、頑張る!」

 満面の笑みで屈託なく答えたルリの踏み出す一歩は、羽が生えたかのように軽やかだった。
 ここからまた新しくはじめよう。その先に訪れる結末がどんなものだとしても。藤哉を愛してよかったときっと思えるから。








「藤哉くーん!」

 うさぎが跳ねるように向かってきたルリに、藤哉はそれはもう嫌そうな顔をした。あれほど呼ぶなと言った名前も、三秒もすれば忘れてしまうのか、それともあえてそう呼んでいるのか、どちらにしろ藤哉にとって不快なことに変わりはなかった。

「お前、また──っ!?」

 呼ぶなって言ってるだろと続くはずの怒号が、弾丸のように胸に飛び込んできたルリの勢いに喉元へと飲み込まれる。後ろに倒れるなんて醜態を晒すことこそなかったものの、それでも藤哉に一寸の間を与えるのには十分な威力だった。

「あのね藤哉くん! 私、藤哉くんのことが好きだよ! 藤哉くんが優しくなくても、私の運命の人になりたくなかったとしても、私は藤哉くんのことが好き!」

 頬を上気させ、矢継ぎ早に伝えてくるルリの勢いに藤哉は思わず圧倒される。全く予想だにしない言葉に、彼は蒼紺の瞳を瞠った。
 これは何だと、半ば思考が停止する。それほどルリの行動は藤哉にとってあり得ないもので、ルリという少女が珍獣のように未知の生物として映った。

「大好きだよ、藤哉くん!」

 ぎゅうっと力強い包容と同じくらい、その告白が胸を貫く。呆気に取られていた藤哉は、しかしはっと我に返ると、ぎりっと歯軋りをしてルリの肩に手を掛け、そのまま突き飛ばすように弾いた。

「わっ」
「大好きだって……?」

 声が、震えていた。それは怯えにも、怒りにも似ていて、蒼紺の瞳を覗けばその答えはわかったかもしれないが、笠の下から顔を出したその瞳には、もう鋭い怒気しか残されてはいなかった。

「ふざけるなよ……君が僕の何を知ってるっていうんだ。君が好きになったのは僕の演じた偽りの救世主ヒーローでしかないだろう……! それをよくも、好きだなんて言えたな……!」

 あり得ないと吐き捨てるかのような物言いは、彼の煮え滾るような苛立ちを如実に表していた。
 けれど、その怒りを真正面から受けてなお、ルリはそこに僅かな欠片を見出していた。

「それでも、私を救けてくれたのは藤哉くんだよ」

 ルリのキャンディのような瞳は、夢を見るように甘やかだ。それが喉に転がった不快な甘さを彷彿させて、藤哉は厭った。

「お前がレア≠セと思っていたからだ。その方が色々と都合が良いいと判断しただけに過ぎない」

 異能力者と調律者の契約において、誓約は複雑であればあるほど、その効力を発揮する。ルリの気持ちを利用できるなら、使わない手はない。そのためだけに藤哉は面倒な芝居を打つことを選択した。けれど──。

「うん。でも……私は、私の意志で藤哉くんに恋をした」

 それもまた、純然たる事実なのだ。
 藤哉が偽りを演じていようとも、そこにある事実までは揺るがない。ルリをあの地獄から救ってくれたのは間違いなく藤哉で、差し出された手が光のように輝いてルリの世界を照らしたのもまた藤哉なのだ。
 たとえ、藤哉に作られたシナリオ通りに、踊らされていたとしても。その意志までは藤哉にだって縛ることはできない。ルリだけが自由に描けるもの。それが自分の心なのだから。

「私のことを見つけてくれてありがとう。大好きだよ!」

 屈託のない笑顔だった。まるで春の麗らかな日差しに綻ぶ花びらのように。満開の時を知らせるそれに、藤哉は息をのんだ。

(何故……そんなふうに笑えるんだ……)

 利用して、酷く傷つけた相手だというのに。どうして未だにそんなふうに笑えるのか、藤哉には分からない。挙句、自分のことをそれでも好きだという。あり得ないことが起きていると藤哉は僅かな畏れすら感じた。

(っ……何を真に受ける必要がある。どうせ、それも綺麗事だ)

 藤哉の目から見ても、ルリが保身のためにそんなことを言い出したとは考えづらいものがあったが、そうでなければ逆に藤哉には説明がつかなかった。
 純粋な好意を受けた試しのない彼は、いざそれを目の当たりにすると、言いようのない感情に襲われる。
 それが不快で、不安で、どうしようもなくて。それらの感情を振り払いたいがためにわざとルリに難題をぶつけた。

「――そんなに僕が好きだって言うからには……僕に何をされてもいいと受け取っても?」

 どこか試すような物言いで、藤哉は皮肉げな笑みを浮かべる。それに対してルリはこくりと頷いた。藤哉はこれを迂闊だと思いはしたものの、何にせよ言質を取ったことで、優位的立場に引き戻ったことに僅かな安堵のようなものを覚えた。

「それなら僕の目的のために動け。僕があいつらを超える手助けをしろ」
「あいつらって……前に戦った……?」

 ルリの頭におそらく自分と同じか、少し下であろう年頃の美しい少女と、彼女を護るように傍に立っていた少年の姿が思い浮かぶ。他の異能力者と調律者が契約の下に力を行使する光景を見る機会がそうそうなかったルリにとって、比較対象は然程ないのだが、それでもあの二人の力が特別強いことだけは何となく理解していた。

「そうだ。あれを超えないことには話にならない。異能力者の素養は勿論ある程度を必要とされるが……僕とあいつの素の性能差はそうないと僕は見てる。肝心なのはやはりあの女の方だろう」
「……すごく、優秀な調律者なんだね。何か特別な訓練とかしてるのかな?」
「それもあるだろうな。何せ、彼女の実家はこの業界では相当の名門だ。噂ではさる貴い御方に献上される話も出てたと聞いてる」

 藤哉の話を聞けば聞くほど、珠蓮という存在が遠く感じる。同じ調律者で、一応は異能力者の家系に生まれたルリだが、育った環境が違い過ぎて、どこか別世界のようにさえ聞こえた。
 ルピノアも切り札がどうこうと言っていたが、ここまでくると本当にすごい人なんだなと漠然と感じるばかりだった。

「なんだか……本当にお姫様みたいだね」
「みたいじゃなくて、そうなんだ。だからあいつも異能力者だっていうのに、調律者である彼女の世話を甲斐甲斐しく焼いてるんだろう。そうじゃなかったら、よっぽどの物好きだ」

 藤哉にとって魈という存在は良くも悪くも目が行ってしまうのだろう。口振りは嫌悪するそれだというのに、やけに詳しそうだった。
 それだけ注目しているということが分かると、ルリの口からぽろりと言葉が零れた。

「藤哉くんが力を手に入れることに拘るのって……やっぱり、お母さんに認めて欲しいから……?」
「! お前……それをどこで……」

 噂に疎いルリがそんなことを知っているとは思わず、驚きを露わにした藤哉だったが、すぐにあの幼い少女の形をした腐れ縁の姿が思い浮かぶ。

「ちっ、あの女……人のことをベラベラと……」

 表情筋と同じように針で硬く口を縫い付けてやろうかと物騒なことを呟く藤哉に「わわわ! ルピノアちゃんを責めないで〜!」とルリが慌てて止める。藤哉の脳裏には相変わらず何を考えているか分からないルピノアの顔が浮かんでいたが、今ここで怒ってもしょうがないと思い直したようだ。

「ふん、何処まで聞いたかは知らないが、まぁいい。それなら僕が優秀な調律者を求めている理由もわかっただろう」
「う、うん……」
「僕は結果だけを重視する。君が僕に満足する結果を与えられるのなら、君の気持ちに応えてやらないこともない」

 等価交換だと口にする藤哉に、ルリは少しだけ歩み寄れたような気がした。少なくとも、藤哉なりの譲歩は引き出せたようだった。
 ルリが藤哉の望む力を与えることができたのだとしたら、もしかしたらまた、藤哉はルリのための王子様になってくれるかもしれない。僅かに差し込んだ希望に、けれど、ルリは緩く首を横へと振った。

「ううん、無理に応えようとしなくて大丈夫だよ。私が藤哉くんに協力するのは、私が藤哉くんを好きでやることだもん。そこに藤哉くんが返さなくちゃいけないものなんてどこにもないんだよ」

 だから大丈夫、と柔らかく笑うルリに、藤哉は呆気にとられたような表情を浮かべた。

「見返りを求めないのか? 僕が君の想いに応えるチャンスをみすみす逃すと?」
「そんな風にしてまで藤哉くんを縛りたいわけじゃないんだ。藤哉くんが私のことを好きになってくれたら、それはもちろん嬉しいけれど……それは藤哉くんの意志でそうならないと意味はないと思うの」

 この先自分がルリに振り向く保証なんてどこにもないというのに、自らその機会を不意にするルリの選択は藤哉からすると不可解でしかなかった。

「じゃあ君は僕に何を望む?」
「うーん……そうだなぁ……」
「何でもとはいかないが、相応のものなら構わない。僕はそれほど狭量ではないからね」

 ルリが一体何を望むのか。それ自体に薄っすらと興味が湧く。うんうんと唸るルリを腕を組んで待っていると、暫くして何かを閃いたような表情に決まったことを察した。

「その……藤哉くんのことをもっと教えてほしいな」
「……僕のことを?」
「うん。何が好きとか、どこへ行きたいとか、どんなことが楽しかったとか、そういう色んなことを知れたら嬉しいよ」

 指折り数えられる穏やかな願いに、藤哉は微かに驚きを顕にした。「くだらない……」思わず口からついて出た言葉にも、ルリはにこにこと笑うばかりで、怒るどころか、咎める気さえなれなかった。

「後でああしておけばよかった、とか言うなよ」
「うん、もちろん! 藤哉くんからお話が聞けるのを楽しみにしてるね!」
「……ふん」

 脳天気なものだと思う。恋心を利用して、踏みにじってきた相手に向ける言動とは思えない。少なくとも藤哉の常識の中ではあり得ないことだった。
 けれど、あり得ないというのならば自分だってそうだ。こうしてまた同じ手を取るなんて自分では考えられないことだった。

(……どうかしている。情が湧いたのか? それとも絆された……? この僕が……? ……まさかな)

 疑念を払うように目を背ける。そんなくだらないことを考えていてもしょうがないと意識を切り替えた。
 やるべきことは若干手順を変えたものの、内容自体はそう変わらない。ルリを自らの契約する調律者として使えるよう、さっそく藤哉は動くことにした。

「そうと決まれば……お前、ちょっと働きに行ってこい」
「えっ、藤哉くん……もしかして、お金に困ってたり……」
「なわけないだろう。敵情視察だ。僕のどこが金に困って見えるんだい」
「え、えへ……」

 じとりとした瞳を向けられて、ルリが笑ってごまかす。そしてややあって、敵情視察という意味を頭の中で辞書引いたルリが「へ?」と間抜けな顔をした。
 藤哉はその反応に先行きが怪しいものを感じて、はぁと重い息を吐くのだった。













「ねぇ、ルリさん、この間のお話の続きを聞かせてもらってもよろしいですか?」

 期待に瞳を煌めかせる少女を前に、ルリはにっこりと答える。

「もちろん。お菓子を一緒に持ってくるね。お部屋で先に待っててくれるかな?」
「はぁい。ふふ、楽しみです」

 素直にルリに言われたとおり、自室へと戻っていく可憐な後ろ姿の周りには、姿勢のいい使用人が数人控えている。その厳重な警備に最初こそ『すごいところに来ちゃった……』と気後れしていたものの、だいぶ経った今は、ルリも慣れつつあった。

 敵情視察として、魈と珠蓮が所有する屋敷に使用人として放り込まれること数日。たまたますれ違った珠蓮が『あら? あの時の……』とルリを見つけたことで、ルリは予め藤哉によって用意されたシナリオ通りに藤哉に捨てられて行く宛がないので働かせてほしいこと、調律者であることからとりあえずの身の安全を確保したく、庇護を求めて働きに来たことを話すと、珠蓮はそれはもう呆気ないほどにころっと信じ、すぐに魈を呼びつけて、ルリを一介の使用人から珠蓮の遊び相手へと昇格させてしまった。
 それからというものの、珠蓮はルリが自分より年上であることを理由に、楽に話すよう要求し、まるでただの友人のような、新しくできた姉を慕う妹のような、そんな不思議な関係へと昇華させてしまうのだった。
 これにはさすがのルリも順調過ぎるところを喜ぶどころか『珠蓮ちゃん……こんなにいい子で……うっ、騙してごめんなさい……』と思わず心配が浮かんだ。初見ではやや過保護に見えた魈の言動も、こうも純粋な珠蓮を知ってしまうと思わず納得してしまうような、そんな危うさが珠蓮にはあった。
 何かを察したようなルリの表情に、魈は頭痛がするとばかりに額に手を当て、重く息を吐き出す。色々と苦労をしているようだ。
 けれど、珠蓮が決めた事に異を唱える気はないようで、魈はルリに『よくしてやってくれ』とだけ伝えると、それっきり口を出してくることはなかった。随分とあっさりとした邂逅にルリは若干の戸惑いを覚えたが、珠蓮がルリさん、ルリさんとよく慕ってくれたこともあり、次第にその戸惑いも消えていくのだった。

「お待たせ〜、この間はどこまで話したかな? たぬきさんが出てきて……えーっと……」
「たぬきさんがメラメラチキンの噂を聞いて、探しに行くのを決意するところまででした」
「あっ、そうそう。そうだったね。それじゃあ、その続きをお話するね」
「はいっ、とても楽しみです」

 むかしむかしではじまるその物語は、お馴染みの童話だった。珠蓮との仲を深めるに当たって、自分が好きな童話の話をしたところ、珠蓮はこれに興味を示し、よく話をねだるようになった。
 意外なことに、珠蓮は童話に触れる機会があまりなかったようで、多くの人に親しまれている童話ですら知らないものばかりで、それがより新鮮に映ったようだった。

「たぬきさんが隣町まで向かおうと橋を渡ろうとしたところ、橋が崩れ落ちているのに気づきます。これでは渡ることができません。たぬきさんはとてもとても、困ってしまいました」

 ゆっくりとルリの口から語られる物語に、すっかり夢中になった珠蓮は、はらはらとした様子でその先を静かに待っていた。ぱちりとした瞳を覗けば、そこには『どうなってしまうの』と言う言葉がありありと見て取れる。
 素直な珠蓮の様子が微笑ましく、もったいぶることなくルリはその続きを紡いだ。

「けれど、そこに風が吹いて、たぬきさんの額に何かがぶつかります。『なんだろう?』そう思ってみてみると、そこには一枚の葉っぱがありました。たぬきさんは閃きます。『そうだ! 化ければいいんだ!』」

 ぽんっと両手を叩き合わせるルリの語りに引き込まれた珠蓮がぱちぱちと瞳を瞬かせた。「化け……?」と小首を傾げる珠蓮に、ルリがこそっと「たぬきさんは変化の術が使えるんだよ」と伝える。感心したような珠蓮の反応が実に新鮮だった。

「たぬきさんは葉っぱを掴むと、呪文を唱えました。『ポンポンポポポン♪ 小鳥にな〜あれ♪』するとたぬきさんの体が白い羽をもった小鳥さんへと変わります。翼を手に入れたたぬきさんは、ひとっ飛びして橋を無事に渡るのでした」

 わぁ、と珠蓮の口から感嘆の声が上がる。ぱちぱち、と小さく手を鳴らす珠蓮が随分と幼く見える。まだ序盤であるものの、好感触な反応にルリも胸がほっこりとするのを感じた。
 するとそこに扉をノックする音が聞こえる。それだけで珠蓮は誰かわかったのか、ぱっと表情を華やがせてパタパタと駆け寄った。

「魈っ」

 扉が開けられると同時に珠蓮がきゅっと抱きつく。危うげなくしっかりと抱きとめた魈は、部屋の中に視線を巡らせると、ルリを見つけてじっと見つめた。
 ルリは慌てて居住まいを正すと、ぺこりと頭を下げる。次に伺ったときには、魈はもうルリの方を見てはいなかった。

「あのね、ルリさんにお話を聞いてたの。たぬきさんがね、小鳥さんに変身して橋を渡ったんだよ。すごく面白いの。魈も一緒に聞こう?」

 にこにこと柔らかな珠蓮の誘いに魈は僅かに表情を綻ばせる「ああ」と確かに頷いた魈に珠蓮は喜んで手を引いて、ルリの前へと自分と隣り合って座らせた。
 新しい聞き手が増えたことでルリが最初から話そうとすると、魈が「続きからでいい」と口を挟む。何かを言おうとする珠蓮の小さな口にクッキーを咥えさせて、魈はルリに続きを促した。

「ええっと……こほん。橋を渡って隣町に来たたぬきさんは──」

 ルリの語るたぬきのメラメラチキンを巡る冒険譚に瞳をきらきらさせながら珠蓮が聞き入る。興奮するたび、珠蓮は魈の腕を握り、物語に没入した。
 魈は静かに傾聴していたものの、意識は物語よりも珠蓮の方に向いているように見えた。くすくすと鈴が転がるように笑う珠蓮の横顔をそっと盗み見みる魈の表情は酷く柔らかいものだった。
 そうして物語がめでたしめでたしで終わり、暫くすると、会話に花を咲かせていた珠蓮が眠がるように目を擦り出した。

「……眠いのか?」
「ん……」
「ならもう休むといい。今日の予定はもう終わっただろう。ベッドに運んでやる」

 ひょいと珠蓮を軽々と抱き上げた魈がそのまま珠蓮を寝台へと横たえさせる。身体を離そうとする魈に珠蓮が嫌がるような素振りをみせて擦り寄ると、魈は溜息をついてルリへと視線をよこした。

「すまない、今日はもう下がってくれ」
「は、はいっ」

 ぴしゃっと反応したルリはすっと立ち上がると、珠蓮に「またね、珠蓮ちゃん」とひらひら手を振って退室する。去り際に珠蓮の薄い反応と、魈に口づけ、そのまま甘えるように腕の中に収まる仕草が見えたが、不思議といけないものをみてしまったような、ドキドキするような衝撃は訪れなかった。

(……何だか、二人を見ていると……)

 上手く言い表せないが、あんなに仲睦まじく過ごしているというのに、厭らしさを全く感じないというか、当初のお姫様とお姫様を守る騎士のようなイメージはあまり湧いてこなかった。それより、むしろ──。

(兄妹を見てるような……そんな気持ちになるのは、何でなんだろう……?)

 遠目でもはっきりと口付けているのがわかったのに、まるで微笑ましい戯れに見えてしょうがなかった。魈が仕方ないなと言わんばかりの慈愛のよう瞳を向けるからだろうか。それとも、珠蓮が幼いからだろうか。いずれにしても、この屋敷に来てからというものの、組織の切り札というにはあまりにも穏やかな二人にルリは微かな引っ掛かりを覚えるのだった。

 珠蓮が良くしてくれたのもあり、最初はどうなることかと思っていたルリも、すっかりとこの屋敷での生活に慣れてきた頃、鳥が手紙を運んで来た。藤哉からの連絡手段として、前もって聞いていたルリは、片足に結ばれたそれを解くと、人目のつかない場所でその手紙に目を通した。
 手紙には襤褸を出していないかと言った小言や、珠蓮の気を引けそうな話題についてであったりが簡潔に記されており、三日後に理由をつけて外出するよう指示が出された。手紙は読んだら燃やして破棄することと締めくくられたそれは、随分と味気ない手紙であったが、久しぶりの藤哉を身近に感じる筆跡に、ルリはほわりと胸を温めた。
 早速、珠蓮に外出したい旨を伝えると、許可自体はあっさり出たものの、調律者が一人で街中に出るのは危ないだろうと、護衛をつけてくれるというのを断るのに苦労をした。あまりいい言い訳が見つからなかったのもそうだが、珠蓮が良くしてくれれば良くしてくれるだけ、罪悪感がちくちくと刺激されるのだ。ルリは梅干しを食べた時のような酸っぱい顔をしてしどろもどろに断ると、珠蓮は何かを察したような顔をして引いてくれたのだが、あれは完全に何かを勘違いさせてしまった気がして否めなかった。それでも、そこを言及してしまうと今度こそ襤褸が出そうで、ルリはそのままにすることにした。

(……出てきたはいいけど、藤哉くんとどうやって合流すればいいんだろう……?)

 そんなわけで早くも約束の日。外出したはいいものの、ルリは早くも待ち合わせ場所に困っていた。これといって心当たりは特にはなく、手紙にも指定されていなかったと思う。もしかしたら、ヒントのようなものはあったのかもしれないが、素直に手紙を読んだルリにはそれらしいものも思い浮かばず、また、ルリの性格を少なからず知っている藤哉がそういった小細工をすることもないだろう。とりあえず屋敷から遠ざかりながらルリは辺りを見渡した。

(せっかくだし、ちょっとお買物しちゃおうかな……)

 目立った活動こそまだしていなかったものの、組織に入ってからは福利厚生がきいていることもあって、ルリもお給料をもらえたばかりか、あの公式試合でルピノアが申請してくれた見舞金と、珠蓮の遊び相手として居候する立場だが、名目上は使用人のそれと変わりないために振り込まれたお金もあり、ルリの懐はかつてないほど豊かなものだった。
 お屋敷で出るお菓子はとても綺麗で美味しいものばかりだけれど、たまにはジャンクなものもいいなぁとルリはあれもこれもと頭に思い浮かべる。珠蓮たちへのお土産も何にしようと考えていると、不意に声を掛けられた。

「随分と間抜け面だな」
「! 藤哉くん!」

 聞き覚えのある声にぱっと表情を華やがせて振り返ると、そこにはサングラスをかけた藤哉がいた。やれやれと頭を抱える藤哉の顔には『呼ぶなって言ってるだろ……』とありありと書かれていたが、言うだけ無駄だとも思ったのだろう。口に出すことはもうなかった。

「よかった、どうやって合流したらいいかわらかなかったの。迎えに来てくれたんだね」
「そうじゃなかったら合流出来ないだろ。ったく、暗号の一つくらい覚えさせたいところだけど……まぁいい。こっちだ」

 前を歩く藤哉の後ろをルリは子犬のようについて行く。繁華街からいつの間にかするりと路地に入り、奥まったところで静かに経営される落ち着いた喫茶店のような場所へと案内された。
 店内で控えめに流れるジャズの音楽が何だかそれっぽい。秘密基地のような、不思議な空間にきょろきょろと視線を彷徨わせるルリに、藤哉は口を開いた。

「あのお嬢さんとはうまくやってるのか」
「あ、うん。珠蓮ちゃん、すごく優しくてね。良くしてもらってるよ」

 たった一度だけ出会った、それも自らの契約者を目の敵にする男の調律者――一応元という体ではあるが――に対し、良くしているという珠蓮の行動は藤哉からすると予想通りであったものの、それでも呆れが滲まないわけではなかった。

「彼女は随分な箱入り育ちで、とにかく俗世に疎い。外のことや、庶民的なものを話題に出し続ければ、彼女の興味は引けるだろう。そのまま懐柔するんだな」
「か、懐柔……」

 そんな言い方しなくても、と眉を下げるルリに、藤哉はエスプレッソを一口飲み込んで、はっと笑う。

「どう言葉を取り繕うとも、やっていることはそうだろう。僕が君をあの屋敷に送り込んだ理由を忘れたとは言わせないぞ」
「そ、そうだけどぉ……」
「それとも、僕よりあのお嬢さんの方が好きなのかい?」

 そう言われて、ルリは一瞬固まって、首を横に振った。珠蓮のことは好きだが、藤哉へ向ける好きとは違う好きなのだ。そう言う意味で言われていると思って、ルリは否定した。
 そしてその選択は正解であったようで、藤哉はどこか機嫌が良さそうに鼻を鳴らす。

「ふん……まぁ、別に悪いようにはしないさ。僕も必要以上の面倒を起こす気はないからね」
「ほ、ほんとう……?」
「本当さ。あのお嬢さんに手を出すのは、色々と都合が悪い」

 確かにそれもそうかもしれないと思う。もし、簡単に手を出せる相手だったなら、珠蓮を自分の調律者として迎えられるようにした方が、きっと早かっただろうから。そう思って、ルリは思わずぽろりと口に出してしまう。

「……藤哉くんは……珠蓮ちゃんが、自分の調律者だったらよかったのにって……思ったことある……?」

 口にしてすぐ、変なこと聞いちゃったなと口をきゅっと引き結んだ。けれど、藤哉は怒ることなく、意外にもすんなりと答えてくれた。

「それはそうだろ」
「……」
「優秀な調律者を持つことは、異能力者にとって最重要事項でもある。まぁ、この場合、あのお嬢さんだから欲しいわけじゃなく、ただ、その能力が欲しいだけだけど」

 それだけの話さ、と弁解じみたことを話す自分に、藤哉は内心で僅かな疑問を覚える。何故こんな言い方をしているのか自分でもわからなかった。それでも、口は不思議と止まらないままだ。

「彼女自身が優秀な調律者なのは間違いないけど、僕は……あいつらがまとめて切り札なんて呼ばれてちやほやされてるのは……その契約の仕方に秘密があると思ってる」
「……確か、まだ色々と謎が多いんだよね……」
「ほとんどが簡易的な儀式を決行してるやつらばっかだからな。資料が少なければ研究は滞るものさ」

 けれど、複雑な契約を用いたものは、それ相応の効果が発揮される。何かを代償にしたのか、何かを誓ったのか、想像の域を出ないが、あの二人の契約は間違いなく何らかの特殊なものを用いたものである可能性が非常に高かった。

「そんなに落ち込むくらいなら、さっさとその謎を解き明かして、君もあのお嬢さんに匹敵する調律者になればいいだろ」
「! 藤哉くんは……私が珠蓮ちゃんみたいになれると思う?」
「いやまったく」

 即答する藤哉にルリは目に見えてガーンと落ち込む。その様子を鼻で笑った藤哉は、意地悪そうにぺしっとルリの額を弾くと、「あうっ」と痛がるルリにはっと笑う。

「バーカ」

 意地悪な物言いとは裏腹に、その顔がどこかちょっとだけ、無邪気に見えて。ルリの鼓動が早まる。恋がまた、少しだけ加速するような気がした。

「精々僕のために励みなよ。話はそれからさ」
「う、うん! がんばる! 私!」

 くれぐれも襤褸を出さないようにとまた釘を刺されて、ルリはこくこくと頷く。久しぶりに会った藤哉との時間は意外にも穏やかで、ジャズの音と合わせてゆっくりと時を刻む。
 傍から見れば、それは恋人と過ごすひとときにもよく似ていた――。







 藤哉から与えられた任務は、魈と珠蓮の契約の秘密を握ることが主なものであったが、それだけではない。調律者としての能力を高めるため、屋敷の貴重な書物をこっそり盗み見るよう命じられていたのだが、ルリに隠密はやはり向かなかった。
 あっさりと書庫の近くで「そこで何をしている」と魈に見つかり、しどろもどろになりながらも新しい童話のネタなどを仕入れるためだといえば、僅かな沈黙の後「何かほしいものがあるのなら直接珠蓮に言え」とだけ返されて、魈はどこかへと向かってしまった。
 結局ルリは観念して、珠蓮に調律者としての能力を高めるにはどうしたらいいのかと馬鹿正直に尋ねれば、珠蓮はそれならと書庫に連れてきてくれ、またしても呆気ないほどに禁書をぽんっと渡してくれた。

「しゅしゅしゅ珠蓮ちゃん……!? これってすっっごく貴重な物なんじゃないかな!?」
「みたいですね。本当は一族以外に見せるのはダメなのですけれど、勿体ぶるようなことは書かれていませんので、大丈夫だと思います。ここから持ち出さなければ見る分には構いませんよ」

 そう言って珠蓮はあれもこれもとルリの両腕に本を積み上げていく。本は段々と高さを増し、ついに自分の視界を塞ぐどころか、背丈を追い越したところでルリがあわわと蹌踉めいた。

「こんなところでしょう。調律者については特にこの本が詳しく記載されています。まずはこの本から読んで、次にこの本を読むと分かりやすいかもしれません」
「あ、ありがとう、珠蓮ちゃん。大事に読むね」
「ええ、分からないところがあったら聞いてくださいね」

 そう言って珠蓮も無造作に本を取り出すと、椅子に腰を掛けて目を通し始める。どうやら何かあった時にルリが聞きやすいようにここに暫くいてくれるらしい。ルリは早速珠蓮に言われた通りの順で本を開いてみた。

(……書いてあるのは、わりと普通のことかも……私でも知ってる)

 調律者の成り立ちから、異能力者との仕組みの違い。そして血の契約についての仔細がその本にはまとめられていた。禁書らしく、随分と迂遠な言い回しでやや壮麗に記された書物であったため、ルリは所々頭に疑問符を浮かべる場面もあったが、概ね特別なことは記されていなかったように思う。
 次に勧められた本に手を伸ばし、読み進めていくと、少しだけ気になる記述を見つけた。

「? 二つの血が交わりし時、生まれる寵児……?」

 流れるような美しい文字で書かれたそれに、ルリは首を傾げる。どういう意味だろうと思っていると、ルリの声に反応した珠蓮がいつの間にか隣に来て一緒に本を覗き込んでいた。

(! び、びっくりしたぁ……珠蓮ちゃん、全然気配しなかった……)

 花のような香りがして初めて珠蓮が近くに来ていたことに気づいたルリは、驚いて心臓をドキドキさせた。珠蓮の指先がその項をなぞり、「これは――」と口を開いたところで、書庫の扉が開く。そちらへと視線を向ければ、そこには魈がいた。

「魈」
「ここにいたのか。そろそろ補給の時間だ」

 魈はそのまま珠蓮の方へと向かうと、珠蓮の返事を待たずにひょいと抱き上げ、「悪いな。また後でにしてくれ」とルリに断りを入れて珠蓮を連れて行ってしまう。途中珠蓮がまだ大丈夫だと口にしたものの、魈は聞き入れる気がないようだった。
 一人になってしまったルリは、急にただでさえ広い書庫が更に広くなったように感じて落ち着かず、嵐のように去って行った魈の後ろ姿に瞳を瞬いた。

「……せっかくだし、もう少し調べて行こうかな……」

 書物には暗喩が多く、分からないことばかりであったが、想像して読むことは可能だ。この意味はどういう意味だろうと独自に解釈を交えながら、気になったものをメモして書物に挟んでおく。今度珠蓮の時間のある時に尋ねるつもりだった。そうやって書物を読み進めていると、有益な情報が目に飛び込む。

「えっと……調律者の力を蓄えるには……陰と陽が交じり合うことが必須……? 陰と陽って確か……」

 既視感を感じるワードにそのことが記述されていた最初の書物を捲る。ルリの記憶通り、そこには陰と陽の解について詳しく記されていた。
 陰と陽、それは異能力者と調律者を示す用語であり、特に心身の結びつきについて用いられる用語であった。平たく言えば、それ即ち性交を用いた結びつきのことを言う。これを前提に元の文章を読み解くと、その意味は――。

「つまり……え、えっちが大事ってこと……!?」

 ぼっとルリの顔が真っ赤に染まる。それと同時に、先程現れた魈の言葉の意味を理解してしまい、余計に恥ずかしくなってしまった。

(ふぁ〜!! そういう意味だったんだ!? そ、そうだよね!? 二人とも契約してるんだからそうなるよね!?)

 何もおかしくはない話だった。切り札だというだけあって、二人が前戦に駆り出されることが頻繁にあったわけではないが、時折上層部に呼び出されて何やら忙しくしているのは知っていた。その度に珠蓮が魈に抱き上げられて帰ってくるのも、二人で部屋に籠るのも、何も、何もおかしなことではないのだ。

(そういえば珠蓮ちゃんも今日は午前中出てたし、お疲れみたいだったなぁ……魈くんがちょっと強引だったのもわかるかも……)

 すぐに魈の腕の中で身体を丸くする珠蓮の様子が頭に思い浮かぶ。けれどあまり二人のことを考えていると余計なことを想像してしまいそうで、ルリはぶんぶんと頭を横に振って思考を振り払った。
 気を取り直すように勉強しようと新たにページを捲っていく。そうやって読書に没頭したルリが気づいた頃には、すっかり日も暮れ、夕餉の時間へと差し掛かっており、心配した珠蓮が使用人を寄こしたことで、ルリはようやく空腹に気づくのだった。









 ふぁ、と小さな欠伸が珠蓮の口から零れる。眠たげに瞼を擦る珠蓮に、ルリは「そろそろおやすみしようか」と声をかけた。
 普段は魈と床に就く珠蓮だったが、先程魈は呼び出しを受け屋敷を出て行ってしまった。それで一人寝を嫌がった珠蓮が、ルリに一緒に寝てくれるよう頼み、眠くなるまでの間お茶をしたりと過ごしていたものの、珠蓮もそろそろ眠気が限界のようだった。

「ん……そうします」

 天蓋のある広いベッドに入り込むと、珠蓮はポンポンと隣を叩いてルリを促す。その仕草が妙に様になっていて、魈がよくこうして催促されているのが何となく伝わってきた。
 隣りに並んで横になると、いつもより珠蓮との距離が近い。珠蓮はうとうととぼんやりした眼差しでルリを見つめていた。

「ルリさんは……身体は大丈夫ですか……?」
「え?」

 何のことだろうとルリは内心で首を傾げる。前の戦闘の時に出来た傷のことだろうかと思うが、それにしては今更だった。心配げな珠蓮の眼差しに何と言っていいのか分からず困惑していると、珠蓮の指先がするりとルリの頬を撫でた。それが妙に心地よく、不思議な感覚を覚える。

「調律者にとって……異能力者というものは、切っても切り離せない関係です……見たところ、ルリさんはまだ契約を破棄されていないようで……これでは、神聖力を蓄え辛いでしょう」

 あの方がどのようなつもりなのかは分かりませんが……と、控えめに口にする珠蓮は、どうやらルリを心配しているらしい。へにょりと眉を下げて痛ましそうな視線を向ける珠蓮に、ルリは努めて明るい声を出した。

「だ、大丈夫だよ! 私、こう見えて結構丈夫なんだぁ。藤哉くんもその……そんなに悪い人じゃないんだよ。ほ、本当!」

 ルリは話しながらも襤褸が出ていないか内心であわあわと慌てる。一応、藤哉には捨てられた体で潜入捜査をしている身である。ここで変に藤哉の肩を持つわけにも、ましてや事実を語れるはずもなかったが、嘘を吐くのは苦手なのだ。どうかバレていませんようにと思う反面、珠蓮を騙しているのが僅かに心苦しかった。
 珠蓮はルリの藤哉は悪い人ではないというのをあまり信じていないようで、どこか拗ねた様子だった。

「本当に優しい人は、捨てたりなんてしません……」
「う゛」

 ごもっともである。ルリも何か弁明しようとして、けれどいい言葉が思い浮かばず、「あー」だの「うー」だのと口に出すしかなかった。

「あの方は……何故かはよく分かりませんが、魈のことを目の敵にしているようです……魈は気にしていませんけれど……私は、あんまりあの方が好きじゃないです」

 ルリさんにも意地悪をするのだもの、とつんと小さな唇を尖らせる珠蓮は、精一杯の意地悪を口にしたつもりなのだろう。ぷんぷんと怒る珠蓮が、けれどもあまりに愛らしくて、ルリは思わず『か、可愛い……!』と思ってしまった。はわはわと静かに悶えていると、そんなルリの心情も知らない珠蓮は、思い切った様子でルリを伺うように見上げた。

「その……ルリさんがよろしいのなら……魈に頼んでみましょうか……?」
「へ? 何を?」
「……ルリさんを、新しい調律者として迎えないか……」

 一瞬ルリは何を言われているのか理解が追い付かなかった。その意味を理解してハッと息を飲む。珠蓮の瞳はどこまでも澄んでいて、冗談を言っている風には見えなかった。それが余計、ルリの鼓動を早くする。

「それって……」
「本気です、私。寝惚けて適当なことを言ってるわけでも、ないです」

 調律者を増やすということは、即ち、異能力者を共有するということだ。力の強い異能力者にのみ許された特権であり、調律者にとっては救いである一方、絆の強い調律者にとっては、愛しい恋人を共有するようなものだ。
 自分たちがしていることを、他の調律者にも共有させる。それは生半可な覚悟では口には出来ない。

「珠蓮ちゃ、私……そんなつもりじゃ……」
「分かっています。このために私たちのところに来たわけではないことくらい……私にだって分かっています。でも、そうでもいいのかもしれないと思ったのです」

 あんなにも仲睦まじく過ごしている二人だというのに。そこに、今更割って入るような余地などあるはずもないだろうに。珠蓮はそれでもいいと言う。「な、なんで……」と口から出たルリの声は、酷く動揺していた。

「だって私、ルリさんが初めてのお友達なのだもの」

 はっと息を飲む。夢を見るような眼差しで、珠蓮は揺蕩うようにふわふわと口にした。

「私、魈のことが大好き。魈が傷つかずに、私の傍にいてくれるなら……私は何だっていいの。ルリさんのことも私は大好きで……だから、だから……ルリさんとなら……嫌じゃないと、そう思えたの」

 まるで幼い口調だった。幼いまま、夢の続きを語るように、珠蓮は無垢な眼差しで、もっとも純粋な願いを口遊む。

「だから……一緒に魈を護って」

 おねがい、と胸に擦り寄る珠蓮に対し、ルリは明確な答えを出せなかった。ただ、大変なことになってしまったことだけは分かった。
 きっと、ずっと珠蓮はこのことを考えていたのだ。ずっと、ずっと、何度も何度も考えて、それでもこの答えを出したのだ。そう思うと、ルリはとんでもないことをしてしまったような気がして、ちくりと罪悪感で胸が痛んだ。

(どうしよう、私……珠蓮ちゃんを……傷つけちゃった……)

 大好きな人を他の人と共有する。それがどんなに苦しいのか、ルリは想像できたから。

(…………珠蓮ちゃん……ごめんなさい……)

 こんなに優しい珠蓮を自分は裏切っている。そうまでして自分は何がしたいのだろう。そこまでしてしなくちゃならないことって何なのだろう。ルリは自分が何をするべきなのか、迷い始めていた。
 夜が更ける。いつの間にか珠蓮は寝息を立てていて、すやすやと心地よさそうに眠っていた。ルリはその息遣いを間近で感じながら、ぼんやりと夜が明けるのを見つめる。何だか少しだけ、朝が来るのが億劫だった。
 それでも朝はやってくる。薄っすらと目元に隈を作ったルリに、珠蓮は余計なことを口にしたと気にしているようだった。それにルリは「すごく豪華なベッドだったから、緊張しちゃって眠れなかったみたい」と明るい声を心掛けて口にした。珠蓮がそれを信じたのかは定かではなかったが、とりあえず納得したように頷いてくれたところで、魈の帰宅が知らされた。

「あ、あの……すぐに、あの話をしなくても大丈夫ですから……その、いきなりでルリさんも心の整理があるでしょうし……」
「う、うん。ありがとう、珠蓮ちゃん」
「い、いえ……」

 会話は少しぎこちなかった。それをお互い感じていて、どちらともなくこれもまたぎこちない愛想笑いを二人して浮かべていた。
 そこに魈がやってきて、二人の様子に何をしているんだとばかりの怪訝な表情を浮かべる。

「あ、おかえりなさい、魈。どうだった?」
「ああ、ただいま。特に問題はない。情報共有が主な目的だったからな」
「そう……怪我をしていないのならよかった」

 無理しちゃダメだよ、と珠蓮の指先がきゅっと魈の指を握る。その仕草に魈はふっと表情を緩めるが、不意に何か違和感を感じて問いかけた。

「……何かあったのか?」
「どうして?」
「少し……元気がないように感じる」

 何もなければいいのだが、と魈の指先は心配そうに珠蓮の頬へと伸びて、まるで涙を拭うかのように目の下をなぞった。珠蓮は泣いてなどいなかったが、微かに瞼を伏せる仕草を見せると、ふっと笑った。

「魈の心配性。寝起きだからよ。まだ眠たいの」
「そうか……眠たいなら寝直すといい。一人寝が嫌だというのなら……我も一緒に寝てやる」
「ふふ、魈から言ってくれるなんて珍しい。でも大丈夫、私もう起きるわ」

 一緒に朝ご飯を食べようと誘う珠蓮に、魈はああと頷く。魈の腕を引いて前を歩く珠蓮を魈は穏やかな目で見つめていたが、時折心配そうな色を覗かせる。
 その理由が何であるのかを察したルリは、やっぱりとんでもないことになってしまったと思うのだった。

 そしてその予感は見事に当たった。穏やかに三人で朝餉をとるまではいつものことであったが、食べ終わった後に珠蓮がやはり眠がったことで魈は珠蓮を寝かしつけると、ルリに話があると出てきたのだ。
 ルリもこれにはうまい言い訳などできるはずもなく、ましてや相手は魈であり、話の内容にも大きく関わっていることから、観念して口を割ったのだった。

「そうか……珠蓮がそんなことを……」

 珠蓮が魈の新たな調律者として、ルリに話を持ってきたことを話せば、魈は意外なほどに冷静な反応を見せた。てっきりあれだけ珠蓮を大事にしているのだから、馬鹿馬鹿しいと怒るのではないかと思ったものだが、魈はむしろ何かを納得したようだった。

「驚かないの?」
「……予想の範囲内だ。最初からこうなると思っていたわけではないが、何故珠蓮がこんなことを言い出したのかくらいは想像がつく」
「どうして? だって、二人はあんなに……」

 おもいあっているのに、と口にするその言葉は尻すぼみに小さくなっていく。どこからどうみても、お互いのことを大事にしていて、仲が良くて、誰だって入り込む隙間なんてないような、完成された空間がそこにはあった。何の障害も、憂いもないはずなのに、今更誰かを迎え入れるなんて、ルリには想像もできないことだった。
 むしろ自分たちよりもずっとショックを受けているようなルリの様子に、魈はほんの少しだけ、柔らかな表情を受かべた。けれどそこには、まるで触れたら溶けて消えそうな、儚さがあった。

「見えるものが全てとは限らない」
「え……?」

 ぱちりと瞳を瞬かせるルリに、魈は「そのままの意味だ」と口にする。それ以上は語る気はないようだったが、それでもその言葉には随分と深いものが込められていたように感じた。

「それで、お前はどうしたい」
「わ、私……は……その……」

 何ていったらいいんだろうと未だに答えは出ない。けれど、それでも自分の中でこうしたくないなと思う気持ちは確かにあった。

「魈くんの調律者は……珠蓮ちゃんだけでいてほしいよ」
「……」
「すごく、すごく、ありがたいお話だったけど……本当に、いっぱい考えてくれたと思うけど……私は、二人には二人だけでいてほしいって思ってる」

 だから、ルリは魈の調律者にはならない。きっと、藤哉との契約が破棄されていたとしても、藤哉ともう契約を結べなかったとしても、魈の調律者になることだけはないだろうと思った。嫌なのだ。どうしようもなく。大切な二人の間に自分が割って入りたくはなかった。自分でなくても、誰かが入り込むのが、辛いと思えたから。だから、ルリは魈の調律者にはならない。

「そうか……お前の希望は分かった」

 その言葉にルリはほっと息を吐く。魈の調律者になる話は流れたと思ってもいいだろう。魈もそう乗り気には見えなかった。けれどややあって、魈の黄金色の瞳がすうっと細められた。

「だが、お前の契約者は依然あれのままだ。契約した異能力者と調律者が長時間離れることはあまり好ましくない。既に何かしらの不調が出ていてもおかしくはないだろう」
「あ、えっと……そういえば、ちょっとだけ身体がいつもより怠い、かも……?」

 本当はつい先日外出した時に会っていたなんて言えるわけもなかった。視線を斜め上へと向けてあははと誤魔化すように笑うルリに、魈は何も言わなかったが、その目をまともに見ることがルリはできなかった。

「あいつがどういうつもりなのかは知らないが、契約を破棄しないことには新たな契約を結ぶことは出来ない。その間の神聖力の補充は効率が悪いものばかりだ。けれど、何も無いよりはましだろう」
「? ん……?」

 魈の言っていることが若干難しく、ルリは首を傾げる。魈は僅かに息を吐いて、簡潔にまとめてくれた。

「お前に一時的な補給源となる異能力者を与えてやる。あいつとの契約を破棄するまではそれで繫ぐといい」
「えっ……ええ〜〜っ!?」

 一難去ってまた一難。完全なる善意からなる苦難がルリを襲う。思わず叫んだルリに両腕を胸の前で組んだ魈は「珠蓮が起きる」と短く苦言をさすのだった。








 結局、魈に言われた通り、ルリは一時的に異能力者から供給を受ける羽目になってしまった。魈の物言いからして、それが決定事項であるのと、藤哉に相談しようにもこちらから連絡する手段がないため、結果的に流されるしかなかったのである。
 藤哉という心に決めた人がいる今、もうあんなことを他の人としたくはなかったのだが、世話になっている手前、あまり駄々を捏ねるわけにもいかなかった。しょうがないので、相手の人には事情を話して口裏を合わせてもらえないか聞いてみようと、とぼとぼと客間に向かうと、そこには見知った姿があった。

「え……あれ……? どうしてここに……?」

 ――同時刻。ルリが予想外の人物との邂逅を果たしている間、魈は珠蓮と共に上層部に呼び出されていた。そこで藤哉と出くわしたこともあり、魈は珠蓮を信用の出来る人間に任せて下がらせると、改めて顔を突き合わせた。

「もう僕を彼女の視界にも入れたくないって? 僕は君たちにとって黴菌か何かか?」
「日頃の行いを顧みてはどうだ。十分な理由だろう」
「ハッ、相変わらずの過保護だ。甘すぎて吐き気がするよ」

 オエ、と吐く真似をする藤哉に、魈が僅かに眉を顰める。やはり珠蓮を下がらせたのは正解だったようだ。聞くに堪えないとばかりに踵を返したいところだったが、今回は魈の方も藤哉に用事があった。

「お前が未だに契約している調律者だが……いつ契約を破棄するつもりだ」
「何だい? 欲しくなったのか? 君には既に上等なお姫様がいるだろうに」
「そういうわけではない。他に当てがあるだけだ」

 お前がいらないと捨てたのだろう、と口にされて、藤哉はふーんと鼻を鳴らす。ルリの話だけでも、珠蓮と良好な関係を築いているのは分かってはいたが、その成果は思う以上に上々らしい。おそらく珠蓮の家の伝手を探って、育ちも人もいい優れた異能力者を紹介したいのだろう。そのために藤哉との契約が邪魔なのも当然のことだった。

「嫌だって言ったら? 僕にお姫様をくれるのかい?」
「馬鹿なことを。我を試したいがためだけに珠蓮を引き合いに出すのはやめろ」
「冗談の一つくらいいいだろ別に」

 相変わらず、珠蓮のことになると良く反応すると藤哉はほくそ笑む。もう少し玩具にしたいところだったが、これ以上の挑発にも乗ってはくれないだろう。さて、どうしようかと考えていると、不意に見覚えのある気配がしてばっと後ろを振り返る。そこには忘れもしない、憎い人の姿があり、コツコツと踵を鳴らしながらこちらへと向かって来ていた。

「なんで……あいつが……」

 ピリリと雷が奔るような感覚がする。後ろに一つに垂らした三つ編みが揺れて、こちらへと近づいてくる顔は、自分とうり二つだった。
 何かを言おうとして、けれど突然の邂逅に頭が真っ白になる。怒りで支配されると思った思考は、意外なほどにその色はなく、ただ、何かを言わなければならないとそれだけが頭を締めていた。
 そうして、すれ違う時。その時になってなお、彼女は――母は、一瞥もくれてはくれなかった。ただ、静かに遠ざかる彼女に、藤哉は慌てて振り返り、声を荒げた。

「おいっ! 僕を無視する気か!?」

 その言葉に、漸く彼女の足が止まる。ゆっくりと振り返るその仕草にすら、緊張が走った。

「……誰ですか」
「な、っ!?」
「用がないなら、私はこれで」

 そう言って呆気なく彼女は去っていく。まるでお前になど興味はないとばかりに。あの時と同様に、彼女はあっさりと藤哉を突き放す。どれだけ自分があなたに焦がれていたかもしらないで――。

「……は、はは……っ、ハハハハハ!」

 乾いた笑いから、徐々に割れんばかりの笑いが込み上げてくる。
 なんて滑稽なんだろう。自分ばかりが追い求めて、肝心のあの人にとっては自分は未だ、道端の石ころに等しいままなんて。
 どれだけ見返してやりたいと思っても、切り札エースにさえ自分は届かないままなのに。そんな自分をどうしてあいつが認めると思ったのか。自分が滑稽で、愚直で、蒙昧に思えて仕方なかった。

「前言撤回だ。君の姫君がほしい」
「安易な考えはよせ。珠蓮を手に入れたところで、お前の欲しいものは手に入らない」
「そんなの……やってみなければ分からないだろう!」

 どうして何振り構っていられるだろうか。そんな時間などなかったのだ。それに気づくのにどうしてこんなにも遅かったのだろうと思わずにはいられない。
 愚かだと分かっている。それでももう引き返せなかった。風がぶつかる。遠く響く雷鳴のように、交差した。けれどどうしてだろう。頭の中でふと浮かぶのは、あのバカみたいに笑う、間抜けな顔だった。

 白く染まった視界から解放された後、地に伏したのは自分の方だった。お互いに調律者の能力を借りていないというのに、どうして勝てないのか不思議でならなかった。

「お前……一体どんな契約を結んだんだよ……こんなこと、ありえない……っ」

 素の能力だけなら、大差はないはずだった。けれども、実際はどうだ。魈は未だに涼しい顔をしていて、切れた腕を心配しているだけだ。その心配も、あの姫君が苦しんでいないかとそれだけの気がかりに過ぎなかった。
 歯を食いしばり、届かぬ領域に悔し涙を滲ませる藤哉に、魈は憐れみからかぽつりと口を開いた。

「前提が違う。確かに我らの契約は特殊なものではあるが……我らは……」

 その先を魈は口にする気がないようだった。ただ、静寂だけがその答えを持っていた。藤哉はもう一度ぐっと拳を握りしめると、「ちくしょう……」と声を震わせ、無理やり身体を引きずって歩き出す。魈は咎めなかった。その遠ざかる後ろ姿を静かに見送った。

 半ば引き摺るように進む身体は、節々が痛んで仕方なかった。いつもは用意周到な策略だって、頭の中には浮かんでこない。あるのは果てのない憎しみと、渇望と、屈辱だけ。一体何が足りないのか、その答えは見つからないままだ。

「くそ……っ」

 腹の奥が煮えたぎるように熱い。傷のせいで満足に動かない身体が重ったるいったらありゃしない。こんなところだけまるで精巧な人間のようで反吐が出る。生まれてこの方、いいことなんてなかったと自嘲さえ湧いてくるのに、ふと、あのバカみたいにへらりとした顔が浮かんで、口を噤んだ。

(何で……あいつの顔なんか……)

 ほんの少しだけ、特異な性質を持った調律者。自分のことを好きだという、変わり者。能力値を紐解いてみれば、それ自体は特に優秀という訳ではないが、相性はよかった。
 故意に思い出そうとしなくても、ルリの顔と声が頭の中に自然と浮かんでくる。それが、あまり嫌ではなかった。

『大好きだよ、藤哉くん!』

 呆れかえるくらい、幸せそうに笑うから、頭の中で鮮明にその表情がよみがえる。馬鹿馬鹿しいと思うのに、どうしてだか、その言葉に、その笑顔に、救われてる自分がいるような気もした。

(……本当に、どうかしてる)

 ふわりと胸に浮かぶのは、愚かしいほどに素直な「ルリに会いたい」という気持ちだった。藤哉は自分がこんな風に誰かに会いたいなんて思う日が来るなんて思わなかった。それも、こんな無様を晒した後でそう思う誰かがいるなんて、なおさら思わない。それと同時に、おかしなことにルリに申し訳ないと思う気持ちが湧いてくる。何振り構わず、珠蓮を手段として求めたこと。それに対して、確かな罪悪を感じているのだ。
 それが何故なのか藤哉には分からない。分からないまま、ただ進んだ。純粋にルリに会いたいという目的のために。鎖に繋がれたように重い足を引きずりながら、藤哉は一歩一歩進んでいた。








 こつんと何か物音がした気がして、ルリは自分に宛がわれていた部屋の窓を開ける。きょろきょろと辺りを見渡すも、変わったことはないような気がしたが、ふと気になって下の方へと視線を下げると、僅かに何かが動いた気がした。
 じっとそこを見つめていると、それが人であることに気づいてルリははっとする。慌てて下へと向かうと、そこには血濡れになった藤哉がいた。

「藤哉く――っ」
「しっ、静かにしろ。騒ぎを起こすな」

 額に脂汗を滲ませた藤哉が寸ででルリの悲鳴を押し殺す。荒い息を繰り返し、肩を上下させる姿に、ルリは瞳を潤ませた。

「酷い怪我……早く手当てをしないと」

 ルリはちょうど来ていた医者を呼ぼうかと思ったが、藤哉は今でも秘密にしたいようで、判断がつかなかった。それを察したように藤哉は首を横に振って誰も呼ぶなと態度で示す。

「異能力者の怪我なんて、調律者の力を借りればどうにでもなる」
「でも……」
「いいから、ちょっと貸せ」

 そう言って藤哉は問答無用でルリの両頬を片手で鷲掴みにすると、そのまま強引に口付ける。正しく物を扱うような仕草だったが、その粗野な行動に対して、不思議と口付けはどこか優しかった。

「ふ……ん、ぅ……」
「……はぁ、……っ」

 口付けの合間、交わる視線が熱を秘める。ルリのキャンディのように甘い瞳が蕩けるのはいつものことだったが、藤哉の蒼紺の瞳も、何かを訴えるような、そんな熱いものを感じた。

「とう、や……く……っふ、ぅ……」

 呼ぶなと今度は怒られなかった。貪るように求めるような口付けが、宥めるような仕草を見せる。それがまるで許されたみたいに感じて、ルリは僅かな衝撃と共に、胸がトクトクと鼓動を打つ。

(藤哉くんがここに来たのは、傷を治すためだって分かってるけど……でも、でも……)

 きゅっと腰に手を回された腕。引き寄せられて隙間がないくらい胸がぴったりと合わさる。恋人ごっこをしていた時の方が、甘かったかもしれない。だけど、あの時よりもずっと、ドキドキした。

「藤哉くん……何だか……優しい……?」
「……普段優しくなくて悪かったね」
「えっ! そ、そんなつもりじゃ……!」

 意地悪な藤哉くんも好きだよ、なんてフォローにもなっていない言葉を慌てて声に出すルリに藤哉は微妙な顔をしたが、それすら馬鹿馬鹿しくなったのか「君は嘘が下手だな」とふっと表情を綻ばせる。
 それが思わず見とれてしまうくらいに綺麗で、ぽぅとルリが惚けていると、藤哉の指先がすうっとルリの頬を撫でた。

「悪かったな、性急で」
「う、ううん。それより怪我は大丈夫? 痛くない?」
「出血は止まった。特に問題はない」
「問題ないって……」

 まだ怪我したままなのに、とルリは心配そうな顔をする。今まではその心配すら鬱陶しいと、自分の実力を軽んじられているように感じて腹を立てていたが、今は不思議とその心配も悪くないように思う。
 少しだけ調子が元の戻ってきた藤哉は、不意にどこか意地悪そうな顔を覗かせた。

「そんなに心配なら、君に慰めてもらおうかな」
「え?」
「こういうこと」
「あ……」

 とん、といとも簡単にルリは藤哉に押し倒される。整備された芝生の上、人目を忍ぶように生い茂る木々に囲まれた中で、小鳥の声だけが耳に響いていた。
 身を屈ませた藤哉の唇が首筋を這う。濡れた唇の感触にルリは短く悲鳴を上げると、はっと我に返って藤哉の胸を控えめに押した。

「まっ、待って! ここお外だよ!」
「だから?」
「誰かに見られちゃったらどうするの〜!?」

 その時はその時だろうと口にしようとして、藤哉はそういえば、一応外の警備には男の使用人も採用されていたことを思い出す。見られて困るものなんてなければ、適当にその場をやり過ごす自信もあったが、気が進まなくなってしまった。
 しょうがないと一息ついて身を起こすと、そのままひょいっとルリを抱え上げ、三階のルリに宛がわれていた部屋へとひとっ跳びした。

「わ、わぁ〜! びっくりしたぁ!」

 はわはわと未だに驚いた様子のルリを一瞥して、藤哉は扉へと歩み寄ると、さっと鍵をかける。それから人除けの術式などを施すものだから、ルリはまた慌てた。

「と、藤哉くん!? 本当にここでするの!?」
「外は嫌なんだろ」
「そうだけどぉ〜! ここ、珠蓮ちゃんたちのお屋敷――んっ」

 うるさい口を塞ぐようにルリの口を自身のそれで塞ぐ。そのままベッドへと押し倒して、柔らかな胸へと手を伸ばした。啄むような口付けと共に、やわやわと胸を揉まれ、ルリの身体から徐々に力が抜けていく。子猫が鳴くような声が漏れ出てきたところで、藤哉はくつりと内心でほくそ笑んだ。

「口では嫌だといいながら、身体の方はそうでもなさそうだな」
「う……」
「それでいい。そのまま僕に身を委ねてろ」

 絡まる吐息が熱くて、触れる手が優しかった。まるで、初めの頃みたいに戻ったようで、不思議そうにするルリに、藤哉はふっと笑う。
 久しぶりに交わるその時間が温かくて、穏やかで。身の内から満たされていくのを感じた。

「はぁ……」
「ん、ぅ……とう、や、くん……からだ……へいき……?」

 気遣うように藤哉を見上げるルリに、藤哉は君の方こそどうなんだと思ったが、口には出さなかった。その心配にくすぐったい気持ちを感じつつも、そう悪い気はしなかったからだ。

「お陰様でね。君もこれでよくなったんじゃないか?」
「うん?」
「神聖力の補充にはやっぱりこれが一番効率がいいからね」

 なんてことはない異能力者と調律者の契約において、至って常識的なことを口にしただけだった。藤哉はルリが恥ずかしがりながらも、当然うんと頷くものだと思っていた。けれど、藤哉の予想に反し、返ってきたのはどこか言いにくそうなルリの伺うような表情だけだった。その反応に怪訝な表情を浮かべる藤哉に、ルリはえっと、と言いにくそうに口を開く。

「実は……魈くんがそのことを心配して、私に異能力者をつけるって……」

 その話は既に魈の口から似たようなことを聞いていたため、藤哉は驚かなかった。

「……報告するのはそれだけか?」

 だから、その続きも他に何かあるなら話してみるといいという、常よりも幾分か穏やかな反応だったはずだった。少なくとも、この時までは。

「あ、その……それで……その、断れなくて……魈くんがつけてくれた異能力者の人から少し精気を――」
「――は?」

 零れ出た声は、自分でも驚くほどに低かった。藤哉の反応にルリはまずいことを言った自覚がとりあえずあったのだろう。何やらその異能力者について弁明しているようだったが、不思議と声が上手く頭に入ってこなかった。

「何で、そうなる……」
「何でって……それは、その……元々は、魈くんのもう一人の調律者にならないかって、珠蓮ちゃんが提案してくれて……え、えっと……その……」

 もごもごと語るルリの話はどうも要領を得ないが、藤哉の優秀な頭脳はその全貌を概ね正しく推測した。珠蓮が何故敵に塩を送るような真似どころか、自ら敵を作るような行動に出たのか真意は定かではないが、結果的に魈はそれを却下したのだろうと思う。けれど、神聖力の問題は残る。ルリが不調を訴えなくていいように、お優しい二人はそれを解決できる異能力者を準備したというところか。その流れに、どうにも、吐き気がした。

「……来いっ」
「わ、きゃっ!」

 乱暴にルリの腕を引っ掴んだ藤哉が、肩へと担ぎ上げると、彼はそのまま窓から屋敷を離脱した。どんどんと遠ざかっていく屋敷にルリは慌てて口を開いた。

「と、藤哉くん! 勝手に出てきたら珠蓮ちゃんたちが――」
「五月蠅い黙れ」
「で、でもっ」

 尚もやっぱりダメだよと言い出そうとするルリの尻をばちんと力いっぱい叩く。反射的に悲鳴と涙が零れ出るルリが、あまりの衝撃に口を噤むと、藤哉はそれでいいとばかりに静かな怒りを滲ませて口を開く。

「そうやって黙ってろ。僕の許可なく口を開けば、どうなるか分かったな」

 先程までの空気が嘘のようだった。触れれば切れてしまう鋭く研いだナイフのように、いつの間にか切られた傷口がじくりと熱を持つ。きゅっと口を噤んだルリは、それでもだんだん遠ざかって小さくなっていくあの屋敷を見つめるのをやめられないでいた。言葉に出せない代わりに、心の中で二人への感謝と、勝手に出ていくことの謝罪を呟く。何度も、何度も。
 それがわかっているかのように、藤哉の蒼紺の瞳は冷たい光を宿していた。








 藤哉が連れてきたのは、和風建築の寂れた屋敷だった。人の気配がない屋敷は早くも痛み出していたが、藤哉は特に気にすることもなく、地下へと降りると、座敷牢のようなところにルリを閉じ込めた。
 急な藤哉の変貌に戸惑うルリに対し、藤哉はこれといった説明をするでもなく、暫くここで反省するように言ったきりだった。
 ルリは途方に暮れたような表情で座敷牢の小窓から差し込む光を見上げる。気がかりなことはたくさんあったが、その中でもやはり世話になった珠蓮たちに黙って屋敷を抜け出したことだけは未だに気持ちが落ち着かなかった。

「珠蓮ちゃんも魈くんも……今頃心配してるよね……」

 あんなによくしてくれたのだ。何の挨拶も前触れもなく忽然と姿を消したルリに今頃は大慌てだろう。部屋の中も随分と荒れてしまっていたから、事件性を疑われてもおかしくない。どうしようと頭を抱えるルリの耳に、不意に怒りを滲ませた声が届いた。

「またお前は凝りもせず他人のことを心配しているようだな」
「と、藤哉くん……」

 薄暗い座敷牢に顔を出した藤哉は、心底嫌そうな顔で「呼ぶなって言ってるだろう」と口にする。またしても振り出しに戻ってしまった関係にルリは戸惑いを覚えるのだった。

「あの、私……」

 何か藤哉くんの気に障るようなことしちゃったんだよね、と言わんばかりの落ち込んだ表情に、藤哉は一瞥だけくれるとふんと視線を逸らす。ルリが全く分かっていないのも、また、自分があんなことで腹を立てているという事実にも藤哉は苛立ちを感じているようだった。
 それに何より、身の内に燻る苛立ちが収まりきれず、ルリに酷い態度をとるのが自然となり、それに対して僅かにでもルリが怯えを見せようものなら更に怒りが生まれるという悪循環に陥っていた。
 鋭い視線で睨みつければ、途端にしおしおと元気をなくすルリが癪で、藤哉はルリの長い藤色の髪を引っ張って立たせた。

「い、いたっ」

 ルリの悲鳴を聞いても手は緩まない。ルリが痛みに顔を歪ませるのを見ると、腹が立つのと同時、どこかいい気味だと思う自分もいて、彼の心はぐちゃぐちゃだった。

「よく聞け。調律者にとって契約できる異能力者は一人だが、異能力者にとってはそうじゃない。あの世間知らずのお姫様が自分の主人の愛人に君を据えようとしたように、優秀な異能力者は数名の調律者と同時に契約することが出来る」

 珠蓮への嘲りを交わらせながら、藤哉は異能力者と調律者の理不尽極まりない血の契約について今一度説明する。けれど、その概要よりも、到底聞き捨てならない珠蓮への侮辱に、ルリは珍しく怒ったような顔をした。

「っ、珠蓮ちゃんはそんなつもりであんなこと言ったんじゃないよ! 本当に、本当に、たくさんたくさん考えて、それでも魈くんを一緒に守ってほしいって言ってくれたんだよ! それがどんなに勇気のいることで、つらいことだって藤哉くんだって分かってるはずなのに……っ、どうしてそんなこと言うの……!?」

 愛人だなんて言わないで欲しい。珠蓮のことを悪く言わないで。あたたかい、二人の関係をそんな言葉で穢して欲しくない。そんな思いがルリの中で渦巻く。ルリの迫力には藤哉も驚いているようで、珍しく間が空いた。

「友だちだって……言ってくれたんだよ……珠蓮ちゃん。私……珠蓮ちゃんに本当のことなんてほとんど言えてないのに……」

 友達だからきっとできると珠蓮は言ってくれた。大好きな人を大好きな人となら支えていけるはずだと。そう珠蓮は考えてくれたのだ。

「私のことは何て言ってもいいから……お願い、藤哉くん……珠蓮ちゃんたちのことだけは、悪く言わないで……」

 お願い、と涙ながらに懇願するルリに藤哉の瞳が微かに揺れる。それから、ルリの中で藤哉が思っている以上に、珠蓮との絆が芽生えていたことに歯噛みした。
 ぎりっと奥歯を噛んで、口から出た言葉は我ながらこれはないだろうという、負け犬じみた静かな叫び声だった。

「僕より……あいつらを取るのか……」
「それは……」

 その先の言葉を聞きたくなくて、藤哉は鉄の檻に勢いよく拳を鎮める。派手な音が響いて、鼓膜を揺らす中、藤哉はそのままの勢いでルリを組み敷いた。

「うるさいうるさいうるさい!! 口を開けばあいつらのことばかり!! よっぽどあの屋敷の居心地がよかったようだな!?」
「と、とうやく――」
「呼ぶなって言ってるだろう!? 勝手に僕の名≠呼ぶな!! 勝手に、僕を定義・・するな……!!」

 僕は認めない、とまるで血反吐を吐くように藤哉は叫ぶ。ルリの瞳が戸惑いに滲んで、躊躇いがちに伸ばされた手を藤哉は勢いよく叩いた。傷ついたようなルリの瞳に対し、真っ直ぐに藤哉は怒りをぶつける。その怒りも何のためなのか、どうしてこうも苛立つのか、自分でも分からなくなっていた。

「お前も所詮、口だけに過ぎない……僕が馬鹿だった。選ばれるのはいつだって、僕以外の誰かなのに」
「それってどういう意味……? 私は藤哉くんのこと……本当に……」
「慰めはいらない。答えならもう出ている。そう、揺るぎない……答えが……」

 ――どうして、君を信じようなんて一瞬でも愚かなことを思ったのだろう。

 藤哉の瞳は後悔を映す。最初からそうだ。藤哉は、彼は、選ばれない。いつだって選ばれるのは向こう側で、自分はひっそりと日陰で過ごすしかないのだ。
 太陽に憧れて日の下に出てみても、あまりにも場違いで、お前は誰だと首を傾げられる。何処へ行っても、自分はいつまでも余所者で、孤独だけがぴったりと付き纏う。
 そんな存在を誰が肯定するのだろう。誰が、愛するというのだろう。誰にも見つけて貰えないまま、彷徨うことしかできないのに、どうして希望をみたりしたのか。滑稽でならなかった。

「……それでも、お前は僕のモノだ。お前が僕から離れたいと思っても……そうはさせない。お前はこのまま、僕と地獄へ落ちろ」

 自分が歩む道は決して明るいものではない。血濡れた暗い道だと分かっている。そんな場所にルリは似合わないと思いながら、それこそが罰だとも思う。
 相変わらず心はぐちゃぐちゃで、けれど手放すこともできないで。自分はどこへ向かう気なのか、どうしたいのかもわからない。ただ、離れないようにこうして鎖で繋いでる。行かないでくれと、どこかで懇願するように叫ぶ声が聞こえる。その声は不思議と自分のものと似ていて、それがまたひどく情けなかった。

「藤哉くん……!」

 待って、というルリの引き留める声を無視して、藤哉は地下の座敷牢を出ていく。何か誤解が生まれていることはわかっていても、聞きたくないとばかりに遮断してしまう藤哉に、ルリは途方に暮れた。牢には鍵がかかっていて、自力で出ることは出来ない。藤哉と話をしたくても出来ない状態が、数日と続いた。
 藤哉と話ができるチャンスは一日に三回。朝昼晩の食事を運んできてくれる藤哉に一言だけ投げかけるチャンスが生まれる。何故一言だけなのかというと、第一声だけを聞いて藤哉はいなくなってしまうからだ。その第一声も聞きたくて聞こうとしているわけではないことも明白だった。
 最初は「藤哉くん、あの……」という言葉ばかり零していたルリだったが、これでは何も伝わらないと思い直し、「今日もご飯ありがとう」や「今朝のお味噌汁美味しかったよ」といった話へ変えていった。藤哉からの返事はなかったが、美味しいといったおかずが出てくる頻度が高くなったりしているため、聞いてはくれているのだろう。それと同時にその藤哉の気遣いがなおさらルリに誤解を解かなくてはいけないという気持ちを奮起させてくれた。藤哉は何も変わっていない。自分が知る、自分が好きになった優しい藤哉のままだ。きっと他の誰が聞いても藤哉が優しいということに首を傾げるだろうが、ルリは藤哉の優しさをそれでも信じていた。
 今度こそ藤哉と会話ができるような、そんな言葉を投げかけよう。何がいいだろう、どうしたら反応をくれるだろうとうんうん唸りながら考えていると、そこにふと足音が聞こえる。食事の時間でもないのに聞こえてきた足音に、早くもチャンスが回ってきたのかもとルリは慌てて何を言うかを考えた。
 けれど、ルリの予想に反して現れたのは、ルリもよく知る人物だった。

「随分と面白い顔をしているな。軟禁生活に弱り切っていないか心配だったが……それも杞憂だったようだ」
「ル、ルピノアちゃん!?」

 予期せぬ人物の来訪にルリは驚いて声を上げる。それに対してルピノアはしーっと静かにするよう唇の前で人差し指を立てて合図する。慌てて両手で口を押えたルリにルピノアが静かに近づいた。

「珠蓮たちから連絡を受けてな。キミのことを探していた」
「あ……二人はなんて……? 心配かけたよね……」
「心配はしていたが……魈の方は事情を察しているようだった。キミが考えているより酷いことにはなっていない」

 ずっと気がかりだった二人の様子を知れたことでルリはほっと息を吐く。慣れたような手つきで座敷牢の鍵を開けたルピノアに、ルリは控えめに尋ねた。

「どうしてここだってわかったの……?」
「キミを攫ったとすれば、あれが一番可能性として高いからな。心当たりのある拠点をいくつか周っただけだ。それにキミとは一応繋がりがあるからな。大体の方向は見当がついた」

 問題ないというルピノアにルリはほへーと感心したような表情を浮かばせる。その様子はどこからどうみてもあまり理解していない感じではあったが、ルピノアは特に何も言わなかった。
 簡単に怪我がないかを確認すると、ルピノアは体内の神聖力の巡りをよく観察し、短く息を吐く。

「とりあえず異常はないな。神聖力の巡りも良好だ。もっとも、こんなところにいるくらいだ。関係は良好とは言えないだろうが」
「う……それは、その……はい」
「素直でよろしい」

 大変だったなとルピノアの小さな手がルリの頭を撫でる。その仕草にどこか安堵を覚える自分がいた。座敷牢で孤独に過ごす時間が、思っていたより堪えていたらしい。頼りになるルピノアの登場に少しだけ心が温まった。

「我が珠蓮から頼まれたことは、キミの様子を見て来ること。そして、キミを救うことだが……ルリ。キミは、ここから出たいのか?」
「それは……」

 ルピノアの問いに、ルリは今一度考える。ここから出たいのかと聞かれると出たいとは思う。けれどそれは藤哉から離れたいという意味ではなくて、牢に隔てられることなく、藤哉と話したい、藤哉と過ごしたいという至って普通の感情からだった。
 僅かな沈黙にルピノアは質問の方向性を変えるようにしたようで、改めて無機質な声で問いかける。

「では、キミは――我の調律者になる気があるか?」
「……」

 そうルピノアに問いかけられるのは二度目だった。魈が話をつけて派遣してくれた異能力者。それがルピノアだったのだ。医療班の最高責任者を務めるルピノアが異能力者であることは、改めて考えてみると何ら不思議なことではなかったが、あの時は随分驚いたものだと思う。
 そして、ルピノアはルリに今日と全く同じことを問いかけた。その問いに、ルリは――。

「死ね! ルピノア!!」

 瞬間、弾丸のように飛び出てきた藤哉が繰り出した爆風がルピノアに直撃する。鋭い音を立てて渦巻く風が壁にめり込んでいく。その有様にルリは悲鳴を上げた。

「ルピノアちゃんっ!!」

 慌てて立ち上がったルリがルピノアの方へと駆け寄ろうとするのを藤哉の腕が引き留める。驚いて振り返ると、藤哉は怒りとも、哀しみともつかぬ複雑な表情をしていた。
 その表情があまりにも衝撃で、ルリは何と言ったらいいのか分からなくなる。固まった一瞬の沈黙の後、瓦礫からむくりと小さな体が起き上がった。

「相変わらずキミは短気だな。挨拶にしては随分と過激だ」
「挨拶? まさか。いつから僕たちがそんな親しい仲になったって言うんだい? 寝言は寝てから言え」
「……ふむ。まったく困った坊やだ」

 ボキボキと身体の節々から音を鳴らせるルピノアだが、その顔は至って涼しいもので、直撃したにも関わらず然程ダメージを受けていないように見えた。ルリの視線を感じたルピノアはそちらへと視線を向けると、「安心しろ。我がとりわけ頑丈だ」といつもの無機質な表情を覗かせた。
 けれど依然戦闘態勢を取る好戦的な藤哉にルリはわたわたと慌てた様子を見せる。それに苛立ったように藤哉は皮肉げな物言いをした。

「そりゃ頑丈だろうな。君は人ではないんだから」

 ポロリと零された情報に、ルリが「え……」と瞳を瞬かせる。その反応に藤哉は実に愉快そうに口元を歪めた。

「異能力者と調律者の保持は、国家にとって最優先事項だ。いつ生まれるかも分からない子を待つより、人工的に作り出してしまった方が早いと考えるのは自然の道理だ。ルピノアはそうやって作られた、人工生命だよ」

 驚いたかい、と耳元で囁かれるそれに何と反応を返していいのか、ルリは分からなかった。戸惑う心のまま、視線を彷徨わせる。ルピノアの方を見れば、彼女は実にあっさりとそれを肯定した。

「ああ。いかにも我は人工生命体……所謂ホムンクルスだ」

 だから、我が異能力者であるのは何も不思議ではないとルピノアは相変わらず無機質に告げる。感情の起伏は希薄で、心を感じ辛い。それ故に自らが何者であるかなどどうでもいいことだった。
 どうでもいいこと故に、彼女は藤哉を理解できない。

「だが、キミは我のことを言える立場なのか?」
「……何が言いたい」
「それはキミが一番分かっているのではないか? いくら我を嘲ろうとも……本質はキミもそう大差ないということを」

 その言葉は藤哉の琴線に触れた。怒りを爆発させるように異能の出力を上げる。エンゲージこそしなかったが、ルリは神聖力が藤哉に吸われていくのを感じたほどだった。
 それに危機感を覚えたルリがルピノアに気を付けるよう叫ぼうとすると、それを遮るように藤哉の蹴りがルピノアに入った。

「ルピノアちゃん!!」

 悲鳴じみたルリの声が藤哉にとっては不快だったのだろう。お前はどっちの味方なんだ、とでもいう責めるような眼差しがルリへとそそいだ。
 ルリはよくわからない。何故藤哉がそんな目をするのか、どうしてそう、どちらの味方だとか、白黒つけたがるのか。ルリには、よく分からないことばかりだ。
 その子供じみた藤哉の思考に呆れるように、ルピノアの声が響く。

「そんなに恐ろしいのか……? キミもまた、半物の実験体であることがバレるのが」
「? はん、ぶつ……?」
「っ黙れ!」

 癇癪を起すかのように追撃する藤哉の拳をルピノアが片手で受け止める。掌から結界が形成され、それは鎖のように伸びて藤哉の身体を拘束しにかかる。藤哉がその鎖を迎撃しつつ逃れている最中、ルピノアの口は止まらない。

「何故そうキミは恐れる。完全な人間ではないことが後ろめたいのか? それとも、完全な神になれなかったことが悔しいのか?」
「黙れって言ってるだろう! お前如きが勝手に僕を語るな!!」
「先に語ったのはキミだろうに。相変わらず理不尽なやつだ」

 やれやれ仕方ないなとでも言うように、ルピノアは眉を下げたが、その拘束の鎖は緩まない。藤哉も手加減をすることなく能力を行使しており、地下室は酷い有様だった。

「二人とも待って! 壊れちゃう! 壊れちゃうよ〜!」

 破壊音と同時に、壁が崩れ落ちていく。頭を手で守りながら丸くなるルリをそっちのけで、二人の攻防は白熱した。
 この戦いが停戦を迎えたのは、ルピノアの片腕がぽろりと崩れ落ち、藤哉が異能の使い過ぎで飛行が困難になってからだった。ルピノアは落ちた片腕を拾うと「今ので大分血の気は抜けただろう」と口にして、とりあえず今回は出直すことにしたようだった。

「ルリ。前に我が言ったことを忘れるなよ。我はいつでもキミの味方だ」
「あ……うん、ありがとう」

 敵意はないことを示すように、ルピノアは敢えてその場で腕をくっつけることなく、その場を去っていく。藤哉は一瞥したが、これ以上視界にいれたくないとばかりにすぐに顔を背ける。残ったのは、半壊した座敷牢と、疲れた様子の藤哉だけだった。

「……無様だと思うか」
「え……?」

 沈黙の中、ぽつりと藤哉が口を開く。膝を抱えて、顔を半分伏せた藤哉にルリは何と声をかけていいか一瞬迷ったが、素直に首を横に振った。

「ううん。思わないよ」
「……慰めはいい」
「そうじゃなくて……藤哉くん、自分のことあんまり話さないから……ちょっと分かって、私はよかったなって思ったの」

 その言葉に藤哉の瞳がルリへと向けられる。どこか胡乱な表情にルリは慌てて弁解するように口を開いた。

「あの、その……藤哉くんが名前に拘るのって……元々の名前に思い入れがあるからなのかな、とか……そうだったら、私ちゃんとそこ最初に聞けてなくて……怒っちゃうのも無理はないなって思ったというか……」

 今までは、藤哉と呼ぶなという理由を自分を嫌いになったからだと思っていたが、ここに来てそうではないかもしれない可能性が浮上して、ルリは少しだけ希望が見えた気がしたのだという。黙って聞いていた藤哉は僅かに瞳を揺らして、それから首を振った。

「思い入れなんてない……」
「そ、そっか……私の勘違い……」

 えへへと誤魔化すように笑うルリだが、希望が潰えてしまったことでやっぱり嫌われちゃったのかもと落ち込んだ表情を覗かせる。けれど次の瞬間、藤哉はもう一度だけ否定を入れた。

「……名前なんて、なかった」
「……え?」
「あの人は……母は……僕に名前なんてつけてくれなかった……」

 その声音には、途方もない悲しみとどうしようもない孤独が滲んでいた。
 神の領域に達した異能力者が、この世で七人存在する。その内の一人である雷神が藤哉の母であり、藤哉を神の領域に押し上げるため、人体実験を試みた。けれど、結果は彼女の満足する領域ではなかったようで、彼は打ち捨てられた後、妹に嫡子の座を追われた。

『待って! 母上! 僕はまだやれる! やれるって! だから待って、僕を見捨てないで!!』
『僕の名前を呼んで……お願いだよ、母上……母上……』
『ああ……そうだ……僕に名前なんて……なかったんだった……』

 それに気づいたとき、藤哉は自分だけのものが欲しくなった。他の誰にも代われない、自分だけを求める存在が。歪んでいるのは分かっていた。けれど、どうしようもなかった。この果てのない苦しみと悲しみに終止符を打つ方法がそれ以外に見当たらなかったのだ。

「お前も……僕だけを愛するなんてことは無理だ……そんなこと、分かってるのに……くそっ」

 最初から無理なことくらいわかっていた。だから手を伸ばすなんて愚かなことはしまいと思っていたのに。気づけばこのざまだ。何て無様で滑稽なんだろう。自分が一番かっこ悪いことなんてわかりきっていた。
 凍えるように膝を抱えこんで丸くなる。じっとこうして孤独に耐えるのが癖になっていた。
 けれど、不意に温かくて柔らかい温もりが藤哉の身体を包み込む。それがルリだと気づくのに暫く時間がかかった。

「大丈夫……そばにいるよ」

 包み込むような抱擁は緩くて、振りほどこうと思えばすぐに振りほどけるような気がした。けれど、どうしてだかそんな気にはなれなくて、ただその温もりが心の奥をざわつかせる。

「嘘だ……お前もいつか僕の元を離れる」
「そうかな? 私は藤哉くんのそばにいたいって思うよ」

 ただの戯言だと分かっているのに、信じたくなってしまうのは何故だろう。信じてしまったところで、後で苦しむのは自分だと分かっているのに。それでも振りほどけなかった。この柔く脆い腕が温かくて、泣きたくなるほど切なかった。

「お前は……僕のモノだ」
「うん。藤哉くんのものだよ」

 全部あなたのものだと抱擁する腕を藤哉はやはり解かなかった。きっとどんなに言葉を尽くされても、藤哉がルリを本当の意味で信じることはないだろう。それほどまでに、藤哉の中の孤独と悲しみは深く、気持ちを受け入れるだけの器の底には穴が空いていた。
 ただ静かに、時が砂粒のように流れていく。そこに言葉はないままに、ただこの時を享受した。









 藤哉は目の前で怒っていますという顔を精一杯に浮かべる少女に嫌そうな顔をした。その横でこの少女に何かしたらただではおかないというオーラを放つ男には更に辟易とした。

「ルリさんを攫ったのはあなただったのですね。ルピノアさんから聞きました。何でもとても粗末な扱いをなさっているとか。そんなにひどいことをなさるのなら私のところに御返しください。私の方がとてもとてもルリさんを大事にできます」

 舌ったらずな声が姦しい。よくこんな子供の相手が出来るなと、藤哉は彼女と契約する異能力者である魈に一瞬だけ尊敬の念を抱く。むしろ彼が可愛い可愛いと猫かわいがりをして何でも許すものだから、こんな怖いもの知らずで幼稚に育ったのではないのかとすら思う。どちらにしろ、自分には到底務まりそうにない大役であった。

「とかいって……君も自分の都合でルリを振り回そうとしてたんじゃないかい?」
「……どういう意味ですか」

 珠蓮の瞳がじっと藤哉の瞳を見つめる。けれどそこに僅かな警戒が滲んでいるのを藤哉は見逃さなかった。

「ルリの特異体質に目をつけたのは僕だけじゃないってことさ」
「……」
「別に責めてない。賢い選択だ。けれど……君は僕と違って非情にはなれない。その内罪悪感と絶え間なく押し寄せる嫉妬と自己嫌悪で君は壊れておしまいだよ」

 ――よかったね、これで君はまだ、美しいままお姫様でいられる。

 その言葉に、珠蓮が「ぁ……」とか細い声を出してふらふらと崩れ落ちそうになるのを魈が抱きとめる。黄金色の瞳が射殺さんばかりに鋭く藤哉に刺さるのを「おー怖い怖い」とおどけた様子で受け流した。

「ま、いじめるのはこれくらいにするよ。あんな馬鹿げたことを言い出した動機がなんであれ、訪れなかった未来の話に意味はない。君がルリに抱いた好感も、ルリを僕から救けたいと思う気持ちも嘘ではないんだからね」

 そうでなかったら、平手の一つくらいお見舞いしていたとは言わないけれど。珠蓮はすっかり魈の腕の中で大人しくなっていて、藤哉は随分な意地悪をしたような心地になった。こんなにか弱いとはさすがに思わなかったのだ。やはり周りからちやほやされて育った温室育ちの人間は弱いものなのだろう。それに、こうも過保護な番犬がいては、なおのことだった。

「我と契約を結ばずとも、代わりは幾らでもいる。お前よりまともな人間を探すことなど造作もないことだ」
「それをルリが望まないとしても?」

 皮肉気に、いっそ勝ち誇ったような表情でそう口にする藤哉に、珠蓮が縋るようにきゅうっと魈の腕を握る。魈はその手を上から重ねると、何でもないことのように頷いた。

「ああ。今はそう思えていても、世界を知ればお前など取るに足らない男だったとすぐに知ることになる」
「……お前」
「自分でも分かっているはずだ。どれだけ自身が矮小で、相手にとって価値のない存在なのか」

 その言葉にカッとなって魈の胸倉を掴む。珠蓮がきゃっと悲鳴を上げて「放して!」と藤哉の手を放そうとするのを他ならぬ魈が制した。
 彼の黄金色の瞳は不思議なほどに凪いでいて、藤哉の怒りに染まった蒼紺とは正反対な色をしていた。

「図星か」
「まさか。お前こそ何の自己紹介をしているんだよ。まったく聞いていて反吐が出る」

 それはお前のことだろうと鋭い牙を覗かせて威嚇すれば、魈は「そうだ」とすんなりと頷いた。その呆気ない返答に面食らったのは藤哉だけではない。

「だからこそ分かる。我とお前は……よく似ている」

 いっそ憐れみすら感じる視線だった。お前と一緒にするなと叫びたいのに、そんな言葉すら出て来てはくれない。今の言葉がよほどショックだったのか、あまりに予想外だったのかすら、藤哉は自分でも分かっていなかった。

「そんなわけ……ッ」
「魈のばかっ」

 何かを言い返さないといけないと、そうでなければならないと絞り出した声に、舌ったらずな罵倒が重なる。はっとして目の前へと視線を向ければ、そこにはぽかぽかと魈を叩いて怒る珠蓮の姿があった。

「まだそんなこと言ってる! そんな風に自分のこと言わないでって何度も言ってるのに! どうしてそんなことを言うの? 私は魈のことそんな風に思ったことなんてないのに!」
「珠蓮……」
「魈がいいって決めたのは私だもの!」

 魈のばか、ばか、と繰り返す珠蓮の目尻には涙の粒が滲んでいて、ぽかぽかと胸を叩く力は本当に怒っているのだろうことが伺えた。魈は珠蓮が手を痛めないようにそっと包み込むと「すまない」と小さく口にした。彼は微かに眉を下げて申し訳なさそうな顔をしたが、それでも前言は撤回しなかった。
 ただ、どうしようもない隔たりがそこに存在しているようだった。何の憂いもなく、お互いだけが唯一である完成されたはずの関係が、酷く脆く見えた。その現実が、意外なほど藤哉にとって受け入れがたいものを感じさせた。

(何で僕がこんな気持ちにならなくちゃいけないんだ……)

 これではまるで、二人に夢を見ていたようで、それがまた気に入らなかった。胸がざわざわとして落ち着かない。これ以上この二人を見ていたくなくて、何も聞きたくなくて、藤哉は踵を返す。それに気づいた珠蓮が何かを言っていたように思うが、大して耳に入らなかった。どうでもいいことだったのだと思う。けれど、珠蓮の声とは反対に、魈の声はよく通った。

「逃げているばかりではどうにもならない」

 そんなこと、自分でも分かっていることだ。それ以前に逃げているつもりもないと言おうとして、それが口に出せないことに歯がゆさを覚える。
 くっと奥歯を噛みしめていると、魈は釘を刺すように、ともすれば最後の忠告のように静かに告げた。

「忘れるな。代わりが利かないのは我らではない。彼女たちの方だ」
「……っ」
「お前も本当は分かっているのだろう」

 その問いかけに分かった風な口を利くなよと心の中で毒吐く。これ以上の言い合いをする気にはなれなかった。身体は何ともないのに、最悪の気分だ。舌っ足らずな声がまた姦しく何かを言っているが、もうどうでもよかった。
 頭の中で魈が言っていた言葉が木霊する。そんなはずはないと否定したくて、けれど否定できる材料がそうないのに気づく。そんなことはないと誰かに否定して欲しくて、藤哉はそれをルリへと求めた。可笑しいことも、狂っていることも最初から分かっている。分かっていてもどうしようもできない。こんな時どうしていいのかなんて、誰も答えをくれなかったのだから。







 酷いことをしている自覚は頭の片隅にあった。
 こんなやり方はきっと違うのだろうと。
 少なくとも、あいつらはこんな風に身体を重ねることはないのだろうと。それだけは、漠然と感じていた。
 けれど、その愛し方が正しいのかは今となってはもう分からない。そして、これが正しいということはもっとない。正しい愛し方なんて分からないままに、藤哉は今日も、どうしようもない燻りをルリへとぶつけることで自分を保っている。

「この程度でへばるな。僕はまだ満足してない。ほら、起きろ」
「ぅ、あ……」

 叱責するようにルリの頬をペチペチと叩く。火照った頬に、藤哉の冷たい体温が意識を戻した。
 理性が解きほぐされて、ぐずぐずになって何も考えられなくなったのを確認して、藤哉はお決まりの台詞でルリに問いかける。

「お前の契約者は誰だ」
「ぁ……藤哉……くん」
「お前が好きなのは?」
「藤哉……くん」
「お前が一番大切なのは?」

 藤哉くん、とルリの声が続く。確認を綺麗に終えた藤哉は最後に「そうだ」と頷いて「でも呼ぶな」とルリの丸い額をはねた。
 理不尽極まりない藤哉の蛮行にも、ぐずぐずに溶かされたルリは何が起こっているのかよく分からない様子で、ぼんやりとしていた。
 藤哉はその様子を鼻で笑うと、再び腰を打ち付ける。ずぷずぷと鳴る音に藤哉は気をよくしたようだった。

「本当にお前は堪え性がないな。なんだこの音は? こんなに濡れるなんて聞いたことないぞ? ん?」
「あっ、あ、っ、いわ、ないで……っ」
「耳を塞ごうとするな」

 そう言って藤哉が咎めると、ルリはしぶしぶ手を下ろす。行き場のなくなった手が控えめに藤哉の胸に降りても、藤哉は何も言わなかった。ただ、意地悪気な様子で秘部を指先で弄り回し、びくびくと快楽に震えるルリを責め立てた。

「調律者に夜伽はつきものだが、その点お前は困りそうになくてよかったじゃないか」
「っ」

 その声に嘲りは含まれていなかったものの、その言葉はルリの胸をちくりと刺した。今の今まで蕩けたキャンディのように甘かった瞳に、悲しみが差したのを見て、藤哉は一瞬だけ口を噤む。

「……チッ、一般論だ。いちいち真に受けるんじゃない」
「う、うん……ごめんね……」
「別に、謝らなくていい」

 興が削がれたと口にした藤哉は、それから無言で抽送を速める。突然の攻めに翻弄されるルリの様子を藤哉は静かに見下ろしながら、やがて自身も欲を吐き出す。
 襲ってくる倦怠感と共に、心の空虚さを自覚するのはいつものことだった。こうなると分かっていながらどうしてルリに必要以上に手を出すのかでさえ、分からないままだった。
 無言のままでいる藤哉の頬に、すっとルリの手が伸びる。ふと視線を向ければ、そこには心配そうな色が瞳に滲んでいた。

「藤哉くん……大丈夫……?」

 呼ぶなと言っているのに、ルリは相変わらずそう名前を呼ぶ。変なところでタフなのか、それともただ単に鳥頭なだけなのかと思いながら「何だよ」と答えれば、そっとその手が頬へと添えられた。自身とは違う、人の温もりがそこにはあった。

「何だか……辛そうに見えて……」
「……僕が?」
「うん……私の勘違いかもしれないけど」

 えへへと苦笑を浮かべるルリに、藤哉は何も言わなかった。勘違いかそうではないかを言えば、多分、勘違いではないだろう。けれどそれを素直に認めるのは癪で、代わりにルリへと藤哉は問いを投げかけた。

「お前は……何で僕を好きでいる?」
「え?」
「僕は……嫌われこそすれ、君に好かれるようなことをしてない……」

 ずっと思っていたことだ。藤哉はルリに好かれることをしていない。むしろ酷いことばかりをして、いつ愛想をつかされても不思議ではない立場だ。それどころか、ルリの周りには自分などよりよほど正しい愛し方が出来る、ルリを大切に思う奴らがいる。その中で自分を選ぶルリが藤哉には信じられなかったのかもしれない。
 藤哉の問いに、ルリはぱちりと瞳を瞬くと、すぐになんだというようなへにゃりとした表情を浮かべた。

「うーんとね、多分最初は一目惚れなんだと思う」
「……は? 一目惚れ……?」
「うん。初めて藤哉くんを見た時、なんてかっこいい男の子なんだろうって、びっくりしたから」

 多分、そうなんだと思うと言われて、藤哉は拍子抜けしたような気持ちになった。確かに、あの七神に名を連ねる母を持つだけあって、顔の造りは大層整っているのは間違いなかったが、いざ顔が好きだと言われると複雑なものがある。また、それだけで君はこの暴挙を許すのかという心配すら湧いてくる。藤哉のじとりとした表情を見たルリは慌てて弁解するように口を開いた。

「も、もちろんそれだけじゃなくて! やっぱり出会いが出会いだったし、藤哉くんのことを王子様に思ったのもそうだけど……藤哉くんのことを知っていく内に、どんどん好きになっていったのも本当なんだよ」
「……例えば」
「例えば……そうだなぁ、藤哉くんが実は結構寂しがり屋で、やっぱり優しい人だってわかったりかな」
「はぁ?」

 寂しがり屋で、優しいとは誰のことだと藤哉は思う。誰かと勘違いしてるんじゃないかと怪訝な表情でルリを見ていると、ルリは苦笑して一個ずつ指折り数えていった。

「だって藤哉くん、私が藤哉くんのそばにいたいって言っても許してくれたし、おかずだって私が好きって言ったもの覚えてくれてるよね。それに、藤哉くんがその気になれば私なんていくらでもどうとだってできるはずなのに……私のこと、何だかんだ許してくれてる。それは、藤哉くんが優しいからじゃないかな」

 それらは些細なことの積み重ねだ。何か大きな印象に残るものでもなければ、日常に転がるほんの一コマを切り取っただけにすぎない。けれど、ルリはそんな一片が愛しいのだという。藤哉には到底理解できなかった。
 けれど、分かったことはある。ルリは自身の抱える、口には出せない孤独を理解し、それを受け止めようとしてくれたのだと。一人で蹲る自分にそっと寄り添うことを選んだのだと。何となく、それは伝わった。

「僕より優しい奴なんて……山ほどいる」

 魈の言葉が重い。相応しくないのは相手の方じゃない。いつだって本当は自分の方なのだ。
 好きなんて言うな。苦しくなる。
 終わりのあるものに興味なんてない。
 嘘だ。本当は終わらないでいて欲しいだけだ。
 いつか終わりが来るのなら、そうじゃなくなる日が来るのなら、最初から希望なんてみせないでくれと、臆病な心が顔を出す。
 ルリだって、いつかどうせ、自分の前から――。

「そうかもしれない。でも、私がもらって嬉しかったのは藤哉くんだからだよ」
「……」
「大丈夫。藤哉くんは強い人だって、私は知ってるよ」

 陽だまりのような微笑みが屈託なく向けられる。その微笑みが眩しくて、藤哉は僅かに目を細めた。
 馬鹿だと思う。本当に馬鹿だと思う。自分からどうしようもない奴のところに落ちてくるルリも、その選択が嬉しいと感じてしまう自分がいることも。馬鹿馬鹿しくてしょうがない。
 胸の奥から、瞳の奥から込み上げてくる熱いものを誤魔化すように、藤哉は視線を逸らす。

「本当に……馬鹿だな」

 そう口にする声はいつもよりずっと覇気がなくて、脆い響きを乗せていた。
 罅割れていたはずの心が、少しだけ満たされていくような気がした。未だ不完全なままの器に、水が注がれていく。ほんのわずかに溜まったそれに、藤哉は何かを見つけたような、そんな心地がした。









 事態が動いたのはそれから間もなくだった。
 組織内に切り札両名の行方不明という報が駆け巡る。戦闘部隊のみならず、医療班や情報分析班、上層部までありとあらゆる者たちがその捜索を急いでいた。
 魈と珠蓮が姿を消したのは、極秘任務に当たった直後だという。それ以上の開示がなされなかったが、藤哉はこれが所謂七神に関する案件だと独自の情報とその慧眼から推察した。癪ではあったものの、少なからず七神に関連する情報を持つルピノアを捕まえて擦り合わせをすれば、それはほぼ確定で間違いないという答えに至った。

「彼女たちが当たっていたのは、おそらく岩神モラクス……岩王帝君からの密命で間違いないだろう。元々珠蓮は彼に献上されるはずだった娘だ。危険だと分かっていても魈が断れるはずもあるまい」
「あいつが行くと分かっていて、ついて行かないお姫様でもない、か」

 厄介なことになったなというのが正直なところだった。七神に関わる任務となると、国家規模のそれだ。簡単に手を出せるような案件でもなければ、好奇心で首を突っ込むなんてことをして首が飛びかねない。放っておくのが一番良さそうではあった。けれど、妙にルリの顔がちらついて落ち着かなかった。

「キミはどうする?」
「どうするもなにも……」

 あの二人はルリと関りが深い。組織から遠ざけているおかげでルピノアがうっかり・・・・口を漏らさない限りは大丈夫だろうが、二人にもしものことがあった場合、傷つくどころの話ではなくなってしまうだろう。それが分かっているだけに考えあぐねていた。

「迷っているのならそれが答えなのではないか?」
「……」

 ルピノアにそう言われると素直に頷きたくはなかったが、沈黙は肯定だということをルピノアもよく分かっていた。藤哉がその答えを出すのを分かっていたように、ルピノアは何やら資料を出す。

「ここ最近のモラクス付近の情勢を探ってみた。おそらくだが、二人が向かったのは黄金屋だろう。あそこは今ファデュイ揉めていたからな」
「……ファデュイと揉めてたなんて話聞かなかったけど?」
「表に出ていない水面下での話だ。沈黙するのはそれだけ多くに隠したいことがあるからだが……人の口には戸が立てられない」

 その口を割らせたのはどこのどいつだよ、と口には出さずともうんざりした様子で藤哉はルピノアを一瞥する。資料に目を通すと、そこに見覚えのあるマークが刻んであるのに気づいた。

「これは……」
「分かるのか? そのマークは稲妻のものだろうことまでは解読したが、その意味までは突き止められなかった」

 箔押しされた三つ巴の印。藤哉は無意識に自身の首に手をやった。そこには寸分違わず同じ印が刻まれている。

「分かるどころじゃないさ……ハハッ、まさかあいつが絡んでいたなんてね……」

 そうなると話は変わってくると藤哉は不敵に笑う。
 一体何故ここに母の印があるのか。二人が行方不明になった事件にどう関与しているのか。それらを自分の手で暴いて見せると藤哉は静かに闘志を燃やす。
 その後ルピノアと細かな作戦について詰めると、藤哉は屋敷に戻り、ルリのいる座敷牢へと姿を現した。突然の藤哉の来訪にルリは驚いていたが、藤哉はルリの意見を伺うことなく、決定事項を告げた。

「これから僕は暫く留守にする。その間ここからは出してやるが、屋敷の外には出るな。いいな」

 それだけだと踵を返そうとする藤哉に、ルリは慌てて声をかける。

「待って藤哉くん! 何かすごい任務でも任されたの? 私も一緒に行くよ!」
「いい。かえって足手纏いだ。ここで大人しくしてろ」
「でもっ」
「二度も言わせるな」

 いいな、と念を押す藤哉にルリはでも、とまだ言いたい様子だったが、藤哉の気迫に適わずついにこくりと頷いた。それを見届けて、藤哉は屋敷を後にする。ルピノアと再び合流すると、彼女はルリがいないことに気づいて「置いてきたのか」と言葉をかけた。
 戦いの激化が予想される場所に乗り込む場合、異能力者の調律者の有無は大きく任務の成否に影響する。そのことを知らない藤哉ではないというのに、藤哉らしからぬ非現実的な選択にルピノアはふむ、と何やら考えている様子だった。

「おい、ぼさっとするな。さっさと行くぞ」
「ああ」

 こうして凸凹な二人による魈と珠蓮の救出作戦が行われる。いったい二人が行方不明になるほどの強敵とは何だったのか、緊張が走る中二人は足を進めた。
 岩神モラクスの膝元、璃月へと渡り、賑わう港を迂回して黄金屋を目指す。そこらの銀行より厳重な警備を潜り抜け、息を殺して二人の情報を探った。
 ルピノアがセキュリティシステムを一時的に乗っ取り、藤哉に道を開く。奥へ奥へと進んでいくにつれ、形容しがたい不気味な雰囲気がひしひしと肌に伝わってくる。
 一刻も早くこんなところからおさらばしたいところだと思っていると、通路の先、奥まった実験室のような場所に磔にされた魈を発見した。

「おい、生きてるか」
「……お前は……何故ここに……」
「喋れる元気があるなら何よりだ。今下ろす」

 藤哉がそう言って魈を下ろそうとすると、魈が慌てた様子で「待てっ、触るな」と制止する。それに何故だと顔を上げると、魈は汗を滲ませながら首を振った。

「我に振動を与えるな。その瞬間、珠蓮にダメージが入る仕掛けになっている。我はこのまま捨て置いてもらってかまわない……それより、珠蓮を……」

 随分と衰弱した様子だった。珠蓮を助けてくれと懇願する魈に藤哉はぐっと拳を握る。それだけで、大体の経緯が読めてしまった。

「調律者を人質にとられたのか」
「ああ……見かけない絡繰りだった。血の契約による強化を強制的に無効化する。不意を突かれたところで珠蓮を……くっ」

 珠蓮を護れなかったと悔しげな声を出す魈の瞳には深い後悔の念が見えた。
 調律者を盾に取られた異能力者がこうも無効化されるのは、二人の絆が仇となったからだろう。珠蓮を傷つけられることを容認できなかった魈は一方的に嬲り者にされる道を選んだらしかった。

「その絡繰りの特徴は? 効果は強化の無効化だけか?」
「我が直接見たのは強化の無効化だけだ。だがあの絡繰りはファデュイが使うものにしては、スネージナヤというより……稲妻の形状に近かったように思う」
「! 稲妻……」

 藤哉の脳裏に、三つ巴の印と母の横顔が浮かぶ。岩神のお膝元である璃月に手を出すのはいかに雷神といえど簡単なことではない。けれど、それがあの人にとって必要なことであるのならやるだろうなという考えが頭の片隅にはあった。

「お姫様の居場所は?」
「わからない……だが、そう離れてはいないはずだ。気配は近くに感じる」
「……生命反応は?」
「正常だ。珠蓮自身が直接痛めつけられるようなことにはなっていない。あるとすれば、我を介したダメージだけだ」

 その妙に確信めいた言葉に藤哉は僅かに首を傾げる。だがすぐに、ファデュイの目的に珠蓮が組み込まれていることを想定して、とりあえずふと浮かんだ疑問は封殺することにした。

「そもそも、君たちは何でこんなところにいる? 岩神モラクスの命令か?」
「……」
「おいおい、だんまりなんてあんまりじゃないかい? 危険を顧みずわざわざ助けにきてやったっていうのにさ」

 じとりとした目を向ければ、魈もそこには思うところがあったのか渋々とした様子で口を開く。
 岩神の名が出てきたこともあり、完全に隠し通すことは無理だと判断したのだろう。

「そうだ。我は岩王帝君の密命を受け、任務に当たった。仔細は省くが、ここにいるくらいだ。概ねお前たちの予想に差異はない。帝君の財≠守るべく馳せ参じたまでのこと。当初は我だけで遂行するはずだったが……」
「あの子が着いてきたのか。そんなことだろうと思っていたさ」

 岩神からの直々の命だ。危険が付き纏うのを分かっていて珠蓮を同行させる魈でなければ、一人で行くと分かっていてついてこない珠蓮でもない。今まではそれでよかったのかもしれないが、今回は未曽有の絡繰りもあり、仇となったようだ。

「最後に聞く。お前たちが守っていた財≠ニはなんだ?」
「それは……分からない。帝君はあまり詳しいことは仰らなかった。ただ、守ってくれと……それだけだ」

 自分たちが守るべきものの正体すら知らないで任務に当たるという見上げた忠誠心に、藤哉は僅かに頭を抱えた。嘘をついている様子もなく、これ以上の情報は期待できないと悟ると、長居はしまいと足を進めた。

「それじゃあ僕は先に行く。後で君のことはルピノアが何とかするだろう。それまで大人しく待っていることだね」
「ああ、恩に着る」
「この借りはでかいからな。よく覚えておくんだよ」

 魈が了承したのを見届けて、藤哉は次の階へと足を進める。奥へと向かう度、まるで誘導されているような感覚がしたが、他に道はない。仕方なくそれに乗ってやろうと進んでいると、黄金に輝く大量のモラが流れ出る広間に、捕らえられた珠蓮と、ファデュイの重鎮がそこにはいた。
 その男には見覚えがある。ファトゥス第十一位、「公子」の名を持つ青年だ。タルタリヤは無言で睨みつけてくる珠蓮に手を焼いているようだった。

「そう怖い顔をしないでおくれ。可愛い顔が台無しだよ、お嬢ちゃん。確かに彼のことは悪かったと思っているけど、俺は君と敵対はしたくないんだ。出来れば君とは円滑に契約を結びたいところだからね」

 そう言ってタルタリヤは珠蓮の前にしゃがみ込むと、握手を求めるように手を伸ばしたが、相当怒っているのか珠蓮はすぐさまその手にカプリと噛みついた。反射的に「痛っ」と声を上げたタルタリヤが腕を引っ込めると、僅かに滲んだ血に苦笑を浮かべた。

「困ったなぁ、すっかり嫌われちゃったみたいだ」
「あんなに魈に酷いことをしておいてどうして私があなたに協力すると思うの? 契約なんてもっての他だわ。私は魈以外の誰とも契約なんかしない。あなたと契約するくらいなら死んだほうがずっとマシだもの」

 その瞳が本気だということを感じ取ったタルタリヤの空気が変わる。未だ幼さの残る少女相手に手荒な真似は出来るだけしたくなかったが、タルタリヤにも事情というものがある。「そうか、それなら仕方ない」と彼は残念そうな顔をして、部下から渡されたリモコンを手に持った。

「っ、また魈に酷いことをするの!?」
「いや……まぁ、結果的に言えばそうなるけれど……メインは君の方かな」
「私……?」
「そう、君」

 そう言ってタルタリヤはボタンを押す。すると身体を走る経験したことのない激痛に珠蓮が悲鳴を上げた。ビリビリと電流が可視化されるほどの衝撃。温室育ちの珠蓮でなくとも耐えることができる者はそうはいなかった。

「ぁああああああっ!!」
「傷を与えず、痛みだけを与える特別製さ。その分文字通り死ぬほど痛いだろうけど」

 タルタリヤとしても珠蓮が痛みに悶え苦しんでいる様を見ることは辛いのか、あまりもったいぶる様子もなく、違うボタンを操作してモニターを映す。そこには変わらず磔にされた魈がおり、不思議なことに魈にも同様のダメージが向かっているようで、藤哉は急いでルピノアに確認を取った。

「おい、どうなってる!? なんであいつまで……!?」
『何ら不思議なことではない。契約上の予定調和だ』
「はぁ? いったいどんな契約を結べばこんなことになるんだよ!?」

 藤哉は一瞬魈の過保護を疑ったが、いくらなんでもそれはないだろうと即座に否定が浮かび上がる。調律者のダメージをそのまま異能力者にも反映させるなんて、百害あって一利なしだ。精々制約を設けるのであれば、危機察知くらいだろう。それなのに、この契約はまるで――。

(どっちが主か分かったものじゃ……。! 待てよ……)

 まさかという考えが頭の中に浮かぶ。珠蓮は魈の調律者でありながら、魈が受けたダメージの半分以下のダメージしか反映されない。出自の確かな優秀な調律者という肩書に今までは違和感を持たなかったが、もし、前提が違っていたのなら全ての辻褄が合う。

 まるで珠蓮こそが主かのように振舞う魈。
 岩王帝君に献上されるはずだった優秀な調律者である珠蓮。
 それに加え、選んだのは自分だと珠蓮は主張し。
 魈は珠蓮の状況を正確に感じ取っていた。
 これらから導き出される答えはひとつしかなかった。

(まさか……彼女は調律者でありながら、異能力者でもあるのか……? 契約を結んだのは魈ではなく彼女の方……!!?)

 どうりで魈が隠していたはずだと思う。そんなことが知られれば、ただでさえ珠蓮を欲する者は多いというのに、更に厄介な連中に目をつけられかねない。こうなることを危惧して魈は今まで何を言われようとも沈黙を保っていたのだった。全ては、珠蓮を護るために――。

「さぁ、どうするお嬢さん。我慢比べもいいけど、知っての通り君のナイトは既に傷だらけだ。君より先に限界がくるんじゃないかな」

 痛みに悶えながらもタルタリヤのその声はしっかりと珠蓮の耳に届いたようで、痛みとは別に珠蓮は苦悶の表情を浮かべる。ぎゅっと握りしめた拳には悔しさが滲んでいて、モニター越しの魈へと向ける視線には深い悲しみがあった。

『ダメだ珠蓮……我のことはいい……奴の思い通りになってはいけな、ぐっぁあッ!!』
「魈……!!」

 肌に罅が入ったように魈に電流が流れていく。目の前で痛めつけられる愛しい人の姿に涙が滲んだ。

(私が……魈を選んだから……)

 最初は異能の代償に苦しむ魈を助けたい一心だった。
 自分にその素養があると知ってからは魈と契約するとそればかり口にして。
 岩王帝君の有難い申し出を辞してまで、半ば無理やりに魈と契約を結んだ。
 魈は珠蓮にこれは間違いだと諭しながらも、それでも一緒にいることを叶えてくれて、守ってくれる魈に甘えていたのだ。
 その結果がこれだ。自分が狙われたばかりに魈を苦しめてしまった。そして、魈は今も珠蓮を護るために傷ついている。
 それならもう十分だと思った。十分、自分は幸せだった。魈を助けられる選択肢があるのなら、迷う必要などどこにもなかった。
 ――たとえそれが、果てのない闇へと続く道だとしても。珠蓮は少しも、迷ったりしない。

「ごめんね、魈……大好きよ」

 あの時交わした契約をここで解消する。さよならと言葉にならない声をかき消すように魈の制止の声が届いて、それから――爆風が轟いた。

「まったく……胸糞悪いな」

 巻きあがる風が髪を攫う。リモコンが破壊されたことで痛みから解放された珠蓮が目を開けると、そこには不機嫌そうな藤哉がいた。

「あ、あなた……」
「下がってろ。こいつは僕が相手してやる」

 ちょうど機嫌が悪いんでね。いい的になりそうだと口にする藤哉に珠蓮は戸惑うが、続けざまにルピノアの声が聞こえてはっとした。

『システムダウン。魈のリンクを切った。今のうちに奪還するといい』
「その声……ルピノアさんも」
「呑気にお喋りしてる暇はないぞ」

 早く行けと藤哉は小型ロボットを投げて珠蓮の案内役をさせる。珠蓮はそれに「ありがとう」と短く礼を言って駆けだした。それを止めるようにタルタリヤが出ようとするのを藤哉が足蹴りにして食い止める。見えなくなった珠蓮の背中にタルタリヤはやれやれと息を吐いた。

「仕事が増えちゃったな。まぁいい、この作戦は俺も性に合わなくてね。強い奴と戦えるなら俺も文句はないさ」
「御託はいい。君の役割は大人しく僕のサンドバッグになることだ」
「こりゃまた随分と機嫌が悪そうで」

 実際、藤哉は機嫌が悪いなんてものではなかった。最悪の気分だ。あの二人には何かしらの秘密があるとは思っていたが、それがまさかこんなに単純なことだっただなんて。前提条件が大きく覆った今、あの二人から得られるものはなにもなかった。しかもそれをルピノアまで承知だったのだから、自分はどれほど滑稽だったのかと想像すると腸が煮えくり返って仕方なかった。

「とりあえず……死ね」

 風を纏った蹴りがタルタリヤに炸裂する。水の刃を具現化させたタルタリヤが受け流すも、弾丸のように跳ねる藤哉の攻撃は早く、次第に押されていく。
 鋭い風が刃となり、タルタリヤの身体に傷をつけていくのを見て、藤哉は妙だなと感じた。

「お前……いくらなんでも弱すぎないか? こんなのにあいつが負けるとは思えないな」
「あはは、辛辣だねぇ」
「答えろ。何を隠してる」

 いくら珠蓮を人質に捕らわれたとしても、魈はこの程度にてこずる男ではない。調律者による強化がなくとも、充分に一人で片づけられるはずだ。他に仲間がいるのか、それとも別の絡繰りがあるのか。
 その問いにタルタリヤはもったいぶるのをやめたようで、稲妻式の形状をした絡繰りを手にする。そこにある三つ巴の紋様に藤哉は敏感に反応した。

「それは……」
「君はよく知ってるんじゃないかな。そう、これは……神への一手を差し伸べる、神器だ」
「神器だと……?」
「ああ、これを使えば加速的に異能は進化を遂げる」

 代償はつきものだけどねと口にしたタルタリヤは、そのままその絡繰りを起動させる。途端にまばゆい光を放ち、辺りを覆ったそれが収まる頃には、タルタリヤは異形へと姿を変えていた。

「何だ、その姿は……」
「これを使うのは今日で二度目だ。明日のことはあまり考えたくないな……でも、強者との戦い程胸を躍らせるものはない」

 二度目という言葉に、あいつ嘘つきやがったなと魈へとヘイトを向ける。ちっと舌打ちをした直後、眼前へと迫ってくるタルタリヤに一瞬反応が遅れ、壁へと打ち付けられる。じゃらじゃらと滝のように流れ出てくるモラが鬱陶しく、藤哉はやや大袈裟に飛翔した。

「驚いたよ。もともとの異能とは別の能力も扱えるのか。へぇ、便利だな」
「興味が出たかい?」
「それなりにはね」

 雷の力を帯びて三つ巴が紫色に発光する。頭の中で母の姿がちらついてしょうがなかった。
 神に届くための力。母が自分に与えようとし、失敗した計画。興味が出るどころの話ではない。
 けれど同時にちょうどいいとさえ思う。神の一手に届くその力に打ち勝った瞬間、自分の存在が証明されるのも同義であるのだから。
 藤哉は不敵な笑みを浮かべて、タルタリヤへと蹴りを落とすのだった。









 戦いは激化の一途をたどった。絡繰りによって禍々しい力を手に入れたタルタリヤに対し、生身で挑むことになる藤哉には調律者がおらず、その差は疲労とともに次第に開き、気づけば藤哉は床に膝をついていた。
 神に一手届くというだけあって、タルタリヤからは疲労の色も見えず、端的に言うと状況は最悪であった。

(くそっ、最近こんなのばっかだな……)

 切り札エースの次は得体のしれない化け物ときた。どいつもこいつも普通に戦えないのかよとうんざりした心地になる。
 武装したタルタリヤが一歩一歩とこちらへと迫ってきていた。

「結構楽しめはしたけど、期待外れかな。威勢の割には呆気なかったよ」
「……」
「所詮は雷電将軍の失敗作ってところからな」

 いちいち癇に障る奴だなと拳を握りしめる。お前に何がわかると言いたくても、これじゃあまるで負け犬の遠吠えだ。「成功例の方とはどれくらい違うのかな? あんまり大差ないとがっかりだな」なんて勝手なことをいうタルタリヤに怒りが滲むと同時、こんな神の贋物にさえ勝てないのかと自分が情けなくなった。

(僕は……まだ届かないのか……? いや、そもそも……届くことなんて……)

 ないのかもしれない。自分は所詮、母に打ち捨てられた失敗作でしか……だから、どれだけ手を伸ばしてもその領域に届くことはなく、母も自分を見ることはないのかもしれない。
 遠いと感じた。果てしなく、遠いと。自分が行きたかった領域が絵空事のように感じて、見返してやると燃えていた炎がだんだんと小さくなっていくのを感じた。
 不意に派手な爆発音が聞こえる。明らかに何かあった様子の音に藤哉は思わず振り返った。

「なんだ!?」
「あー……「淑女」かな」
「仲間がいたのか」
「そりゃあね。重要任務が二つもあるんだから、執行官が二人来ていてもなんら不思議なことはないだろう?」

 お嬢さんたちには悪いけれど、今頃倒れてるころなんじゃないかな、と口にするタルタリヤは少し億劫そうだった。珠蓮と契約する機会を逃すことになったのが惜しいのだろう。やる気がそがれたとばかりに肩を回していた。

(冗談じゃない。あんな化け物じみた絡繰りがもう一つあるだって? どうなってるんだよ)

 せっかく助けにきてやったというのに、これじゃあ意味がないみたいじゃないか。そもそも、自分がここにいること自体藤哉にとってはありえないことだったというのに、気まぐれは起こすものじゃないなとため息がこぼれる。

「悪いね。君に恨みはないけど、この件に関わった以上は俺も相応の対処をしなくちゃなんだ。恨まないでくれよ」

 そういって刃を藤哉に向かって振り下ろさんとするタルタリヤに、藤哉ははっと嘲笑する。地獄に落ちろ、そういおうとして、けれどその刃が藤哉を貫くことはなかった。ほんの一瞬、瞬きの間に見覚えのある鮮やかな藤色の髪の持ち主が目の前で藤哉を守らんと、刃を押し返していた。

「ルリ……?」
「藤哉くんにひどいことしないで!」

 珍しく怒りを乗せたルリの声に呼応するように、結界が刃を弾く。反動でタルタリヤが跳ね返ると、ルリは明るい顔で藤哉に振り返った。

「遅くなってごめんね! もう大丈夫だよ!」

 まるで何かのヒーローのように、そんなセリフを言うルリに藤哉は信じられないものを見た心地だった。

「なんでお前がここに……」
「ルピノアちゃんの羊さんがここまで運んでくれたの。事情は聞いたし、珠蓮ちゃんたちにもさっき会ったところ」

 またしてもお前の仕業かとルピノアへ怒りが向くが、ルピノアはまったく悪びれもせずに藤哉に状況を伝えた。

『結果的に良かっただろう。キミは戦意喪失直前で、我の叱咤激励程度ではどうにもなりそうになかったからな』
「お前!」
『それに「淑女」と会敵したうちのエースだが、多少のアクシデントはありつつも見事撃破した。残っているのはそこの「公子」だけだ』

 助けが必要ならエースを呼んできてやってもいいぞ。満身創痍だがな、といつものように無機質に答えるルピノアに、藤哉はしばし沈黙すると、小さな声で呟いた。

「あいつら……あれに勝ったのか……」

 淑女の階級は公子より更に上だ。それにあのボロボロの状態で打ち勝ったというのだから、藤哉はにわかに信じられなかった。味方の上げた白星にさえ、届かないと打ちのめされる自分がいる。まるで分厚い壁で隔たれているような気がした。

(僕に……勝てるのか……?)

 ルリを守りながらタルタリヤに勝つ自分のビジョンが浮かばなかった。イメージされるのは、先ほどのぼろぼろになった魈と珠蓮が自分たちに置き換わる光景だ。何も守れず、何も倒せず、何も届かない。そんな自分でいっぱいになって、目の前が真っ暗になっていく。むりだ、と口から出そうになったその時、温かい手が藤哉の両頬を包んだ。

「大丈夫、私がいるよ」
「……ルリ……」

 柔い手が不思議と大きく感じた。ルリがあまりにいつも通りの温かい表情をするものだから、ここが戦場だということも、絶体絶命であるということも忘れそうになる。何も言えず瞳を揺らす藤哉に、ルリはもう一度「大丈夫」だと声をかけた。

「藤哉くんならできるよ」

 あまりにもまっすぐな信頼だった。まっすぐすぎて、藤哉には眩しすぎて目がくらむ。

「……何を根拠にそう思うんだ……」

 その信頼に応えられる気がしなくて、口から出た言葉は弱弱しい。けれどルリはそれでもできると信じていた。

「だって、藤哉くんは優しくて、あったかくて、すっごく、強い人だって私は知ってるから」

 まただ、また、ルリはそう言って信じている。そんなわけがないといったって、ルリはどこまでもそうやって信じている。

「藤哉くんが自分を信じられなくても、私が藤哉くんの分まで、藤哉くんを信じるよ」

 ――だから、絶対に大丈夫だよ。

 よせと言いたい。そんな風にはできないと。そんな人間じゃないと否定したい。けれど、ルリがあまりにも屈託のない表情で信頼を寄せてくるから、そう言いたくても言えなくなる。
 心からそう思っているのがわかる。嘘がつけないやつだから。馬鹿みたいに自分んことを信じてくれた奴だから。その言葉に嘘がないとわかってしまう。

「だから嫌だったんだ……そんな風に言われたら、出来ないなんて情けないこと言えないだろ……」
「藤哉くん……」

 うんざりだ。何かに追いつこうとするのも、何かを証明しようと思うのも。何かを否定するのも。
 どれもきつくてしょうがない。生きづらくて苦しくてどうにかなりそうだ。
 それならいっそ、一度くらい夢物語みたいなルリの妄言に付き合ってやるのも悪くないかもしれない。どうせきついなら、出来ないものばかりなら、最後に自分を信じてくれた人間の期待に応えてやるくらい、なんてことないはずだから。

「行くぞルリ=B僕たち・・・で神に勝つ!!」
「――うんっ!!」

 その瞬間、重ねられたエンゲージに奇跡が舞い起こる。眩い光はルリの瞳のように美しく輝き、タルタリヤは目を瞠った。神の領域。確かにその一手に並んだ二人に戦好きの血が躍るのを感じた。
 雷蛟と暴風がぶつかり合って爆風を巻き起こす。その戦いを見届けながらルピノアは静かに口を開いた。

『異能力者と調律者の関係はいつだって一方的なものだ。けれど、そこにお互いへの信頼と最も強く純粋な思いが生まれたとき、その力は神をも凌駕する未知の領域へと足を踏み入れる』

 それはまるで、神から与えられた祝福のように。
 平等に与えられる機会であり、また、平等に失う機会の多い条件だ。

『それを人はきっと愛≠ニ呼ぶのだろうな』

 心があるが故に縺れ、心があるが故に人は交わることができる。
 何度だって、きっと。そのたびに人は強くも弱くもなれるのだろうから。

『おめでとう藤哉=Bキミの願ったものは、確かに今、叶ったぞ』

 爆風とともに巻き起こる煙がはれると、タルタリヤは地に伏せられ、武装も解除されていた。立ち上がったままあーつかれたとばかりに肩を鳴らす藤哉の後ろから元気に飛びつくルリの姿が見えた。

「やった! やったぁ! 藤哉くんすごーい!」
「ふん……まぁこれくらいは……」

 なんてことはないと言おうとして、藤哉の言葉が止まる。不自然に途切れたそれに、ルリが不思議そうに首をかしげると、藤哉はルリに向き直ってどこか真面目な顔をした。

「君のおかげだ。ありがとう、ルリ」
「え……」
「君が信じてくれたから、僕は君が信じる僕を信じてみようと思えた」

 そうじゃなかったら自分のことをきっと信じられなかった。そればかりか、ルリを守れたかさえ怪しい。今までの自分ではできないことを成し遂げられた理由がルリであることを藤哉はよくわかっていた。

「今まで酷いことをして悪かった……」

 謝って済むことじゃないけど、ごめんと謝る藤哉に、ルリはそれはもう慌てた。

「そんな! 私ちっとも何も気にしてないよ! 藤哉くんにひどいことされたなんて全然思ったことないし……」
「それもそれでどうなんだと思うけどね……」
「あー、うー、とにかく! 本当に本当に大丈夫だから!」

 あわあわとルリが手をぐねぐねさせる様子がおかしくなった藤哉が、ふっと表情を和らげる。その瞬間、新たな足音が響いてきて、藤哉ははっとし、ルリを後ろに庇った。「何か来る」そう言って注意深く開け放たれた扉の方を見ていると、よく知った姿が現れた。

「っ……」
「これは……あなたたちが倒したのですか」
「だったら何だ」
「いえ、手間が省けて何よりです」

 静かな声だった。何の興味もなさそうな、藤哉と同じ色をした瞳がわずかに一瞥した。
 何らかの関りがあるかもしれないと思ってはいたが、こうして実際に母の姿を見ると、藤哉は複雑な感情に襲われた。
 母、雷電将軍はコツコツと気絶しているタルタリヤへと歩み寄ると、絡繰りを奪い取り、自身の手の中で粉々に砕く。そうしてそのまま踵を返そうとする将軍に、藤哉は声を投げかけた。

「待て」
「……何か?」
「それ、あんたが関わってるんだろう。三つ巴が刻まれてた。何が目的だ」

 言い逃れはできないぞとばかりに睨みつけてくる藤哉にも大した反応はないまま、将軍は簡潔に答えを出す。

「私の絡繰りの技術を悪用した者がいます。私はそれを確かめ、砕くために訪れたまで。もっとも、私がやる前にあなたがたがすでに対処したようですが」

 この借りは岩神に返すとしましょうか。と口にする将軍に、藤哉はあっさりと答えられてしまったこともあり、これ以上なんといっていいのかよくわからなくなってしまった。
 まるであの時と一緒だ。

「聞きたいことはそれだけですか?」

 聞きたいこと。何で自分を捨てたのか、自分のことは覚えているのか。聞きたいことはたくさんある。けれど、いざ目の前に現れた母に対して、その質問を投げかける勇気がなかった。
 不意に、握られた手に力が入る。横を向けば、まるで応援するように、自分に寄り添うルリの姿があった。

「……聞きたいことは、ない。けど、聞いてほしいことなら、ある」

 何者でもなかった、何にもなれなかった自分が、今までの自分だとしたら。今はたぶん、生まれたてもいいところだけれど。もし何か言うことがあるのなら、これだけは伝えたいと思った。

「僕の名前は藤哉≠セ。それだけは覚えていてほしい」

 はっとルリが息をのむ。藤哉のまっすぐな眼差しに、母は静かに目を伏せ、そして頷いた。

「藤哉……ええ、わかりました。覚えておきます」

 そう言って去っていく母の後姿を藤哉は黙って見送った。なんだか心が妙に晴れ晴れとしていて、不思議な感覚だった。

「藤哉くん……よかったの? 名前って、大切なものじゃ……」
「馬鹿だな。大切だからこれでいいんだろ」

 藤哉の呆れたような返答にルリはぱちりと瞳を瞬く。

「それって……どういう……」
「……鈍感」
「ええっ」

 わたわたとするルリに藤哉は「早くこんなところおさらばするぞ」と急かして、どういうことなのかは教えてはくれなかった。もしかしたらそうなのかなと思いながらも、答えは沈黙の中に宿る。
 その様子にルピノアはやれやれと肩をすくめながら、四人の帰還を手助けするのだった。

 その後、魈と珠蓮の帰還に組織は表向きひと段落を見せたものの、肝心の当人たちやルピノアは何かと忙しくする羽目になったようで、ざまあみろと思っていた藤哉だったが、藤哉が神の領域に踏み込んだことが早々に露呈し、階級を上げると同時に責任や雑用などが押しかかるはめになったことで、若干不機嫌な日が続いた。
 岩王帝君は思いのほか魈と珠蓮を気にかけていたようで、スネージナヤを牽制すると同時に、何らかの取引を行ったようだった。ルピノアの見解によると、この一連の騒動そのものが岩神の掌の上であったというのが有力な説であった。藤哉とルリが進展を見せた一方で、魈と珠蓮の方でも何かあったようで、しばらくぶりにあった二人はまた力を上げていた。こっそりとルリに珠蓮が話していたところによると、実は今までキス以上の触れ合いをしていなかったのだというのだから、つまりはそういうことなのだろう。ルリと魈を共有するなんて言えたのもそういう背景があったと思うと、なんとかわいらしいことだろうかと藤哉からしても呆れて物も言えなかった。
 そしてルリはというと、座敷牢を出され、屋敷の中を自由に過ごすことができるようになったのだが、広々とした屋敷はかえって落ち着かず、狭い部屋ならどこでも藤哉の姿が見れると何気なく話したことで、その数日後に比較的狭い家を手配した藤哉と引っ越すなど、なんだかんだとうまくやっていた。
 その話を聞いて無言で視線を向けてくる魈とルピノアに、怒鳴り散らしたいのをぐっと我慢するのももう珍しくなどなかった。魈を過保護だと笑えなくなったのである。ルリに狭い家の利点を聞いた珠蓮が魈に小さい家をおねだりして困らせているのをみてざまあみろと思ったのは言うまでもない。
 そんなこんなで、日常はわずかな変化を見せたものの、各々が充実した日々を送っていた。

「ルリ」
「んー?」

 ソファに寝そべりながら漫画を読んでいたルリに藤哉は声をかける。振り向いた唇に不意打ちで口づけて、ぽっと頬を赤らめるルリに藤哉は何でもないことのようにさらっと口にした。

「君が好きだ」
「……へ?」
「それじゃ、行ってくる」

 帰りは遅くなるから先に寝てていいぞ、なんて言いながら扉が閉まる。そのたっぷり数秒後に意味を理解したルリの絶叫が近所に響き渡った。

「ええええ〜〜っ!!?」

 その日、藤哉が帰ってくるまで眠れなかったのは言うまでもないことであった。