後ろからお腹に回された腕に、ちらりと視線を向けた。逞しく筋肉のついたそれは、しっかりと、でも抜け出そうと思えばすぐに抜け出せるほどの絶妙な力加減で添えられている。
 もう少し強引にしてくれてもいいのに、そう感じるほどに大切にされている自覚はある。両手で包んだマグカップに視線を落とすふりをして、自分のささやかな膨らみに目を向けた。もしかしたら、これが原因なのかもしれない。
 お世辞にも大きいとは言えない膨らみに、全身の肉付きの悪さに、息を吹き掛けるかのようにため息を吐いた。そんなにたくさん食べられる訳じゃないけど、甘いもの好きなのに、バレーだってしてるのに、だなんて呪詛のような言葉が胸中を回る。
 ため息を誤魔化すようにマグカップに口をつけた。「いまの、」その声に視線をあげる。中継でも見ていたけれど、この間のオリンピックだ。アメリカの本セッターがあげるトスが絶妙で、赤葦さんはいつだってじいっと画面に集中している。
 声をかけられたことすらあまりないことなのに、赤葦さんの視線は画面ではなくこちらを見ていて、二重にびっくりしたし、その近さにドキリと心臓が音を立てた。少しだけ力の入った腕に、どうしてか目眩がしたように目の前がくらむ。
「そろそろ飽きた?」
 大丈夫です、と答えながら、確かにこの試合を見るのはもう両の指では数えられないなあ、とうっそり思い出した。試合に飽きない、というよりは試合を見ている赤葦さんに飽きない、という意味合いの方が強いのだけれど。それに、この体勢でいるのも嫌じゃない。
 上の空みたいにみえたけど、と言う赤葦さんに、ちょっと考え事してただけなんで大丈夫ですよ、と苦笑した。内容は馬鹿馬鹿しくてちょっと言う気になれない。
「それならいいけど」
 根詰めすぎないようにね、その言葉の直前に唇が掠めた。思わず手に持ったマグカップを落としかけて、少しだけ足の上にこぼしてしまった、動揺しすぎデショ、僕。「あつ、」小さくこぼして声に、ごめんと返した赤葦さんはするりとマグカップを取り上げて、立ち上がってテーブルに置いたあとタオルを投げて寄越してくれる。
 火傷してない? に対して、たぶん大丈夫です、と返した。太ももにかかったけれど、タイツの部分だから服にかかってずっと熱い訳でもないし。タイツだけ濡れて気持ち悪いんで、トイレ借りていいですか、と立ち上がった。
 トイレでタイツを脱いだけれど、「……生足にショートパンツってこの時期なしデショ」家の中ならまだしも、これで外に出るのはなしだ。手洗いして風呂場あたりに干させてもらっても乾くかどうか微妙なところだし、乾かなかったときに生乾きのタイツをはく気になるのかと言われたらならないとしか答えようがない。
 不幸中の幸いというべきか、ニーハイブーツなのでパンプスよりはマシだろう。ストッキングの替えと同じくタイツも替えを持ち歩くべきかと少しだけ考えた。面倒できっとやらないと思うけれど。
 出てきてから大丈夫? と聞いてくれる赤葦さんの手にはブランケットが握られていて、じんと心にしみた。そんなに短いので寒くないの? と聞かれたので見ているのが寒々しいというだけなのかもしれない。
 寒くても脚を出すのは、上半身の魅力が薄いのを補うためのアピールなのに、あまり効いてないかもしれないと最近思うようになった。黒尾さんは脚を出せ出せとうるさく、好きなのかもしれないが、赤葦さんの好みじゃないんだろう、きっと。
 大丈夫ですと答えたのに、赤葦さんはすっとしゃがんで脚に手を這わせた。「赤くなってる、」太ももの内側に近い側で、変な意味がないことはわかっているのにそっと触れるその指が、手が、こんなところに触れるなんて思ってもみなくて、ぴくりとなんてものではなく震える。
「大丈夫じゃなくて痛いんでしょ。ちょっとひやし、た……」
 震えた理由を痛いからだと勘違いした赤葦さんは声をかけながら顔をあげ、真っ赤になった僕の顔を見て声が尻窄みになる。すぐに理由を理解したのかもしれない。ごめん、といいながらぱっと手を離して、立ち上がった。
「無遠慮だった」
「いえ、嫌じゃないんで、いいです、」
 恥ずかしかっただけで、と付け足したのもごにょごにょとしていて、聞き取れなかったかもしれない。痛くは、なかった? に対して、はい、と答えた顔の熱が引かなくてひどく恥ずかしかった。
 軽くため息を吐くのが聞こえて、呆れられただろうかと不安になる。カマトトぶるつもりなんてないし、かといって余裕ぶるつもりもないけれど、一挙一動に動揺する程度には子供だった。これが赤葦さんでさえなければこんなに動揺することなんてないのに、と心の中だけで吐き捨てる。もう成人しているのにままごとのような経験しかないのだから、中身は十分に子供なのかもしれないけれど。
 自分で自分に呆れながら、そのままマットレスに座った。あー、遅いかもしれないけどジャージいる? と困ったように言った赤葦さんに、申し訳なくなった。大丈夫です、と呟いてから、今日は本当に大丈夫ですばかりだな、と苦い気持ちが込み上げる。
 確かに少し赤くなっているかもしれない、と右ひざを立てて確認した。触ってもピリピリするわけではないし、一過性のものだろうから問題ないだろう。ふと落ちた影に、顔をあげればなんとも言い難い顔をした赤葦さんがこちらを見下ろしていた。
「本当に痛くないんだね、」しゃがんで視線を合わせた赤葦さんは、やはりなんとも言い難い顔をしている。はい、と答えながら首を傾げると、そのまま手が伸びてきて――後頭部と腰にかけられていつもよりも強引に引き寄せられた。
 少しだけ震えた身体に、腕の力が強くなる。「本当に痛くないです、よ?」小さく服をつかんで、ああ、前から抱きしめられたのは初めてかもしれない、と思い至った。頬にあたる髪が見た目よりもやわらかくてくすぐったい。あー、うん、ちがって。呟く赤葦さんの声は小さく低く僕の中に響いて、ドクドクと脈打つ心臓の震えがそのまま伝わるのではないかと心配になる。
 膝を立てたまま抱きしめられていて、そこだけがひどく心地が悪く、もぞりと動いた。その動きのせいか、少しだけあいた空間、その空間を埋めるように近づいた顔と唇。がじりと優しく噛まれたのは鼻の頭で、そのままちゅっと音を立てて離れた。その間、ずっとなんとも言い難い顔で、なんだろう、なにかしてしまったのだろうか。
「あの、?」
 膝を直す隙間をくれたのか、少し広がった空間に膝を下す。間髪入れずにそのまま視界がひっくり返って――ひっくり返って? 後頭部に回された腕が勢いのよさとは裏腹にゆっくりとマットの上に頭を落とした。腰に回したままだった腕を頭の横におろして、後頭部に回した手を引き寄せて今度は唇に触れる。というかこの体勢、膝を立てた時にまだ直す気でいて脚を横に出して、つまりは脚の間に脚が入っていて、赤葦さんの向こう側には天井が見えて、うん、うん? これは。
 寝かされた状態から、後頭部を少しだけ引き寄せられて呼吸がしづらい。離れた瞬間を逃さずに呼吸をするのに、そのあいた唇にするりと舌が侵入する。体重がかかっているわけではないのだが、じりじりと圧迫するように密着して、ハーフパンツからのぞく太ももと、ショートパンツから飛び出した太ももが絡まった。
 普段触れない、この場所同士がするりと撫で合わさると、腰から背中にかけてひどく震えが走る。嫌ではない、嫌ではないのだけれど、これ、やばい。思わず声が漏れ、侵入した舌が一層乱暴に口内を荒す。いつだって優しく口内に侵入していた舌は、信じられないほどに呼吸を奪っていった。
 舌を取られて吸われ、歯列をなぞる勢いは、だんだんと落ち着いて、いつものような優しいキスになって。そして小さな音を立てて離れた。奪われて乱れた呼吸は整わなくて、離れた後も荒れていたのだけれど、自分から仕掛けたからなのか赤葦さんは一つも呼吸を乱していない。
 今度こそ手を抜いておろされた後頭部は、もそりとマットレスに埋まった。赤葦さんが身体を起こした拍子にまた太ももの内側同士がすれて、「ん、っ」鼻から声が抜ける。恥ずかしくなってふいっと顔をそむけるけれど、掌がそっとそれを阻んだ。
 なにがどうなったのかよくわからないけれど、これはスイッチを押してしまったということでいいのだろうか。「さすがに、短すぎると思うよ」顔をそむけるのを阻止してた掌が太ももを下から上へ撫で上げた。さっき心配して触ったときとは明らかに違っていて、這うように撫でる大きな掌が通り過ぎたところから熱を放つようにあつくなる。
「部活の時とそう変わらないと思いますけど、」
「今練習中じゃないでしょ」
 すっと細くなる瞳にぞくりとした感覚が背筋を走り抜けた。「そろそろ我慢できない」低く響く声が身体に沈んで、太ももを這う掌の先、指がショートパンツの中に少し侵入する。赤葦さんの瞳に映る僕は、拒んでないことなんてまるわかりだった。
 落ちてくる唇を、そっと開いて迎え入れる。そうしてそのまま両腕を首に回して、ぐっと近づいた。優しいけれど、熱を感じさせるようなそれは思ったよりも短い時間で終わった。そっとあいた空間をもどかしく思うけれど、もうこのまま先に進めるのならいい。回した腕を片方ほどいて赤葦さんの頬を撫でて笑った。

「僕もです」

 笑った僕に、赤葦さんは一瞬だけ目を見開いた後、「ごめん」と小さく笑った。