たった三年間、されど三年間。ずっと隣に、前に、後ろに居続けたアイツがふとしたときに居ないと実感することがこんなに苦痛だとは思わなかった。練習だって、トレーニングだって怠らないし、レースはいつだって本気でやっている。
 それでも、なんで隣に、前に、後ろに、アイツが居ないのだろうと気付いてしまうと、だめだった。先頭は好きだ。誰にも負けたくない気持ちも本当だ。ペダルを緩めたりなんかしていない。誰よりも早くゴールしてやるという気持ちだって一番のはずだ。
 ――アイツがいない。一緒に走っていない。競い合っていない。
 その事実だけが身体を重くして、ペダルを重くして、シフタを重くする。どこか別の場所で、誰か別の奴らと競い合っている、走っている、そうだ、場所は違えどオレ達は競い合っているはずだ。
 そう言い聞かせて走って、走って、回して、回して。かろうじて獲った優勝は大好きだったはずの静寂なんか連れてきてくれなかった。御堂筋に負けないと思ってペダルを回していた頃とは明らかに違う、身体的にではない、精神的な問題。
 一緒に走りたいと思ったって今は一緒に走れなくて。同じチームで走ってた奴らと走れないのが響いているある種のホームシックかと思って小野田や巻島さんと一緒に走ってみたこともあった。確かに楽しくて最近感じていなかった高揚を感じたが、ぽっかり空いた穴の大きさを再認識しただけだった。

 なんでだよ、なんで連絡がつかないんだよ、鳴子。

 すぐに会える距離でなくても、ちょっと時間をかければいいわけで、つまりは何度か一緒に走ろうとしたのだ。最初のうちは「なんや寂しいんかいな」と笑っていた鳴子も、二度目からは誘いに乗るようになり、別々のところへ行ったにも関わらず年に何度も競いあった。同じ大会に出てタイムを競ったりもしたし、二人だけで走ることも小野田を含めて三人で走ることも、杉本も一緒に呼んで走ることもあった。
 二年目、お互いのレースが行き違ってなかなか一緒には走れなかったけれど、それでも年に何回か一緒に走った。相変わらず魅せられて煽られて、オレが鳴子に与えられたものなんかなかったのかもしれない。それでもオレは鳴子からたくさんのものをもらっていたと思う。
 三年目、だんだんと連絡がつかなくなった。お互い忙しいのもあったのだろうけれど、こまめに連絡を取ろうと、一緒に走ろうとしているのがオレだけなのかもしれないと思って連絡できない時期があって――でもやっぱり一緒に走らないとだめだと気付いて連絡しようとしても一向に連絡がつかなくなってしまった。
 四年目、プロチームからオファーをもらった。嬉しいはずの知らせなのに、どうしたって鳴子に知らせられないのが歯がゆかった。小野田も、巻島さんも一緒になって喜んでくれたのに。金城さんも田所さんも、手嶋さんも青八木さんも、古賀さんも杉本も、鏑木を筆頭とした後輩たちもお祝いの電話をくれたのに。一緒に飲みに行ったのに。ただ、鳴子とだけ連絡がつかなかった。

 鳴子の話をすると、小野田は悲しそうに笑う。何かを知っているのだろうとは思うけれど、嘘がつけない小野田だからいいたくない、言えないというのはありありとわかるのだ。
 オレたちは――オレと鳴子は、小野田や杉本とは違った友情を築いていたのだと思う。あの頃のオレたちなら友情なんて否定して食って掛かっていたと思うけれど、売り言葉に買い言葉、互いを煽って弱味なんか見せたくなくて、互いより優位にいたくて、それでもなんとなく互いを解り合っていた。形は違えど確かに友情だった、絶対に口にはしないけれど。
 お互いを解り合っていた、とそう思っていたのはオレだけだったのかもしれない、と思い始めたのは最近だ。口にしなくても一緒に走りたいと、競い合いたいと思っているだろうと決めてかかっていた。でも、鳴子はそうではなかったのかもしれない。
 だから、連絡を絶っているのではないか。そう思い始めたが最後、そうとしか考えられなくなって――オレは、考えるのを止めた。


 そう、考えるのを止めたはずだったのに、やっぱり思考の隅には赤がちらついていて、消し去ることなんてできなかったのだけど追いやることには成功していたはずだった。こんな町中で、あの赤を見つけるまでは。
 走り出して追いかけて、腕を取った。バッと振り返った鳴子は、まるで空白の時間なんかないように「なんや、スカシやないか。いきなりつかむなや、びびったやろ」と笑って、小さく手を振りほどいた。
「なる、こ」
 声にならない声が出て、鳴子は一瞬だけ眉をひそめ、「なんや、スカしとらんやないかい」とまた笑った。あの頃の太陽のような笑顔じゃない、大胆不敵な笑顔でもない、笑顔。鳴子のこんな笑顔なんか見たことない、また知らない鳴子だ。
 なんで、と口に出しそうになって、止める。ピナレロは、そうピナレロは? 周りを探してもなくて、人の多いここでは確かに乗れないか、と認識を改める。オレもスコットを持っていない。
「なぁ、また走りに行こうぜ」
 オレがそっちに行くから、と続ける前に鳴子の目はギラリと剣呑なものに変わって、ふと視線を反らした。鳴子が、物事にたいして目を反らすことがあるなんて思いもしなかった。
「ワイ、もうチャリ乗られへんねん。せやから」

 チャリ以外ならつきおうたるわ。

 一瞥もくれず去っていく背中に、言葉を失ったオレはそれを止めることができなかった。


声が聴こえた、気がした