今日も今日とて残業に追われて、でもまあ二時間くらいだし、残業代出るし、と自分をひっそりと慰めながら帰路についていた。電車に揺られること二十分、最寄り駅を出て歩くこと十分。わりと近いところだね、と会社の人に言われることが多く、自分でもそう思う。なぜこんなに近いところに住んでいるのかと言えば、荒北さんの勤め先とオレの勤め先の中間地点だったからとしか言えなかった。
 個人的にはもう少し遠いところに住んで「終電あるんで」や「遠いんで」を魔法の言葉にしたいところだったが、荒北さんが近いところに住みたがったのだから仕方がない。3DKのマンションは男二人で住むには、ロードバイクに墓所を取られているとしても十分な広さだった。
 荒北さんは修士課程に進学してからの就職だったので、学部卒で就職したオレの方が社会人としては一年先輩だ。荒北さんよりも前を歩くこの事実が少しだけくすぐったい。とは言っても、高々一年だし、なにより修士卒の荒北さんの方がオレよりもいくぶんも良い給料をもらっているのだが。
 二人で住むのは存外楽だった。お互い寮生活も一人暮しも経験していたし、付き合いも長い。男同士で恋人で、なんてオプションは色々と付いているが、根本的なところでは体育会系の先輩後輩だというところが大きいのかもしれない。ただの先輩よりも気楽で、ある意味緊張感があることは否めないが、それすらも楽しいものだった。
 荒北さんが仕事を始めて三年、オレが四年。二人の生活も三年目に突入し、役割も板についた。早く帰った方が夕飯の支度をする。時間があれば風呂の支度をする。後に風呂に入った方が洗濯機を回す。回さなかった方が洗濯物を畳み、回した方が洗濯物を干す。そんな、些細なことだ。
 板につけば習慣になる。幸いにしてお互い土日祝日休みの普通のサラリーマン、休日は愛車にまたがって走りに行ったり、家でごろごろとしたり、そんな普通の生活を過ごしていた。
 大きな喧嘩をするわけではなく(小競り合いといったいつもの言い合いはただのじゃれあいだ)、順調に過ごしてきていると思う。しかし、恋人同士とはいえ平日は仕事だし休日は走りに行くしでそれらしい行為はとんとご無沙汰だった。最後にキスしたのは、いつだっただろう?
 これでは、仲の良い本当にただの先輩後輩ではないか。恋人同士、だよな? これがいわゆる倦怠期、というやつなのかとも思ったが、別にイライラする訳ではないし、むしろ互いに丸くなったとすら言える。
 なんだこれ。ぞわぞわと腹の底から何かがせりあがって来るような、そんな嫌な感じを今さら受ける。仲は、悪くない。それだけは言える。
 先週末もサイクリングから少しだけ足を伸ばして民宿に泊まって、夜は軽く熱燗なんて呑んで、二人で並んで眠った。……並んで、眠った、だけだ。そう、手を繋ぐでも、抱きつくでもなく、触れてさえ居なかった。二人とも、上をみて、布団を並べて、少しだけ間が開いた布団に、横たわって寝たのだ。
 この関係が心地よくないわけでは、もちろんない。荒北さんと一緒に過ごすのが楽しいのも事実だし、気を許してくれているとも思う。それでも。えっちしたい、わけではない、こともないけれど、キスくらいしてもいいんじゃないか、なんて言葉がぐるぐると腹の中を回った。
 そんなことをぐだぐだと考えていたらいつのまにか最寄り駅に着いていて、慌てて降りた。今日は寒いから鍋かな、長ネギ買って帰ろう、だなんていつものことを考えている裏で、恋人ってなんだっけ、だなんてどうでもいいこと――否、どうでもよくはない、重要なことだ――を考えている。
 荒北さんは今日も遅いのだろうか。明日は休みだから、一緒のベッドで寝ましょう、とでも言ってみようか? ヤだ、なんて言われたら立ち直れないからやめよう。小さく目を伏せて、最後にしたキスを思い出そうとしたけれど、全く浮かんでやこなかった。いったい、いつだったのだろうか。


 長ネギと鶏肉を買ってスーパーを出て、そこからはまっすぐ帰路についた。頬を撫ぜる風が冷たくて、していたマフラーに顔をうずめる。横を通り抜けていく自転車に、通勤がスーツでなかったら、と入社してから幾度考えたかわからないことを考えた。スーツに革靴、ビジネスバッグなんて格好でロードになんか、乗れたものではない。
 きちんとスーツにネクタイを締めて、革靴を履いてビジネスバックで通勤するオレとは対照的に、荒北さんは私服、それもジーパンにTシャツのような格好が許されている。だから荒北さんは汚れてもいいような服装に、バックパックを背負ってロードで通勤だ。羨ましい、とそんな視線をぶつけるたびに、荒北さんは「オマエがスーツ着てるのが面倒そうだったからそゆとこはヤめたの」だなんて笑う。そうでなくたって院卒で技術職志望、とくればきちんとスーツで通勤しなければならないところは少ないようだったが。
 マンションについてメールボックスにたまったチラシを取り出す。チラシに紛れて電気代やガス代の請求書を捨ててしまわないように確認して、いらないものは共用のゴミ箱に捨てた。階段で上がるときもあるけれど、大抵はエレベータを待ってしまう。会社での移動にエレベータを多く使うせいか、ついついエレベータのボタンを押してしまうのだ。
 八階のボタンを押して、上昇を始める箱の中で小さくため息をついた。なにをうじうじと。高校生か。思春期がやっと始まった高校生か。いい年したオッサンだろ、もう。
 ガタガタっと振動して止まったエレベータから降りて、左のポケットからキーケースを取り出す。キーケースにしまうほど鍵があるわけではないけれど、このキーケースは就職祝いに荒北さんがくれたものだった。荒北さんの就職祝いに色違いのそれを贈ったら、「お揃いとかねーわ」と言いながら嬉しそうに笑っていたのを思い出して気持ちがふわふわする。我ながら単純だ。
 誰もいないのは電気が付いていないことでわかっているけれども、ついつい「ただいま」と声を出してしまう。荒北さんがいるとわかるとこの声も大きくなるのだが、いないとわかっているときには小さな声だ。ビジネスバッグを座椅子に置いて、エコバッグごと冷蔵庫の前へ。とりあえず買ったものを仕舞うと、ふかしたさつまいもを見つけたのでレンジへ放り込んだ。
 マフラーを取ってコートを脱いで、スーツも脱いで部屋着に着替える。その間にレンジは温め終わったと何度か主張したが、はいはいと軽く返事をしながらレンジを開けたのは着替え終わったあとだ。「アッチ、」こぼれた独り言もまとめてレンジに閉じ込めて、ふうふうと息を吹き掛けながらふかしいもにかぶりついた。
 もぐもぐと租借しながら炊飯器を開け、中身があるかを確認する。少し足りないような気もするが、冷凍ごはんがあったのでそれを解凍して炊飯器の中に放り込んだ。混ぜればどこが冷凍ごはんだったかわからないだろ。なんだか多くなり過ぎた気もするけれど、まあいいだろう。
 買ってきた鶏肉を切り分けて、土鍋に入れる。あとは適当に野菜をいれて、顆粒だしを振りかけて、水をいれてぐつぐつ煮込むだけだ。残りの鶏肉は大きめに切り分けて、醤油とみりん、生姜につけて冷蔵庫へ仕舞った。明日は荒北さんの好物、唐揚げにしようと思う。もちろん、オレの好物でもある。片栗粉がもうほとんどないので、忘れないように携帯のアラームに入れておいた。
 鍋を煮込んでいる間に、風呂を掃除する。ざっと洗って流して、湯を張るために湯沸しボタンを押した。この風呂、風呂が沸く少し前にフェイントかけてくるから要注意だ。何度かくそ寒い思いをさせられた。
 鍋が見える位置で、ぼうっとダイニングに一つだけある折り畳み椅子に腰掛けた。この椅子はどちらが料理している時にもう片方が近くに居たいときに発動する。主にオレが使ってるのだけど。そう考えるとオレばかりが、という気にならなくもない。
 全体重の八割くらいを背もたれに掛けて、頭を伏せた。女々しい。瞳の端の鍋なんかもう意識から無くなって、ただぼうっと自分の手を見つめる。好きだって気持ちも、愛しいって気持ちも、付き合い始めてからこれほど強くなることはないと思っているのに年々強くなっていって、今後どれだけ好きになってしまうのか、少しだけ怖かった。
 荒北さん、荒北さん、あらきたさん。
 頭がどんどんと下がって、ぐっと拳を握った瞬間、「っにしてんだボケナス! 鍋ふいてんぞ!!」と頭を叩かれる。ぱっと頭をあげたときには、荒北さんがコンロの火を消していて、ただただ呆然とそれを眺めることしかできなかった。
「……ナニィ? 疲れてんの?」
「え、あ、大丈夫です。……あの、おかえりなさい」
 眉をひそめた荒北さんに取り繕うこともできなくてただ呆然と返した言葉は、どこか白々しい響きを持っていた。なぜか困ったように笑う荒北さんから返ってきた「ただいまァ」という少しだけ間延びした言葉が、二年前の出来事をフラッシュバックさせた。


 荒北さんが就職した年の年末、会社の忘年会がいくつもあって疲れていたのかその日の荒北さんはいつもよりも少しだけ酔っているようだった。見た目は少しだけだったのかもしれないけれど、大分酔っ払っていた気がする。オレはたしか一人でごはんを食べて、荒北さんが飲んで帰ってくるなら、と一人でビールを煽っていたはずだ。
 いつもよりも酔っ払った荒北さんは、ご機嫌に「ただいまァ」と言いながら帰宅し、なぜかそのままオレをベッドに引きずり込んだのだ。おかえりなさい、も言えてないのにと口を開こうとした瞬間、食いちぎられる勢いで唇を噛まれ、キスをされた。
 じくじくとひどく痛んで、痛くて涙が出るのは本当にひさしぶりだというほど痛かったわけだ。挙げ句、ヤってる最中は最中で普段荒北さんがどれだけ自制心を持っていたのかわかるほどにそこらじゅう噛みつかれた。噛みつかれるだけならまだしも、その一つ一つが痣になろうかというほどにくっきりしっかりと歯の跡まで付いていて、次の日目が覚めたオレはゾッとした。オレ、荒北さんに、文字通り喰われるところだった?
 呆然としているオレに、目が覚めた荒北さんはサッと顔色を悪くし「あー……悪かった」なんて謝って、そのままキスをしようとしてそっと唇近くに触れた。それがいけなかったんだと思う。噛みつかれて血が固まった皮膚がひきつって、声にならない叫び声をあげた。
 そう、そこで、オレは言い放ったのだ、「もう、いいっていうまで絶対にキスしないでください!」と……。


 そこまで思い出して、頭を抱えたくなった。あれから二年、荒北さんはきっちりとオレが嫌だと言ったがために待っていたのだろうか? なんだそれ、うわぁ、今オレ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
 だってそのあと、一瞬眉をひそめた荒北さんは、だけど困ったように笑いながら「……ん、ゴメンネェ」と少しだけ間延びした言葉をくれたんだ。まだ同棲し始めてそんなに時間が経ってなくて、だからこそ「ただいま」と「おかえり」が言いたくて言われたくて仕方なかった。噛みつかれたのが痛かったのももちろんあったし、同意なしでヤるというのもこれまでなかったことで嫌ではなかったけど釈然としなかったのもあった。でも、「おかえり」が言わせてもらえなかったのがひどく嫌だったのだ。
 今考えるとなんと幼稚な、と思わなくもない。『同棲』という響きにただ憧れて、あらぬ期待ばかりをかけていたのだろう。あーあーあー、すっげえ恥ずかしい。


「おーい、黒田ァ? マジで大丈夫か、疲れてんじゃネェの?」
 広げた手を目の前でひらひらと振られ、言葉をかけられたことではたと意識が戻ってきたようだ。それでも恥ずかしい気持ちは抜けないし、顔はたぶん火照っている。なんでもないっす、大丈夫ですから、なんて言葉を吐き出したけれどもう、両手で顔を覆いたい。
 アッソ、なんて言いながら、もう食えンの?と鍋を覗く荒北さんに、まだ味付けてないですなんて平然と返しながら内心はひどい。腹へったから醤油でいいか、なんて言いながら鍋に醤油を回し入れる荒北さんの足元にあった鞄をダイニング側へと移動させて顔を隠した。
 鍋吹いてたから鞄も置かずにキッチンに来たんだよなあ。この鞄、オレが始めてバイトして貯めて荒北さんにプレゼントしたやつだなぁ、安物なのに大事に使ってくれてる、なんて思えばもっと恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。むしろなくても掘って入りたい。
「食おーぜ」
 鍋をそのまま持った荒北さんは、早く鍋敷き置けよと背中に軽く蹴りを入れた。その蹴り方にほんの少しだけ遠慮を感じて、また恥ずかしくなる。いっそ罵倒してほしい、なんて言ったらドン引きされるだろうなぁ。
 ダイニングテーブル、なんて格好つけて言わなくてもこの部屋には机は一つしかないのだけれど、机の真ん中に鍋敷きを置いた。これはたしかオレが卒業旅行でトルコに行ったときに荒北さんにお土産で買ってきたやつ。端っこが少しだけ欠けているのは、この部屋に越してきてすぐのころに盛大に喧嘩した名残だ。
 オレがこれを叩き割ろうと振り上げたのを取り上げた荒北さんの手が勢い良すぎてすっぽぬけて飛んでいったのだ。さっと顔を青ざめさせた荒北さんは、あわててキャッチしようとして少しだけ机に当たって欠けた鍋敷きを見てひどく顔を歪めたのだった。あれオレ愛されてる、なんてこれまで感じなかったところでも感じてきて本格的に埋まりたくなった。
 荒北さんは好きなんて言ってくれないけれど、オレが自分で忘れた言葉を覚えててくれたり、昔あげたようなものを大切に使ってくれたりしていて、何て言うかオレ、ホントひどくね? あー、埋まりたい。マジで。
 自己嫌悪しながらご飯をよそったら、うっかり荒北さんの茶碗を山盛りにしてしまって「今日、んなに走ってねぇぞ」なんて怪訝な顔をされた。でしょうね、すみません。でもアンタ結局おかわりするんだからいいでしょ、なんて口の中でもごもご言って自分の分もそれなりに山盛りにした。この量、高校の頃を思い出すな、なんて現実逃避だ。
 鍋をよそう用の器と山盛りご飯の茶碗、机のど真ん中に陣取る鍋。主菜も副菜もあったものじゃない、でも野菜も肉もなんなら魚だってとれるのだから良しとしてくれ、なんて誰に言い訳してんだ、オレ。
 いただきます、と手を合わせて食べ始めるのは高校の頃から変わらない。元ヤンだのなんだのとは言われていたし、実際口はとても悪いしすぐ手は出るけれど、手を合わせていただきますが言えたり、脱いだ靴を揃えたり、そんなところに育ちの良さがうかがえる。高校の時からよく目にしていたためか、手を合わせていただきます、という所作はいつのまにかうつっていた。悪いことじゃないし、いいのだけれど。
 どんどんとなくなっていく鍋の中身に、醤油だけも悪くはないな、なんてまた手抜きの味付けを覚えてしまった。これ、「いいです」って今更言ったとして、どうにかなるのだろうか。今更じゃネェ? なんて言われたらヘコむ。けれど、ヘコむだけで済むならいいのかもしれない。覚えてなかったら覚えてなかったときだ。
 ゴチソウサマ、と手を合わせた荒北さんにあわてて倣って手を合わせた。食器をまとめてシンクへ運んで荒北さんにバトンタッチ。洗い物をする荒北さんを眺めるためにまた椅子を引っ張りだして、腰かけた。
 ぼうっと荒北さんが洗い物をするのを眺めながら、『あと五分でお風呂が沸きます』なんてフェイントをかけられたオレは雑っぽくもしっかりと洗う背中をただただ見つめる。洗い終わって手を拭いた荒北さんは、じっと見ているオレの頭をくしゃっと撫でて、「どしたの、今日」なんてやわらかい表情をするからたまったものじゃない。
「あの、すんません」
「ア? ナニがァ?」
 とりあえず謝って、頭の上に乗った手を握った。目を合わせて、もう大丈夫です、なんてどうとでも取れる発言でごまかして、ゆるく目を伏せて掌に唇を寄せた。小さく笑った気配がして、「やっとかよ」という言葉と一緒に後頭部が掴まれて――合わさった瞳の奥に、久しぶりの熱を見た。

埋まりたい

 ――嗚呼、恥ずかしくて死にそうだ!