「おにーさん、ヘンゼルとグレーテルみたいになってますヨ」
 そんな声だけだったら、絶対に振り返らなかっただろう。だってヘンゼルとグレーテルだ、童話じゃねえか。オレにはまったく関係ない。ちょんちょん、と肩甲骨の下あたりをつつかれなければ、絶対。
 振り返った先には、イマドキの茶色くてふわふわしたような髪ではなく、さらっとした癖ひとつないストレートの髪、それもストパーをかけたりなんかしていない、天然もののストレートの黒髪をさらりと揺らした目つきの悪い女が立っていた。髪の描写が多いのは、オレが髪フェチだからというわけではない、断じて。その他に特筆すべき事項がなかっただけだ。
 黒髪ストレート、目つきが悪い、あとは――細い。病的、とは言わないし、筋肉もそれなりについてはいるようだったが、スキニージーンズに包まれたすねはおろか、膝上ですらぽっきりと折れそうだと思えた。こんなことは、出会って振り返った時にはまったく思わなかったわけではあるが。
 え、と声に出してみれば、困ったように笑いながら「落としてますよォ」といくつかのパッケージを差し出した。それを覗いた瞬間にオレの腕からぽろりといくつかのパッケージが転がりおちて、あ、と声に出す前にその女はさっと屈んで落ちた一つを拾い上げ、手の中に加えてみせた。
 オレの腕の中には、小さなパッケージになっているお菓子がたくさん抱えられている。先輩に頼まれたものであり、スーパーで買ったわけだが、最近のスーパーがレジ袋を置いていないとは思わなかった。ないよりはましだと小さな水避けのビニール袋に詰め、そのビニール袋をいくつも抱えている状態だが、袋の口を縛ってくるのをすっかり失念していたからか、袋の口からはぽろぽろと今にもこぼれそうにパッケージが見え隠れしている。
 ありがとうございます、なんて今更な言葉がやっと口から出てきたことに、オレは少しだけほっとした。イーエ、と唇の片端を吊り上げて笑う姿が、新鮮に映る。オレのこと、知らない、みたいだ。
「よかったらコレ使ってください」
 そういって差し出されたのは、小さく折りたたまれたエコバッグ。え、と戸惑いの言葉を発したオレに、その女は「たぶん、そのビニール袋の口縛っちゃったら全部お菓子入りませんヨ」とおかしそうに眉を寄せた。
「どっかの商店街の福引とかでもらったヤツなんでェ、気にしなくて大丈夫です」
 間延びした言葉遣いは不快感を煽ることなく耳に届く。独特の間合いだからか、オンナ特有の媚びた言葉遣いには聞こえなかった。え、でも、と戸惑っている間にその女は自分の手に持っている――オレが落としてきたヤツだ――パッケージをエコバッグに放り込んで、腕に抱えられたままのビニール袋をそのままエコバッグに突っ込んだ。外見にそぐわず、とは言わないが、だいぶ豪快な性格のようで、「まァ、入ればいいよナァ」とぽいぽいっと上から順に入れ、残り二袋になったあたりで「まあこんだけ入れとけば持てんだろ」独り言のように呟く。残り二つのビニール袋の口を縛ってエコバッグと一緒にオレの手に握らせた。
「ハイ、ドーゾ」
「へ、あ、ありがとうございます」
 お礼を聞いた女は、じゃあ、とそのままくるりと踵を返して駅に消えていこうとする。思わずその腕をつかんで口を開いて、何を言おうとしたのかわからなくなって結局口をつぐんだ。
「ああ、それなら好きに処分しちゃっていいですヨ」
 鞄に一つ入ってるとこゆとき便利ですケドネ、と悪戯っぽく笑った姿に、身体の奥で何かが音を立てて思わず手が緩んだ。「おにーさん、今度は落とさないようにネェ」そう一言残してこちらには一瞥もくれずに改札に消えて行った姿が目に焼き付いて、つかんだ腕の細さが掌にこびりついて、離れなかった。

 山の様なパッケージを抱えてスタジオに戻ったのは、無意識だった。東堂さんにおかえり、と言われ戻りましたと声を出した瞬間に自分がどこにいるのかを思い出したオレは、軽く混乱した。だって、あの女が眼裏から、掴んだ手の感覚から、消えてなくならない。
「よかった、袋を持っていていたのだな。その量だと持てないと、黒田が出てから思ったんだ。すまなかったな」
「いえ、持ってなかったんですけど……道行く人が貸してくれました」
 というか処分していいといわれたから貰った、になるのか。貸してくれた人に返したいんですけど、なんて口から飛び出た言葉は、出てからあの時言いたかった言葉だと気付いた。
「む、すぐそこにいるのか? それならば、」
「いえ、――改札通ってったんで、もうここにはいないと思います」
 連絡先は、という質問にも、それならば名前は、という質問にも答えられずに、オレは頭を抱えたくなった。だって、これじゃ次に会うどころか返すことができるわけがない! 返すにも返せないじゃないか、そう呆れたように言う東堂さんに反論する言葉なんか、ひとつも持ち合わせていないオレはうなだれるしかなかった。
 そこの改札をこの時間張ってれば見つけられますかね、というオレの発言に、東堂さんは通報されたくなければやめておけと言っただけだった。だって、それ以外に見つける方法がわからない。
 この広い東京で、偶然にすれ違えるとは思えなかった。

***

 あ、と口からこぼれ出た言葉は、期待通りだったからか、はたまた吃驚したからか。判別はつかなかったけれど、どちらも正しいような気がした。そう、あの童話女を見つけたのだ!
「あのっ」
 思わず駆け出して、この間の去り際と同じように腕を掴んだ。振り返り様にまさか肘鉄が飛んでくるとは思わなかったけれど、さっと避けられて本当によかったと思う。だってアレ、女の繰り出すやつじゃない。ぜってぇくそほど痛いやつだ。
「えっあっヘンゼルさん!?」
「へっ」
 ヘンゼルさん? ってオレのことだろうか。どういうことだ。ぽかんとするオレに、女はさっと顔をしかめて(そこは赤くするところじゃないのか、なんて思ったのはヒミツである)肘鉄をさりげなくしまった。ばれてるっていうかそもそもオレに当てようとしてたよな、この女。ばれてないと思ってんのかコイツ。
「あの、この間はありがとうございました。本当に助かりました」
「アー、やっぱりあの時のォ。役に立ったならよかったですヨ」
 ニヤリととても女がするような顔じゃない笑顔で笑うその姿に、やっぱり身体の奥で何かが音を立てる。この音の正体に気付きたくない、なんて思っている時点でお察しだな、なんて。背負っているリュックサックを前に持ってきて、包みを取り出した。
「本当にありがとうございました。エコバッグと、いつ会えるかわからなかったので、食べ物じゃないんですけど」
「えっイヤ、あのー……ホント、ただ目についただけなんであんまり気にしないでクダサイ……」
 困ったように、というよりは本当に困っているのだろう、視線をあちこちに彷徨わせて終いには「あーなんか、逆に申し訳ないです」なんて言いながら受け取ってくれて、また身体の奥の方が軋んだ。もう一つだけある、渡したいものが本当に渡したいものだった。エコバッグの方にいれておけば難なく受け取ってもらえるとは思ったけれど、絶対連絡なんて来ない。そんなの、分かりきっていた。
 なんとか会話を続けたくて「あの、」なんて無難な言葉を選んだわりに続いた言葉はあまりうまくはなかった気がする。
「ヘンゼルさん? って最初に言ってましたけど、アレ……」
「アー、アー……えっとスイマセン」
 本当に歩道のど真ん中で邪魔だったのにやっと気付いたオレ達は、今更ながら道の端に避けた。でも、これで少しは話しやすくなった気がしないか?
 童話女は、「ヘンゼルとグレーテルのおにーさん、からヘンゼルとグレーテルのおにーさんってつまりヘンゼルじゃん? ってなってついうっかり……」とバツが悪そうに笑った。なんだそれ。バカみたいだ、なんて頭で思っている反面、身体の奥で音を立てたのがなんなのか、ごまかしがきかなくなってくる。
 なんですかそれ、とオレは面白そうに笑えたのだろうか。
「ええっと、もしよかったら今度エコバッグ買うのに付き合って下さい」
 ごはんやお茶は、絶対固辞されると思ったからコレ。コレってどこで売ってるんですかね、なんて聞かれればきっと、付き合ってくれるんじゃないかって淡い期待だ。「これ、連絡先です」ポケットの中で少しだけくしゃっとしてしまったことを差し引いても、スマートに差し出せたと思う。
 きょとんとそれを受け取った女は、あろうことかくしゃっと手のひらでそれを握りつぶして、歯茎を見せるように唇を吊り上げて「     」と嗤った。イライラと、むかつくとさえ思うのに、くるりと踵を返すその姿を目に焼き付けて離さない、離せないと思っているのはどうしてか。なんて、白々しいもいいところだ。

 ああもう認めよう、この女が気になって仕方がないのだ!

童話とは違う

 ねえ、そのお菓子を拾ってたどり着いた先には何があるの?