「坊や、ちょっとこれ行ってきてくれない?」
 ここは文部科学省特殊文化財課――通称ヤミブン。小さな部屋の中には、元課長で現在嘱託のおばさまである陣内エリ子、道行く人々が振り返るエキゾチック美人である職員の有田克也と、同じく職員であるが前髪のひと房だけがレモン・イエローでとても公務員には見えない楠木誠志郎がいた。
 先の言葉を発したのはエリ子であり、元課長という立場からか彼女に仕事を振られることが多い誠志郎は、嫌そうな顔をしたものの資料をとりにエリ子の席へと赴く。
 手渡されたぺら紙一枚の資料には、ひとりでに舞う扇の話と所蔵している美術館の住所だけが書かれていた。
 こういった資料の少ない物件の多くは何かしら面倒がつきものであるということを経験上知っている誠志郎は、その童顔を精一杯ゆがめて一人でですか、と小さく問う。そこまで大きくもない部屋であるため小さな声で言ったとしても十分に聞こえるのだが、誠志郎は嫌であるという気持ちをその小さな声にふんだんに込めた。
「御霊系の仕事だから鈴子ちゃんに行かせようと思ってたんだけど、あの子この時期テストなのよねぇ」
 うっかりしてたわぁ、というエリ子の言葉を聞いた誠志郎はぐっと言葉に詰まる。
 鈴子とは、まだ学生のためアルバイトという位置づけではあるがヤミブンのメンバーであり、誠志郎の後輩に当たる飛鳥井柊のことだ。なぜ鈴子と呼ばれているかというと、彼女の使っている道具――飛鳥井家に代々伝わる神器が鈴であるため、それを揶揄してつけられたのである。
 彼女はお取りつぶしになった御霊部というヤミブンと似たような――というと本人たちは違うと声を大にして否定するが、一般人から見ると似たような仕事をしていた――団体で、誠志郎が知る限り中学生のころから仕事をしていたので誠志郎よりもよっぽどキャリアは長い。確かに、柊なら何の問題もなくこなすことができるだろう、と誠志郎でもわかる。
 後輩にはこなすことができるのにお前にはできないのかと暗に言われているように感じるが、柊と誠志郎とではまずキャリアがちがうのだ。しかし、誠志郎は柊にテストを休んで行けとまでは言えない。まだ学生であるし、それこそ御霊部時代には高校の出席日数ですら危うくなるくらいのワーカホリックであった柊には、せめて大学くらいは、とできるだけ普通の学生生活を過ごさせることを年長者が押しているためだ。
 一番大きな理由としては、柊が誠志郎の後輩であると同時に彼女であり、その彼女に危険な仕事を回したくないという誠志郎の妙なプライドからであるのだが。実際に柊にそんなことを言えば、仕事に対する誇りや、頼られたいという感情は誠志郎よりもむしろ強い彼女のことである、ふざけるなと怒るに違いない。
「ってことは魂鎮めの歌が必要ってことですか」
 それとこれとは別だと、彼女が行かなくとも自分以外にも魂鎮めの歌の歌える人がいるのだからつけろと、そう暗に含めば、エリ子は悠然と微笑んでちらりと克也のほうを見た。克也はやれやれといったように肩をすくめ(そんな仕草が気に障るほど似合うのがまた悔しい)、坊やはいつまでたっても坊やだなとこぼす。
 誠志郎はむっと克也を振り返るが、口を開く前にエリ子にさえぎられた。
「ほら、克也が行ってくれるっていうんだからとっとと終わらせてきなさい。その分の細かい仕事が鈴子ちゃんに回るんだから」
 柊を引き合いに出されると誠志郎はどうにも弱い。すごすごと引き下がって、はいと返事をする以外の選択肢は誠志郎にはなかった。
 エリ子が柊を引き合いに出したときの誠志郎を非常に扱いやすいと思っていることを、幸か不幸か誠志郎は知らずにいる。

***

 電車で行こうと誠志郎は考えていたのだが、克也と一緒に仕事をするのにこの目立つ赤いデルソンで行かないという選択肢は始めからなかったようだ。
 どうして耕作がいなかったのかと誠志郎は考えたが、今回の仕事が鎮魂であるため耕作がいても誠志郎について行くことはできないことを失念している。
(アリは扇、燃やしちゃって鎮魂どころの騒ぎじゃなくなりそうなんだけどなぁ)
 ちらりと克也をうかがうが、とくに何をいうでもなく、淡々と運転をしていた。
 昔はこの二人の空間が気まずくもあったし、なにより克也のことが非常に気に食わなくてこの車に乗るたびにいらいらしていた気がする誠志郎は、ずいぶん大人になったのだと自分で自分のことを評価したが、少し丸くなっただけでつつけば昔と同じように反応することを都合のよいように忘れている。克也は誠志郎のそんなところが気に入ってつついているのだが、誠志郎はただの嫌がらせだと思っているようだ。
 根っこの部分としては非常に似ている二人であるが、表面は大きく違っている。誠志郎はもう一人の先輩である耕作に憧れ、彼のように穏やかでいられるようにと心掛けているからだ。それが成功しているとは限らないのだが。
 誠志郎がそんなことに思いを馳せているうちに美術館についたらしく、克也がすでに車を降りて早く降りろと催促している。嫌みを言われてはかなわないと、誠志郎は慌てて車を降りたが、坊やは寝ていたのかと言われてしまい、言い返したい気持ちをグッと押さえ誠志郎は克也の前を歩いていく。
 今回の仕事は誠志郎がメインであり、克也はあくまでもサポートであるため自分がやらなければ、という気持ちが沸き起こったからだ。克也はそんな後ろ姿を面白そうに見つめ、あとをついていく。
ふわりと大きく風が舞い、誠志郎は嫌な気配を感じて身を震わせた。
 それが扇の歓迎の念だったのか、早く帰れという念だったのか、このときの誠志郎には判別がつかなかった。

 美術館の職員には事前通達の通り民間の祓い屋だと名乗り、すんなりと通してもらう。
 職員の女性は克也の方をチラチラとみており、誠志郎よりもむしろ克也に話しかけているといっても過言ではないのだが、克也はさして興味を持たずにむしろ美術展を見に来ているご年配の方々に愛想を振り撒いていた。
おばさまたちは興奮ぎみにわいわいとはしゃいでいるが、比例してどんどん職員の愛想がなくなっていく。
(ババコンめ、少しくらい愛想を振り撒けよ!)
 誠志郎が思っていることも克也には筒抜けであったが、克也はそしらぬふりをとおし誠志郎の後に続くだけであった。
「この扇です」
 そういって示された扇は、ひとりでに舞うという話から勝手に舞扇だと思っていたが、どう見てもこれは檜扇で克也の目にはもちろん、誠志郎の目にも不自然に写った。
 二人が怪訝そうな顔をしているのがわかったからか、それともこの説明になれているのか、職員はそのまま続けて説明を行う。
「もともと舞の時に使用したものではなく、芸妓個人の扇だったようです」
 個人の扇が、なぜ。職員の話では、それなりに有名だった芸妓の使用していた舞扇は本人が死ぬ時にすべて燃やしてしまったそうで、この檜扇だけが残ったらしい。この檜扇も、当時の御贔屓武士からの贈り物で、価値が高いそうだ。
 武士の話が出ると、ガラスケースに入っているはずの檜扇がかたかたと動き出す。職員は気味が悪いとばかりにそれではお願いしますとそそくさとその場を後にする。
「で、これは鎮魂なのか?いつも通りに持って帰ればいいものを……」
「一応、『元御霊部』宛ての仕事だからな。鎮魂して檜扇はここにおいて帰ってこいとそういうことだろう」
 元御霊部宛ての仕事と、ヤミブン本来の仕事と、現在では二種類混合して請け負っているが、この仕事は前者の仕事。エリ子が最初に柊に仕事を振ろうとしていたことからもわかる。
 しかし、誠志郎も克也も根っからヤミブンの人間であり、とくにこういった物品に取り付いている御霊となりうるものはできるだけ持ち帰り、課長の結界の中に納めておいた方がいいと信じていた。現に、実際に御霊部が鎮めたが、物品自体も気味が悪いと手放したがっている人からヤミブンが骨董商を仲介したこともあったのだ。人は一度気味の悪いものに遭遇したら、絶対に手放したくなる生き物である。
 どうせまた取りに来るのに……ボソリと誠志郎が呟くと、克也はまあそうなるだろうなと呟き返しながらも、強欲な人間は美しいものに魅入られて結局手放さないことがままあり、今回はそちらにあてはまるかもしれない、と考えを改めた。館長には会っていないが、この美術館全体がそんな気配がしたのだ、美しいものを手放したくないという空気と言ったらよいのか、そんな気配を。
 先ほどかたかたと動いていた檜扇は、普通の展示品のようにそこに飾られていた。しかし、気配がそれを裏切っていた。ねっとりとした、怨念のようなものが誠志郎と克也を包む。驚いて後ろへと体を引こうとするが、逆に前へと、檜扇の方へと引き寄せられる。足を踏ん張って、なんとかその場にとどまることに成功した誠志郎と克也は、檜扇がひとりでに舞いだしたのを確認した。
 いや、正しくは、ひとりでに舞いだしたのを見たのは克也であり、誠志郎にはぼんやりと女の霊が見えている。女の着ている着物と、髪飾りはまるでそこにあるかのように見えているが、檜扇以外は実体がない、はずだ。紅の着物に、赤銅色の簪。思わず誰かを彷彿とするが、誠志郎は頭を切り替えるようにぐっと眉間にしわを寄せた。
 浮かんでくるメロディに、何の迷いもなく誠志郎は口を開く。これは、魂鎮めの唄だ。克也は懐から紙人形をだし、いつでも放てるように構えているが、なんともなしに終わる予感がしている。
 その兆候が現れたのは誠志郎の唄が空間にしみわたっていき、実体をもちそうなほどの着物が揺らぎ始めたのが最初だった。克也には元から見えていないし、誠志郎は目をつむって唄っているためそれを視認できる人物はいなかったが。
 揺らぎは徐々に広がり、檜扇を持つ指先にまで到達したその瞬間――、ぱさりと檜扇が床に落ちた。そして、指先に到達する方が早かったからなのか、実体を持つほどの存在感のあった赤銅色の簪もそこに残っていた。
 誠志郎は、ほっとしたようにガラスケースに近寄り、簪を手に取る。簪の残留思念なのか、そこにいた女の霊の怨念がまだ強いのか、流れてくる映像に呼応するように誠志郎の前髪がゆっくりと金色に輝きだした。
 克也があわてたように声を掛けるが、誠志郎には何も聞こえていない。ゆっくりと誠志郎の瞳から光が消え、比例して前髪が輝きを増す。そうして、ひときわ大きく輝いたかと思うと収束し、誠志郎が倒れた。誠志郎はこの奇妙な感覚に覚えがある。
「坊やッ!」
 もう、克也の声すらも聞こえていなかった。

***

 誠志郎は気が付くと、時代がかった屋敷の前にたたずんでいた。屋敷には出入口と思われる戸口が一つあるだけで、ほかに入れそうなところはない。入る以外の選択肢はないと考え、誠志郎は屋敷に足を踏み入れた。
 不思議なことに、外から見たかぎりではありえないほど長い廊下が続いている。廊下の壁は多くのふすまで仕切られており、一体いくつの部屋があるのか全く分からない。廊下をまっすぐ進んでいくと、どこの部屋からかは全くわからないが話し声が聞こえてくる。
「愛しているよ」
「そないなこと誰にでもいうてはるんでっしゃろ?」
 言葉遊びをしているような、本気なのか遊びなのか誠志郎にはさっぱりわからない。
 また違う部屋からも会話が聞こえてくる。どうやら、同じ男女のようだ。
「これを、君に」
「!こんなええもん、もろてええのんどす……?」
「ああ、もちろん。君のために用意したんだ。ぜひ、使ってやってくれ」
 男が、女に何か贈り物をしているらしい。きれいなおうぎ、と聞こえてきて、誠志郎は思わずふすまを開けたくなったが、どの部屋から聞こえてきているのかわからずに結局開けられず仕舞いだった。
 おうぎとは、『あの』檜扇のことなのだろうか。ということは、この女の声が先ほどの霊ということになるのだろう。ここは、あの霊の記憶なのだから。
 別の部屋からは男たちの話声が聞こえてきた。
「例の娘御との婚姻が決まった」
「本当ですか、父上!」
「ああ、だから、はやくあの芸妓は切ってしまえ」
 年若い方の声は、先ほど睦言を交わしていた男の方と同じ声だ。切ってしまえという芸妓は、先ほどの女のことだろう。男は別の女との婚姻を望んでいたということで、すなわち男に裏切られて芸妓は怨霊化しているのだ。
 面倒だな、と誠志郎は思う。男の方に化けて出るならまだしも、後世にまで残って人々を怖がらせるなど、理解ができない。
 それでもこの顛末を見届けないことには帰ることができないのだろう。『御霊は語ることで鎮魂する』という柊の言葉思い出して、誠志郎はもう少し頑張るか、と己を奮い立たせた。柊の言葉というだけで自分がしっかりとするということに誠志郎は苦笑する。終わったら会いたいな、とふと思う。
「なんで、なんでなんどす!?あんただけはそないなことしぃひんと思っとったんに!」
「家の、勧めなんだ……、わかっておくれ。心だけは君を想っている」
「ほんに……、ほんに想っとっておくれやす……」
 別の部屋からまた別の声が聞こえる。どうやら別れの場面らしい。別の女との婚姻で浮かれているのに、よくもまあこんなに口が回るものだと誠志郎はむしろ感心するが、嫌悪感が上回って顔を軽くしかめた。
 どの部屋からも声が聞こえてくる。それは、男と婚姻する女の話であったり、芸妓の評判であったり、男の家の話だったり、様々ではあったがどう聞いても芸妓の女は男に遊ばれていたらしい。いや、正しく客と芸妓の関係だったといえばよいのか、ともかく、それ以上の何かがあったわけではなかった。
 それでも芸妓は男を信じていたらしかった。信じて信じて、心が壊れたように衰弱して死んでいったと、進んだ先の部屋から噂話が聞こえてきた。そして、贈ったはずのおうぎは、男のもとに戻ったらしい。どうやらかなり高価なもので惜しくなったらしく、妻へとやったそうだ。
 さらに先に進むと、男が霊に付き纏われているという噂話を多く聞く。それは先の芸妓の霊であるらしく、おびえているような声が聞こえてくる。いい気味だ、と思いながらもふと疑問を抱いた。
(男の方に化けて出たのに、まだ足りないのか?)
 進み続ければ、唐突に廊下が終わりを告げる。廊下の突き当たりには、これまでの左右にあったふすまとは大きく異なる、朱いふすまがあった。嫌な感じがすると誠志郎は本能的に半身を引いたが、ここを開ける以外に選択肢はないと考え、意を決してふすまに手をかける。
 触れただけでふすまはすいっと開き、こちらにこいと言わんばかりになにかに引き寄せられた。そんなに急がなくても行きますよ、と思いながらも誠志郎は引き寄せられるままに足を進める。
「悔しや、悔しや……」
 おどろおどろしい声が存外近くから聞こえてきた。そちらに足を向けると、芸妓の霊が例の男と男の妻らしき女のところへ化けてでいるとこに遭遇した。
 男は半泣きで妻らしき女を抱き締めているし、女も女で男にすがり付いている。男は、近くにあったおうぎをさっと手につかみ、それを芸妓の霊へと投げつけた。そのおうぎは、幸か不幸か男が芸妓へ一度贈ったものであり、そのせいだろう、おうぎが霊を突き抜けていくと芸妓の霊が消えるようにいなくなる。
 男はほっとしたように扇を回収したが、誠志郎は見てしまった。扇に芸妓の霊が吸い込まれてしまったのを。もともと思い入れの強い品物はそれだけで意思を持つと言うが、芸妓本人がおうぎに非常に強い思い入れがあったのだろう、芸妓の念とおうぎに込められた芸妓の念がひとつになってしまったのだった。
 なぜだかひどく心をえぐる。男は芸妓とは別の女を愛し、それでもいつまでも芸妓の下に通い続けた。商売だからそれまでと、そういわれてしまえばその通りなのだが、芸妓が男に酔心するに至った理由もわからなければ、男が愛さなかった理由もわからない。男女の仲などそんなものだとわかっているが、それでも何かが残った。
 それがすべてだと言うように、誠志郎の視界が揺らぎ始める。現実に戻れると安心してもいいはずであるが、誠志郎には心に残った何かが、ちくちくと刺しているように感じられた。くるしいのか、痛いのか、よくわからない。
 いまは、ひどく柊に会いたい、強くそう思った。

***

「坊や!」
 克也が強く声をかけると、誠志郎はゆるりと目を開いた。最初はなにも映していないようなうつろな目だったが、数度まばたきを行うと光を取り戻し、軽く頭を振る。
 克也はほっとした表情をすぐさまひっこめると、ぎゅうとレモン色の前髪を握った。
「いだだだだだだ!」
「それだけ騒げれば大丈夫だな」
 さっと立ち上がると、誠志郎をそのままに檜扇と簪に近寄る。簪を手に取りしげしげと眺めた克也は、これだけはうちの管轄だろう、とそっとポケットにしまった。簪からはほとんど念を感じなかったが、もともと霊の一部分であったものが実体化したものである。ヤミブンでしかるべき処理をした方が賢明だろうということは、まだ年若い誠志郎にもわかることだった。
「さぁ、いくぞ」
 克也は誠志郎にそう声をかけると、さっさと歩き出す。倒れる前までならばあんたが仕切るなと怒鳴る所だったが、誠志郎にはそんな気力すらもなかった。ただただなにかが心をちくちくと刺すように痛みをもたらしていることでいっぱいいっぱいなのだ。
 誠志郎は克也の後をついていった。いつものように置いていくなと怒ることもなければ、拗ねることもない。なにかを考えるかのようにぼうっと後をついてくる誠志郎に、克也はやれやれと肩をすくめた。また、どうせくだらないことで悩んでいるのだろうとあたりをつける。この坊やはいつでも自分に引き寄せて考えすぎる、優しすぎるのだと、克也は呆れた。
 しかし、克也を含めたヤミブンのメンバーが、誠志郎のそんなところを気に入っているのだともわかっているので、なにも言わない。悩みすぎなければいいと思うが、そのフォローは克也の役目ではない。
 職員に今回のお祓いが無事に完了し、今後は大丈夫であるということをしっかりと誠志郎が告げる。自分がやるのだと言う気持ちが戻ってきたわけではなく、自分はもうバイトではなく新人なのだという自覚からだった。
 克也がちらりと時計を確認すると、すでに三時半を回っている。職場に帰っても定時までに帰れるかは微妙な時間で、急ぎの書類もなかったはずだ。今日はこのまま直帰で大丈夫だと判断した克也は、誠志郎に直帰すると告げると、誠志郎は怪訝な顔をしながら口を尖らせる。
「アリが直帰だったら僕は電車で帰るわけ?」
「……、坊やも直帰すればいいと思っていたんだが、そんなに仕事がしたいなら仕方ない、送っていってあげよう」
 誠志郎はその言葉の半分くらいからもうすでに顔を青くして首を振っていた。折角帰ってもいいと言われているのにどうして仕事に戻らなければならいのか!
 克也は、そんな誠志郎をおかしそうに見つめ、それなら帰るぞときびすを返した。どうやら、送っていってくれるらしい。珍しいことがあるものだと、誠志郎はありがたく乗っていくことにした。

***

 克也にマンションの前まで送ってもらったはいいが、駅に自転車を置いたままだったことに、誠志郎は部屋の鍵を開けてから気が付いた。このままでは明日の朝いつもよりも早起きをしなければならない。
「取りに行くかー……」
 そう独り言をこぼすと、開けたばかりの鍵を閉め、駅へと向かい、歩きだした。せっかく出てきたのだから、買い出しもまとめて行ってしまおうと算段をつける。
 駅で自転車を回収し、この際だとスーパーでまとめて買い出しを行い、苦労して自転車のサドルへと取り付けた。いい加減大きなかごのついた自転車にしようかとも思うが、友人からの贈り物だと思うとなかなか踏ん切りがつかない。まぁ、まだいいか、と小さく口に出してそのまま自転車を押し出して家路へとついた。
 駐輪場へと自転車をおき、苦労しながら重い荷物を持ち上げる。部屋の前へとたどり着く直前に、誠志郎は誰かがいることに気がついた。
「おそい」
 へぁ、と口からこぼれる前にその言葉が聞こえてきて、悪いことはしていないとわかっているがついごめん、と謝ってしまう。自分が度々会いたいと思っていたから幻覚を見たのではないかと、頬をつねろうとしたところで両手に荷物を持っていることを思い出した。
「えっと……とりあえず入る、よね?」
「当たり前だろ、早く開けろ」
 じとり、とにらまれて誠志郎はあわてて荷物をおいて鍵を開ける。どうぞ、というとお邪魔します、と控えめながらも通る声で言われてなんだか気恥ずかしくなった。こんなこと初めてだ。柊が自分から誠志郎の部屋へとやって来てくれるなんて。
 どきどきとしながら、とりあえず座ってて、と声をかけ、誠志郎は荷物をしまう。ごそごそと動いているとなんだか強い視線を感じ、ふと顔をあげれば柊と目が合った。そうして誠志郎は恥ずかしくなって顔を伏せ、また荷物をしまい始める。とそんなことを数度繰り返すと、誠志郎はついに我慢ならなくなり、なに?と小さく声に出した。声が小さかったのは柊の顔が自分を非難するかのようにじとりという視線だったからなのだが。
「いや、終わってからでいい。だからさっさと終わらせろ」
「はい……」
 柊ににらまれるととても恐ろしい。美人が怒ると怖いのは事実なのだと頭の片隅で誠志郎が思ったかどうかは定かではないが、とにかくぎゅっと身をすくませて先ほどよりもはやく手を動かしていた。
「お待たせ、しました……」
 誠志郎は、その言葉と同時に柊にサイダーを、自分にコーラを入れて柊の前に座る。柊にじとっとみつめられて、誠志郎は何もしてないよな、と自分を疑った。誠志郎は知らずのうちに柊を怒らせることが多いのだ。
 柊は、サイダーを一口のむと一度視線を落とし、誠志郎へと視線を合わせる。
「今日の、仕事、どうだったんだ」
「え?なんで?」
 びっくりとして柊をみれば、バツが悪そうに、今日の報告の電話を受けたのがぼくだったんだ、といわれ、誠志郎は思い至った。今日の仕事で誠志郎は気を失い(正確には呪物と共鳴していたのだが)、誠志郎の代わりに克也が事務報告の連絡をしていた。終わった後の報告も、克也がしてくれるということで誠志郎は珍しいな、と思いながらもその言葉に甘えていたのだ。
 それにしても、どうだったとはどういうことだろうか。柊は、その道の先輩(ヤミブンでは後輩だが、この道ではだいぶ先輩だ)として、誠志郎の仕事ぶりを気にかけている節がある。しかし、いつもならこんな聴き方はせずに、ずばりと聞く。共鳴した、と克也から聞いているはずだ、きっと心配しているのだろうと誠志郎はあたりを付けた。
「問題なかった、といえばそうだけど……すこしだけ、共鳴したみたいで、なんか見ちゃった」
「見ちゃった、っておまえ……」
 あきれたようにため息をつく柊は、少しだけ目を細める。小さく何かを言ったようだが、誠志郎には聞こえなかった。誠志郎は共鳴していた時の映像を思い返す。
 あの芸妓がつらいと、苦しいと思う感情が薄皮一枚隔てたところに詰まっていた。まるで自分の感情と思いちがうほど鮮明につらさが、くるしみが誠志郎を襲う。
「どんな、ものだったんだ」
 そっと、柊がつぶやいた。あまりにも自然と溶け込むようにつぶやくものだから、誠志郎は聞き取れずに聞き返すと、柊はもう一度ため息をついて繰り返してくれる。
「どんな、って……」
 自分の言葉で話そうと思っても、芸妓のつらさが、苦しさが、口を衝いて出る。これは芸妓の言葉だ。芸妓が誠志郎の口を借りて、体を借りて、柊に訴えている。
 芸妓の声が誠志郎の声にダブって聞こえ、柊は内心で鎮魂に失敗しているじゃないか、と毒づいたが口に出したところでどうしようもないので黙っている。これはきっと、芸妓の小さな思念のようなものが誠志郎の小さな想いと結びついて引き起こしているのだ。
(たぶん、ぼくのことだ)
 驕りでもなんでもなく、柊はそう思った。この芸妓の無念はつまるところ好きな人と添い遂げられなかったこと、その好きな人に騙されていたことなのだから。
 とうとう泣き出してしまった誠志郎に、柊はそっと近づく。びくりとおびえたように体を縮める誠志郎の背中に、柊はそっと手を重ねてやさしくなぜた。
 やさしく、大丈夫だと呟きながら、柊はこっそりとなぜている手とは逆の手で、鈴を手繰り寄せる。チリン、と澄んだ音が一つ鳴ると、そのほかの鈴も共鳴するようにチリンチリンと鳴りだす。音に合わせて、大丈夫だと繰り返せばすうっと泣き声にダブっていた声が消えた。
 柊はため息を一つつくと、手繰り寄せた鈴を机の上へと乗せる。そうして誠志郎に向き合えば、誠志郎はまだ泣いていて、どうした、と口からこぼれる前に誠志郎の腕に強くひかれた。柊の肩に頭を寄せ、小さくすきだと何度もこぼす誠志郎に、柊は腕をまわして背中をなぜる。今度は対恋人用だ、御霊用ではない。
「すっすきっだ、すき、すき、だ、すき……っ」
「うん」
 何度も繰り返す愛の言葉に、柊は相槌を打ちながら背中をなぜた。うん、と肯定を繰り返すと、ぐっと誠志郎の腕が拘束を強める。
「ぼくも、すきだ」
 そうなだめるように柊がそっと呟くと、誠志郎の腕が一瞬だけ緩んで、またきつく抱き締めた。もっとひどくなった泣き声に、柊はそのまま呟き続けた。

***

「……ごめん」
 小さく鼻を鳴らしながら、誠志郎は柊の拘束を解いた。こんな小さな女の子相手に泣いてすがって、なんと恥ずかしいことをしたのだろう!
「この際だから言っておくが、」
 と柊は前置きをして、誠志郎はこころなし小さくなって柊の前に座った。
「もう少し、ぼくに頼れ。何があったって、ぼくはおまえが好きだし、嫌いになんかならないんだから。ぼくより頼りになる先輩がいるからいらないのかもしれないけど、お前の恋人は僕なんだぞ」
 柊の強い瞳に引き込まれたかと思えば、少し拗ねたように付け足した恋人という言葉に誠志郎は柄もなくうれしくなる。柊は普段、こういった言葉を全くと言っていいほど言ってくれないのだ。


 誠志郎は、ありがとうの意味を込めて柊を抱きよせた。