"オマエの大学で練習試合あるから、泊めて。"

 そんな淡白なメールですら心が踊るのだから、僕は影山という男に毒されているのだろう、と思う。
 "いつ?"とだけ返すメールは、いつだって僕らの関係を表すようにそっけない。別に嫌いって訳じゃないし(というか嫌いなら付き合ってなんかいないけれど)、メール無精ってわけでもない。でも、何故かこうなってしまう。
 あまり携帯を携帯しない影山の返信はたぶんもう少し遅いだろう、と少し部屋を片付け始めた。別に汚くないけど。
 大学生になったのだから、と少し期待していたのだ。一緒に住めはしないにしろ、お互いの部屋に入り浸ったり、毎日会ったりできるのではないかと。
 でもそんな淡い期待は早々に崩れ去った。スポーツ推薦の影山は、寮に入らなければいけなかったからだ。部活だって高校の時以上のだし、朝からそれこそ本当に夜までずっと練習。寮では先輩と同じ部屋だというし、一人の時間なんてほとんどないのだろう。
 それよりも泊まっても大丈夫なのだろうか。そういうところ抜けてるからな、王様は、だなんて小さく口に出していたことに気付いて苦笑した。
 ブブッとバイブが響いて、紫色の光を灯す。髪色とは程遠いけれど、それでも一番彼に近い色。そんなことを思い出してじわじわと笑ってしまって、メールを開く。
 "明日"とだけ書かれたメールに、また急だなぁ、と少し呆れた。きっと、明日の練習試合の確認をしているときに聞き覚えのある大学名だと思ったのだろう。というか僕の大学よく覚えてたね、王様。
 嫌味はあった時に直接言うとして。明日の予定は、朝からバイトで午後はフリー。明後日も一日フリーだから、特に問題はない。試合が午後なら少し見に行ってもいいかな、と思う。
 ああ、でもうちの大学との練習試合だと山口がいるのか。それはそれで面倒臭い。
 僕と山口はいわゆる幼馴染で、何の因果か大学まで同じで、今もたぶんこの壁の向こう側にいるだろう。隣の部屋に住んでいるのだから。
 両親同士が仲が良くて、お互いが心配だからと一緒の部屋にされそうになったけれどイヤだとはっきりと断った。ほぼ家族のようなものだけれど、それでも影山は嫌がるし、僕だって余計な心配かけたくない。遠慮なく一緒に居たいのに邪魔だっていうのは少なからずあるけれど。
 昔からの癖か、山口はツッキーツッキーとうるさいくらいに隣にいる。そのせいか、学科の女子から彼氏だと勘違いされている節があり、バレー部のマネージャーをやっている子がわらわらと構ってくるのだ。
 久しぶりに見るのなら、影山だけみていたいのに。
 そんなことを思ってしまって、誰もいないのにひどく恥ずかしくなった。
 "わかった。"とだけ返信して、明日の準備を始める。
 ぱたぱたと部屋を片付けて、冷蔵庫の中身を確認。久しぶりだし、ポークカレーでも作ってやろう、もちろん温玉ものせて。寮生活ではあまり出ないのだと唇をとがらせていたことを思い出してくすりと笑った。
 カレーは煮込んだ方がおいしい、というから作り始めようかな。卵はなかったので明日帰りに買って帰ってくることにしよう。
 人参、玉ねぎ、じゃがいも、豚肉を切って、炒める。人参を形に切り抜くのは、しない。前にしたことがあったけれど、微塵も気付かないで胃袋へと消えていったからだ。さりげなさなんて、あの男には通じない。
 肉に火が通って、玉ねぎが軽く透明になったのがわかったら水を加える。沸騰して灰汁がでるまで放置。
 包丁とまな板を洗って、灰汁を取り除く。弱火にして、じゃがいもが煮えるまで煮込む。
 煮えたらルゥを加えて、少しだけ煮込み、とろみが出たところで火から下ろす。
 料理はあまり得意ではないし、好き好んでしたいとは思わないけれど、あの笑顔を思い浮かべれば作りたいと思えてくるのだからすごい。
 少しだけ浮かれて、明日着る服を選んでから眠りについた。
 
****
 
 わりと早い時間からのバイトは、昼前に上がる。同じシフトの人に昼食を誘われたけれど断り、大学の食堂で軽く済ませた。
 図書館でレポートに使う資料を借りて少しだけ時間を潰し、体育館へと向かう。体育館は二つあるけれど、どっちのことだろうかと少しだけ悩んだ。
「ツッキー!」
 ハァ見つかった、といつものように山口うるさいと言いながら振り返る。どうしたの、と言ったあとにはっと気付いたようにそうか影山! と勝手に納得したようだ。ホントうるさい。
「ゴメンツッキー!」
 そろそろいかなきゃ、影山だけじゃなくて俺も応援してね! とにこやかに言って去っていく山口に、そんなんだから勘違いされるんだと軽く頭を抱えた。
 体育館の二階の、コートの真後ろで観戦する。いつだってセッターであることを誇りにする王様は、真後ろから横に勢いよく横切っていくボールがかっこいいと言うから。そんな些細なことさえ覚えてるなんて、と自嘲した。
 王様は、その名の通り入ってすぐに正セッターの座を射止めたわけではない。一年の終わり頃に初めて電話がきて、レギュラーになったとのたまった。
 初めて寄越す電話がそれって、と思わなくもないけれど、たぶん誰よりも先に教えてくれたであろう興奮具合いにかわいいだなんて、嬉しいだなんて思ったのは内緒。お祝いに新しいサポーターとタオルをあげたのはまだ記憶に新しい。
 ウォーミングアップの半ばほどなのだろうか、ちらほら汗をかき始めている人もいる。王様はやっぱり王様で、烏野の黒とオレンジの鮮やかなユニフォームではないユニフォームに身を包んでそこにいた。11という数字にここではないいつかの記憶が甦りそうになるが、そっと蓋をする。今は、今だ。
 レシーブやサーブのフォームの美しいことといったら!
 真剣に、だけども嬉しい、楽しいという気持ちが溢れるような姿に笑みが漏れる。ああいうところはひどくかわいい。
 そっと頬杖をついて、楽しそうに嬉しそうにコートに立つ"コート上の王様"を観戦した。
 
****
 
 昔よりもずいぶんと柔らかくなった雰囲気だけども、まだまだ試合中は鋭い。惚れ惚れとする反面、くそったれ、という気分にもなるのだからやってられない。
 王様の大学にも女の子のマネージャーが二三人はいて、普通に会話しているのがなんとも言えない気分になる。普通のはず、なのになぁ。
 バレーをしている影山を見ているとついつい思考でも王様が上回る。今ではからかう時くらいにしか使わないのに。
 レシーブが乱れることの少ない、守備力の高いチームのようだが、王様がトスを呼ぶところが見れて嬉しいような、悔しいような、複雑な気分。ハイスペックむかつく。
 高校よりも伸びた身長で、ブロックもしゃくしゃくとこなすし、日向以外とでも変な位置からの速攻だって使えるようになった。まさに、読んで字の如くの、"コート上の王様"。
 いつの間にかギャラリーは増えて、僕が目立たなくなるのは有り難い。でも、王様がたくさんの目に触れるのが嬉しいような、悔しいような。僕の思考回路は影山が絡むと少しだけおかしくなるみたいだ。
 一セット目は王様の大学が取ったようだ。影山しか見てないから、試合の展開なんて入ってこない。今はマネージャー業務をしているわけではないし、別にいいのだけれど。
 タオルとドリンクを受け取って指示を聞く王様は本当に中学の時からは考えられないなぁ、と思う。ぼうっと影山を眺めていたら首に流れた汗を拭くためか顎を視線ごとあげて。バチリと目が合った。
 ふっと、それこそ高校時代に怖いと言われていた笑顔なんて面影も見せずに、自分のトスが、サーブが最高に決まった時のような、もっと柔らかいような――つまり、僕にだけみせるような――笑みをこちらに向けた。近くにいる女の子たちの声が遠くに聞こえる。あの笑顔があればいいだなんて、僕は本当にばかになってしまったようだ。
 軽く手を振ると、嬉しそうに目を見開いて、下ろしていた手をぎゅっと握った。ガッツポーズをしないための、小さなガッツポーズ。チームメイトに話しかけられた影山は、"王様"の面影なんて見せずに振り返る。普通に談笑しているのが笑えるだなんてきっと、王様だけだ。
 二セット目が始まる。
 
 ****

 試合は、2-0で王様の大学が勝った。相変わらず危なげのないスタイルで、着実に勝ちを進めるタイプ。たぶん、うちの大学のチームじゃ普通に勝てないだろう。……なんて、王様以外ほとんど見てないから本当のところは全然わからないけれど。
 総評やら片付けやら、たぶんまだ時間がかかるだろうとふっと図書館へ足を向けようとすれば、マネージャーに目ざとく見つけられ、ずるずると引っ張られた。ここまで見つけられないならそのまま見つけられなければいいのに、面倒臭い。
 スリッパを借りて体育館に入れば、なんとなく懐かしい雰囲気だなぁと感じた。体育は必修ではなかったので履修してない。体育館なんて足を踏み入れたのはきっと高校以来だろう。
 話すのにどうして体育館の中まで引っ張ってこられないといけないんだ、とかなんで山口を呼ぶんだ、とかいろいろ言いたいことはあるけど、とっとと開放して。それだけかなえてくれればもう何でもいい。
 ツッキー!と寄ってくる山口に、げんなりとうるさいと声をかけると、それこそ本当に懐かしい気分になる。ハイハイお疲れさま、だなんて本当に面倒臭そうに言っているのにうれしそうにするその声に反応したのか何なのか、さっぱりわからないけれど、ずんずんとこちらに向かってくる影山の顔はなぜだかうれしそうだった。
「蛍!」
 僕の名前なんて、二人だけのときとか電話口とかそもそもたまにしかよばないのに。なんでこんなところで名前で呼ぶんだばかなのばかなんだこのばか!
 はくはくと言葉にならない言葉のせいで唇だけがわななく。まわりがざわっとしただなんて気付かなかったのは、当たり前だろう。
 そのままぎゅっと抱きついて(ほんとなにしてんのかわかんない)、頭の上でおー山口、と声をかけた。
「久しぶり! ……ツッキー怒るよ?」
 山口うるさい、もう怒ってる! そんな言葉は影山の胸に吸い込まれて消えた。機嫌の良さそうな声で久しぶりなんだしいいだろ、とかなんとか言ってるけどいいわけないでしょ。
 そのままだからユニフォームだしまだ汗拭いてないから汗くさいし。別にいいけど。
 影山が頑固なのは嫌というほど知ってるけれど、僕だって負けず劣らず頑固なのだ。いい加減離して。
 通じたのか足を踏んだのに気付いたのか、後者だろうけど、離そうと腕を緩めた。そのまま放すのかと思いきや、耳に唇を寄せて(少しだけビクッとしたのはご愛敬だ)僕にしか聞こえないような声で囁いた。
「日本代表に選ばれた」
「えっ」
 言おうと思っていた言葉なんて全部吹き飛んで、ぽかんと見上げることしかできなかった。側に立ってたはずの山口にも聞こえないほどの囁きだったらしく、ツッキー? だなんて怒りの言葉が出てこないのを心配してる。
「今さっき教えてもらった」
 うずうずとというよりもむずむずと言った方がしっくりくるくらい唇が動いているのがかわいいのだけども、うん、ビックリしすぎて反応できない。実感がわくまでそのまま見つめあって、やっとわいた頃にじわじわと笑いが込み上げてくる。
「おめでと」
 情けない笑顔だろうな、と思ったけれど、嬉しそうにおう、だなんて言っている影山を見ればそれでもいいかな、なんて。額を合わせて笑いあって、珍しく人の前で優しい気持ちになった。
 ん? 人の前で……?
「わあああ!!」
「なんだよ」
 慌てて飛び退いて、でももう遅くて。周りがぽかんとしているのを肌で感じる。ああ恥ずかしい。なんで二人のときにしないんだ、これからうちくるんでしょ! だなんて今になっては遅いことを思い、影山の足を踏んだ。
 ツッキーと影山は相変わらずだなぁ、なんて山口がのほほんと言ってのけるのにうるさい、と返して頬が熱を持っているのを冷ますために扇いだ。焼け石に水だけど。
 影山に早く片付けてきて、と背中を押して。なんで僕ばっかりこんなに恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだろう、と思ったけれどコイツの羞恥心はちょっとおかしいので仕方ないのかもしれない。
「〜〜、失礼します!」
 じゃあね山口、と早口で捲し立てて、体育館を後にする。ツッキーもお疲れ様ー! だなんて声が背中にかかったけれど、反応してる心境じゃなかった。
 僕が体育館を後にしたあと、山口がどういうことだと詰め寄られた、なんてしばらく知らないままでいることをこの時の僕はまだ知らない。
 図書館の飲食スペースで冷たい飲み物を飲んで、熱いのを冷ましているうちに結構時間が経ったようだ。影山から"終わった"とだけメールがきていて、図書館とメールしようと思ってわからないだろうことに気付く。
 電話かな、と思いながらゴミ箱へ缶を捨てて図書館から出れば、体育館へ続く道から影山が見えた。ちょうどよかったみたい。
 相変わらずジャージ姿で、さすがに山口だって私服に着替えるのになぁ、と少し心配になる。まぁ、スポーツ推薦の影山にとってはバレーをするために大学にいるのだから、あまり気にならないのだろうけど。
 影山、と声をかければパッと顔をあげてこちらへと駆け寄ってきた。
「お疲れ様。……あと、おめでと」
「おう。……まさかオマエが来るなんて思わなかったからびっくりした」
 別に怒ってるわけでも拗ねてるわけでもないのだけれど、唇をとがらせていう影山はかわいい。というよりも来るなんて思わなかったって失礼じゃない?僕をなんだと思ってるの。
 並んで歩きはじめて、スーパーに寄ることを伝えた。きょとんとした顔をしてるけど、卵ないから温玉作れないでしょ、と言えば顔を輝かせるのだから単純だ。
 カレーであることを察してうきうきとしているのがありありとわかる影山は、たぶん贔屓目を抜いても可愛い、はず。ポークカレー温玉のせでここまでうきうきできる成人男性なんて、きっと世界中を探しても王様だけなんじゃないの。
 最寄りのスーパーではなく、学校寄りのスーパーに寄る。こっちの方が大きくて品ぞろえがいい上に安いのだけれど、家からは少し遠いのでたくさん買い物をしたいときには不便なのだ。今日は荷物持ちがいることだし、いろいろと買い置きものも買っていこうかな、なんて考えて買い物カゴを取った。
 キノコ類がそろそろなくなるので舞茸とえのき、あとはサラダ用のレタス、キュウリ。鍋の季節もまっただ中、ということで白菜や大根もカゴに入れる。
 食べれるものはなんでも食べるタイプの影山は、ふらっとどこかへ消えたかと思ったら缶チューハイとビールをいくつか手に持って戻ってきた。カレー食べた後飲むの、それ。
 お酒があるなら、とつまみになりそうなものを見繕う。ナッツ類と、チーズがあればいいだろうか。というか、影山が進んでお酒を飲むなんて珍しい、と思う。弱くはないけど、強くもないから。
 さらに、この間使ってしまったトマトのポール缶を二つほど。トマト煮は楽でおいしくて作り置きできるからすばらしい。
 あとは、と冷蔵庫と冷凍庫の中身を思い浮かべて、そろそろ鶏肉がなくなることだと思ってもも肉を手に取った。ここのスーパーはもも肉とむね肉の値段の差がほとんどないからためらいなく買える。
 ねぎも買っておけば簡単なつまみになるなぁ、とねぎを取りに野菜コーナーまで戻ってカゴに放り込んだ。戻って肉コーナーを過ぎ、牛乳と飲むヨーグルトとどっちがいいか影山に聴こうと振り返ったら、そこに影山はいない。どこにいったんだ、とため息を吐いた瞬間、肩越しにカゴを覗き込まれた。
「今日は牛乳な」
 まったくどこに行ったのかと思った。ハイハイ、だなんて返事をしながら牛乳を手に取れば、影山はん、と掌を上にしてこちらに手を差し出した。
 なんだと思って手に持った牛乳をその手に乗せれば、ちげーよカゴよこせ、だなんて一体どこでそんな気遣い覚えたの。急に軽くなった手元に、どうせ買った後の袋は持たせるだったのに、カゴが手元にないだけでなんとなく手持無沙汰になるのはなぜだろう。
 とりあえず牛乳をカゴに入れて、あとは目的だった卵を一パック。明日用に食パンを買おうとカゴにいれて、こんなもんかとカゴの中身を確認した。
 レジいくよ、と声をかけてレジに並ぶ。もの珍しそうに会計するのを見つめる影山は、一人暮らしなんかしたらすぐに死にそう。ごはんだって炊けないんじゃないのかな。
 そんな"王様"のお世話だって悪くないかな、なんて思ってる僕は、少しどころかとても恥ずかしいかもしれない。絶対教えてなんかやらないけど。
 エコバッグ二つにぎゅっぎゅと買ったものを詰めてると、そういうのちゃんと持ってるんだな、なんて不思議そうに首をかしげるのだからおかしなものだ。最近はちゃんと持ち歩かないと袋を買わないといけないところが多いだなんて知らないんだろう。
 重い方の袋をさっと持ち上げて、行くぞなんて声をかける影山を少しだけ眩しく感じながら、うん、と素直に声を出した。
 
****
 
 僕の下宿先は、大学の最寄り駅から二十分ほどいったところにある。大学の周りは少し栄えているけれど、僕がすんでいる辺りは住宅街、といった感じで住みやすい地区だ。
 一応オートロックのマンションではあるけれど、そんなに厳重な感じはしないマンションに住んでいる。1DKだけれど、都心からは離れているので家賃はそんなに高くない。
 ただいま、と声に出して玄関に入るとお邪魔しますをどもる影山に、まだ慣れないのかと笑いが込み上げた。とりあえず冷蔵庫の前に置かれた食材をあるべき場所へしまっていく。
 全部しまい終わる頃には、影山は手を洗ってうがいをしてダイニングテーブルの椅子に座っていた。なんだかそわそわとしているように見えるのは夕飯がポークカレー温玉のせだからか。なんだか小さな子供のようでかわいい。
 温玉を作っている間に、サラダを作る。シンプルにレタスとキュウリ、水菜にして、できた温玉を一つ。さらに鰹節をまぶし、酸味を付け足すために梅干しをたたいて乗せた。
 その間、影山は勝手知ったるなんとやら、テレビとHDDレコーダを付けてこの間の試合らしき録画を見ていた。そんなに慣れてるのにどうして入るときのお邪魔しますは毎回噛むのかさっぱりわからない。
 温めていたカレーを火からおろし、ごはんと一緒にお皿に盛る。カレー皿は寮におけないと影山がよこした、日向にもらったもの。影山が来たときにしか使わないのは、日向が影山にやったものだという意識が強いからか。
 なんだかなぁ、と思わなくもないけれど、あの二人の間のライバルなのか相棒なのかよくわからない関係は、きっとバレー以外が立ち入れるものではない。
 そこが悔しいと、いらだたしい思えるほどに僕は影山に執着しているのだと思うと何とはなしに笑えた。バレーに勝てないのはわかっているからもう、アレなのだけれど。バレーの為なら僕なんか放り出して、世界中どこへでも行ってしまうのだろう。そんな、バレーに真剣な影山だからこそ、好きになったのだけれど。
 テーブルの上を拭いて、向かい合わせにランチョンマットを引く。キッチン側に僕、逆側に影山。中央にサラダを、カレーを各々のマットの上に置いた。温玉は別の器に乗せてカレー皿の左側へ。
 カレーのとき、影山は水なのでグラスに氷と、冷蔵庫から水を取り出して注ぐ。自分にも同じようにして、席に着いた。
 バレーに夢中だったはずの影山は、カレーのにおいに気付いたのかなんなのか、映像を止めてそわそわと待っていた。こっそりと苦笑して、食べようか、といえばうれしそうにおう、と頷く。
「いただきます」
 意図せずそろった挨拶に、ふわふわとした気分でスプーンを手に取った。
 
****
 
 料理は、思っていたよりもおいしかった。久しぶりに一人じゃない夕飯だからかもしれないし、それが影山だからかもしれない。
 僕が満腹になった量の軽く二倍半は食べたのに、影山はまだ足りなさそうだ。高校生のころよりあきらかに食べる量が増えたのは、運動量が当時よりも増えたからか、体が出来上がってきて筋肉にいくことがわかったからか。
 映像の続きを見始めた影山をよそに洗い物をしながら、先にお風呂かな、と洗い物が終わったところで湯船にお湯を張り始める。お酒を飲んだ後に湯船には浸かれないし、影山は試合後だ。ゆっくりと湯船につかってもらったほうがいいに決まっている。
 温かいお茶を淹れ、影山と一緒になってバレーを見た。じっとバレーを見る影山は、昔のようにバレーがしたくてうずうず、というよりも見たものから自分のためになることを吸収しようとじっと画面を見つめている。
 僕が見始めてから四本目のサーブが始まったあたりで、お風呂が沸いた。お客様が先なのだろうけど、出てきてそのまま寝れる影山と違って女の子にはすることがたくさんあるので、先に失礼する。
 ゆっくりと湯船につかって、体を伸ばす。久しぶりにあった影山とは、最初に抱きしめられた以降、特にスキンシップをとっていない。ああまだしっかりとおめでとうといってなかったなぁ、と思い出した僕は、乾杯のときに言おうとぼんやりと思った。
 手早く髪の毛と体を洗って、もう一度湯船につかる。ふくらはぎのマッサージをしながら、メガネのないぼんやりとした視界で自分の薄い体を見つめた。
 なんで僕は女の子なのだろうか、という疑問がついて回るこの身体。二十年生きてきたのに、まだ慣れない。いつか、どこかで、僕は"僕"という一人称で違和感のない人間だったはずだ。
 ぼうっと考えてしまうのは、必ず影山のいるときや、影山と別れた直後。影山が僕の記憶を掘り起こすきっかけなのかもしれないけれど、それでもこのままでいいのに漠然とした不安だけがつきまとう。

 "僕"は僕なのか。

 考えたって仕方のないことだけれど、なんとなく不安。ぐるぐると回るこの感情は、影山を想う感情に似ていて、だからなのかもしれない。
 ずいぶんと温まったようで、立ち上がったときに少しだけ目の前が暗くなった。頭を下にして目をつむる。
 おさまってからお風呂を出て、ルームウェアを着た。冬にちょうどいいもこもこっとしたワンピースにレギンス。タオルで軽く髪の毛の水分を吸い取りながらダイニングへと戻った。
 影山はちょうど試合が終わったところらしく、レコーダーからディスクを取り出している。ドライヤーをコンセントにさして、肌を整える前に影山に声をかけた。

****

「お風呂沸いてるから入っておいでよ」
「おー、わかった」
 手に持っていたディスクをケースにしまい、テーブルの上に置いて自分の荷物から着替えを出してお風呂場へと消えた。
 ぼっとそれを眺めてから、肌を整える。面倒だけれど、怠ったときの乾燥がひどいのだ。
 一通り終わったところでもう一度タオルドライをし、流さないトリートメントを髪につけてドライヤーのスイッチをオンする。ブオォ、と温かい風を確認してから髪に指を通した。地肌はしっかり、毛先の方は軽めに。
 まぁこんなものでいいか、とスイッチをオフしたところで影山がタオルで髪をがしがしとふきながら戻ってきた。
 あんなに粗雑な扱いなのに、どうしてあの髪はあんなにさらさらなのか理解に苦しむ。こっちおいで、と椅子の前に座らせて、オフしたばかりのドライヤーをもう一度つけて黒くまっすぐな髪に指を通した。少し乾かすだけでさらさらと指通りが格段によくなる髪の毛は、本当にうらやましい。くせっ毛の僕には本当にほしいくらいのものだった。
「ハイ、おしまい」
「ん、サンキュ」
 ドライヤーを片付けようと立ち上がろうとしたのに、膝に顔を乗せたまま動かない影山のせいで動けない。とりあえず電源プラグを抜いて、まとめた。
 頭をこちらに向けてじっと見つめる影山は、"真っ向コミュニケーション"モードだ。どうしたのいきなり。だなんて言えたものじゃないけれど、ぽんぽんと頭を撫でてからお酒飲むんでしょ、といえばおう、と返事だけがいい。君が頭どかさなないと僕は動けないからなにもできないよ。
「オマエ、」
 そこで止めてじっと僕を見つめる。エスパーじゃないからわからないんだけど。見つめ返せば、やっぱなんでもない、と頭をどけた。
 ドライヤーを片付けて、とりあえずビールとグラスを出す。お皿につまみをごそごそっとおとして、それもどんとテーブルの真ん中に置いた。
 ちゃんと床から立ち上がって定位置の椅子に座っている影山はなんだか不思議な表情だった。"真っ向コミュニケーション"モードのときよりは柔らかいけれど、まだじっとこちらを見つめている。
 そそぐよ、とプルタブを開けてお互いのグラスにビールを注いだ。
「代表選出おめでと」
「ん、頑張ってくる」
 カチン、と軽くグラスをふれあわせるだけの乾杯。ぐっと飲み干したグラスをつきだしている影山は、相変わらず人使いが荒いと言うかなんと言うか。
 なにも言わずにおかわりを注いであげる僕もずいぶんと丸くなったと思う。昔だったら皮肉の一つや二つと言わず、三つや四つくらい普通に出ていたのだから。
 グラス一杯を空けた僕は、ビールの二杯目といくわけではなく冷蔵庫から缶チューハイを出した。柔らかい味のそれは、程よい熱を生む。
 僕も影山も、お酒はほどほどに強い方だ。決して弱くはない。弱いというのは山口のようなやつのことを言うのだ。一口口をつけただけで真っ赤になるなんて、どういう構造してるのかさっぱりわからない。
 お互いが缶を三つずつ空けるまであっという間だった。ほんのりと色付いた頬で、影山はじっと僕を見ている。次の缶を出そうとテーブルに手をつくと、向こう側からぐっとその手を捕まれた。
 ぎゅっと、ならまだ色気もあるのになぁ、とどこか冷めた頭のはじで考えるのをよそに、ドキドキと鼓動の高まる胸は素直だと思う。なに、と聞く声は少しだけ掠れていた。
「なぁ、なんかあったのか」
 さっきとは別の意味で鼓動が高まる。動物的勘なのかなんなのか、影山は鋭い。嫌だなぁと思っていることばかり見抜いてくるのだから。
 こういうときの影山には、別にといったところで通じやしない。押し黙っていると、握った手にじわじわと力がこもる。"真っ向コミュニケーション"モードの瞳は、真っ直ぐすぎて見つめるのが辛いくらいだった。
「なんで、」
 気付くの、わかるの、聞くの。後ろに続くはずだったのはなんなのか、わからないけれど。影山の瞳に吸い込まれるように言葉は止まった。
「たまに追い詰められたみたいな目してるだろ。すぐ消えっからあんま気にしないようにしてたけど、」
 ぐっと、握る手を強くして「今日はほとんどそうだ」だなんて、自分でも気付いてなかったのに。苦しい、つらい、そんな色が真剣な瞳の奥に見え隠れしている。
 なんでもない、と呟いた声はすぐにんなことねぇだろ、とかき消された。はぁ、と漏れたため息はどちらのものだったのか。ずるずるとテーブルの中央まで持っていかれた手を強く握った影山に、痛いってば、声を漏らせば少しだけ緩まる手。
 なぁ、痛いほどの瞳の強さにたじろぐ。
「……なんか、変なだけ。僕じゃない僕がいるみたいで」
 呟けば、二重人格? とばかりに首をかしげるのだから少しだけ笑ってしまう。違うよ、呟いて、握られていた手をひっくり返して僕から握った。影山にどうやって説明したらいいかわからない。
 僕が言葉を探しているのがわかるのか、お前がよくわかんねぇなら俺にはぜってーわかんねえんだろ、と前置きをしてから僕の指に指を絡める。こんなことめったにしないから、びっくりして指が震えたのを勘違いしたのかどうか、絡めたまま強く握りしめて影山は言った。
「お前じゃないお前だって、お前だろ」
「……」
 やっぱり単純なのかもしれない。こんな真剣な瞳を見るのは試合の時以外ではほとんどなくて、それが嬉しいだなんて。強い瞳に引き込まれるように視線を合わせたら、信じられないくらい優しく、でも力強く微笑んで。
「どんなお前でもまとめて全部愛してやるから安心しろ」
 そんな顔でそんなこと言うのだから、反則以外の何者でもない。
 鼻の奥がツンとして、こぼさないようにぎゅっと眉間にシワを寄せた。それを勘違いしたのかどうか、子供っぽく唇をとがらせて頬を少しだけ染める影山は、可愛らしい。
「俺が愛してるのがお前だってわかればどんなお前だってお前だ、て自信もてんだろ」
 わざわざ解説してくれなくても、わかるよ。ありがと、と呟いた拍子にこらえていた雫がまつげを濡らして落ちた。この、根性なし。
 ざわつくような空気の揺らめきに、影山が動揺したのか、笑ったのか、判別はつかなかった。僕は顔をあげられなかったし、ああもう、眼鏡が邪魔だ。眼鏡を外して、握られていない方の手で涙を拭う。
 ガタ、という音で影山が立ち上がったのはわかったけれど、手はそのままで、というかむしろ少し引かれて、顔をあげようとした瞬間。拭わなかったもう片方の眦が、温かい温度でぬれた。大きな手が、拭っていた手の上から頬に添えられて少しだけ上向かされる。
「蛍、」
 テーブル越しの瞳が柔らかく緩んで、唇が落とされた。軽やかな音がたくさんあがり、くすぐったさに瞳を伏せる。まぶたにも落ちてくる柔らかさは、それだけでじんわりとあたたかい気持ちにさせてくれた。
 鼻の頭に落とされた唇は耳へと寄っていって、さらさらとした髪が頬をくすぐる。くすくすと笑えば、頬に添えられた掌が首筋を撫で、その瞬間、ギッとテーブルが鳴った。
 瞳を合わせて、その瞳に熱を見つけて何かがゾクリと背筋を駆け抜けた。何か、なんて白々しいのだけれど。
 首筋を撫でた手がどけられ、こっちにこい、とばかりに握った手を引かれる。しょうがないな、という風を装って動くけれど、早くそばにいきたい、だなんてどこからかどんどんと湧いて出てきて収まらない。
 椅子に座ったままの影山の前に立って、抱きしめられたまますこし屈んでキスをした。軽い音を立てて離れた唇を惜しむように、影山の手が背中を撫でるのに震える、だなんて。
 膝の上に座らせられて、握った手を離して抱きついた。影山は僕を片腕で抱き寄せていて、もう片方の手が髪をすく。
 高校生の頃から影山は僕の髪をすくのが好きだった。くせっ毛なのを気にしていた僕にとって、髪を触られるのはなんだか苦しいものがあったけれど、楽しそうに触る影山に強く言えなくなったのはいつからか。楽しそうな様子の中に愛しさ、みたいなものが見え隠れし始めた頃からかもしれない、だなんて、現金なものだ。
 首筋、耳と柔らかく触れられて身体が震える。耳のそばは、音が反響するから、より。少しだけ身体を離して僕から啄むようなキスをした。
 応えるように、影山のキスは啄むというよりは噛みつくようなそれで、まるでそのまま食べられてしまうかのように感じる。ぎゅっと抱き寄せる腕に力が入って、これは口を開けの合図だ。
 ハイハイ、仰せのままに、だなんて頭の中では強気に返したって、そんなもの微塵も見せずに従う。緩く開いた唇にねじ込むようにして入ってくる舌は、熱く口内を這い回る。鼻から抜ける声は、自分のものだと思いたくないほどに甘く、熱を持っていた。
 ぐっと腰に回された腕に力が入って、少しむせて唇を離した。
「わりぃ」
「ごほっ……ほんとに、気を付けてよ」
 一応文句をつけたところで、全く悪びれてなんかない影山の瞳は火傷しそうなほどの熱を放っていて、それどころじゃなさそう。僕の呼吸が落ち着くのを待ち構えるように、少し下から荒々しく唇を奪った。
 口内だけでは足りないのかなんなのか、片手は僕を支えたまま手が腰や背中を這い回る。熱い舌は口の奥の方までを蹂躙して、舌が擦りあわされると腰が震えた。
 どちらのものかわからない唾液が唇の端からこぼれて、一旦離れても這い回る手はそのままにこぼれた唾液を追ってぺろりと舌が這った。熱い舌は先程のキスの余韻かひどく潤っていて、なめても結局はベタベタになるのであまり意味はない。
 それでもそうやって舌が這った場所は相乗効果のように自ら熱を放つ。そのまま舌はどんどんと下がって、あごのラインから首へとおりた。
 時折ちゅっと音を立てて唇を触れさせるのがくすぐったくて少し上を向く。いつの間に鎖骨までおりたのか鎖骨に沿って動く舌が与える刺激に、ぞくぞくと快感が走り抜けた。
 徐々におりていく顔に、紛れもない期待感を抱いて、胸の膨らみはじめに到達するとほくろがあるらしき場所を舐める。
 二人の間の取り決めは、僕の身体にキスマークをつけるならそこだけということ。そして影山はキスマークをつける前に必ず消毒というかのようにそこを存分に舐めるのだ。
 だからきっと今日もそこにキスマークがつくのだろうと思い、影山の舌が離れて唇が寄せられた瞬間ーーピンポーンと間抜けな音が響いた。その音で完全に停止した影山は、チッと舌打ちをして熱のこもった視線を寄越す。そんな目で見られてもな、だなんて思うけれど、どうしようもない。
 訪問者が焦れたのかもう一度ピンポーンと鳴って、仕様がない、と立ち上がりかけると、影山が自分の座っていた椅子に座らせてずんずんと玄関へ向かった。
 まぁ深夜ではないにしろそんなに早い時間でもないし、こんな時間に訪ねてくるのは常識の範囲ではない、といっても良いくらいの時間だったので出なくてもよかったのだけれど。
 蜜月といってよいだろう時間を邪魔されて影山はご機嫌斜めだ。僕だって決して愉快ではないし、と言うよりも、はっきり言って不愉快なのだけれども、まぁあの影山を見てしまえばそれも薄れる。
 ため息を一つ吐いて、テーブルの上を片付けようと立ち上がった。どうせもう、食べも飲みもしないのだろう。食べ残し、と言うよりもほとんど手のつけてられていないつまみは、湿気ないようにタッパーに乾燥剤と一緒に突っ込んだ。
 グラスとつまみの乗っていた皿を流しに入れ、水にさらす。その間にゴム手袋を着けて、スポンジを手に取った。せっかくつけた化粧水やら乳液やらが取れてしまうと手荒れが起こりやすくなるから、とゴム手袋を着けるようになったのはいつの頃からか。
 一旦水を止めて、グラスを手に取れば、山口だったと影山が戻ってきた。山口?別にいつだっていいのになんだったんだろう。
 後ろから抱きつくように腕をお腹前に回し、肩の上に顎をのせて、図書館に忘れてた本届けに来たってさ、と言った。また唇を尖らせているのだろう。
 本なんか忘れただろうか、と少し考えて、たぶん顔を冷ましているときに置き忘れたのだろうと結論を出した。別に次に講義で会ったときだっていいのに。どうせすぐに会うんだし。
 そんな話と思考の間に洗い物は済んで、ゴム手袋を外してフックに引っ掻けた。
 それを待ち構えていたようにぐっと力をいれて後ろから唇を奪われる。変な体勢だからか、唇の隙間から声が漏れてなんだかぞわぞわとした。お腹に回された手に、手を添えれば、一度放されひっくり返されてからもう一度キス。シンクに上体が乗りそうで、少し痛いし倒れそうなのだけれど。
 シンクに両手をついて上から見下ろす影山の瞳には先程よりも強い熱が籠っていて、右足を僕の足の間に割り入れて上から熱い吐息をこぼす姿は欲をそそった。熱い瞳に映る僕もひどく欲にまみれていて、降参だと言うように首に腕を回す。
 そのまま抱き上げられて、ベッドに下ろした僕を、そのまま上から見下ろして獰猛に笑う影山に、すべて飲み込まれそうだった。

僕は、

(焦げ付くような視線が)(全てをどうでもよくさせる)