※本編終了何年か後



 一つ隣の東屋から、ぱっと顔をあげたローゼマインがぱたぱたと走りよってくる。相変わらずその速度は遅いが、それでもフェルディナンドの袖を掴んでいた頃よりはよっぽど速くなった。
「フェルディナンド様、見てくださいませ! 配色がなかなか綺麗にできたと思うのです。どうですか?」
 真夜中の満月よりも美しく瞳を輝かせて差し出したそれは、フェルディナンドが一生縁がないと思っていた『自分のために施された』刺繍。図案としては比較的単純なものの、追加されたであろう模様や装飾された文字から、十分であるといえた。
「ふむ。……良いのではないか」
「むぅ。やっぱりここは金糸の方が見映えが良かったでしょうか?」
 フェルディナンドの隣にさっと腰掛けたローゼマインは、フェルディナンドが手に広げている刺繍のいくつかを辿りながら唇を尖らせる。相変わらずの子供っぽいしぐさに、フェルディナンドは溜め息が隠せなかった。
 ローゼマインのいた東屋から、もう一人がぱたぱたとこちらに走りよってくる。ローゼマインは先程の表情など忘れたかのようにぱっと笑顔でフェルディナンドの手の中の刺繍を優しく取り上げた。
「お父様、見てくださいませ! 上手にできたと思いません?」
 ローゼマインに非常に似た笑顔の娘は、フェルディナンドへとその刺繍を押し付ける。図案はローゼマインのものと同じもので、きっとローゼマインが教えながら刺したのだろう。あんなに刺繍を嫌がっていたのに、と思うと時の流れは早い。
 手に広げた手巾は初めて刺したのならば上出来で、あまり上手くはないもののフェルディナンドと文字まで刺繍してある。フェルディナンドが柔らかく表情を崩して、その向こうでローゼマインが笑う。
「ああ、良いのではないか。……ありがとう」
 ぎこちなくも柔らかく娘の頭を撫でるフェルディナンドに、ローゼマインは満足気だ。フェルディナンドがかつて願ったものは手に入らなかったけれど、それでも今こうして幸せでいられることが、フェルディナンドとその側近たちだけではなく、このアレキサンドリアに広がっていく。だって、ローゼマインはフェルディナンドを幸せにすると誓ったのだから。
 それに──フェルディナンドも、領地ごとローゼマインを守ると誓った。つまり二人は、周りを巻き込んで幸せにしたのだ。


刺繍