「先輩は結婚しないんですか?」
 うまく吸い込めなかった空気が、喉の辺りでひゅっと鳴ったのを感じた。同期の方々は結婚し始めてますよね、と手元の煎餅をかじるその姿に、本当にただの世間話なのだと実感する。俺の結婚は世間話程度か。いや世間話以上のなにものでもないけれど。
「予定はねぇな」
 先程鳴った喉なんか幻聴ですと言わんばかりに平然とそう言って茶をすすった。こいつの淹れる茶は、なぜだか他の人が淹れるよりも美味く感じる。なぜだか、なんて白々しい、と嘲るように脳内で自分が嗤った。お前こそどうなんだ、とはそれこそ白々しいだろうか。
「この間の見合いどうなったんだよ」
 ああ、とまるで今思い出したかのようにいう柚木に、どっちだと気持ちが逸る。
「どうもこうも……むこうが思ったのと違ったー、なんてひどいこというんですもん。破談ですよ破談」
 むっつりとそうこぼした柚木は、軽く唇をつきだして本当ひどいですよ、と重ねた。その言葉に安堵のため息が出掛けるのを、茶をすすって飲み込む。よかった、まだ柚木は結婚しない。
「思ってたのと違ったって、お前なにやらかしたんだ?」
 こいつの魅力をわからないなんて残念なやつ、と思うと同時に、こいつの魅力に気付かなくて本当によかったとも思うのだからもう末期だ。
「やらかしたこと前提ですか!? ひどいです、ただカタログスペックと実際が異なっただけのよくある話ですよ」
 カタログスペック? と首を傾げると、事前に基本情報と趣味趣向のスペックを交換しておくんですよ、と解説してくれた。なるほどそれでカタログスペック。
 まあ、趣味読書(最近読んだ本で専門書でも答えたのか)、所属ヒーロー事務所エンジニア(事務とでも書いたのか)、あたりはカタログスペックと実スペック違いだというのもわからなくはない。だが、他に何が違ったのか。
 きょとん、としていたのがわかったのか、柚木は呆れたようにコレですよ、コレと自らの髪の毛をつまんだ。髪の毛?
「お見合い写真よりばっさり髪が短くなってたのがダメだったみたいですよ」
「悪ィ」
 よくやったと自分を誉めそやしたくなる気持ちを抑えて、すかさず謝った。長かった髪をばっさりと切るはめにしたのは俺だからだ。
「別に気にしなくていいですよ。前も言いましたけど髪の毛なんてまた伸びますし、そもそも久しぶりに美容院行ったくらいに頓着ないですもん。そして髪の毛くらいでとやかく言うあの男と結婚するはめにならなくてよかったくらいです」
 悪戯っぽく笑うその姿にぎゅっと音をたてて心臓の奥の方が軋む。もう一度だけ悪ィとこぼして、笑った。

黒く流れる

 いつか──そういつか。この事を笑って話せるようになった頃に、今度は「悪ィ」じゃなくて「よくやっただろ?」なんて冗談がいえるようになればいいと、そう思った。