「おや、イオネ。遅かったね」
 シュテルテが酒場で待っている、と伝言を受けたのはつい先刻の事だった。
 わざわざ他人に伝言を頼んでまで呼び出すくらいだから何か重要な用件なのだろうと渋々とではあるがイオネがそこを訪れると、気付いた彼は気だるげに手を挙げて居場所を示してくれた。その表情を見てつい溜め息を吐いてしまう。どうやら急用ではなさそうだ、と肩を竦める。
「……シュテルテ。何の用だ、ぁああ!?」
 深夜に近い時間帯。酒場は賑わう人々で埋め尽くされていた。
 合間を縫って近付いたその席にはシュテルテの他に思いがけない人物がいて、億劫なポーズを取っていたイオネは思わず素っ頓狂な声を上げる。
 うっすらと笑みを浮かべるシュテルテの向かいの席で突っ伏しているのは、よく見知った司令官で、イオネが憎からず想っている相手でもあるナマエだった。普段はひとつに結っている長い髪は下ろされていて、顔に掛かる前髪に隠された表情は伺えない。身に纏っている物もいつもの真っ白な司令服ではなく私服だった。今日は非番の日だったか、とイオネは動作の鈍った思考の片隅で彼女の予定を思い返していた。
「つい先程までは意識があったんだけれど、眠ってしまったようだね」
 頬杖をついて彼女を見つめるシュテルテに何度目か分からない溜め息を吐く。言いたい事と聞きたい事はたくさんあった。あったけれど、思考がまとまらずに返って黙り込む事しか出来ない。
 取り敢えず、はっきりさせたい事がひとつ。
「どうしてシュテルテがこいつとこんな場所にいるんだ……!?」
 まさか、とか、そんな訳は、などとイオネがひとり悶々と繰り返しているのを尻目に、シュテルテは微かに笑う。分かりやすいなあ、とは口に出さなかった。イオネがこんな風に取り乱すのは大抵クヌートかナマエの事でだった。本人はきっと無自覚だ。
 シュテルテが口を開く。
「偶然立ち寄ったらナマエ君がひとりで飲んでいたから、護衛ついでに付き合っていたのさ。子猫ちゃんがひとりでいるなんて心配にもなるだろう?」
「な、なんだ……まったく、ひとりでとかホントに危機感ないなこいつ……」
 もっともらしい理由だった。いやきっとナマエの部隊員だったら誰でもそうするだろうなとイオネは苦々しくすら思った。
 彼女は皆に好かれている。慕われている。同様に、ナマエも皆を好いている。
 息を吐き出す。面倒な感情も一緒に吐き出せたらどんなに楽だっただろう。気持ちを伝えてすらいないのに嫉妬ばかりが日に日に膨れ上がっていた。
 初めて出会った時から目が離せない危うさのある彼女だったけれど、まさかここまで警戒心が薄いと言うか無防備と言うか自分に無頓着と言うか、とにかくイオネが後で絶対に説教をしなくてはと思うには十分なくらいの危機感のなさである事に間違いはなかった。少なからず好意を寄せている相手でもあるからこの状況は大変面白くない。そもそも自分を呼んでくれればこんな事にはさせなかったのに、とそんな風に思ってしまってから片手で顔を覆った。そう言えたら今頃困っていないのだ。焦燥と自己嫌悪が胸の中でせめぎ合う。
「仕方ない、とにかく連れて帰るか……悪かったな、迷惑掛けて」
「いいや、楽しい時間を過ごさせてもらったからね。それにしても……フフ」
 意地の悪い笑みを浮かべるシュテルテに舌打ちをしてしまいそうになる。見透かされている。面白がっている。そう思った。
「……何だよ」
「本当に彼女の事が大切なんだね。イオネは元々世話焼きだけど、ナマエ君に対してはそれだけじゃないようだし」
「はぁ? そんなんじゃねーよ。見てて危なっかしいから放って置けないと言うか目が離せないと言うか……」
 静かに寝息を立てるナマエに視線を向ける。シュテルテの全てを見透かすような瞳から逃げたかったのだ。自分の気持ちにも向き合えないのに、立ち向かう勇気はない。
「たまには素直にならないと、彼女に嫌われてしまうよ?」
「うるせえ……!」
 内心気が気ではないのだけれど。
 シュテルテに伝えた言葉に嘘はない。放って置けないのは本当だ。ナマエはひとりでひたすらに前へと進んで行ってしまう。彼女が頼れば応えてくれる人は多いだろうに、ひとりで突き進んで行く。その姿があまりにも痛々しくて見ていられなかった。だからイオネは誓ったのだ。彼女を守る事を。投げやりで面倒くさがりなイオネを変えてくれたナマエを、今度は自分が変えてみせようと。
「……フフ、とにかくナマエ君の事は任せたよ。彼女に何かあるといけないからね」
「ああ……分かってるよ」
 司令官としても、ひとりの女性としても、失う訳にはいかない大切な人なのだから。



 昼間の活気が嘘のように街は静かに眠りに就いている。聞こえるのはナマエの寝息と自分の心音だけ。世界にふたりきりだった。
 彼女が酒に酔って寝入ってしまった訳ではない事は分かっていた。思い悩んでいる時、ナマエは大抵酒場を訪れてひとりで過ごしている。彼女らしからぬ場所ではあるが、喧騒が心地いい、といつか言っていた事を思い出す。
「あー……」
 起こしてしまうのがはばかられておぶって帰る事にしたまではよかったのだけれど、ひらひらと手を振るシュテルテに見送られて酒場を出た辺りでイオネは自身の選択を早くも後悔し始めていた。
 ぴったりと密着した背中にナマエの呼吸と体温が伝わって来る。こんなに近くで彼女を感じるのは初めてだった。初めこそ想像以上に軽い彼女の食生活を心配してみたりその他生活態度全般を憂いてみたりしていたのだけれど、結局意識は今触れている彼女に向いてしまう。
 吐息が首筋を撫でる度に体温が上昇して行く。冷たい風がその熱を拐ってくれる事が唯一の救いだった。宿舎まではまだ距離がある。早く辿り着きたいような、もう少しこの時間が続いて欲しいような、もどかしい気持ちが胸の内に広がる。
「……ナマエ」
 この気持ちに気付いたのはいつだったろう。出会った時から自然と目で追ってしまっていた事は自覚していた。任務で一緒になる事が多いから、互いの事を知る機会も多かった。
 争いのない世界を作る為、奔走する彼女の姿を知っている。それが果てしない道のりである事も。死に急いでいるようにさえ見えてしまう姿を見ていたくはなかった。自分はそんな彼女を繋ぎ止める為に傍にいようと決めたのだ。手を伸ばせば届く距離で、ひとりで行こうとするナマエを引き止めて一緒に歩いて行く為に。
「イオネ……」
「! 起きたのか?」
 舌っ足らずな声に呼ばれた。声を掛けるが、返事は小さな寝息だった。どうやら起きた訳ではないらしい。息を吐く。両手が自由だったら顔を覆っていた所だ。
「……寝言でおれの名前呼ぶとか……」
 反則だ、と叫びそうになる。耳に残る声がじわじわと脳に染み込んで行って、神経を血管を駆け巡り、全身を熱くさせる。心臓が悲鳴を上げていた。これが無意識だと言うのだから恐ろしい。
「う……あれ……?」
 心の中で叫んでいた時だった。もぞりと背中で動く気配があった。力なくイオネの胸の前に投げ出されていた腕がぎゅうと抱き着くように首に纏わり付く。
「イオネ……? あれ……わたし、シュテルテさんとお話を……」
「そのシュテルテがお前の迎えにおれを呼び出したんだよ。話の途中で寝るなんてお前らしくねーけど」
「寝て……え、どどどうしてイオネを……ごめんなさい! あ、歩けるので降ろしてください……!」
「ちょ、おま、暴れるなって……!」
 あわあわと落ち着きを失ったナマエをどうにか宥め安全に降ろす。月明かりだけが光源の役目を果たしている夜の色の中でも彼女の顔ははっきりと真っ赤だった。その珍しい表情につい見とれてしまう。司令官としての凛とした表情も好きなのだけれど、こうしてふとした時に見せられる素の彼女が尚さら愛おしくもあった。
「ええと……ごめんなさい。ご迷惑をお掛けしました……」
「今更だろ? そんな事より、疲れてるなら身体を休めろよな……倒れられたりした方が余っ程迷惑だ」
「うう……それもごめんなさい」
 部屋にいると落ち着かない、とナマエは言う。外へ出て街の様子を見て回る事が好きな彼女らしいが、非番の日ですらこうだから結局厄介事に巻き込まれている事をイオネは知っていた。休日に買い出しに付き合う事、付き合ってもらう事は珍しくはなかったから間近で見る事もある。一緒にいる時は阻止も出来るがいつもそう出来る訳ではない事が歯痒かった。
「非番の日くらい程々にしとけよ。あと酒場に行くのはいいけどひとりはダメだ。今日はシュテルテが気付いたからよかったものの、何かあってもおかしくねーんだからな」
「やっぱりシュテルテさんに付き合わせてしまったんですね……ううう、本当に申し訳ないです……」
「ああ、いや、あいつは楽しかったって言ってたし、気にする必要ねーって」
「……それなら、いいんですけど……」
 尚も不安げな表情を浮かべるナマエにそっと溜め息を吐く。
 楽しい時間を過ごさせてもらった、と笑みを浮かべていたシュテルテを思い出す。そこに嘘はないと言い切れる。何故なら彼もナマエを気に掛けているひとりだからだ。
「……大丈夫だよ。お前といて楽しくないなんて言うヤツいないだろ」
「……イオネもですか?」
 虚を突かれて言葉を失う。まさかそんな事を聞かれるとは思ってもいなかった。不安げな表情で、なんて。
 何も答える事が出来ず彼女を見つめるだけのイオネに、ナマエは心の内を零すように続ける。
「イオネはいつも傍にいてくれます。何かあると助けに来てくれます。もしそれが義務感から来るものであるなら、申し訳なくて……」
 そんな事か、と肩を竦めて見せる。ナマエが頬を膨らませた。
「義務感だけで動くヤツじゃないだろ、おれ」
「わたしがイオネを頼りにし過ぎているから、そうせざるを得ない状況にしているんです」
「どこがだよ」
「ど、どこがって……今だってそうです」
「そもそもおれから言った事だろ? 頼ってくれって。どうでもいいヤツにそんな事言わねーよ」
 頼るならおれにしろ、と確かに伝えた事があった。あれはまだ自分の気持ちに気付いていなかった頃だ。彼女を他の誰かに取られたくないと言う気持ちはその頃からあって、あの言葉もきっとそう言う想いから出た言葉だったのだろうと今なら分かる。お陰でナマエは真っ先にイオネを頼るようになった。
 決して義務感で傍にいる訳ではないのだ。傍にいたいから、傍にいる為の理由が必要だった。それが彼女に頼ってもらうと言う事だった。
「お前といるのは楽しいぜ。見てて飽きない。……振り回される事も多いけどな」
「イオネ……」
「おれはおれの意思でお前の傍にいるんだ。別にお前の為じゃねーからな、おれの為にそうしてるだけだ」
 言葉に嘘はない。ナマエの為、と言うよりはイオネ自身が彼女を失いたくないが故の我儘のようなものだ。相変わらず素直でない自分は余計な言葉を付け足してしまうのだけれど、ナマエは全て分かった上で頷いてくれる。ほんの少し、緩んだ表情で。
「……ありがとうございます。イオネは嘘を吐くのが下手だから、その言葉に嘘がないと信じられます」
「うっせ。悪かったな下手で」
「ふふ。拗ねないでください」
 微笑んだナマエが向き合っていたイオネの横をすり抜けて行く。それを追うようにイオネが振り返ると、彼女も数歩先で同じようにくるりとこちらへ向き直った。
「……ずっと不安だったんです。イオネが無理にわたしに合わせてくれているんじゃないかって」
 そう言う声は柔らかい。彼女の中で燻っていたものが晴れたのだろう事は聞くまでもなかった。逆を言えばそこまで不安がらせていたと言う事になる。他の誰の所為でもなく、イオネ自身が。
 ナマエは優しい。それ故に人を遠ざけてしまうのだ。誰にでも手を差し伸べて微笑み掛けるナマエが好きでもあって、嫌いでもある。その優しさが自己犠牲的な優しさである事が気に食わなくはあるけれど、否定する事も出来なかった。だってそれをしてしまうのは彼女自身を否定する事になる。否定出来ないのなら、しなくてもいいようにフォローすればいい。幸いイオネはそう言った役回りが得意だった。
「ナマエ」
 返事の代わりに小さく首を傾げた彼女までの距離がまるで心の距離をそのまま表しているようだ。たったの数歩が遠い。それをどうにか詰めてナマエの前に立つ。
 素直になると言うのはとても難しい事だ。それが出来ないと言う事がイオネの弱さだった。彼女が零してくれた不安は彼女の弱さだった。打ち明けてくれたナマエなら、イオネの弱さを受け止めてくれるだろう。これは甘えだろうか。けれどきっと、甘えてしまうのは悪い事ではないはずだ。
「……傍にいたいってのは、こう言う意味もあるけど」
 抱き締める。今はこれが精一杯だった。
 背中で感じたよりも小さな身体。イオネが守りたいものはこんなにも簡単に両腕へ収まってしまって、いくつもの戦場を越えて来たとは思えないくらいに華奢であまりにも頼りない。
「ちゃんと言葉にしてくれないと分からないです」
 こつ、と胸にナマエが額を押し付けて来る。髪からちらりと覗く耳は赤く染まっていて、所在なく身体の横にあった腕はやがてイオネの背中へと回される。それが答えだった。
 臆病なイオネはそうしてようやく言葉に出来るのだ。


END.
20190303
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