つい、ペンを走らせる手が止まる。自分から勉強をしたいと言ったのに身が入らず、最近になってようやく書き慣れて来たもののまだまだ親しみのない文字を書き連ねたノートから視線を僅かばかり上げて、向かいで静かに本を読んでいるヴァイエン様の様子をチラリと窺う。
 雑談に付き合ってくれる時のヴァイエン様はとても柔和な表情と慈愛に満ちた眼差しで私の話を聞いてくれるのだけど、読書中はどちらかと言えば鋭い表情で視線を紙面へと落としている。きっとこの時間しか見られないであろう表情に目を奪われてしまうのは仕方の無い事だと開き直って、私はペンを走らせては止めてを繰り返していた。
 すごく尊くて、綺麗なひとが目の前にいる。そんな状況にいつも私の心臓は壊れてしまいそうなくらい早鐘を打っていて、ヴァイエン様に聞かれたらと思うと怖くもある。せっかく私の為にこの世界についての授業をしてくれて、自習したいと言ったら図書館の一角を貸してくれた上にこうして付き合ってくれていると言うのに。それだって私が真面目に勉強をしていると思っているから提供してくれているのであって、だけど私の頭の中はヴァイエン様の事でいっぱいで。
 右も左も分からない異世界に飛ばされて来た所に刷り込みのようなものだとは思うけれど、それでも優しく面倒を見てくれるヴァイエン様の事を気にしないなんて難しい。困った事があったら真っ先にヴァイエン様を頼ってしまうくらい、私の中で彼の存在は大きなものになっていた。気安く頼って良いひとではないと分かっているのだけれど、ヴァイエン様が良しとしてくれる事に甘えてしまっている。良くないなとも思うけれど、そうやって気に掛けてくれる事がとても嬉しいと思う気持ちを否定する事が出来ない。
 そんな風に悶々としながら形ばかり手を動かしていると、ふっとヴァイエン様が息を零すように笑った。
「何か躓いた箇所があったのかと思っていたのだが。どうやら違うようだな?」
「え……」
「そう何度も見つめられては流石に気付く」
 少しだけ困ったように眉根を寄せたヴァイエン様が、小さく首を傾げて「どうした?」と問うて来る。そのたおやかな仕草と優しい声は純粋に私を心配してくれていると痛い程に教えてくれるから、無用な心配をさせてしまっている事に罪悪感が膨らんで行く。
「う、ご、ごめんなさい……ヴァイエン様がいらっしゃるのが嬉しくて……舞い上がってしまいました……」
 嘘は吐けないし、隠す事でもないからとは思ったものの。正直過ぎる言い訳だったと口にしてから気付いたけれど、今更取り消す事も出来ず。カッと頬が熱を帯びる。あんなにチラチラと見ていたヴァイエン様の顔も今ばかりは恥ずかしくて直視出来ない。
 どうしよう、と逡巡するように視線が彷徨う。ヴァイエン様はきっと勉強熱心だと思って付き合ってくれているのに、こんな風に舞い上がって身が入っていない事がバレてしまっては不出来な生徒だと呆れられてしまうだろうなと後悔が押し寄せる。もっとマシな言い訳を考えようと頭の中でぐるぐると絡まった糸を必死に解していると、穏やかな笑い声が耳を擽った。
「私がいるだけで嬉しいとは、また……ふふ、それでは折角の復習も取りこぼしが多かろう」
「うう……ヴァイエン様のお時間をいただいてまでやっているのに……本当にすみません……」
「いや、ナマエが謝る事ではない。真面目で勉強熱心ゆえ、邪魔をするのは憚られてな。だが、会話のひとつもないと言うのもつまらなかろう」
 確かに、と思わず頷こうとしてからぶんぶんと首を振る。もちろん会話があったら楽しいだろうし、ヴァイエン様のプライベートを知る事が出来るかもとも思うけれど、それは流石にわがままが過ぎる。何となく、ヴァイエン様は一線引いている所がある気がしていたから、余計に踏み込むつもりはない。
「遠慮するような事でもなかろうに」
「そ、そんな……私だってヴァイエン様の読書の邪魔はしたくないです」
「確かに本は心と生活を豊かにするがな。だが、他者との関わりの中で得られるものもまた得難い経験となる。ふむ、そうだなあ……知識欲を満たそうと奮闘する君に褒美だ。今日は共に食事でもどうかな?」
「えっ……えっ、いいんですか……!?」
 メンタルケアまで完璧だなんて、本当にヴァイエン様には頭が上がらない。それに一緒に食事をして色々なお話をすれば、ヴァイエン様がいると言う状況に慣れる事に繋がって、もう少し落ち着いていられるかも知れない。嬉しいお誘いに「是非」と落ち着きなく頷くと、ヴァイエン様が目を細めて微笑む。
「いや、君の身の回りが落ち着いたらとは思っていたのだがな。私の事が気になって落ち着かない、などと言う可愛い生徒の可愛い悩みに付き合わない道理はなかろう」
「わっ、バレていたんですか……!?」
「寧ろ隠せていたと思っていたのか? 顔に全て出ていたぞ?」
「ナマエは嘘が下手だなあ」と揶揄うように笑うヴァイエン様だけれど、その声はとても穏やかで優しい。釣られて私も表情が弛んでしまう。
「じゃあ……お返しになるか分かりませんが、この前ヴァイエン様が聞きたいとおっしゃっていた地球のお話をたくさんさせてください。もちろん、勉強も頑張ります!」
 我ながら現金な態度だと思うけれど、憧憬を募らせた相手と一緒にいられる時間ほど大切なものはない。
 すごく尊くて、綺麗で、そしてとても優しいヴァイエン様。彼に出会えたから私は見知らぬ異世界でも心折れずに前向きに生きようと思えたのだ。


END.
20220830
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