突然訪れた限界は嵐守を前後不覚に陥れると、いとも容易く足元の感覚を崩してしまう。倒れた身体を受け止めてくれた地面が降り積もったばかりの柔らかい雪に覆われていて、それがクッションの役目を果たしてくれた事だけが唯一幸いだった。触れた肌から刺すような冷たさが体温を奪って行く。
 雪の上で眠るように横になって自分の身体をぎゅうっと抱き締める。視線を動かした先には少し前まで楽しそうに弾んでいたサッカーボールが、勢いを失って静かに転がっている。好きな事をしているだけだと言うのに、どうしてそれがこんなにも辛くて苦しいのだろう。身体が言う事を聞いてくれない。自分が自分を否定していた。
「……わたしは……」
 目を閉じる。手を差し伸べてくれた士郎の姿を瞼の裏に思い浮かべる。
 打倒エイリア学園を掲げる雷門イレブンと、彼らを率いる監督である吉良瞳子が白恋を訪ねて来たのは、もう数日前に遡る出来事だ。エイリア学園を倒すべく最強のメンバーを探し集めている彼らは、雷門のエースストライカーだった豪炎寺修也の離脱で空いた大きな穴を埋める為、士郎と嵐守の噂を聞き付けてやって来たと言う。
 確かに士郎は強い。それは近くで一緒にサッカーをして来た嵐守が一番よく知っている。士郎がDFを受け持つ一方で、アツヤへと人格を交代する事でFWとしても活躍をする。それが他の人にはない強みで、何より彼らの魅力だった。けれど、そんな彼らに対して自分はどうだろう。ずきりと胸が痛む。身体が弱くてこの有様だ。士郎と嵐守の実力を確認する為に行われた白恋対雷門の練習試合でも特に活躍をした訳ではなかったから、ジェミニストームとの戦いに出るようにと瞳子から指示をされた事と、みんなが歓迎してくれた事には心底驚いたのだけれど。
 数日の特訓を経てみるみる実力を付けた雷門イレブンと共に、襲来したジェミニストームを下し、そして更に現れた強大な敵、イプシロンを倒すべく士郎と共にキャラバンへ誘われた。嵐守は躊躇った。ジェミニストーム戦では結局、途中で体力が尽きてベンチへ下がっていた。しかしどうやら、ゴールを割る事は出来なかったものの、みんなをアシストした事が評価されたらしい。それでもすぐに頷く事なんて出来ず逡巡していた嵐守に「一緒に行こう」と士郎が手を差し伸べてくれた。
 必要とされると言う事は、存在を認められると言う事だ。認めてもらえたからこそみんなの足を引っ張ってしまう事が怖かった。要らないと言われるくらいなら初めから関わりを持たない方がずっといい。そうやって息を潜めて生きて来た。傷付くのを恐れているのではなくて、差し伸べられた手が離れて行く事を何よりも恐れていた。
 ひゅう、と夜の凍て付いた風が容赦なくぶつかって来る。感覚はとうになくなっていて、雪に埋もれた身体を起こす力も残っていない。どうにか腕を伸ばしてサッカーボールに触れるけれど、それは指先から逃げるように転がってしまった。
 いつから続けているのかも覚えていない、日課のようなサッカーの自主練習を夜の雪原でひとり、まるで隠れるように行っていた。嵐守から様々なものを奪った雪原だった。彼女の一番古い記憶は視界いっぱいの真白な世界だ。ぎく、と鼓動が跳ねる。何があったのか記憶から抜け落ちてしまっていても、身体は憶えているらしい。
「……どうして、わたしは……」
 力なく、けれど自分を問い詰める。まるで抜け殻のようだ。どこにも行けず、取り残された。縋る事は許されていない。価値がない。生きている意味もないのだから。いつからかそんな呪いがじわじわと嵐守を苦しめていた。
「……ちがう。違う、苦しいのはわたしじゃない」
 ぎり、と雪に爪を立てる。最初に苦しめたのは自分だった。だからそう、これは呪いではなくて報いなのだと言い聞かせる。幸せになってはいけない。そしてそんな自分を必要としてくれるのなら、期待を裏切らないためなら、この身体がどうなったって構わないと思っていた。事実彼女はそうやってサッカーの試合の度に無理をしては倒れていた。それが当たり前だと受け入れていたから。
 要らないと言われる事に何よりも怯えている。どうしてなのかを憶えていないけれど、潜在的な恐怖が彼女を支配していた。物心ついた頃からもうそうだったから、どうしてと考える事を放棄していたし、そもそも分かったところでその恐怖を乗り越えられるだけの勇気もない。結局逃げているだけなのだとちくりと胸を刺される。何から逃げているのかすら、彼女には分からない。
 ふと、張り詰めた静かな空間の中で微かに耳に届いた音があった。踏み固められていない柔らかな雪の上を踏み締めて歩く音だった。心当たりがあるとすれば、いつも様子を見に来てくれる士郎くらいだけれど、もしそうだとしたらこのままでは怒られてしまう。こうして倒れている事は珍しい事ではないのに、その度に彼は普段の柔和な雰囲気とは一変してどうしてこうなるまで無理をするのかと嵐守を叱って、それから不安げに瞳を揺らして怪我をしていないかとか身体に異変はないかとか労ってくれる。それが申し訳なくてたまらなかった。そんな風に思ってもらえるだけの事をしていないし、価値もないのに、と。そんな事をぼんやりと思い返していると、そっと身体を抱き起こされた。
「士郎、くん……?」
 重たい瞼をどうにか持ち上げる。雪に反射した月の散乱光が眩しくて、ぎゅっと目を瞑るような瞬きを数度。睫毛を彩る雪がはらはらと涙のように頬を滑って落ちる。
「大丈夫? オレの声が聞こえているなら返事をして」
 耳元に落とされた焦りと動揺が混じったような鋭い、けれどそれは士郎の声ではなくて。弾かれるように顔を上げると、鮮やかな色彩が瞳に飛び込んで来た。一面の銀世界によく映える赤い髪と、少しだけ冷たい印象を受ける緑の瞳だった。
 いくらか咳き込みながら「だいじょうぶ」と掠れた声で返事をすると、嵐守の顔を覗き込んでいた焦燥を滲ませたような表情が目の前でたちまち安堵のものへと変わる。
「すごく冷えてる……長い事ここにいたんだね」
 かじかんだ手をぎゅっと握られる。触れ合った部分から伝わる体温がひどくあたたかくて、知らず求めるようにその手を握り返していた。手のひらから分け与えられた温もりがまるで焼き付くように熱く全身を駆け巡る。髪や頬に掛かった雪を払ってくれる手付きもどうしてか優しい。
「でも、無事でよかった。驚いたよ、夜も遅いのにひとりでこんなところに……それも倒れているなんて」
「……驚かせてしまってごめんなさい。でも心配は無用です。いつもの事だから」
 名残惜しいと思う気持ちに首を傾げながらそっと彼の腕から逃れる。握ったままの手を引かれて立ち上がるとまだ少しだけ足元がふらつくが、感覚が戻って来れば問題はないだろう。膝に力を入れる。冷え切った末端まで血が巡って行く。
 衣服に付いた雪を軽く払いながら、まるで夢でも見ているような心持ちで改めて目の前の彼に視線を向ける。見ず知らずの少年なのだけれど、不思議と一緒にいて落ち着くような気がして、人見知りをする嵐守なのに彼と会話をする事に抵抗がなかった。それが何故なのか分からずに困惑している嵐守に追い討ちをかけるように、彼が息を吐くように苦笑した。
「身体が強くないのに無理をし過ぎるからね」
 あっさりと握っていた手を離した彼が零した言葉に、え、と思わず声を上げる。
「どうして知っているんですか……?」
「……エイリア学園との試合に出ていたよね。それを見ていて気付いたんだ。ずっと苦しそうにしていたから、目が離せなくて」
 そう言った彼が切なげに目を伏せたように見えた。その表情に目を奪われた一瞬の間の後、彼は再び嵐守へ視線を向けると優しく微笑んだ。きらきらとしたそれは、自分に向けられるべき表情ではない気がして、思わず顔を背けてしまう。
「最初は怖がっているのかと思っていたんだ。けど、そうじゃなかった。すごいね、キミは」
 ぱちりと目を瞬かせる。試合を見ていたと言うのなら、すごいと言うその言葉を掛けるべきは嵐守ではない事は明らかだったはずだ。だって何ひとつ活躍していない。アシストをしたと言っても相手のパスをカットしてボールをみんなに繋いだ事しか心当たりはなかったし、そもそもいつもやっている事をやったに過ぎなかった。それが唯一の強みと呼べるものだった。虚弱体質で体力はないけれど、運動能力は士郎と一緒に遊びの中で身に付けて来たから、身軽さだけはまだみんなよりも少しだけ優っている部分だ。だからそれを活かして自分なんかよりも点を取ってくれる仲間へボールを繋ぐのは当たり前の事だった。
「だってボールを奪うのって、自分から向かって行かないと出来ない事だよね。あんなに倒れそうになっていたのに恐れずにそれが出来るのはすごいと思う」
 けれど彼は当たり前の事ではないと言う。彼の言葉に嘘があるのかどうかは分からないけれど、そんな風に言われるのは初めてだった。それならきっと、自分のやっている事は無駄ではなくて、少なくとも役に立てる事なのだと考えてもいいのかも知れないと胸を撫で下ろす。たったひとつの存在理由だった。それでも、初めて会った相手に対してそんな風に言える物だろうか。ざわりと胸の内にさざ波が広がって行く。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す嵐守を気にした風でもなく、少しの間、何やら思案に沈んでいた目の前の彼がおもむろに首を傾げた。ふらりと彷徨っていた視線が嵐守を射抜く。
「怖くないの?」
「怖い……? 何が、ですか?」
「宇宙人が……いや、宇宙人相手に戦う事が、かな」
「宇宙人……」
 突然問い掛けられた事に肩を揺らしながら鸚鵡返しに呟いて、言われてみれば、と嵐守はこれから戦う事になる相手について思いを巡らせる。ジェミニストーム戦は今まで試合をしたどんな相手よりも強烈で、一瞬の油断すら許されない戦いだった。それをやっとの思いで下したかと思ったところに現れた、強さ未知数のチーム――イプシロンとの戦いで果たして自分は役に立てるのだろうか。やはり、怖い事と言えば仲間の足を引っ張ってしまう事だけだった。
「……相手は関係ないです。たとえ宇宙人でも……わたしは、やれる事をやるしかないから」
 相手が宇宙人であっても、嵐守にとってはただそれだけだった。
「そっか……キミにはあまり無理をして欲しくないんだけどね」
「どうして……見ず知らずのわたしに、そんな事……」
「今日の試合を見ていて、辛そうな表情を見たくないと思った。でも、オレのエゴでキミのアイデンティティーを奪ってしまうのは間違っているから」
「そんなの……!」
 答えになっていないと声を上げる。しかし彼は緩く首を振るだけだった。さざ波はやがて大きな波へと変化して行く。焦燥が胸を焼く。分からないと言う事が酷く不安でたまらない。だって、初めて出会った相手に、しかも試合を見ていただけだと言うのに、そんな事が言えるものなのだろうか。寂しげな、悲しげな、何とも複雑な表情を浮かべて。
 そもそもこの場所に彼がいる事それ自体が不自然だった。見た目での判断だけれど、嵐守と同じくらいの年齢だとしても学校で見かけた事はない。生徒の人数が少ないから、流石の嵐守でも全く知らない生徒はいないはずだ。そんな彼が、嵐守と士郎が特訓に来る以外に人が寄り付かない雪原のひっそりとしたこの一角に来るなんて事は、到底考えられなかった。
「あなたは……いったい、誰ですか……?」
「……ごめん。キミを不安がらせるつもりはないんだ」
 俯く嵐守に彼は言う。ひどく沈んだ声だった。そっと伸ばされた手のひらに優しく、本当に優しく頭を撫でられる。名残惜しそうに降ろされた手が視界の端に映った。
「ただ、キミをひとりにしたくない。……覚えておいて欲しい。キミを必要とする人間がいる事を」
 次々とかけられる言葉は、ただただ嵐守の思考を掻き乱して行く。その言葉の意味を考えあぐねていると、向き合うようにいた彼が嵐守の横をすり抜けて、答えはくれないまま、どうやら立ち去ってしまう。もやもやとしたものを抱えて爪先に視線を落とした嵐守は、胸を焼く熱を冷ますように冷たい空気を吸って、吐き出した。背後の彼から意識を逸らして、わだかまりすら吐き出すように。目が覚めたら忘れているような夢なのだと思いたかった。だって、そうでないと優しくされる理由が分からない。
 それなのに。
「またね、嵐守」
 一際強く吹き付けた風に紛れるように落とされた声に、どきりと鼓動が跳ねる。はっとして振り返ると、既にそこに鮮やかな姿はなくて。
 あの優しい声だけが、嵐守の心に大きな爪痕を残すのみだった。



 吐き出した息は白い。夜の冷たい空気は、昼のそれに比べて鋭さも相まって肌に触れると痛いほどだった。慣れてはいても寒いものは寒い。鼻先をマフラーに埋めて、士郎は目的の場所へと歩を速めた。
 嵐守がいない、と木野や音無が心配する声を聞いて合宿所のようになっている教室を飛び出して来て数十分。まさか試合が終わったばかりだと言うのに自主練習をしに行くだなんて思いもしなくて、身体の強くない彼女が無理をしている事は容易に想像が出来た。今日は特に焦燥すら滲ませて、いつも以上に激しく動き回っていた事を思い出す。ジェミニストーム戦での事だ。
 彼女の持ち味はトリッキーなプレースタイルで、その外見には似合わないアクロバティックな動きは、まるでフィールドを舞う蝶に例えられていた。積極的にシュートを狙いに行く事はせず、確実に点を取ってくれる誰かにボールを繋ぐ。自己評価がひどく低い嵐守は、誰にだって出来る事だと自嘲気味に言うけれど、それは違うと士郎は自信を持って言える。加えて、彼女自身FWというポジションに値するほどの強烈なシュートを秘めていた。アツヤがその威力を素直に褒めて感心するほどのものだったし、以前はストライカーとして活躍もしていた。けれどそれは到底彼女の体力に見合うようなものではなくて、普段だって自主練習中に倒れている事が多く、様子を見に行けば雪に埋もれるような嵐守を見付ける事も少なくはない。
 雪は士郎から大切なものを一瞬で奪ってしまう。それを知っているから、それを恐れているから、彼女がひとりでいなくなってしまうと胸が押し潰されそうな不安に襲われて気が気ではなくなるのだけれど、嵐守はこの気持ちを理解してくれない。
「嵐守ちゃん……?」
 雪明かりで周囲は却って明るいくらいだ。いつもの場所へ辿り着いた士郎が嵐守の姿を見付けるのは容易かったけれど、普段と様子が違った。彼女は誰かと会話をしているようだった。一体誰と、と士郎は首を傾げる。雷門のメンバーとすら、数日の合宿と試合を経てやっと打ち解けて来たばかりの嵐守だ。それに、士郎と彼女しか知らないような場所に誰が来ると言うのだろう。訝しむには充分なくらいだった。
 嵐守は士郎に背中を向けて、彼女の目の前にいる誰かに向き合っている。表情を伺う事は出来なかったけれど、俯いている事だけは分かった。その向こうにいる人物は嵐守の影に隠れてしまって見えない。ただ鮮やかな赤い頭髪だけが目を焼いた。
 びゅう、と吹き付けて来た強い風が降り積もったばかりのさらさらとした雪を巻き上げ、視界を白く奪う。一瞬目を離した間に、そこには嵐守だけが取り残されていた。
「嵐守ちゃん!」
 弾かれたように駆け出して、声を張り上げる。既に先ほどの人物の事など頭になくて、肩を揺らした嵐守が士郎を振り返ってほっとした表情を浮かべた事が気にかかったけれど、それよりも雪混じりの冷たい風に吹き晒される彼女の身体が心配だった。
「士郎くん……」
「まさか今日もひとりで特訓してるなんて思わなかったよ。心配したんだよ?」
「うん、ごめんね……」
「戻ろう、みんなも心配していたから。ほら、こんなに冷えてる。せっかく調子がよかったのに、またぶり返しちゃうよ」
 帰ろう、と引き寄せた彼女の手は氷のように冷え切っていた。頼りない体温に思わず眉間に皺を寄せる。顔をしかめた瞬間を見逃さなかったらしい嵐守が、そっと目を伏せて「ごめんね」ともう一度零す。士郎は返事の代わりに彼女の手をそっと握った。
「……夢を見ていたみたい」
 ぽつりと嵐守が呟く。俯いた表情は窺えない。士郎は先ほど見た光景を思い出していた。あれは一体誰だったのだろうと気にはなるけれど、ぼんやりとした彼女の様子を見る限り聞く事に意味はなさそうだった。
 握っていた手をそっと握り返される。存在を確かめるかのように何度も士郎の手を握っては放してを繰り返し、顔を上げた嵐守が儚く微笑む。どこか虚ろだった瞳が真っ直ぐに士郎を見つめる。
「士郎くんの手、あったかい」
「ふふ。嵐守ちゃんの手が冷た過ぎるだけだと思うよ?」
「そ、そうだよね、冷たいよね……ごめんね」
「もう、謝る事じゃないのに」
 嵐守は気を遣い過ぎる所がある。そうやって人と距離を作ってしまう。幼馴染みである士郎にすら顔色を窺っている節さえあった。
 依然は――こうではなかった。元々控えめな性格の彼女だったけれど、笑顔の似合う少女だった。そう思考してしまってから士郎は自己嫌悪に陥る。嵐守は嵐守なのだから比較するのは間違っていると分かっているのだけれど、未だに心のどこかでは今の彼女を受け止め切れていないのだろう。駄目だな、と嘆息する。雪に大切なものを奪われた士郎に唯一残された大切な幼馴染みには違いないのに。
「さ、帰ろう。明日の準備もしないと」
「そ、そうだった」
 明日から新しい仲間たちと共にエイリア学園を倒すための旅が始まる。未知の相手との戦いに不安がない訳ではないけれど、不思議と恐怖はなかった。
「……あのね、士郎くん」
 ちょん、と控え目に手を引かれる。珍しく強い光を瞳に宿した――サッカーをしている時と同じ眼差しをした嵐守が士郎を見上げていた。
「なあに?」
「わたし、役に立てるか分からないけれど……頑張る、ね」
「嵐守ちゃん……」
「士郎くんが必要としてくれるなら、わたしは……その為だけに、頑張れる、から」
 キャラバンへと誘われた時、嵐守は躊躇っていた。彼女の葛藤は理解しているつもりだったけれど、士郎としても彼女をひとり残して行く事に躊躇いがあったのだ。一緒に行こう、と差し伸べた手を取った彼女は不安に満ちた表情をしていて、士郎はずっとその表情が心の中に引っかかっていた。だから、前向きな嵐守の言葉についつい頬が緩む。不安がない訳ではないけれど、今はただ何事にも後ろ向きだった彼女が前を向こうと顔を上げてくれた事が素直に喜ばしい。
「うん、ありがとう。ボクもね、嵐守ちゃんがいてくれるだけで心強いし、頑張れるよ」
 来た道の足跡を辿りながら明日からのサッカーを守るための戦いに思いを馳せる。何があったとしても、アツヤと嵐守が傍にいれば、大丈夫。繋いだ手にぎゅっと力を込めた。

 ふと、顔だけで背後を振り返る。そこにはもう誰もいないのだけれど、嵐守と言葉を交わしていた誰かを思い出したのだ。赤い髪。何か、忘れている事があるような気がした。

忘却の彼方で星が瞬く日
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