ふらりと商業区を訪れたクゼは、すれ違う度に掛けられる声を偽物の愛想の良い笑みでするするとかわして行く。
 心を殺す事にも、もう随分と慣れた。そうしなければ今までやって来られなかったし、余計な心情を挟む事を、彼は良しとしなかった。だから気を付けなければ表情は、無表情になってしまう。心を殺し過ぎて、どう感情を表せば良いのか、そして、自然な表情の浮かべ方すらも分からなくなってしまったのだ。
 騎士の家系に生まれた事は、それはそれで良かったと思っている。けれど、もしも別の生き方が出来たのなら―――そう憧れもしていた。
 クゼは馴染みの店主が居る店の前で足を止め、忙しなく働く店主に声を掛けた。
「や、久し振り」
「クゼ様、お久し振りですねぇ」
 最近お姿が見えなくて心配しましたよ、と言う店主に、クゼはわざとらしく溜息を吐いて見せる。
「ああ。最近、押し付けられる雑務の量が増えてな……いつも通り、リンゴを六つ貰おう」
「ありがとうございます。六十ガルドになります」
 乱雑に懐から取り出した金を渡し、リンゴを受け取る。甘い香りに僅かに表情を緩め、「ありがとう」と一言残し、その場を後にした。
「む……?」
 のんびりとした足取りで住宅街を歩いていると、見覚えのある姿が視界の端にちらりと映った。そう、先程兵士に絡まれていた頼りなさ気な印象の少年と、どこか女性の様にも見える青年の二人だった。先程はもっと他にも人数が居た様に記憶しているが、別行動中なのだろうか。
「また追われている……のか? だが……流石にもう、手出しは出来ないな」
 出来れば助けてやりたいが、そうも行かない。面倒事を起こして雑務を押し付けられるのは遠慮願いたいし、何より軍とはあまり関係のないクゼには、出来る事は少ない。多少ならば顔が利くだろうが、その手が使えるのは新兵やクゼの恐ろしさを知っている一部の兵士だけだ。
 心の中で「すまない」と呟き、工業区へ向かう為に歩みを進めた、その時。
 ―――『創世力』を……、私に譲る気はない?
「っ! なんだ、これは……っ、ミトラ……?」
 唐突に頭に響いた声には聞き覚えがあった。感情の無い、ミトラの冷たい声。
 後頭部に激しい痛みが走る。脳裏に過ぎった、ミトラの表情の無い顔。けれどその中に、決意の色があった―――気が、する。
 それを思い返す間もなく意識が闇に溶ける様に、消えた。



「約束の神なんて、そんなの名だけだ。私はただ、愚神共の罪を押し付けられて、取り付けた約束を破られて……私には、存在する意味なんて無いと思わないか?」
 相変わらず、ミトラはその小さな身体には到底見合わない豪奢な椅子に埋もれる様に鎮座していた。自嘲気味な笑みを浮かべて、窓辺に佇むアスラに独り言の様にそう問い掛ける。
 珍しく彼から話を振って来た事に僅かに驚きながら、アスラはミトラに向き直り、その問いには答えずに問い返した。
「お前の言う『約束』とは、一体何なのだ?」
「そんなの私が知りたいね。ただ……罪を犯し、地上に落とされる事を、いや、神たる力を奪われる事を拒む愚神が、私の元に来る。助けて欲しい、と」
 アスラの問いに、ミトラはその瞳に軽蔑の色を滲ませた。
「私は彼らを救う代わりに『約束』を取り付ける。反省し、罪を償う様に。罪を忘れない様に。……結局、反省なんてしない。また罪を繰り返すだけだった。……約束を破ったら、問答無用で命を奪う。そして私も、業火に身を灼かれる」
 そっと瞳を閉ざしたミトラは、僅かに身を震わせた。感情が欠落しているとは言え、やはり恐怖は拭いきれるものではないのだろう。アスラはそう思った。しかし、それは思い過ごしに過ぎなかった。
「ふ、ははっ……あははははははっ!」
 哄笑。
 まるで壊れでもしたかの様に嗤う#nm3#の瞳には、軽蔑の色がより濃く滲む。
 いつから生きているのか忘れる程過去から生きている彼は、ずっと、その業火に身を灼かれ続けて来た。その痛みが恨みを生み、#nm3#の心に根付いているのだろう。彼にとっては、この世に存在する者全てが『愚神』に過ぎない。
「馬鹿みたいだよね。折角救ってあげたのに、罪を繰り返して地獄行き。どうして救いを求めるのか分からないよ。どうせなら潔く地上に行けば良いのに」
 ぴたりと嗤うのを止めたミトラは、一転して真剣な顔をした。そうしてそっと言葉を零す。
「ねえ、アスラ。『創世力』を……、私に譲る気はない? 愚神共しか存在しないこんな世界、始祖の巨人だって望んでいないだろう。だから」
「ミトラ」
 いつの間にか傍に来ていたアスラが、ミトラの細い肩をそっと掴む。思いのほか彼はミトラに同情するような表情を浮かべていた。けれど―――アスラは静かに、首を横に振った。
「ふん……所詮は君も愚神か。ふふ、はははっ……少しは君に期待していたんだけれど、期待した私が馬鹿だったよ。君も結局この力が目当てだった訳だ」
 ミトラは力無くそう呟くと、肩を掴んだままのアスラの手をぱしん、と叩き落とした。この程度の事、彼にとっては痛くも痒くもないだろう。それが更なる苛立ちを招く。
 ミトラは椅子から立ち上がり、その苛立ちを隠す様にアスラに背を向けた。
「……帰ってくれ。そして、二度とこの館に来るな」
「待て、ミトラ」
「気安く私の名を口にするなッ!」
 軽蔑の視線と共に投げ付けたのは、今までは言う事の無かった拒絶の言葉。露わにする事の無かった、拒絶の、感情。ミトラの紅い瞳は狂気に揺らめき、まるで瞳の奥で炎が燃え盛っているかの様だ。
「もう終わりだ。危うく懐柔される所だったが……元々私は誰も信用しちゃいない。残念だったね」
 綺麗な顔に浮かぶ、憎悪の表情。しかしアスラはミトラの鋭い視線をものともせずに頭を振った。
「……俺が望む世界では、もうお前がこんな場所に捕らわれる必要などない。俺はお前を、自由にしてやりたい」
「!」
 ミトラは信じられないとでも言うように目を見開き、アスラの顔を見遣った。真剣な表情をしていた。その言葉が嘘ではないと信じられる程の。
 ずっと、自由に憧れていた。この館の外へ出てみたいと。アスラはそれを、叶えてくれるつもりでいた。『創世力』を“彼自身の力”で手に入れて。
 ―――ああ、馬鹿だな。今更気が付くなんて。
「……本当に、君は馬鹿だ。私の力を使えば、君たちセンサスの者が誰ひとり傷付くまでもなく天上界を統一出来たろうに」
「何とでも言うが良い。俺はお前を見捨てる事は出来ない、ただそれだけだ。だが……お前の力を利用しようと近付いたことは認めよう」
「でも、君は結局利用しなかった。自らの力で手に入れて……そして、私を救おうとしてくれた」
 願っても叶わないと思っていたのに。諦めてしまおうとしていたのに。
「……少しだけなら、信じてあげるよ。私を自由にすると言う、その言葉を」
「ああ。約束しよう。必ずお前を、自由にしてやる」
 ミトラは一瞬だけ嬉しそうに笑い、それからすぐにいつも通りの無表情を浮かべた。
「約束の神の私に約束を取り付けるなんて、命知らずも良い所だ。けれど……」
 ありがとう。ミトラは小さな小さな声でそう呟き、もう一度だけ笑った。



「……っ……!」
 弾かれた様に現実に戻り、クゼは何度か目を瞬き、首を傾げる。
 夢だと思っていたのに。起きている今、何故いつもの夢を見たのか。ただの夢ではないのだろう、とそこまで考えて思考を止める。どこかで聞いた事があった。異能者は前世の記憶を持つ、と。確証は無いが、これが前世の記憶と言うものなのだろうか。
 そうだとしたら、自分も―――
「……異能者、か。面白いじゃないか」
 クゼはそう呟くと、不敵な笑みを浮かべた。
「……ああ、そう言えば彼女の元へ行く途中だったな」
 忘れかけていた目的を思い出し、工業区を目指す。あの辺りは不良の溜まり場と化しており、あまり近付きたいと思う場所ではない。だが、そうも言ってはいられないだろう。ぼんやりと考え事をしながら目的地である工業区のマンホールへ到着し、クゼは躊躇う事などせず中へ降りた。
 この時間帯は静かな筈だが、人の気配と話し声が聞こえた事に眉間に皺が寄る。この場所を知っているのは極僅かな人間の筈なのだが、一体何故。不審に思いながら、狭い部屋の様になっている場所の扉を開いた。そこに答えはあった。
「おや、エルマーナ君」
「クゼ兄ちゃん!」
「なかなか様子を見に来れなくてすまなかった。最近、執務がやたら立て込んでいてな。それと、今日の分の食事は保障しよう。持って来たぞ」
「おーきに!」
 駆け寄って来たエルマーナに苦笑いを返し、先程買ったリンゴを袋ごと渡す。それを保存しに行ったエルマーナから視線を外し、クゼは態とらしい驚いた様な表情を浮かべて見せた。
「おや……また君達か」
「え、あの、その、さっきはありがとうございました……! ぼ、僕はルカ・ミルダです……!」
「名なんて聞いていないが……」
「えっ、ご、ごめんなさい! その、ええと……」
 言い訳を探す様に言い淀む少年にふっと笑みを零し、クゼは口角を上げる。まさか本当に、また会う事になるとは。あんな事を言って置きながら、現実になる確率なんて低いだろうと思っていたのに。
 クゼは敵意なんて無いとでも言いたげに、得意の笑みを浮かべた。
「私はクゼ・E・ヴァルツァレク。以後お見知り置きを」
「ヴァルツァレク……? どっかで聞いた事がある様な……」
 耳に届いた小さな呟きに、クゼはそちらをちらりと見遣り、一転して鋭い眼光を向ける。狂気の色は無いものの、その瞳に睨まれれば、思わず立ち竦んでしまう様な、そんな威圧感を湛えていた。
「詮索は止したまえ。君はベルフォルマ家の七男坊、スパーダ・ベルフォルマ氏だろう?」
「オレの事知ってんのか!?」
「ふふ……勿論。君は一度、異能者捕縛適応法とやらで連行されただろう? 先は気付かなかったが、今思い出した。ふむ、つまり先の兵士は成すべき事を成そうとしていただけだったのか……悪い事をしたな。まあ、嘘は教えていないし良いか」
 視線を足元に落とし独り言の様に呟いたクゼの言葉に、ルカ達が構えるのが気配で分かった。足元に落とした視線を上げ、クゼはやれやれと肩を竦める。
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