俺はそこを鮮明に思い出せる。絵に描けるのではないかと思う程に克明に。忘れたいと思う程にそこは輪郭を強く濃くしていくようだった。荒廃しきった土地のような、乾ききった砂漠のような、嘲笑を含み冷え切った視線のようなそこを。
息苦しくて、狭くて、俺が生きることのできる唯一の場所は、まるで冬のロシアの裏路地のように冷たくて、命がけだった。命を対価に生きていたころを思うと、俺は、俺の生活は、随分と丸くなったと思う。いや、思わずともなった。岩が川を経て角を取られ礫となり、石となる。そんな緩やかな過程ではない。いっそブラックホールに地球が呑みこまれたかのような、突然で、圧倒的な変化。
「ブラックホールの原理ってさ」
ねえ、千景、聞いてるの。そう俺を呼んで引き戻してくれる彼女の声のおかげで、俺はこの世界に糊付けされたかのようにきちんと居ることができる。宇宙空間で地に脚をつけてもらうための命綱。彼女を指し示すためのこの言い方に、果たして不足がないのかという点については、俺にはわからない。もっとこれ以上に重要なものかも知れない。おそらくそうなのだろうとは思うけれど、俺がその思考に耽る前に、彼女は俺を現実に引き戻すから、それはきっと、彼女が俺に必要ないと、言っているのだと思うことにする。
鮮やかに深く残るその場所を忘れたいと思うのは、恐らく自然なことであろうと思う。ただ、あまりにも長く身を置いていたそこが、現在の俺を形成していることも事実で。そこを手放したのならば、今の俺も、密も、そしてオーガストも。きっと、消えてしまうのだろう。
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「千景のこと?」
知りたい、と。彼女は自然な笑顔でそう言った。緩やかに細まる目元からも、柔らかく弧を描く口元からも、暖かい感情が沁みだしているかのようで。花が綻ぶよう、という慣用は、こういう表情から生まれたのだろう。春の日だまりのような女の子だと、彼女が笑うたびそう思う。
「千景が話してもいいって、話したいって思えたら、教えて」
俺へと与えられた言葉は、重たさを持たない。押しつけがましい感情も、依存のような狂おしく湿った不快な感情もない。どう返したらいいのか分からずにそっと頬に手を伸ばすと、くすくすと綿が跳ねるように柔らかく笑うのを見ていると、なんだか居たたまれなくなってくる。俺が感情を持て余していることを知ったらきっと、ゆらは笑うんだろうな、と、思う。
抱き締めて、キスをする。手繰り寄せるように、そこにいることを確かめる。ゆらのことも、俺のことも。夢のように穏やかで柔らかで優しいこの場所で、息をしている自分を確かめる。家族を、彼女を、守ると決めた誓いを確かめる。甘い匂いのする髪の横で、甘えるように息を吸うと、くすぐったいと腕の中でゆらが笑う。
岩が川を経て角を取られ礫となり、石となる。そんな過程と同じように、棘を抜かれた薔薇のように、毒気を抜かれた俺は今日も、彼女の隣で息を呼ぶ。