足音はない。その場の空気に溶け込んだかのようにそこに居る。ふと瞬く睫毛の先すら、夜との境界がないくらいに静かだ。月明かりを受けて、瞳に光が乗る。彼の視線の先では、すやすやと女性が眠っている。一歩、一歩、と、距離が詰まる。彼女を直下に見下ろせるほどに近付いた彼の瞳に情は見えず、固く結ばれた口からも、およそ感情といえるのもは図り知ることすらできない。
静かに手が上がる。そうして、眠ったままの彼女に伸ばされる。そうして尚、そこに、意味は見えない。月が隠れたのか、彼の顔に、体に、部屋に、暗く影が落ちる。彼の手が肌に触れるか否かというところで、バチリ、と。アサシンの掌は、明らかに拒絶の意思を持った何かに阻まれ、弾かれた。
「こんな夜更けに何の用ですか、アサシンさん」
「……へえ。気配遮断なんて持ってない割に、意外とやるんだな」
夜に濃いマゼンタが浮く。ふわりとどこからか現れたキャスターは、マスターの枕元に腰を下ろし、番犬のようにアサシンを睨みつける。歯をむき出しにすることはないのに、その視線は刃を得たかのように鋭くアサシンを睨みつけ、警戒の色を意図的に乗せていた。まるで警告のように。
アサシンはゆるりと口元に笑みを作る。わざとらしく作られた表情に、キャスターは僅かに眉を顰めた。
「……俺はあんたを信頼なんてしたわけじゃない。あんたがマスターに危害を加えるっていうなら、容赦なくその首かっ切りますから」
「はは、それはそれは」
アサシンには未だ、『鈴蘭の加護』が残っている。キャスターの強い魔力によって強化された、彼らのマスターが持つ魔術。加護というよりも今彼にかかっているそれは呪いに近いけれど、キャスターに与えられた別の『加護』は、加護と呼ぶに相応しい効果をキャスターにもたらしている。アサシンは、自陣にいる味方ではない。ただ敵の敵ということに過ぎないいうことを、キャスターは色濃く意識したままだ。
「俺のマスターは本当に、目的のためなら手段を選ばなくて困る」
「俺もそれは感じるよ。ご愁傷様だな、キャスター」
――この夜の静かな諍いを、小さく寝息を立てる彼らのマスターは、知る由もない。