こつ、こつ。歩き慣れたパンプスは、軽やかに会社の廊下を弾く。お疲れ様です、と上司に笑顔を渡して、足早に目当ての場所へと向かう。がちゃりと扉を開けたら、外の張り詰めた世界から抜け出したような、玄関で靴を脱いだような解放感。ここに入るときだけは、仕事に関する一切を忘れることができる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
先客はちらりと携帯から視線を上げて、首をほんの少し折って会釈する。昼休憩、冷房もしっかり効いていて、恐らく人に見つからないであろう穴場。オアシスと称するに値するこの場所を、一時間、一日のほんの二十四分の一、わたしはこの先客と共有している。
茅ヶ崎至。わたしの後輩。新入社員だった去年一年間、わたしが教育係としてついた男の子。いやもうこの年は男性と呼ぶべきか、と思うけれど、こうして目の前にいてゲームをやり込む茅ヶ崎を見ていると、男の子と言うほうが相応しいような気がする。椅子にかけて、ばさりとジャケットを脱いで、長袖のシャツをまくり上げて。はあ、と息をついたわたしに、茅ヶ崎が笑った気配がした。
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ブラザーシスター制度、なんてどこかで聞いたようなプランを右から左へ聞き流した去年。言ってしまえば、一年間、新卒の面倒を徹底的に見る、ということで。茅ヶ崎至という人物と組まされたのは、わたしの腕が買われたのか、茅ヶ崎ほどの人材ともあれば、女のわたしでも大丈夫だろうと思われたからなのか、今となってはと言うべきか、今となっても、と言うべきか。知りうる手だてはない。女に教えられるなんて嫌だと思われるんじゃないかな、と思っていたのだけれど、茅ヶ崎は全くそんなことはなかったし、物腰も柔らかくて、呑みこみも早かった。
先輩が女だからどうこうとか、彼のなかにそういう尺度はないんだな、と、しばらく一緒にいて思うようになった。何でもそつなくこなすし、甘いマスクで女性社員にも人気だと風の噂で聞いたような気がするし、実際声をかけられているのもよく見る。笑顔で対応していたけど、それはなんだかまるで、課せられた義務を淡々とこなしているような、そんな感じがした。男女どうこうどころか人間に興味がなさそうな感じ。わたしとも最低限の会話以外、特にすることはなかった。元々会社の人と仲良くなろうとかそんな気は、わたしだってこれっぽっちもなかったし。干渉されたくない同種か、くらいに思って、ただただ淡々に、業務を教えることだけに専念していた。
「…先輩、携帯いじってもいいですか」
ある時、やむなく昼食を一緒に取らなければいけないことがあった。その時に、食事を取り終わった茅ヶ崎は、一瞬居づらそうな雰囲気を醸し出して、そう言った。
この時間を一緒に過ごさなければならないだけで、別に仲良くお喋りしろってことではない。しばらく時間を共にしてきたけれど、お互いの好きなものなんてこれっぽっちも知らない。知ってるのは茅ヶ崎の得意業務と苦手業務、ミスしやすい箇所、それからまあ、作り笑顔の顔くらいのものだ。
「いいよ、気にしないで」
わたしも読み終えたい本があったし、わたしがぼーっとしてたら茅ヶ崎もやりづらいだろう。いそいそと本を取り出してスピンに手をかけたところで、「先輩は俺が何してるか聞かないんですね」携帯をいじろうとしていたはずの茅ヶ崎の声がして、顔を上げる。携帯は持っているけれど、視線はしっかりとわたしの方へ向いていた。
「休憩どう過ごすかなんて個人の自由だからね。LIMEでもゲームでも何でもしなよ。正直わたしだって休憩なんてひとりで取りたいわ」
「…鴇田先輩って最高ですね。名前で呼んでもいいですか?」
「名前?ご自由にどうぞ。あ、人前では名字ね。茅ヶ崎に目つけてる女子社員から何か言われるの嫌だから」
「ゆら先輩、カッコよすぎ…」
「ていうかわたしの名前知ってたんだ、茅ヶ崎」
「え、先輩俺の名前知らなかったりします?」
「茅ヶ崎至」
「知ってるじゃないですか」
あの日から茅ヶ崎との距離が少しだけ縮まったと感じたわたしの感覚は間違っていなかったらしい。そしてまさか、茅ヶ崎が新入社員と呼ばれなくなった今ですらも昼休みの時間を共有しているなんて、誰が思っただろう。
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「先輩、疲れてます?」
「んーん。ちょっと今日中案件多くて」
「そういうの、疲れてるって言うんですよ」
「イケる範囲だよ」
「出たワーカホリック」
会社でこんなに軽い言葉を交わせる人ができるなんて思ってもみなかった。今までは、昼休みでも半分オンみたいなものだったから、お昼の一時間こうしてしっかり力が抜けてしまうと、午後のスイッチが入りにくくなる。
ずっと一人でいたときより疲れることが減った気がしているのは、気のせいなのか、そうでないのか。
「は〜…茅ヶ崎といると楽で困る…」
「そうなんですか?」
「戻るのしんどくなる」
「それはそれは、光栄です」
「思ってないでしょ」
「思ってますよ」
わたしの秘密基地が、あばかれる日が来ないようにと。それだけは、ずっと願ってる。