「ちがさき、」
どくどくと心臓がうるさい。茅ヶ崎の顔が、首のすぐ横にあって、吐息すら聞こえる距離に体温が一気に上昇する。とりあえず離れてもらうために肩を押そうとして、触れるのに躊躇して手を下ろす。どうしよう、どうしたらいいんだろう。茅ヶ崎の、においがして、涙が出そうになる。化粧してるし、そもそも外だし、会社だし、泣くのはいやだ。被害者面、してるみたい。そう思うのに、息がしづらくなって、声が漏れてくる。わたしが今しなくちゃいけないのは、そんなことじゃないはずだ。
「ちがさき、っ」
「先輩、」
「ごめんなさい…!」
顔は見れない。「え?」話し出したわたしの顔を覗き込もうとしたのか、体を起こそうとした茅ヶ崎に見ないで、と釘を刺して。ぎゅっと手を握りしめて、声帯を奮い立たせて。それでも、茅ヶ崎の顔は見れないまま、俯いたままで口を開く。
「ほんとうに、ごめんなさい。大人のくせに、自己管理がなってなくて」
「せんぱ」
「大事な後輩に、あんなことして、ごめんじゃすまないってわかってるけど」
「せん、」
「あの、わたし、えっと」
「せんぱい!」
大きな声。今まで、聞いたことのない声。わたしを抱きしめていた手が、しっかりわたしの手を掴んでいる。茅ヶ崎が体を起こしてしまったことで、情けなく潤んだ瞳が丸見えだ。茅ヶ崎と、目が合う。久しぶりに見る、きれいな瞳。困ったような表情をさせてしまっているのは、わたしが涙目だからだろう。そう思って目をぬぐおうとしたら手を取られて、目尻に居座っていた涙の粒を、茅ヶ崎の指が攫っていった。
「……ここじゃなんですし、場所、移してもいいですか」
「え、あ、うん」
「仕事、俺がやれることなら週明け引き継ぎます」
「う、ううん。もう終わるから」
入口で待ってます、そう言って、コツコツと靴音を響かせながら茅ヶ崎がいなくなるのを見届けて、わたしはずるりと座っていた椅子に背中を預けた。
「……ずるいよ」
あんな風に、涙を拭うなんて。優しい手つきが、体温が、わたしに残っていて。
ともあれ、茅ヶ崎を待たせているのだ。動揺している場合じゃないのは分かっている。やっていた仕事を保存して、パソコンの電源を落とす。急いで身支度を整えて、鞄を肩に掛けた。早く行きたいような、逃げたいような、相反する気持ちが面倒で、思考に余力を充てるのをやめて、小走りで茅ヶ崎のもとへ向かった。
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「……、おまたせ、」
「急がせちゃいましたか、すみません」
気まずい雰囲気。いつもの、秘密基地でしてたみたいな気軽なやりとりはもう出来ないのかな、って思うと胸が苦しくなる。茅ヶ崎の方は見れなくて、軽く俯いて視線の先を定めずやり過ごす。
「……先輩、」
「…、うん?」
わたしの視線を上げることを促すように、先輩、ともう一度、茅ヶ崎がわたしを呼ぶ。気まずいまま伏せた瞼を開けてみると、茅ヶ崎の、きれいな色の目がわたしだけを見ている。、ぐ、っと息が詰まる。茅ヶ崎と目が合うと、今すぐにでも泣き出してしまえそうなのに、磁石の両極が引き寄せ合うみたいに、目が離せない。
「絶対、何もしません」
その言葉が持つ意味を理解する前に、ぎゅっと心臓が縮こまった。
「でも、ちゃんと話したいから、二人きりになりたいんです」
俺の家に、来てもらえませんか。
からだの内側を叩くように。どくどくと低い音が全身を打つ。逃げられないのも、逃げちゃいけないのも、分かっているつもりだ。茅ヶ崎のところへ向かう道すがら、その覚悟だってしてきたはずだ。このままモヤモヤしてたって。いいことなんてひとつもない。
「うん」
ちゃんと目を見て、頷く。茅ヶ崎がほっと息を吐いて目元を緩めるのを見て、わたしもちゃんと、久しぶりに、笑えた気がした。
:
「すごい汚部屋だったりして」
「ちゃんと片してます!」
茅ヶ崎の家とわたしの家は、たまたま駅も近かった。茅ヶ崎の家に向かう道中は、ぽつぽつと会話が生まれて、「もうすぐ俺ん家です」茅ヶ崎がそう言う頃には、――この間のことなんてなかったみたいに、すらすら話して、笑えてた。
「お邪魔します」
「適当に座っててください」
「あ、おかまいなく」
茅ヶ崎が冷蔵庫の前でごそごそしているのを横目に、とりあえず、床にテーブルの傍に座らせてもらう。スーツって座りにくいなって居住まいを正して、まあ及第点かなって姿勢に落ち着いて、そうしたら、突然上から降ってきたみたいに全身に緊張が走る。ぐるりと部屋を見回して、嗅ぎ慣れない他人の匂いを認識して、かちんと体が固まる。茅ヶ崎の部屋、二人きり。意識しちゃうともうだめで、気にしないようにしてもそればっかり考えてしまう。アンダーラインを引いたところばっかり目がいっちゃうみたいに。
「あ、クッション、使ってくださいね」
「うひゃっ!」
ひとり放心状態でいた他でもないわたしだけにかけられた声に飛び上がる。見上げた茅ヶ崎は飲み物を持ったままきょとんとしていて、わたしが上げた変な声がおかしかったのか、ちょっと楽し気に笑った。
「上、脱ぎますか?ハンガーありますよ」
「う、ううん、大丈夫」
「きついでしょ?」
結局、元々ジャケットを着ているのも好きじゃないのもばれているし、押し問答にも満たないやりとりの末、茅ヶ崎に脱いだジャケットを手渡す。「寒かったら言ってくださいね」そう言う茅ヶ崎もいつのまにか上は脱いでいて、お互い服を脱ぎ散らかしたあの時の光景が思い出されて、そっと唇を噛んだ。
茅ヶ崎が座って、無言になる。静まり返った空間が居たたまれなくて、そっと、茅ヶ崎から見えないように、借りたクッションを握りしめる。茅ヶ崎の時間を、わたしが無為に奪っていいはずがない。早く済ませて、お暇しないと。
「……ちがさき、ごめんなさい」
「え、」
「わたし、」
「ちょ、っと待って下さい、先輩」
「、っ」
身を乗り出した茅ヶ崎が、わたしを止める。軽く握られた腕がまた、熱く熱を持っていく気がする。
「……俺から喋ってもいいですか」
「…、うん、」
「すいませんでした」
勢いに負けて頷くと、掴まれていた手が離れたと思ったら突然茅ヶ崎の姿勢が低くなって、そう、それはいわゆる土下座というもので。
床に手をついて、下げた頭もぴったり床についている。一気に血の気が引いた気がして、勢いで茅ヶ崎の手首をつかむ。
「な、なにしてんの!?頭あげて!?」
「ごめんなさい、先輩」
「なんで、茅ヶ崎が、わるいのは、」
「どうして、」
先輩が、そんなに謝るんですか。頭を上げた茅ヶ崎が、悲痛な顔でそう言って。泣きそうに見えたその瞳に、わたしの涙も誘われる。
「だって、」
「先輩は悪くないじゃないですか、」
「そんなことない!だって、」
「俺、そんな酔ってなかったですよ。ふにゃふにゃになった先輩を連れ込んだのは俺です」
ぎゅっと握り込んだわたしの手に、茅ヶ崎の手が重なる。ばっと目を合わせたら、真剣な瞳がわたしを映していて、一瞬浮かんだ言葉を忘れる。
「先輩があんなふうになってて、分かってて、それでも、既成事実作れちゃったりして、なんて思ってました。俺が悪い」
「ちがさ、」
ぎゅ、と握られていた手に力が入ったのが、言葉を遮るためだった気がして口を噤む。
「ゆら先輩、」
泣きそうな目が、わたしを見る。潤んだピンクが、やけに色っぽく見えた。
「すきです、先輩」