死ぬほどねむたい。

 やってもやっても終わらないちくしょうこの野郎と口には出さず心の中で10回は罵倒した。お昼後着席してのパソコン作業なんて寝ろと言っているようなものだ。今日中に絶対終わらせるけど。別に締切今日じゃないけど。やってられるかと投げ出したい気持ちを抑えてひたすらに文字を打ち込んでいく。わたしならできる。ねむた。

「キーボードに親でも殺されたんですか?」

 ふと我に返る。声のした方へ首を回すとぴたりと頬に冷たいものが張り付いて、上げそうになった声をぐっと飲み込んだ。冷たさの正体は缶コーヒー、声の主は茅ヶ崎。視線を合わせると、優し気な垂れ目の瞳がいたずらっぽく細められた。水滴で濡れた頬を拭いながら、茶目っ気たっぷりの茅ヶ崎のことばに笑う。

「……そうなの。長年の仇でね」
「ふは、そうなんですか」
「後輩に奢らせるの申し訳ないけど、有難く貰うね。ありがとう」
「敵討ち、無事終わるように応援してます」

 ひらりと手を一振りして、茅ヶ崎は自分のデスクへ帰っていく。去年まで教える立場だったはずなのに、もうしっかり一人前になって、かっこいい社会人、みたいな顔するようになっちゃってさ。寂しいような悔しいような気持ちに後押しされて、貰ったコーヒーの缶を振る。
さっきとは打って変わって、冷水を掛けられたように頭が冴えている。さあ、敵討ち、頑張っちゃおうか。ぐんと背筋を伸ばしてひとり口元を緩め乍ら、パソコンに向きなおった。





「(終わっ、た…!)」

 茅ヶ崎のくれたコーヒーはとっくに空になって、定時も差し迫る時間。たん、と最後の一文字を打ち切って、保存ボタンを押すところまでしっかり見届けてミッションコンプリート。脳内ではクラッカーが割れんばかりに鳴り響き、歓喜の歌が流れ始める。ベートーヴェン。今日はそれはもう定時に帰るぞと心に決めて、デスクの上の片付けに手を付けはじめる。

 会社の自動ドアを潜り抜け、パンプスを投げて脱ぎたい衝動を抑えて、電車を調べるべくスマホを見て俯いていると、どん、と人にぶつかって血の気が引く。余所見の賜物だ、と慌てて顔を上げる。

「おつです」
「茅ヶ崎?」

 着る人を選ぶベージュのベージュのスーツ。ミルクティのような柔らかい髪も枝垂れて、わたしを見下ろす果実のような瞳は、今日一日の疲れで溶けているように見える。もしかしてわたしとぶつかるように前に立った?と思って口を開こうとしたら、「敵討ちおめでとうございます」さっきみたいにふざけて笑った茅ヶ崎に先を越されてどうでもよくなる。

「ありがとね、コーヒー。ほんとに生き返った」
「はは、大袈裟ですよ」
「で、どうしたの?」

 パーソナルスペースも何も無い距離に、一歩後ろに下がる。
茅ヶ崎は定時になったら王子様スマイル(女性社員がそう呼んでいるのを聞いた)を引っ提げて颯爽と帰ることで知られているし、どうせなんかゲームとか、ゲームとか、そういう大事な用事を抱えているだろう。ゲームとか。

「ゲームは?」
「……ゆら先輩、俺そんなにゲームばっかのイメージあります?」
「間違ってる?」
「間違っては、ないですけど……」

はあ、と溜息をつ茅ヶ崎に思わず首を傾げる。

「何かあった?」次の語を急かすと、躊躇うように視線を泳がせたあと、茅ヶ崎は、いつものように先輩、とわたしを呼んだ。なに、と返す。妙な雰囲気が、わたしと茅ヶ崎をの間で渦巻いている気がする。

「今から予定あります?」
「帰ってゆっくりする以外ないけど。相談事?」
「……愚痴を」

聞いてもらいたいんですけど。申し訳なさと、期待するような、少しの媚びを含んだ瞳で。眉を下げておずおずと紡がれた言葉に、わたしは思わず笑ってしまった。


「茅ヶ崎、結構わたしのこと頼りにしてくれてるんだね。嬉しいよ」
「先輩もしかしたら勘違いというか、分かってないかも知れないですけど、俺先輩のこと尊敬してますから」
「持ち上げてもここ持たないからね」
「そういうんじゃないですってば」

取引先の無茶振り、残業、ついでに茅ヶ崎王子さまの追っかけの女の子達。きらきらスマイルでごまかした仮面の下に、王子さまはどうやらなかなかに鬱憤を溜め込んでいたらしい。お酒を煽って「残業で確定タイム逃しました」とボヤく茅ヶ崎は、会社じゃ見せない顔をしている。会社の女の子たちじゃないけど確かに、かっこいい顔はしていると思う。聞きながらおかずをつまみつつ、ここぞとばかりに茅ヶ崎の顔をじろじろ見ていると、ふと茅ヶ崎が止まる。

「…先輩、もしかして酒飲まないですか」

 わたしのお酒が減っていないこと、あんまり手をつけていないことに、茅ヶ崎は気づいてしまったらしい。これだから、仕事できるやつはだめなんだよ。知らんぷりしてくれてればよかったのに。

「強くなくてさ。あんま飲まない」
「……、すみません、居酒屋にしなきゃよかった」
「気にしないでいいよ、茅ヶ崎の飲みっぷり見てるから」

結構ストレス溜まってたの?と唐揚げをつまみながら尋ねると、「………………まあ、」長めの沈黙のあと、肯定が返ってくる。

「もっと早く言えばよかったのに」
「……先輩を食事に誘うって、結構勇気いるんですからね」
「え、そう?」

 その後愚痴はどこへやら。茅ヶ崎のゲーム語りやら何やらが楽しくて、昼休みの延長みたいに、長々と駄弁ってしまった。やっぱりオフの茅ヶ崎はちょっと子供っぽくて、可愛いなあって、楽し気に細められている鮮やかな瞳を見ながら思った。