酸素を取り上げられたみたいに、ずっと、ずっと苦しい。
残業してるのはわたしひとり。かたかたと、わたしがキーボードを叩く音が、むなしく鼓膜に響く。しんと静まり返っているオフィスは、キーボードの音と、色んな機械の無機質な音だけが響いている。早く帰りたい、と思う傍ら、帰りたくない、とも思う。仕事をしていれば、考えなくて済むから。
ここのところ、一人になると、考えてしまうことはひとつだけ。考えてもどうしようもないことを、わたしは馬鹿の一つ覚えみたいに反復して、絶望のような、罪悪感のような、重たい感情をひたすらにため込んでいる。毒みたいに体を侵し尽して、わたしを泥沼のなかに引きずり込んでいる。
あの日のことは、きちんと覚えている。寧ろどんどん鮮明になって、わたしを責めるみたいに浮き上がってきているような気さえする。
久しぶりにお酒の入った体は、あっという間にわたしの体を酔いで満たしてしまった。会社の飲み会なんて嫌いだけど、離れたところにいて、目の端にときどき移る茅ヶ崎がかわいくて、ふわふわと揺れる思考が楽しくて、笑ってばかりいた。珍しいね、なんて、言われたような記憶も、あるような気がする。
昼休み、わたしといる時には見せない余所行きのかおをちらりらと盗み見ていると、ぱちり、と、一度だけ茅ヶ崎と目が合って、お互いアイコンタクトをするみたいに微笑んで。
それが嬉しくて、かわいくて、たまらなくなった。今までも、後輩だし、かわいい、って思ってたけど、それが、特別な感情だとは思っていなかった。確かにあの時はアルコールが入ってふわふわはしていたけど、あの時、茅ヶ崎へのかわいい、が、特別な意味を持つかわいいだって思ったのは、お酒の力でもなく、場の雰囲気のせいでもなく、まごうことなくわたしの心の奥底にあったもののせいなんだと、今冷静に考えても、きちんと呑み込むことができる。
ぐ、と喉元が苦しくなって、タイピングミス。唇を噛んで、バックスペースを押す。考え事をしなくて済むなんて言ったって、こうやって頭にチラついてくる。作業効率は褒められたものではない。
「……先輩、」
あまりにも焦がれた声であり、最も聴きたくなかった声。
するりと腕がわたしを囲ったと理解したとき、もうその声はわたしの耳に届いていた。わたしの耳はわたしから独立した機関になってしまったみたいに、音は聞こえていたのに、その音を理解するのはひどく時間がかかった。
デスクに付き、パソコンに向かい。無防備になったわたしの背中から覆いかぶさるように、パソコンの置かれたデスクに手をついているのは、
「……ちが、さき」
返事はないけど、その声の主は、彼に違いなくて。
振り返ることなんてできない。あまりにも近くにいるってことが、振り返らなくたって伝わってきて、体が固まる。体のどこもかしこも、錆びついたみたいに動かせない。
低くて、どこか甘さを含んだ深い声。「先輩、」確かめるようにもう一度わたしを呼ぶ声が、耳のすぐ近く、上のほうから降ってきて、肩が震える。心臓を握りつぶされたみたいに、ずくりと鈍い痛みが走る。どくどくと血を送り出す動機は早い。血が流れているのがはっきり感じられるくらい、全身が過敏になっている。
「どうして今週、一度も来なかったんですか」
わたしのひみつきち。暴かれないようにってずっとずっと思ってたその場所を、わたしはわたしのせいで手放すことになってしまった。
「……行けないよ」
「どうしてですか」
「だって、わたし、茅ヶ崎に」
ちがさき。久しぶりに声に出したその名前は、あまりにも簡単にわたしの涙腺を刺激して、わたしに涙を零させようとする。
「……、ごめん、ごめんね、ごめんなさい」
ぽたぽた零れる涙を抑えられなくて、茅ヶ崎に囲まれた体を縮めるように肩を丸めて、両手で口元を押さえる。思考回路は完全に遮断されて、呼吸だけでいっぱいいっぱいだ。
「先輩、こっち向いてください」
「いや、」
「お願い、」
肩に軽く、茅ヶ崎の頭が乗る。擦り寄るように頭を左右に揺らされる。懇願するようなしぐさにぎゅうっと息が詰まって、恐る恐る椅子ごとくるりと茅ヶ崎に向きなおる。立ったままの茅ヶ崎はわたしを見下ろしていて、切なげな目でわたしを見つめたあと、わたしを抱きしめた。