ぐらり、と視界が揺れて、あ、と思った。暑いなあ、とは思ってたし、喉も乾いていた。その思考をしっかりと自覚したのは今で、そうして、自覚した今ではもう、わたしの体を操る権利は、わたしからは失われていた。

「ゆら!」

 だいじょうぶ、って言いたかった。笑いたかったのに。体が動かない、声が出ない。だるくて、目を閉じる以外の選択肢は、残されていなかった。ゆら、って千景さんが名前を呼んでくれて、ちかげさん、って、口を動かしたけど、喉から出た細い声は、届いたかどうかわからない。いたるの驚いたかおも、見えたような気が、した。



 俺と千景さんと、ビラ配りに出たゆらが。さっきまで声を出して、太陽に負けない眩しい笑顔を無償で振りまいていたゆらが。先輩に抱き留められているシーンを見て、背筋が凍った。

「茅ヶ崎、救急車」

 千景さんの声はいつも通りだったのに、俺は自分が自分じゃなくなったみたいに動けなかった。コントローラーがハードから抜けて、自分が動かしてるキャラが棒立ちになってるみたいに。いくらコマンドを叩いてもうんともすんとも言わない。「茅ヶ崎!」刺すように鋭い声に我に返って、慌ててスマホを取り出す。

「ゆら、聞こえるか?ゆら!」

 ゆらに呼びかけながら、千景さんがゆらを抱えて日陰へと移動する。俺の頭はもやがかかったみたいになったまま、119番にかけた先に状況を説明していた。



 熱中症。すっかり耳慣れた言葉だ。「点滴をしておきましょう。大事にはならないですから、安心していいですよ」先生はそう言ったのに、先輩は寝ているゆらの手を離そうとはしなかった。いつも冷静で飄々としてる先輩が口を固く結んで俯いているのを見ていると少しだけ、冷静になれた。いつになく不安げな顔をしている先輩を見て、今は俺が、いつも先輩がしてくれてるように一歩引いて、落ち着いていよう、と、思えたんだと思う。

「大丈夫ですよ、先輩が適切な指示出してくれたからすぐ目を覚ますだろう、って先生も言ってましたし」

 自分にも言い聞かせるように言う。大丈夫だって言われてるのに、こんなにも不安だ。ゆらが体調悪いの、全然分かんなかった。不甲斐なくて、扉に背を預けたまま、力の入らない手をぎゅっと握った。



「ゆら!」

 病院だって分かってる。茅ヶ崎が、自分だって心配なくせに、俺に気を使ってるのも分かってる。それでも、大きな声が出るのを止められなかった。ぴくりと睫毛が動いて、開いた目、瞳が俺へ向く。それだけで思考は全て吹き飛んで、気づいたらゆらを腕の中へと抱き込んでいた。

「ちかげ、さ…」
「……、良かった…」

 いつ振りかに出した声は掠れていて、力ないゆらの手が、俺の背中を撫でた。座っていた椅子から立ち上がって身を乗り出していた茅ヶ崎も、良かった、とつぶやいた後思い切り壁にもたれて、表情を隠すように腕で目元を覆って天を仰いでいた。ごめんね、と泣きそうな声で言うゆらに、俺も茅ヶ崎も何も言わなかったけど、それはこっちのセリフだと、俺も、きっと茅ヶ崎も、思っていたに違いないと思う。



「え、なに?」

 普通に帰ってきて、夜。ドアがノックされて、応える前にドアが開く。そんなことをするのは至と千景さんくらいだ。どやどや入ってきてふたりとも、わたしのベッドの横に座り込んだ。千景さんはタオルケットとペットボトル、至はスマホとゲームを持っている。

「なに?なにしてるの」
「心配だからここで寝ようと思って」
「先輩に同じ」
「大丈夫だって…!」

 床を支配するふたりを引っ張って、ベッドに座らせる。

「帰らないなら、一緒に寝よ」

 ごめんねって言ってもきっとふたりは喜ばないから、精いっぱいのありがとうと一緒に、ふたりのほっぺにキスを残した。ふたりの目はじわじわと緩んで、滲んでいるから、わたしにも移ってしまいそうで、知らないふりをして笑った。お返しとばかりにほっぺにふれたふたりの唇はあたたかくて、泣きそうになったのを、必死でこらえた。