名を着替え、成りを着替え、来歴や国籍も着替え。多種多様、いろんな装飾を身に纏っているうちに、芯である自分がどう立っているのか、分からなくなってしまった。着せ替え人形は顔を失っても動けるのだ。組織から必要とされているのはあたしという名の殻だけ。そこを飾り立ててつとめを果たせさえすれば、中身なんてなんでもいいのだ。従順でさえあれば、の話だけれど。
カーテンは揺れない。だれかの足の裏が床を踏みしめる音もしない。だってあたしはひとりなんだから。
必要最低限の間取りの部屋。ここにだって長く居座るわけではないだろうけど、お風呂がきちんとあって、トイレが別で、そういう部屋を選んだ。その程度の資金なら、組織からいくらでも出してもらえる。ころころと銀行の変わる口座にはいつも潤沢に、金銭が詰まっている。
「………オーガスト」
久々に出した声だった。仕事中は必要最低限しか声帯を震わせることなんてしないし、仕事以外ではいつも一人で、わたしの声の振動なんて必要とされるところがない。長く放っておかれた声帯は放置され乾いたグラウンドみたいにからからで、それが余計、夜の空しさを助長させた。
窓の鍵を下げて開けると、からりと窓がレールを滑る音がする。ベランダへと出ると、サウナのように蒸れた空気が待ち構えたようにわたしに纏わりつく。
夜空をゆっくり見上げると、記憶がふつふつ甦る。ああ、だめだ、部屋に戻らなきゃ。このままいたら、無理矢理色を削いでいる思い出が、起き上がってきてしまうから。そう思うのに、わたしの脚は動かない。月光浴で脚の根が、ベランダに張ってしまったように。うっすらとした薄い三日月は、妖しい山吹色をしていた。
持っているグラスの中で氷が揺れる。
眠るためにアルコールに依存するようになったのはいつからだったか。休息を求めているはずの身体はいつもぎらぎらと、研ぎ澄まされたナイフのように鋭いばかりで。目を閉じると、いつも瞼の裏は真っ赤に染まった。怖くて怖くて、いつしか、眠りにつくのが怖くなった。日を失った空はいつだって、あたしに牙を剥く準備をしていた。
眠るために無理矢理酒を体内に入れて、半強制的に睡眠を誘う。睡眠の質なんて、底辺のなかの底辺だ。最低限、体を休めるだけの行為。
寝酒が体に悪いことなんて知っている。夢見だって良くないし、翌朝はやけに息苦しい。それでももう、あたしはもう、素面でなんて眠れない。いろんなものに追いかけられて、布団の中で身を丸めても、怖くて怖くて仕方がない。夜はいつも、わたしは丸呑みにしようとその深い口を開けている。
「……オーガスト、」
滅多にオーガストに会うことはなかったけど、時々夜酒を共にすると、またそれ飲んでる、とどこかつらそうに笑ってた。そうでもしないと眠りを手に入れられないあたしを憐れむみたいに。
そんな顔しないでほしかった、だって、あんたがくれた酒じゃない。酒に弱いあたしのために、飲み口とか、酔い具合とか、全部考えて、あたしのために探してくれたお酒。もうこれがないと眠れないと笑い返したあたしに、オーガストはなにか言いたげな顔をしていたっけ。
「……オーガスト、」
ひとりでいるのは苦しいよ。あたしもう、立ってるのがつらいんだ。あんたが残した仕事を終えたら、あたしの糸はきっと切れる。あんたのいない世界の重力も、取り込むべき酸素も、あたしには重すぎる。
涙はグラスに吸い込まれて、波紋を残して消える。わたしも早く、こうして早く、世界から痕跡を消したいと、思う。