りんとは長く一緒に住んでいる。昔は喧嘩もあったけど今ではそんなこともほとんどなくなった。彼女が私に対しての不満を小言ですませるのも、彼女の小言を聞き流せるのも私には心地よく思えた。
何故もう一歩先に進まないのか……、もっとストレートな言い方をするなら何故結婚していないのかと言えば彼女が催促をしないからだった。
覚悟のようなものはできていて、心の中でするなら彼女しかいないと感じているし、ずっと一緒にいたいとも思っている。でも今の居心地の良さを味わっていたい気持ちもあって、彼女が何も言わないことに甘えて変化を求めなかった。
長く交際していて結婚間近だと思っていた友人カップルが破局したのは、そんな生暖かく心地いい日々を過ごしていたときだった。
「結婚の話をしたんだ。だけどあいつに言わせれば遅すぎたみたいでさ……」友人はそういって無理矢理笑っていた。「お前も真剣に考えないと本当に大切なものが離れていくことになるぞ」そんな説得力のあるアドバイスと共に。
その出来事は自分の中では衝撃だったし、焦りや不安が生まれた。
りんはどう考えているのだろうか。自分は彼女以外なんて考えていないけどりんはもう私との結婚なんて考えてなかったら? いや『もう』なんかじゃなく最初から私との未来なんてりんの中にはないのかもしれない。りんは私より若い。そして今はそのりんの若さが怖かった。
「今度友人が結婚するんだって」
結婚をどう考えてるか聞き出したくて切り出した話題は事実とは全く違う台詞だった。事実とはいえ破局だとかマイナスの出来事を告げるとその空気に感化されてしまいそうで言う気になれなかった。
「へえー。おめでたいね。友人って誰かなあ。私も知ってる人?」
「ああ、えっと、まあ」
「えーなにそれどっち?」
ダイニングテーブルを挟んだ向こう側に座るりんは電気ケトルのスイッチをいれながら仕方なさそうに笑った。りんの問いに適当に返事をすることが今までにもあってそんな私に「もう」と言いながらも笑ってくれる。
ああ、やっぱりどうしようもなく好きだな。と、しみじみ思った。
「りんはさ。ずっと変わらないね」
「どうしたの急に」
「私が好きになった時の綺麗なまんまだなって」
「……」
ぽろりとこぼれた自分の本音を彼女はどう感じたのか黙り込んで読めない表情をした。決して嬉しそうには見えないその顔に焦りが生まれる。
「嬉しくないの?」
「うれしく、ない」
りんの絞り出した言葉に愕然として鳥肌が立つような寒気が走った。
取り繕って喜ばせるために言ったわけではないけれど、それでも嬉しくないなんて言われるとは思わなかった。
「褒めたのに」
「今までそんなこと滅多に言わなかったのに、急に前触れもなく言うなんて、何企んでるの?」
「企んでるなんてひどいなあ。本心だよ。綺麗だなって本当にそう思ったんだ」
「ほかに好きな人ができたってこと?」
「なんでっ」
信じられないりんの発言に勢いのまま思わず大声が出た。それを慌てて繕って声のボリュームを落とす。
「なんで、そんな発想になっちゃうかな」
喋り終わるのと同時にお湯が沸き二人でケトルに視線を向けた。りんはインスタントコーヒーの粉をスプーンで二杯掬いカップに落とすとお湯を八分目ほどまで注いだ。「雑渡さんもいる?」その声は棘ついた空気を変えるように明るいものだった。
いつもならその気遣いにありがたく乗っかり少しぎこちなく意見の食い違いをなかったことにするのだが、今日は言葉が出なかった。何も言わない私の側にあった湯呑み茶碗を取って「これに煎れていいよね」と冗談めかして、粉を掬った。
「りん」
かたかたと震え、音を立てるスプーンを見て耐えられなくなりその手を掴んで止めさせた。
「なあに。湯呑みでコーヒーは嫌? 大丈夫よ。なにで飲んだって味は変わらないんだから」
ふざけた装いで笑うりんは明らかに無理をしていて、それが私の胸をえぐる。しかし、りんが二人の間に漂ういつもと違う空気に不安を感じる程度には私を想っていてくれていることに安堵もした。
「りん、私ね」
「雑渡さん、聞きたくない。私、褒め言葉なんかいらないの。今まで通り雑渡さんがいればそれだけでいいから。だから……」
「……聞いてよりん」
ぽろぽろと涙をこぼす姿がおそろしく綺麗で全身が粟立った。
どれだけ綺麗でもやっぱり泣き顔を見るのは辛く、なんとか落ち着いてもらおうと彼女の隣に移動してしゃくりあげる毎に揺れる肩や背中を撫で、涙を指で掬った。
しかしその全てをいやいや。と首を振ってりんは嫌がり耳を塞いだ。
「私には君だけだよ。今もこの先も、りんと一緒の未来しか考えてない」
しっかり伝わるように耳に当てられていた手を取ってりんの耳元に言葉を流し込んだ。
唸るような声を出しながら涙を流し続けるりんにはもしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。涙を流す以外の反応がないことにじれったくなってりんの両頬を覆って無理矢理視線を合わせた。
「ねえ。私と結婚してほしい。って言いたかったんだけど」
流れていた涙の量が変わり親指で拭うだけじゃ追いつかなくなった。声を上げて泣き出したりんは返事をくれずに私の腕にすがりつき思う存分泣きはじめた。その涙の意味が分からないほど野暮ではないつもりだ。彼女の感情が私の中に流れ込んで温かくなり涙がこみ上げてくる。その涙をりんに気がつかれないように拭ってから、強く抱きしめて愛しい体温や香りを堪能した。
END
20170404
ALICE+