片鱗


名前は椅子に寄りかかってうとうとし始めていた。朝六時に起きて登校、昼間は体育で陸上競技の練習、夜はアカギのチンピラとの喧嘩に巻き込まれた。陸まで泳いでびしょ濡れになりながら更に街まで歩き、今はだいたい午前三時くらいだろうか。だがアカギに何かあったらと思うと心配で眠れない。重い瞼を擦りながら眠気と格闘していた。

「嬢ちゃんどうした、大丈夫か?」
「……ねむい」
「この椅子で寝るか?何か上に羽織れるものは……」
「ううん、アカギくんのこと、ちゃんとみてたいから、だいじょうぶ…………です」

幼い口調に取ってつけたような敬語。眠過ぎて頭が回っていないのだろう。アカギは心配するように名前を一瞥した。
竜崎たちが裏から戻ってきて、席に座って、東一局の六巡目が始まるという頃には、名前はすっかり眠ってしまっていた。しかも南郷の肩に寄りかかって。

(年頃の女の子だし、起こした方がいいのか……?いや、疲れてるだろうし寝かせておくべきか?)

南郷は助けを求めようと安岡の方を見たが、彼はからかうように鼻で笑っただけだった。牌を打つ音と雨音がいい具合に子守唄になったのだろう。心地よさそうな寝息を立てるその姿にはまだあどけなさがあった。





「……あ、南郷さん、ごめんなさい」

名前は大きく欠伸をして辺りを見渡した。まだ勝負は終わっていないのか。そう思ったが、竜崎の座っていた席にいたのは見知らぬ男で、寝ている間に状況が変わっていたことを察知した。

「あれは矢木という男で、竜崎が呼んだ代打ちだ。……それにしても随分ぐっすり寝てたな」
「朝から学校で疲れちゃって。でも今ので少し眠気が覚めたので大丈夫です」
「そうか。……で、アカギの勝負で一度勝負は終わったはずなんだが、あいつが変なこと言い始めて延長戦って訳だ。倍プッシュだのなんだの言ってたが」

南郷は額に冷や汗をかきながら言った。矢木の表情も若干曇っているように見える。名前は彼のことを知らないので、元々そういう顔つきなのではとも思ったが、とにかく彼らにとってあまりいい状況では無いことは一目瞭然だった。

「あの子、一度やるって決めたらこうなんです。妥協しないっていうか、とにかくああなったら止まりませんよ」
「ったく、なんて奴だ」

良くも悪くも自分に忠実で、欲望を隠したりはしない。隣でずっとアカギを見てきた名前はそのことをよく知っていた。

「ロン」
「なっ……」

一発。地獄待ちの西単騎。
本当に彼は初心者なのかと誰もが疑っている。最早引いている。矢木は化け物を見るかのような目でアカギを睨みつけた。
そして東二局。矢木はあと一手で聴牌というところまで来ていた。六萬を切りたいところだが、アカギの捨牌的にそれはまずい。だがあと一歩というところで安牌を捨ててしまうのも勿体ない。嫌な予感を感じながらも一萬を切る。

「フフッ……そこが出るとはね。目が曇ってるぜ、矢木さん」
「まさか……」
「それだ」

一萬単騎。わざわざ、この戦法。
矢木を狙い撃つためだけの戦法。その狂気がじわじわと矢木の心を蝕み、ついに、何かが壊れた。
完全にアカギのペースに呑まれてしまった。全てがアカギの思惑通り。どうせ何を打っても見透かされている。そんな諦めが感じ取れる打牌だった。局は進むが、矢木は完全に負のループに陥ってしまっていた。

麻雀は如何に自分がアガるかというゲームではなく、如何に相手を降ろすかというゲームであることに、アカギは気づき始めたのだった。麻雀とはどういうものかを彼はたったの数時間で理解してしまったのだ。

「ポン!」
「チー!」

早仕掛けの麻雀で勝負に出る。それは理から成る戦略ではなく、焦りと恐怖で構成された脆いものだった。

「リーチ」

だが、アカギを追い越すことなど不可能。
逃げたいのに逃げれず、攻めたいのに攻めれない。立直が怖いがアガらなければ負けてしまう。どちらに賭けるか揺れる心を表すように、右手が手牌を行ったり来たりしている。どれを捨てればアガれる?どれを捨てればアカギのアガりを免れる?そんなこと、錯乱状態の矢木に分かる訳がなかったのだ。もう、とっくに手遅れだった。

「ククッ……ロン」
「あ、ううっ、あぁっ……」

六萬は通らなかった。
放心状態で矢木は卓に突っ伏した。名前が同情してしまうほどの追い詰められっぷりだった。

「悪いが今ここに金はない。後で連絡する」

スーツにグラサンの男が矢木の肩を支えて立ち上がらせた。その様子を、アカギは冷たい目で見ている。

「何を言っている。まだだ、まだ終わらせない。倍プッシュだ」

まだまだ終わらせない。限度いっぱいまでいく。
その言葉に竜崎たちは青ざめた。

「どちらかが完全に倒れるまで。勝負の後は骨も残さない」

部屋に光が差し込んだ。日の出だ。長い夜が終わる。
名前も南郷も安岡も、竜崎やほぼ心神喪失の状態である矢木でさえ、誰もが唖然としていた。アカギは本気で言っているのだ。どちらかが破滅するまで勝負を止めないつもりなのだ。

「まさか逃げないでしょうね?」

名前はアカギを止めたかった。やりすぎだ、もうやめにしよう、と。だが部外者が口出ししていいことではなかった。それに、彼の性格からして一人で説得するなんてできない。
結局安岡の提案によりお開きになった。数日後に組長の立ち会いのもと卓を囲むことになる。渋々了承したアカギを連れて、名前たち四人は外に出た。

「南郷さん、ちょっとお願いが……私の親戚のフリをして、学校に休みの連絡を入れてくれませんか?お願いします!もう、疲れすぎて、今にも倒れそう……」

学校の電話番号と学年やクラスが書かれたメモを手渡して、名前は南郷を連れて公衆電話へ向かった。
ふと彼女が振り返った時、街並みが陽炎で揺れていただけで、もうそこにアカギはいなかった。




「アカギくん、いる?」

帰宅した名前が居間を覗くと、アカギはラジオを付けて寝っ転がっていた。アパートの部屋の鍵が開いていたので中にいることは分かっていた。天井をぼうっと見つめて何か考え事をしている。

「少しくらい待ってくれてても良かったのに」
「……」
「あーあ、アカギくんが戦ってるところ見たかったのになあ。組長が来るなんて、そんな危ないところに私は入れて貰えないわね」
「……名前さん、昨日のこと怒ってる?」

唐突にそう質問した。チキンランも麻雀も、名前は自分から参加した訳ではなく巻き込まれただけだった。

「まさか。アカギくんが危ないことするなんていつもの事じゃない」
「そうじゃない。チンピラに車の椅子に縛られて、危うく死にかけるところだっただろ」
「ああ、そのこと」

名前は横になるアカギの前に座った。
アカギが家に居候してから一年。そもそも初めて会った時だって、アカギは路地裏で血を流して倒れていたのだ。彼が危険な人物であることなんてとっくに知っていた。

「死んでもいいって思ったの。別に希死念慮ってわけじゃないけど、ハンドルを握るアカギくんを見てたらね、この人なら信じられるって」

それに、私を大切に思ってくれる人なんてみんなもう死んじゃったから。そう付け足して名前はお風呂場へ歩いて行った。
初めのうちは泣きながら喚いていた名前が、後半やけに静かだったのは、恐怖のあまりそうなってしまったのだとアカギは考えていた。だが、意外な彼女の言葉に思わずアカギは口角を上げた。

(なんだよ、それじゃあまるで、俺のことが……)



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