優しさに包まれたなら
マスターである彼女は、少しばかり朝に弱い。コールで声を掛けていても、相手によっては二度寝に甘える時だってある。今日も今日とてアレキサンダーからのコールに返事をしたものの、未だ食堂に姿を見せていない。
仕方なく、付けていたエプロンを外し彼女の自室へと赴く。こうなってしまえば、直接出向かないと起きさえしないのだ。
「マスター、朝食の準備は整っているぞ。そろそろ起きたまえ。」
コホンと軽い咳払いの後、トントンとドアノックと共に声を掛ける。返事は無い。
「マスター?」
もう一度ノックをしようとして、持ち上げた手がキーに触れる。本来ならばロックされているはずのそれは、彼女の無防備さを示すようにプシュンと開いた。
「まったく、君は……」
あれほど戸締まりには気を付けるように言ったというのに、未だ習慣付いてはいないようだ。これだけのサーヴァントを従えて来たとはいえ、いつ何時なにがあるか分からない。だからこそ、こういった些細な事でも気を付けるべきだと思うのだが。
「入るぞ、マスター。」
ここはもう一度言い聞かせておかなくては。そんな使命感を抱きつつ、一言断りを吐いて彼女の部屋へと入る。聞こえてはいないだろうが、なんとなく行ってしまうのは彼の人柄だろう。
「んんっ、マスター、朝だぞ。」
白いベッドの上には、掛け布団の中で丸くなる少女がある。そうやって眠るのは彼女の癖だ。始めこそ冷えるのかと心配になったが、そんな事は無いと彼女は言うし、どうやら本当に癖だというのはこれまでの旅路でも見てきている。
「マスター、おい、いい加減起きたまえ。」
「んー、エミヤ……?」
「まったく、本当に君は……」
微睡みの中、少しずつ覚醒する意識に聞き慣れた声が染み入る。ため息とともにあるのは、漸く起きた私への安堵だろう。今日もいつも通り彼に起こされてしまった。そうなる筈だった。
その日の朝は、彼らしからぬ「なんじゃこりゃあ!?」という声で覚醒した。
morning
「エミヤ、うるさい。」
「む、す、すまない。いや、そうではなくて!マスター、その、それは一体どういう事なんだ?」
「んー、どれ?ああ、コレ?」
エミヤが困惑するのも無理は無い。今の私には、猫のような耳に尻尾が生えているのだから。本来無かったはずのものである。
「またダヴィンチ女史の研究か……?」
「まあ。でも今回は私のミスだから、ダヴィンチちゃんは悪くないよ。」
黙っているのも後々面倒そうなので、昨日あった事を説明する。ダヴィンチちゃんのアトリエを片付けしていて、彼女の研究途中で放棄された薬を浴びてしまった事。魔術回路への影響により、こうなってしまった事。絶賛、中和剤を開発してもらっている事。
魔術回路の情報を得る事で悪化を防ぐ事は可能なのだが、それは説教タイムが来そうなので黙っておこう。いざとなったらマシュにハグしてもらって思いっきり甘やかしてもらうんだ!
「はー、まったく君は……」
「とりあえずご飯でしょ?今日のメニューは?」
「その前に着替えたまえ!」
がばりと起きて、彼の手を掴み部屋を出ようとすれば、案の定止められた。食事中に汚すかもしれないし、だったら部屋着で食べた方が余計な気を使わずに済むのに……とは、怖くて言えないな、うん。
「顔洗ってくる……」
「その前に、マスター。君、もしや魔術回路が乱れては居ないか?」
「え……っ?」
何故バレたし。と思ったが、恐らく今手を繋いだ事で感じ取ったのだろう。投影魔術を得意とする彼は、物の状況やその判断などに長けている。料理当番が多いのも、その日の皆の需要を的確に判断出来るといった点から来ている。それはそうと、バレてしまった。
「何故、そんな重要な事を言わなかった?」
「い、いやあ、ほら、マシュにハグしてもらえば少し和らぐみたいだし?」
「オレに心配させまいとしたのか?」
"オレ"と、彼が自分を呼称する時はたいてい怒り心頭な時か、何かを諭してくる時である。ああ、やってしまった。説教タイム突入である。
「し、信用してない訳じゃないよ?心配かけたくない、ってのはあるけど。巻き込みたくないっていうか、事情が事情っていうか……」
「ほう……?」
あああああかなり怒ってらっしゃる!いやでも、言えないよね、言えないよね!?魔術回路の情報を得ることで、状況緩和出来るんだ、なんて。だってそれは、つまるところそういう事だから。
(ああ、何を考えているんだろう私は。)
ハグだって、魔力供給出来るのだからそれで十分なはずなのに。
「マスター。」
エミヤの影が重なる。顔を上げれば、まっすぐに私を見る双眸と視線が絡む。無意識に、一歩下がってしまう。
お願い、私を見ないで。密かに抱いていた邪な考えが、頭角を現しそうになる。
(怖い…………)
何を恐れる必要があるというのか。勝手に好きになり、勝手に彼のものになりたい、彼のものにされたいと劣情を抱いたのは私の方だ。彼は何も悪くない。少なからず私がマスターで無ければ、もしかしたら希望があったかもなんて、下手な夢を見てしまった自分が悪いのだ。
「エミ、ヤ……」
言葉が出ない。息の仕方も忘れてしまったかのように口はぱくぱく動くだけで、その唇もきっと震えてしまっているのだろう。どうして今、こんな感傷に苛まれているのか。彼の魔力を知ってしまったから?彼の手に、触れてしまったから?
はあ、と、彼が深く息を吐いた。
「そこまで怖がらせるつもりは無かったのだが……。私が言いたいのは、君一人で何もかもを抱え込まないで欲しい、という事だ。常々言っているが、少しは頼りにして欲しい。戦闘や料理だけが私の取り柄でない。」
ふわりと、大事なものを抱えるように彼が私を包み込んだ。視界を埋める鮮やかな赤。鼻孔をくすぐる、彼の香り。落ち着く体温。
どうしてこうも、彼は私を満たしてくれるのだろう。どうして私は、欲深くなってしまうのだろう。好き、が溢れる。彼が欲しい。
鼓動を感じる度に、思考に靄がかかり、自分が自分で無くなる気がする。それはあの薬のせい?猫が温もりに甘えるように、私もそうなっているのだろうか。
「エミヤ…………」
「なんだね、マスター?」
「……おなかすいた。」
温もりに、酷く落ち着いた思考は、素直な意見を吐き出した。猫は気紛れというが、今の私も相当なものだろう。崩れた魔術回路に、彼の魔力が心地好い。それで、今は十分だ。
この時の私はまだ、その魔力が後に私を酔わせる結果になるとは思ってもいなかった
mae | tsugi