さよならの匂いが鼻をつく





※捏造大正ロマンパロ



薄暗く湿った石壁、饐えた臭いと埃っぽい空気。不衛生な狭い独房の唯一の光源は鉄格子の向こうの通路に灯された松明数本のみ。此処に連れて来られたのは数時間前、なんの前触れもなく突然だった。貿易商の父様が阿片を日本に持ち込み売り捌いている。そして私もその商売の片棒を担いでいると。幼い頃に病で母様を亡くし、男手一つで私を育ててくれた優しい父様がそのような悪事を働く訳が無い。こんなのでっち上げもいいところだ。沸々滾る怒りをぶつけようにも両手両足が麻縄で拘束されており、動く事すら儘ならない

砂を踏む足音が聞こえる。次第にそれは此方に近付き、目の前の鉄格子で止まった。若草色の軍服を纏った年若い青年だ。白花色の少し癖のある髪に銀灰色の鋭い瞳。肌も透き通るように白く、日本人離れした整った容貌に場違いながら見惚れてしまう。血生臭い軍人より役者の方が彼にはよほど似合うだろう

「宮沢みゆといったな。父親は罪を自白した。お前も素直に認めた方が身の為だ」
「嘘…、そんな…っ」
「事実に変わりはない。あまり手間を取らせるな」
「私は本当に存じ上げないのです!軍人様お願い致します!どうか信じてくださいませ!」

必死に頭を下げ続け懇願した。父様が阿片の密売に関わっていたなんてとても信じられないが、このままなし崩しに私も冤罪で刑罰を受けるなんて耐えられなかった。けれど実際、無実を証明出来る証拠も証人もいない。信じてもらえる根拠が無いのだ。冷汗が全身に滲む。独房の施錠が解かれ、青年が中に入ってくる。俯いていた顎を掴まれ無理やり上を向かされた。探るような視線とかち合うが、不思議と恐ろしいとは思わなかった

「…その言葉に偽りは無いな」
「誓ってございません。父様の仕事に関わった事は一度もないのです」
「分かった。お前は無関係だと上官に報告しよう」
「…っ、ありがとうございます…!ありがとうございます…!」

手足を縛っていた麻縄は刃物で切り落とされ独房の外へ誘導される。衣服に付いた汚れを払い、深々と頭を下げた

「あの…お名前を伺っても?」
「八乙女楽だ」
「八乙女様、この御恩は決して忘れません」



ーーー…



それから数日と経たないうちに八乙女様から父様が商談で行きつけていた料亭に隠されていた阿片が見つかったという報せがあった。取引相手の商人も捕まり、とうとう自白もしたらしい。全ての真実が明るみに出るまで時間の問題だろう

まだ心の何処かで父様の罪を否定していたが、嫌でもこれが現実なのだと思い知らされる。何より周囲の人々の反応が様変わりした。親切だった近所の住民達はこぞって噂話をし、犯罪者の娘と煙に撒かれ村八分のような扱いを受けた。中には私も阿片中毒者だと触れ回る者もいた。噂は留まる事を知らず、女給として勤めていた喫茶店からももう来ないで欲しいと告げられ絶望のどん底に突き落とされた気分だ

これから先どう生きていけばいいのだろう?収入も無く、頼れる身寄りもいない。途方に暮れ軒先で蹲っていると見覚えのある若草色が目に止まる。白皙の軍人が怪訝そうな顔で此方を見た

「八乙女、様」
「こんな処で何をしている。春とはいえ外はまだ冷えるぞ」
「貴方様に救って頂いた身ですがそれももう終わりのようです」
「何があったんだ」
「父様の話がご近所や勤め先にまで広がってます。犯罪者の娘と揶揄されて、職も失いました。この先どうやって生きていけばいいのか考えるだけで恐ろしくて…」

涙が一つ二つ零れ頬を濡らす。それを白い手袋に包まれた親指が拭い、驚きで目を見開けば彼は僅かに口角を上げる

「みゆが良ければ俺の邸に来るか?あまり広いとは言えないが女一人生活するくらいの余裕はある」
「そこまでご迷惑を掛ける訳には…!」
「迷惑だと思った事は一度も無い」
「……本当に、八乙女様には助けられてばかりです」
「俺は誰かを守る為に軍人になったんだ。だからお前を守れてよかったよ」

聞けば彼も幼い頃に母と別れ、父の元で育てられるが折り合いが悪く家を飛び出す形で寮制の将官学校に入ったという。現在は政府から与えられたお邸で一人暮らしており、部屋が余っているからそこを使わせてくれるというのだ

必要最低限の荷造りをして乗り付けて来た人力車に乗せてもらう。お邸に向かう間も慣れない車に落ち着かず、お上りみたいにきょろきょろしていると小さく笑われてしまう。大人びた印象の八乙女様は笑うと年相応の青年らしさがあり、それがとても好ましく思えた。自分の中に不相応な感情が芽生えるのを予感し、きつく拳を握る。“犯罪者の娘”それは紛れもない事実であり、死ぬ迄付いて回る苛む呪いのようだ

天を仰げば紫陽花色の夕空が広がっていた。綻び始めた白梅もそれに染まり、美しく翳りを落としてる。私が数日前の、何処にでもいる普通の女で在れたなら。そう思わずにはいられなかった

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