その日は雪が降っていた。体の芯まで凍りそうな寒さの中、名前は山を下っていた。向かう先は一つの定食屋である。味も良く女将の愛想もいいその定食屋は名前のお気に入りだった。任務終わりの空腹を満たしに行ったり、こうして休日に食事に行くことも多い。そこに行けば冨岡に会えることもあるし、会えないこともある。別に冨岡に会うのが楽しみで定食屋に通っているわけではない。前にも述べたように、名前は定食屋の味と女将が気に入っているのだ。そこで冨岡と会えたらそれとなく近くに座るし、会えなければ一人で料理を楽しむ。そこに冨岡がいるかどうかは大して問題ではないのだ。名前は雪の上に足を止めると、定食屋の戸を開けた。すると名前の目は自然と店内を見渡す。果たして今日は冨岡はいるだろうか、それともいないだろうか。名前の目がぐるりと店内を一周した後、カウンター席に見慣れた羽織を見つけた。肩に薄ら積もっている雪からすると、長い間外にいたらしい。今日は任務だったのだろうか。名前はカウンター席へと向かうと、一席空けて隣の席に座った。
「今日は寒いね」
 会話不精な冨岡のことだ。黙っていたら永遠に会話が始まることなく食事が終わってしまう。冨岡との沈黙を気まずいとは思わないが、二人でいる時はこうして名前が会話を振ってやるのが主だった。
「ああ」
 予想通り素っ気ない応えが返ってくる。他の者からしてみれば、この男は天気の話もまともにできないのかというところだろう。だが名前はもう慣れてしまった。一人で壁に向かって喋っているような、それでいてきちんと返事が来るこの感覚が気持ちいいのだ。
「今日は任務だったの?」
「ああ」
「こんな雪の日までお疲れ様。鬼を何人斬ってきたの?」
 冨岡のことだから誇示するようなことはしないが、きっと何人もの鬼を斬ってきたのだろう。名前が何気なく横を向くと、そこには箸を止めて虚空を見る冨岡がいた。
「斬っていない」
「え?」
「一体も、斬っていない」
 数秒の沈黙があった後、名前は「そっか」と言った。冨岡は何も言わなかった。名前は代わりにここまで来る雪道が大変だった話をし、運ばれてきた蕎麦を啜った。冨岡は珍しく食べ終わってもそこにいた。だが名前に何か話す素振りもなく、ただ黙ってそこにいる。きっと帰り道を共にする気もないのだろう。意図は読めなくとも、冨岡がそうしたいのならすればいい。名前は蕎麦を食べ終え、代金を支払い、店の前で冨岡と別れてからしばらく冨岡の背中を見送った。
 あの冨岡が任務で一体も鬼を斬らない。それは明らかにおかしい。そのことを聞かなくたって、今日の態度で冨岡に何かがあったことはわかる。本当は、聞いてみたい。話してほしい。だが冨岡が聞かれたくないと思っていることもまたわかってしまうから、名前は冨岡とただ蕎麦を食べたのだった。
 定食屋で会えたら近くに座り、会えなかったらそれまで。冨岡と名前の関係は所詮そんなものなのだ。冨岡の中でも親しい友人でいる自負はある。だがそれでも冨岡の引いた一線の中には入れない。いつか入れる日が、来るのだろうか。もうとっくに消えた冨岡の背中を思い出しながら、名前も雪の中へと歩き出した。
 
 時は過ぎ、名前は鬼殺隊の総本部に佇んでいた。あの雪の日のことは何でもないただの日常のようで、名前の心に深く突き刺さっていた。気付けばあれから二年が経っていた。名前は変わらず鬼を斬り、稽古をし、たまに冨岡と食事を取っていた。あの雪の日のことなど、まるでなかったように。そのことがまた名前の心に引っかかるのだった。それに何も言えないでいるのももどかしい。名前は遠くに見えるお館様の屋敷をぼうっと眺めながら思った。お館様の屋敷の警護まで任されるようになっても、結局名前は二年前から変わっていないのだ。冨岡のことが、ちっともわからない。
 思い返すのはちょうど一年前のことだった。いつもの定食屋で、天ぷらを食べながら、冨岡はただ一言「好きだ」と言った。それが恋愛的な意味であることはすぐにわかった。人間的に好ましいと思っているのだったら、冨岡はわざわざそんなことを口にしないからだ。だが恋愛的な意味でもそれを伝える意図はわからない。冨岡は後に続けて交際の申し込みなどはしなかったし、むしろそれは冨岡がもっとも避けたがっていることのように思えた。雪の日のことだってまだ話してもらえていないのだ。冨岡が名前に心を開いていないとは言わないが、名前と冨岡の間に引かれている一線は変わらずにあった。だから名前はただ「そっか」と言った。冨岡もそれ以上は求めていないようだった。その日、自分も好きだとは言えなかったし、その後も言っていない。別に言ってもいいけれど、多分今後も言わないのかもしれない。二人が両想いとなったら、自然と話は交際へと進む。だが冨岡はそれを避けたがっている。この関係性には名前を付けなくてもいいと、そう思っているのかもしれない。両想いなのに付き合っていない関係。それも冨岡と名前ならあり得るだろうか。とにかく告白を受けたなんて忘れてしまうほど、冨岡との日々は平凡に過ぎていた。今日もまた、そうなると思った。
 
「おいお前ら、もう終わりにしていいぞ」
 任務の終わりを告げたのは宇髄だった。柱がここにいるということは、もう柱合会議は終わったのだろう。名前は安心して警戒を解いた。もっとも、頭にあったのはあの日のことばかりだ。敵襲があっても集中できなかったかもしれない。柱合会議が無事終わったことに感謝しながら、名前は帰路に着こうとした、ところを宇髄に絡まれた。
「なあ聞けよ名前、冨岡の奴鬼をわざと生かしてたんだぜ? お前知ってたか? いつも一緒に任務してんだろ」
「知、らなかった……」
 聞いた瞬間に、あの雪の日のことだろうと直感した。あの日、冨岡は鬼を逃がしていたのだ。どの鬼を? どうして? 頭の中で思考が渦を巻く。もしかして今日の柱合会議は冨岡の処分を決めるものだったのではないか。会議はどうなったのか。そこに無傷でいるということは、無事だったのか。それとも罷免になったのか。
「おい宇髄、柱合会議の内容を他の隊士へ漏らすな」
「あ? どうせその内知れ渡んだろ。何せ鬼殺隊士が鬼を連れ歩いてんだからな」
 止めに入った伊黒の言い分はもっともだが、名前はもっと話を聞きたいと思ってしまう。冨岡が助けたという、その隊士と鬼の話を。そして冨岡がどうなったのかを。
「例の少年はよほど鬼の妹を守りたいと見えた! 会議でも必死だったし、どこへ行くにもわざわざ妹を背負って歩くくらいだからな!」
「まあこのご時世だし自分の女箱に入れて持ち歩くのも悪かねえかもな。そうだ冨岡、お前も苗字背負って歩きゃいいんじゃねえか。いっつも庇ってるこいつをよ」
 突然呼ばれた冨岡の名前、そして自分の名前にどきりとする。宇髄の話ぶりでは冨岡は罷免にはならなかったのだろうか。柱達の一番後ろにいる冨岡を見ると、一度目が合った後不意に逸らされた。
「俺は苗字を連れて歩いたりしない……するわけがない」
「冨岡、今日はよく喋んじゃねえの。つーか冗談にそんなマジになんなよ」
 宇髄のいつものからかいに律儀に答える冨岡。その構図はいつも通りだった。だが、明らかに異なるのは、普段淡々と話す冨岡が強調するように語尾を強めたことだった。いつもの冨岡なら「しない」の一言で済ませそうなものを、そこまで強調する理由は何なのだろう。「するわけがない」と冨岡に言わせしめているのは、何なのだろう。冨岡の一言が、あの雪の日の出来事と同じように名前の胸に深く刺さった。
 
 その翌日、名前は定食屋にて冨岡と出会った。否、店に入ったら飯を食べている冨岡の背中を見つけたのだ。名前は少し迷ったが、一つ席を空けて隣に座ることにした。冨岡が何も気にせず、名前と会うかもしれないと分かっていながらこの店に来ている以上、名前も変に意識した素振りを見せたくなかったのだ。冨岡は椅子を引く音にちらりとこちらを見るとまた食べることに集中した。そして沈黙が訪れる。名前が話さなければ永遠に終わることのない、長い長い沈黙だ。さて何を話そうと考えながら、冨岡との沈黙をこんなに重く感じるのは初めてだと思った。何か話さなければならない。分かっているのに、言葉が出てこない。名前が密かに焦っている隣で、沈黙を破ったのは意外にも冨岡だった。
「どうした」
 その一言に、名前は固まってしまう。一つは冨岡から口を開いたことに、もう一つは言葉の内容に驚いているのだった。「どうした」とは一体何が「どうした」なのだろう。柱合会議から様子がおかしいから「どうした」なのか。ただ単にいつものように話し出さないから「どうした」なのか。冨岡は本当に言葉少なだ。どちらにしろ、名前を心配して冨岡から声を掛けたというのもまた驚きだった。名前は短い時間の中で必死に考え、結局この答えに辿り着く。
「……どうもしないよ」
 本当は、どれほど話してしまおうかと思った。あの雪の日冨岡に何も聞けずにいたのを後悔していること、柱合会議で何があったのか聞きたいこと、昨日「するわけがない」とやけに強調していたのが気になっていたこと。だが答えは全て冨岡の一線の向こうにある。聞いたら冨岡は答えなければならない。名前は冨岡の一線を越えることを許されていないのに。だが冨岡は、予想外にも食い下がった。
「どうもしないことないだろう」
 どうして、と言いたいのはこちらの方だ。どうして冨岡が、名前のことをそこまで気に掛けるのだろう。好きとは言われたけれど、所詮名前は冨岡の一線を越えることが許されていない存在で、今までお互いの異変には見て見ぬ振りをしてきたのに。どうして、
「どうして冨岡がそんなこと聞くの!」
 叫んでしまった後に、ここが店の中だということを思い出した。一瞬シンと静まり返った店内は、少しの間を空けてまた何事もなかったかのように動き出す。名前が呆然としていると、隣の冨岡が音を立てて席を立った。
「店を出る」
 有無を言わさぬように名前の腕を掴み、冨岡は店の出口へずんずんと歩いた。扉を開けるともうそこにはあの日のような雪はなく、ただ枯れかかった草が生えているのみだった。冨岡は店の脇まで歩くと、立ち止まって名前の真正面に立った。何を考えているのかわからないその表情にすら、腹が立った。
「もう、わかんないまんまだよ! 冨岡のことが! 好きとか言うし、そのわりには私のことを遠ざけるし! 雪の日だって、何してたか本当は聞きたかった! 冨岡のことをちゃんと知りたいって……心を開いてほしいって思うくらいには、好きなんだよ! 冨岡のことが!」
 ああ、遂に言わなくていいと思っていた自分の恋心すら告げてしまった。だがもう止まらない。今まで積もりに積もった分が、今叫びとなって放出されている。
「昨日も宇髄さんにからかわれたらやたらと否定するし! もうわかんないよ……」
 へなへなと力なく座り込んだ名前の腕を、冨岡が掴んだ。
 
 掴んだ腕は、先程と同じように細く、頼りなかった。この細腕で鬼を斬っているのだから感心してしまう。いつもいつも、水柱を途絶えさせてはならないと、義勇の前に突っ込んでいく名前。その背中を見る度に、義勇は喉を掻きむしりたいような気持ちになるのだった。好きな女に守られる男がどこにいるのだろう。本当は自分が名前を守りたいくらいなのに、そう考える度立ち止まってしまう自分がいる。果たして自分にそれはできるのだろうかと。入隊試験の最終選抜で寝ていただけの男に、きちんと選抜を勝ち抜いてきた名前を守る資格などあるのだろうかと。
 だから距離を置いていた。名前にも、柱の連中にも。名前が遠ざけられていると言ったのはそのためだろう。自分は他の隊士とは違う。その思いが強くあった。炭治郎のように名前を箱に入れて運ぶなどもっての外だ。自分がそんなことをする日は一生来ない。名前と付き合う日も、恐らくは来ない。義勇は、好きと言ってくれた名前の顔を思い出した。こんな自分のことを、あんなに一生懸命に好きだと言ってくれる人がいる。それは喜ばしいことのはずなのに、義勇は手放しで喜ぶことができなかった。
「名前……」
 義勇は名前を立たせ、そっと手を引いて抱きしめた。今は深くを語ることができない。名前の納得する答えではない。だから、今義勇にできることは、ただ抱きしめることだけなのだ。気持ちを伝えるように、強く、強く。
 
 冨岡に抱きしめられながら、名前はただ地面に生えた草を見ていた。この寒空の下だというのに、その名前もわからない草は力強く地に根付いていた。まるで今の名前とは正反対だ。名前は、こうして草にでも集中していなければ、冨岡の背中に腕を回してしまいそうになる。冨岡が何を思って抱きしめているのかはわからないけれど、その気持ちに応えたくなってしまう。冨岡がどうあろうと、名前は冨岡が好きなのだ。だがその気持ちを冨岡に伝えることは許されていない。伝えてしまったら、きっと冨岡は困る。ずっと一緒にいてきたからこそ、冨岡の引いた一線が見えてしまう。いっそ冨岡の心など知らず、自分の思いのままに好きだと伝えられたらどんなによかっただろう。名前と冨岡がもっと疎遠で、冨岡の引いた一線など知らずに土足で入り込んでしまえるような人間だったら。そこまで考えて名前は目を閉じた。ありもしない仮定を考えたって無駄だ。現実は冨岡に告白することを許されず、こうしてわけもわからないまま抱きしめられているのだから。そっと息を吐くと、白い空気が冨岡の背中で霞となって消えた。
 どれほどの時間こうしていただろうか。冨岡は不意に腕の力を緩めると、名前を離した。遠ざかる体温が名残惜しい。自然と二人向かい合う形になり、名前は思わず地面を見る。今冨岡の顔を見れば、何と口走るかわからなかった。
「……戻るか」
 冨岡もまた顔を逸らしながら言う。名前もそれに頷いた。
「うん」
 こうして二人は、何事もなかったかのように連れ立って定食屋に戻ったのだった。冨岡に抱きしめられていた時間は確かにあったのに、それら全てがなくなってしまうようなのが少し悔しい。名前はきっとこの時間を忘れないだろう。冨岡もまた、名前を抱きしめたこの定食屋での出来事を一生忘れないのだろう。
 店内へ入ると、客の何人かがこちらを見たがすぐに視線を元に戻した。大方今の名前と冨岡は恋人同士に見えているのだろうか。痴話喧嘩を終え、円満になって帰ってきた若い恋人達。その片方が「好き」も言えない事情があるとは、誰も考えていないのだろう。
 元いた席に戻り、名前は食事を再開する。蕎麦の汁は既にぬるくなっていた。ふやけた蕎麦を一口、また一口、しっかり咀嚼する。名前は体に刻みこむことだろう。このふやけた不味い蕎麦の味こそ、名前の報われない思いの味なのだと。冨岡から好きだと言われたことはあるものの、名前は到底「両想い」と言うことができなかった。
 勘定を払うと、名前と冨岡は解散した。男らしく冨岡が名前に奢ることはなかったし、帰り道を送ることもなかった。いつも通りの、鬼殺隊隊士名前と冨岡の別れだ。だが何でもないような顔をして、冨岡は数十分前に名前を抱きしめている。それも何分もの長い間。夢でも幻でもなく、冨岡が本当に名前を抱きしめたということが名前の今にも壊れそうな心の歯止めになっているのだった。
 
 それ以降、名前はあの定食屋には寄らなくなった。照れくさくなったのではない。冨岡の前で、どんな顔をしていいかわからなくなったのだ。冨岡は相変わらず名前に一線を引いたままで、その中に入ることを許してはくれない。だが名前には好きだと言うし、この間冨岡が名前を抱きしめた出来事がそれが嘘ではないことを語っていた。別に好きでもない人間を抱きしめることなど簡単だと思うが、冨岡はそんな器用なことができる人間ではない。とにかく不器用な奴なのだ。それに加えて名前も不器用な人間であるのだから、こんな複雑な事情には音を上げている。名前達は少し距離を置いた方がいい、というのが名前の考えだ。元々柱である冨岡と任務で一緒になることは少なく、名前と冨岡は簡単に疎遠になった。自分達の繋がりはこんなにも薄いものだったのかと呆気なくなるほどだった。だが、名前は何の支障もなく生きていけている。それは冨岡も同じだろう。あれほど心を悩ませる存在であるにも関わらず、名前は冨岡なしでも簡単に生きていけてしまうのだった。
 元々名前と冨岡のようにチームを組んで鬼狩りをする方が稀だ。名前は一人で鬼狩りを続け、山間の藤の花の家紋の家に泊まった。ここ最近は指令がないので、飯を食べては稽古をし、寝るという悠々自適な生活を送らせてもらっている。そろそろ他の場所へ移るべきだ。名前が家を出ようとしたまさにその時、鴉がけたたましい叫び声を上げた。
「指令―! 指令―!」
 その声は、名前の鴉一羽だけではない。恐らくこの藤の花の家紋の家にいる全員に、指令が来ている。名前は思わずそばにいた隊士と顔を見合わせた。共同任務はよくあることだが、ここまでのものはなかなかない。この場にいる者全員ということは、この近くでよほど緊急性のある出来事が起きたのだろう。
 名前は気合を入れ直すと、鴉の指定する場所へと向かった。そこに近付くにつれ血の匂いが濃くなってゆく。それだけ多くの人間が攻撃に遭ったということだ。名前は走る足を速めると、鬼を探して血まみれの死体の脇を通り抜けた。内心で救えなかったことに必死で謝りながら。
 血の匂いの濃い場所へ行くと、そこに鬼はいた。しかも一体ではなく、手下らしい鬼三体を連れている。名前は刀を構えながら、今ここにいる隊士の人数と階級を思い出した。鴉に呼ばれてやってきたのは名前を入れて七人、階級は名前が一番上だ。必然的に、一番強い鬼は名前が担当することになる。
「君達は二人一組になって鬼三体を! 一番奥の鬼は私一人でやる」
「はい!」
 下級隊士達の様子を見ながら、もうあちらは大丈夫そうだと名前はひとまず安心した。一番強い鬼とは戦いの最中であり、決して安堵などできないのだが、これで鬼に加勢に来られる可能性はなくなったと考えていいだろう。名前はより鬼との戦いに集中できるというものだ。名前は鬼にまた技を繰り出す。心なしかその威力が強くなったような気がする。だがもう技も出し切ってしまった。これからはどうにか鬼の隙を突いて技を出していくしかない。想像以上に苦戦しているこの状況に、思わず加勢が欲しくなってしまう。だが後輩に頼ってなどいたら先輩として失格だ。名前が今度こそ鬼の首を狙った時、鬼が手を伸ばして名前の胴体を掴んだ。まずい、食べられる――そう思った時、ふと風を切る音がして鬼の手が地面に落ちた。同時に地面に叩き落された名前は、後ろを振り返る。そこには、月明かりを背景に佇む冨岡がいた。
「冨岡……」
「もういい。後は任せろ、名前」
 名前は余程戦いで消耗していたのか、冨岡の戦いを見届けることなく意識を失った。
 
 誰かに頬を撫でられる感触で名前は意識が浮上した。だがそれはまだ完全なものではなく、覚醒と昏睡の合間で意識が揺らぐ。その中で、名前は一段と優しい声を聞いた。
「名前……」
 まるで母が子を呼ぶような、この声の持ち主は。
 名前が目を開けた時、そこには誰もいなかった。たった今自分が探していたものは何なのか、そもそも何故何かを探していたのか。霞みがかった記憶では上手く整理できない。とりあえず今名前がわかるのは、ここは蝶屋敷で、名前は怪我をしているらしいということだった。ベッドサイドへ伸ばそうとした右手が鈍く軋む。どうやら何日も動いていないようだ。動けず声も出せず困り果てている名前を、蝶屋敷のアオイが発見して名前は胡蝶から症状を聞くに至った。
「一度に技を出しすぎたことによる筋肉の疲労ですね。一週間も安静にしていればよくなるでしょう」
 大事に至らなかったのはよかったが、この程度で寝込んでしまうとは情けない。思い返してみれば、随分と恥ずかしい戦いだった。下級隊士を激励しておいて結局自分は他人の力に頼り、おまけに倒れている。今頃下級隊士に笑われてはいないだろうか。ふと隣のベッドを見ると、共に戦った下級の隊士が眠っていた。食べられかけている者もいたように思うが、どうやら怪我に留まったようだ。そのことに安堵しつつ、名前は首を傾げる。
 大事な何かを、忘れているような気がする。それが何かはわからないのだけれど。考えても思い出せないなら仕方ないと諦めをつけて名前はまた目を閉じた。ちょうど今は夜だ。また眠るのにちょうどいいだろう。名前が眠りに就いた後、またそれは起こった。
「名前……」
 すぐそばで、名前を呼ぶ誰かの声がする。しかし名前が追いかけようとすると、それは姿を消してしまう。翌日の朝、名前は喉の奥に魚の骨がつかえたような、晴れない気持ちで目覚めるのだった。夢なのだろうか。それにしては感覚がリアルすぎる。試しに、というより胡蝶に半ば脅されて昼間も眠るが、やはりそれは昼間には訪れない。次の晩、名前はまたその人物に遭った。
「待って」
 するとその人物は動きを止める。しかし振り向きはしないので誰かはわからない。
「私に気持ちを言わせて。私に隣に、いさせてよ」
 その人物はしばらくその場に留まった後、やはり顔を見せることなく歩き去ってしまった。
 次に名前が目覚めた時、名前の目には一筋の涙が流れていた。名前が言いたいと思いつつも外に出すことのできなかった本心を言うことができたのは、あれが夢のような空間だからだろう。だが名前はもうあれが夢ではないことを知っている。あの人物が、冨岡であることも知っている。何故なら名前があのように言う人物は冨岡しかいないからだ。名前が隣にいたいと思うのは、冨岡しかいないからだ。
 気付いてからも名前はその夢のような空間に甘えていた。ここでは何をしても許される、そんな気がした。だが決して現実世界で冨岡に連絡を図ることはなかった。そうしたら、あの空間がもうなくなってしまうとわかっていた。それに現実世界であの空間について言及することは、あの空間で言ったことが事実だと認めることだ。名前の気持ちを言わせてほしいと、隣にいてくれと言うのと同じだ。それは一番冨岡が忌避することだと名前はわかっていた。だから毎晩冨岡が枕元に来ても、夢と現の境がついていないようなふりをした。本当はお見舞いに来てくれることに面と向かって礼を言いたかったのに、ただ冨岡にされるがままにするに留めた。そんな日が何日続いただろうか。遂に明日、蝶屋敷を出る日がやってきた。
 ベッドで過ごす最後の晩、名前は寝ずに冨岡を待つことも考えた。だが睡魔には抗えず、冨岡が来れば自然と目が覚めた。冨岡は名前の頬を撫で、手を添える。次に髪に指を通し、頭を撫でる。いつもと同じ動作が終わった後、ふと名前は「冨岡」と口を開いた。
 今まで名前の方から何かすることはなかったから、冨岡は驚いている様子だ。だが普段何をすることも許されていないのだから、この空間でくらいしたいことをしてもいいだろう。
 名前は冨岡へ手を伸ばすと、冨岡の側頭部を掴んだ。そのまま冨岡の顔をこちらへ寄せると、短く口付けた。冨岡は何も抵抗しなかった。ただ不満があるとすれば、これも全てなかったことになってしまうくらいだった。

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