それから間もなく、なまえは蝶屋敷を出立した。胡蝶にはあまり無理な戦い方はしないようにとこってり絞られてしまった。なまえは何の反論もなくただ項垂れていた。今回は柱が来たからこそいいものの、もし来なかったらどうするという胡蝶の言い分はもっともだ。蝶屋敷を出る時になって冨岡がなまえをここまで連れてきたことを知り、今更恥ずかしくなった。胡蝶は自らの屋敷に夜な夜な忍び込む侵入者に気付いていたのかもしれないが、なまえの前で口に出すことはしなかった。その気遣いが、今のなまえには有難かった。
一人になると、なまえは頬を火照らせた。あの晩の冨岡の唇の感触が、今でも思い出せる。引き寄せるために触れた肌は、温かく冨岡の生を教えてくれた。普段は鬼の返り血ばかり浴びている冨岡の素肌に、あんなにも優しく触れたのはなまえくらいだろう。そして、ある意味冨岡の一番大事な部分に、なまえは触れた。もう仲間だの友情だのと言い訳はできない。唇は、恋愛感情がなければ決して触れることのない場所なのだ。なまえは明確な意思を持って冨岡に口付けたし、冨岡はそれを受け入れた。今までなまえの好意を頑なに受け入れてこなかった冨岡が。
なまえは、両の手で頬を抑えた。これは、冨岡の気が変わったということなのだろうか。つまりなまえの恋が――実ったと。少し遅れて、なまえは自分が恋などという言葉を使ったことが照れくさくなった。実際恋をしていることはもう認めるほかないのだが、言葉にするとどうもむずがゆい。冨岡はどんな思いでなまえに好きだと告げたのだろう。あの冨岡が、よくもまあ言えたものだ。なまえは冨岡に好きだなどと言える気がしない。考えただけで顔から発火しそうだ。今までは冨岡が一線を画しているからという理由で言えなかったが、今度は照れくさいという理由で言えそうもない。
そこまで考えて、なまえはとあることに思い当たった。冨岡がなまえを受け入れた今、なまえ達は晴れて恋人同士になれるのではないか。このもどかしい距離感を、一度に詰めることができるのではないか。気付いてからは、ひたすらに照れてばかりいた。もうやることは告白しかないのだ。一度勢いで言ったことはあるものの、あれは話のついでにすぎない。きちんと交際の申し込みをするのは、これが初めてなのだ。なまえは浮ついた気持ちで何と言うか考えた。きっとこの告白が、成功するものだと信じて。
「冨岡、隣いい?」
「……ああ」
久しぶりにいつもの定食屋へと行くと、幸か不幸か冨岡はそこにいた。舞台はすっかり整ったわけだ。なまえはいつものように冨岡の隣に座る。たったそれだけの動作が、酷く緊張する。
冨岡はこれまでなまえが定食屋に来なかったことにも、蝶屋敷での出来事にも言及せず、ただ鮭大根を食べていた。なまえもひとまずお品書きを開き、天ぷら定食を注文する。料理を待っている間、冨岡の発する食器の触れ合う音が二人の間に静かに響いた。ここは、蝶屋敷にいる間見舞いに来てくれてありがとうと言うべき場面なのだろうか。だが今蝶屋敷での晩の出来事に言及することは、夢か幻のようなあの空間を現実だと認めることになる。それは避けたかったし、蝶屋敷での晩の話になれば自然とあの口付けの話になるのではないかと思った。だからなまえは、何も言わず天ぷら定食を待った。冨岡の方が先に食べ終えて足早に帰ってしまうのではないかとも思ったが、何故か冨岡は待っていてくれるだろうと確信していた。事実、なまえが天ぷら定食を食べ始めて少し経った頃には冨岡は鮭大根を完食していたが、相変わらず黙ったままなまえの隣に座っていた。こんなことは冨岡が禰豆子を見逃してから来たあの雪の日以来だった。なまえが決心をしたように、冨岡もまた心境に変化があったのだ。なまえはそう思わざるを得なかった。
「冨岡、そっちいい?」
なまえが天ぷら定食を食べ終わると、二人は連れ立って定食屋を出た。普段ならば店の前で二手に分かれるところだが、なまえは冨岡の行く道を追いかけた。冨岡はゆっくりと振り返ると、「……ああ」と小さく頷いた。
「冨岡、この間は助けてくれてありがとう」
話題に困ったなまえは、ひとまず言えていなかったお礼を言うことにした。冨岡が来なければ、なまえはあそこで鬼に食べられて死んでいたことだろう。
「当然のことをしたまでだ」
「……そっか」
他に何の理由もないとでも言いたげな口ぶりになまえは少し寂しさを感じる。もっとも、冨岡が公私混同をする人だとも思わないけれど。
「冨岡」
なまえは足を止めると、冨岡の背中に語りかけた。冨岡は立ち止まったものの、まるでこの話の続きがわかっているかのようになまえの方を振り向こうとはしなかった。
「好きだ」
「……前に聞いた」
「付き合ってほしい」
今度こそ冨岡は黙ってしまった。その背中からは、何も読み取ることができない。なまえはただ冨岡の後ろ姿を見つめるしかない。
「……駄目だ」
「どうして? 理由を言ってよ、前に冨岡は私が好きだって言ってくれたじゃん」
「駄目だと言っている!」
なまえは体が凍り付くのを感じた。それは鬼の前でも寡黙を貫いている冨岡の、初めて聞く大声だった。なまえは何を言うこともできずに、ただ冨岡の言葉を待っている。
「とにかく俺とお前は付き合うことができない……何があってもだ」
その言葉を残して、冨岡は一人歩き始めた。その背中を追う気にはなれなかった。若草の生い茂る山の中、なまえはあの雪の日の出来事を思い出していた。
鬼を斬っていても、刀の手入れをしていてもその事は頭から離れない。なまえは、冨岡に振られた。仕事には差し支えないからこそいいものの、一人で何もしていないと、なまえは空を見上げ物思いに耽ってしまうのだった。これがただ振られただけならばどんなによかっただろう。なまえは冨岡に好きだと告げ、冨岡もなまえに好きだと告げた上でなまえは振られたのだ。しかもその理由は頑なに教えてくれない。結果として、冨岡の引いた一線をより明確にしただけとなった。なまえは、振り出しに戻ったどころか以前より悪化させてしまった気がする。なまえはふと立ち上がると、山へ向かって歩き出した。
任務なしにこの定食屋へ寄るのは初めてだった。いつもの習慣でつい店内を見回すが、そこに見慣れた羽織はない。ため息を一つ吐いてカウンター席に座ると、なまえは女将に注文した。鮭大根を頼んだのは、冨岡を想う気持ちゆえだ。いつもと変わらない喧噪の中で、碌に話もしないくせに冨岡がいないというだけでこんなにも寂しいものなのかと実感した。
「お待ち遠さま」
運ばれてきた鮭大根をなまえは見つめる。その姿を見る度、鮭大根を美味しそうに食べていた冨岡を思い出す。なまえはしばらくそうしていた後、諦めて箸を取った。いつまでもそうしていても仕方がない。食べるために頼んだのだから、早く食べなければ。なまえが鮭大根に箸を伸ばした時、大きな音を立てて隣に誰かが座った。
「久しぶりだな! みょうじ」
「ど、どうしてここに……」
なまえは箸を止めてその人物を見上げた。なまえの隣に座ってきた人、それは同じ鬼殺隊の煉獄だった。
「ここの鮭大根が美味いと聞いてな! 食べに来た!」
その言葉に、なまえは誰が煉獄にこの定食屋を勧めたのかすぐに気付いてしまう。そして、それが自分はもうここに来ないという意思表示だということも。興奮した様子でお品書きを眺める煉獄の隣で、なまえは一人涙を堪えていた。
「おっ! ちょうどみょうじが食べているのが鮭大根か! 味はどうだ?」
「あ……これから食べるところです」
「是非食べ進めてくれ!」
煉獄に勧められ、なまえは箸を持ち直して鮭大根に向き直る。鼻が詰まって味がよくわからないが、美味しいと思う。
「美味しい、です」
「それはよかった! 俺も頼むとしよう」
煉獄は女将に鮭大根を頼むと、お品書きをしまって前を見据えた。そして徐に口を開いた。
「ところでみょうじは何かあったのか? 浮かない顔をしているが」
なまえは思わず噎せそうになった。煉獄は、普段喧しく一見単純そうに見える。それでいて、物事を深くまで見通すところがあるのだ。煉獄のこういった面に救われることも多かった。だが、今回は言えそうもない。
「……少し、落ち込むことがあっただけです。人と理解し合うって、難しいんですね」
最後の一言は、意図せず漏れた言葉だった。初めから冨岡のことを理解できた気でいたわけではない。だが、これから理解し合えるのではないかと、その糸口を見つけた気でいたところを拒絶されたのだ。冨岡との相互理解を諦めていた期間が長かっただけに、そのショックもひとしおだ。
「うむ、こちらが相手を理解したいと思っていても、相手はそうではないかもしれないからな」
「はい……」
「相手が理解されたくないと思っている内はどうにもできない。相手を変えるか、雪解けの時まで待つしかない」
煉獄はそう言って運ばれてきた鮭大根を食べる。その横顔を見ながら、どうして煉獄はわざわざ励ましに来るようなことをしたのだろうと思った。
「あの、煉獄さんがここに来たのって鮭大根を食べるためだけじゃないですよね?」
「ああ。冨岡に、みょうじならここにいると聞いてな。冨岡も暗い顔をしていたから、話を聞いてやろうと思ったんだよ」
煉獄はもうここに来ることを勧めた相手が冨岡だということを隠そうとしなかった。なまえはといえば、目を丸くして煉獄を見ていた。相手は隠して話をしていたつもりが、初めから煉獄には丸わかりだったのだ。今更ながら恥ずかしくなる。そして、なまえに大きな衝撃を与えたのは、煉獄をなまえの元に寄越してなまえの話を聞くよう仕向けたのは冨岡だということだった。あの日のなまえの様子を見れば、冨岡とのことでなまえが悩んでいるのは容易にわかるだろう。そこに普段からなまえと親しい煉獄を送り込むことで、冨岡はなまえの心の負担を軽くしようとしたのだ。その気遣いが、今は痛いほど沁みる。
「ありがとうございます……」
涙を堪えて俯きながらなまえが言うと、煉獄は「気にするな!」と大きな声で言った。煉獄が食べ終えるまでに涙を引っ込めた後、二人は店の前で別れた。
「本当に、理解できない人……」
なまえは思わず笑う。自分でなまえを悩ませておきながら、なまえのフォローのために煉獄を手回ししたのだ。理解し合うことを目指しているのに、言葉にして「理解できない」などと言ったら余計関係が悪化してしまうだろうか。でも今だけは言わせてほしい。なまえを突き放すくせに、なまえのためを想っている。そんなちぐはぐな冨岡の行動が、今はとても愛らしいのだ。これからなまえと冨岡の関係は一連の出来事が起こる前より疎遠になるかもしれない。それでも、雪解けを信じて待つことは、悪くはないのではないかと思えた。
なまえはまた一人で鬼狩りをするようになった。冨岡とはもうしばらく会っていない。冨岡となまえのチームは、完全に解消されたように思えた。だがそれを苦痛とは思わなかった。今はいつか来る日のための待機期間であり、仮に雪解けの日が来なかったとしてもなまえは決して無駄なことをしているとは思わなかった。冨岡が放ってほしいと思っているのなら、それに越したことはないのだ。自分に言い聞かせている間に月日は過ぎ、ついに鬼殺隊の最大局面を迎えた。鬼舞辻無惨との直接対決だ。
なまえはこれほど自分の無力さを恨んだことも、心身を消耗したこともないだろう。目の前で柱が倒れて行くのに、自分は何もできずにいる。無惨が回復に体力を使うような攻撃一つできなかったのだ。無惨戦の前に他の鬼と戦ったこともあり、なまえは地面に情けなく倒れた。誰か無惨を倒してくれと願った時、いつかの日のように二つの柄の羽織が見えた。
無惨戦の後半のことは、正直なまえの記憶にはあまり残っていない。全身の疲労と怪我で意識が朦朧としていたし、遠くで何かがぶつかり合っているくらいにしか見えなかったのだ。だが、朝日がなまえ達を照らした時、無惨に勝ったという声が聞こえたのを覚えている。その声に安心して、なまえは意識を手放した。
半ば覚醒した意識の中で、なまえは優しく自分の名を呼ぶ声を感じた。優しく体を揺すっているのは、誰だろう。いつかの蝶屋敷での出来事のようだと思いながら、なまえは自分を揺する腕を掴んだ。するとその人物は、なまえの手を握ってからもう一度名前を呼んだ。
「なまえ」
今度こそなまえは目を覚ました。そこには穏やかな顔をした冨岡がいた。辺りは倒れている人と救護をする隠で溢れていて、戦いは去ったのだと感じた。
「無惨を……倒したの?」
「そうだ」
冨岡は優しく言う。その冨岡の腕は、片方なくなっていた。なまえは冨岡と何ヶ月も話していないということも忘れ、その場で眉を下げて笑った。
「よかったぁ……」
「もう、全部終わったんだ」
そう言う冨岡の顔はどこか吹っ切れたように思う。それは鬼殺隊に対してというだけではなく、自分自身に対して何か変化があったのではないかという気がした。
「なまえ、今から自分本意なことを言う。随分と待たせた。身勝手だと罵られるかもしれない。それでも、言いたいんだ」
冨岡がなまえの手を握る。なまえは冨岡の顔を見た。冨岡は慈愛に満ちた瞳で、なまえに言葉を落とした。
「好きだ。なまえ。ずっと前から。どうしようもなく」
なまえは思わず笑ってしまった。そして頭の奥で、これが煉獄の言っていた雪解けの時なのだろうと思った。
「そんなの、とっくに分かってるよ」
なまえが言うと、冨岡は片腕で横になっているなまえを抱きしめた。「もう、抱きしめる腕もなくなってしまったな」そう語る冨岡を、なまえは両腕で抱きしめ返す。
「どうでもいいよ、そんなの」
何年もの間すれ違った。無惨戦で数多の人が死んだ。それでも、なまえ達はここで分かり合えたのだ。あの日の雪がようやく溶けた気がした。隠が忙しなく働く中で抱き合っているなまえ達を、どうか今は許してほしい。
負傷者の手当、鬼殺隊の解散、全てにひと段落がついた頃、なまえは水柱邸を訪ねた。冨岡に呼び出されたのだ。話の内容は大体見当がついているが、お互いに好きと言い合った後だと思うとどこか恥ずかしい。扉を二、三度叩くと冨岡が中から顔を見せ、なまえを中に通した。その腕が片方ないのを見ると、やはり胸の奥が苦しくなった。
通されたのは、二十畳はあるかという和室だった。冨岡はその端に座り、仏壇を見上げる。なまえもその隣に座ると、位牌を見た。
「ここにいるのは、俺の姉さんと親友だ」
「そっか……」
冨岡がりんを鳴らすのに合わせ、なまえも手を合わせた。冨岡とは長い時間を共にしてきたが、兄弟や友人の話を聞くのは初めてだった。
「俺の姉さんは、鬼に食われて死んだ。祝言の前の日だった」
なまえは黙って冨岡の話を聞いた。これから冨岡の核心に触れる、そんな予感があった。
「俺の親友は、俺と師匠が同じだった。すぐに仲良くなった。最終選別では、次々と仲間を助け山中の鬼を殆ど倒してしまった。だが、師匠の弟子ばかりを食らう鬼の餌食になって死んだ。俺は何もしていなかった。気絶していて、気付いたら最終選別に合格していた」
親友は死んだのに、と冨岡が心の中で言うのが聞こえた気がした。なまえは思わず冨岡の手を握った。ここでまだ何か言うべきではないし、何を言えばいいのかもわからない。だが、なまえは冨岡の味方だと、冨岡が生き残ってくれて嬉しいのだと伝えたかった。
「俺に柱でいる資格はない。そもそも、鬼殺隊の隊士でいる資格はないんだ。それがどうしてなまえと付き合える? どうして俺が、なまえを守る立場になれる? ……そう思っていた」
なまえは思わず反論しようとしたが、冨岡の目を見て不要だと察した。冨岡はもう、自分の壁を自分で乗り越えている。
「本題を言う前に、俺は謝らなくてはならない。告白したり、なまえのことを遠ざけたり、なまえの気持ちを弄ぶような真似をしてすまなかった」
「ううん、いいよ」
冨岡のお姉さんのこと、親友のこと、冨岡が自分を許せなかった過去も全て受け入れたいと思っている。だからこそ、その先の言葉をなまえは待ち侘びている。冨岡は穏やかな顔で、なまえと向き合った。
「遅くなってすまない。俺と付き合ってくれ、なまえ」
たとえ何年もすれ違っていても、この先の寿命に限りがあっても、なまえは今の幸せを選ぶ。なまえは大きく頷くと、冨岡の片手を取った。
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