吉田ヒロフミとは掴みどころのない男だ。クラス内で吉田がそう噂されているのをなまえは何度か聞いたことがある。確かに吉田は感情をあまり表に出さないし、漆黒の瞳はまるで何を考えているのか分からない。それでもなまえをからかっている時の楽しそうな顔や、時折見せる笑みは嘘ではないと思うのだ。
「そんなに見て、何かあった?」
「う、ううん、何でもないよ」
なまえの視線にいち早く気付いた吉田がからかうようになまえの方を見た。クラスメイトに言わせれば吉田とこうして会話をできること自体が凄いらしいのだが、なまえはそれがどうしてだが分からない。吉田は意地悪なようで、いつも優しくなまえに話しかけてくれる。みんなも吉田くんに話しかけてみればいいのに、と言って全力で否定されたことは記憶に新しい。なまえは吉田にとって何かしらの特別になれているのだろうか。なまえは、とっくに吉田を特別に思っているのだけど――。
なまえは吉田の方を見られずに自分の手元に視線を落とした。今、「オレのこと好きなの?」と聞かれたらどうしようかと思った。勘の鋭い吉田のことだ。実際になまえの気持ちにはとうに気付いているかもしれない。その上であえて気付かないふりをして、なまえの反応を楽しんでいるのだ。そう分かっているのに、なまえは吉田の思うがままの反応をしてしまう。それでも、吉田が楽しんでくれるなら、まあいいか。
「オレが仕事行ってた間のノート見せてほしいんだけど、ある?」
なまえが吉田に見せるため必死にノートを取っているのを知っていながら、吉田はそんなことを問う。
「はいっ」
なまえは吉田に見せることを想定してカラーペンを使い丁寧に取ったノートを差し出した。吉田は「サンキュ」と言ってノートを開く。その内容の気合の入りようにか、吉田はノートを見てふと笑った。
「吉田くん、絶対やめた方がいいって。なまえのこと弄んで楽しんでるよ」
吉田がデビルハンターの仕事で学校を休んだ日、なまえは深刻な顔をした友人に囲まれた。彼女達はどれも同じクラスで、吉田とのやり取りを近くで見てきた者達である。なまえは目を瞬いた後、何秒か遅れて言った。
「でも、吉田くんと話してて私は楽しいもん」
「それ! それを吉田くんに利用されてるってこと!」
彼女達の言わんとしていることは、何となく分かる。十中八九吉田はなまえの思いに気付いていると思う。その上でなまえをからかって遊んでいるのだ。それがなまえのことを大事に思ってくれている友人達には気に食わないのだろう。心配してくれているのは有難いが、なまえは吉田のそういう所も好きだと思っていた。なんて言ったら友人に怒られてしまうだろうか。
「なまえの気持ちを利用して遊んでるだけだって!」
「でも、私は吉田くんと話せて嬉しいし、逆に話せなくなったら寂しいなぁ……」
なまえが呟くと、友人は「そういうとこ!」と言って顔を覆った。これではなまえは吉田にとって都合が良すぎる存在だろう。だが吉田と話せるならそれでもいいと、なまえは感じていた。
「大体ね、何で吉田くんはいけるってわかっててなまえに告白しないのよ。外から見てたら吉田くんもなまえのこと好きよ? でもちゃんと恋人って仲にはなろうとしない。それがずるいって言ってんのよ」
「恋人……」
吉田と恋人になるということは、何度か考えたことがある。だがそれはあくまで夢のような話で、実際に告白してみようとかもし吉田に告白されたらなんて考えたことはなかったのだ。ただの隣人のようで、吉田となまえは告白を視野に入れられるまでの仲になっていたらしい。確かに恋人になれたらいいと思うけど、今の関係性でも十分居心地がいい気がする。それでも友人達に言わせれば「弄ばれている」なのだろう。
「じゃあ、どうすればいいの?」
顔を上げたなまえに対し、友人は険しい表情で言った。
「なまえは吉田くんのことが好きなんでしょ? だったらちゃんと吉田くんに付き合ってって言いなさい。それでフラれても吉田くんが今まで通り弄ぶようだったら吉田くんは本物のクズよ。好き同士なのに恋人同士は面倒臭いなんて。なまえ達は両想いなんだから、吉田くんがなまえに対して誠実ならきちんと付き合ってくれるはず」
「そっかぁ……」
それは吉田がクズだった場合、なまえと吉田はもう今までのように話をすることも断らなくてはならないのではないだろうか。そう思うと億劫に感じつつも、吉田の気持ちが本物なのかは確かめてみたい気がした。なまえは吉田の気持ちが何一つ分からないが、友人達に言わせれば吉田はなまえが好きであるらしい。今の関係もいいけれど、ずっと吉田の気持ちが分からないままやきもきしているのは嫌だ。
「……うん、してみようかな」
なまえが声に出すと、友人達はようやく安堵したようだった。
決めたなら実行は早い方がいい、とはなまえの持論である。なまえの場合、先送りにしていると永遠にやらない可能性がある。告白などとなれば尚更だ。告白に適するシチュエーションなども分からなくて、なまえは教室の窓にもたれたまま隣の吉田を見て口を開いた。
「あのね、私吉田くんのことが好きなの」
吉田の反応は極めて冷静だった。前からなまえの気持ちを知っていたのだと、なまえはこの時になって再度思った。
「それで?」
吉田は腕を首の後ろにやったまま問う。なまえは深呼吸してから、もう一度吉田を見上げた。
「吉田くんと付き合いたい」
「いいよ」
呆気なくなるほど簡単な返事だった。なまえは恋が叶ったのだという実感も湧かず、思考を止めたまま吉田の顔を見た。吉田はいつもの調子で笑い、チャイムの音を聞いて自分の席へ戻って行く。
「それじゃあこれからよろしくな」
こうして、恋人としてのなまえと吉田の日々が始まった。
吉田は付き合ったら人が変わるのだろうか。毎日甘い言葉を吐かれることになるのだろうか。その予想はどれも違った。吉田は付き合っても、今まで通りだったのだ。
当たり前と言えば当たり前かもしれない。吉田となまえは、直接否定するまで友人達にも付き合っていると思われるほどの仲だったのだ。付き合ったからといって、すぐに何かが変化するわけではないだろう。吉田も彼女に甘い言葉を吐く気障なタイプだとは思えなかった。今まで通りに見えて、吉田となまえだけが二人は付き合っていることを知っている。その事実が酷く甘美に思えた。なまえが現状に満足して何もしないことを、吉田は不思議に思ったようだった。
「なまえはさ、付き合ったから何か特別なことがしたいとか思わないの」
なまえは体が跳ねるのが分かった。それはデートなどを指していると分かっているものの、吉田が言うといやらしい意味に聞こえてしまう。
「今は今で楽しいけど……できるなら、したい」
なまえとて無欲ではない。世間一般の恋人同士のようなことに憧れはあるものの、吉田がそれを望まないなら今のままでいいと思っていた。しかし吉田がなまえに合わせてくれるというのなら、なまえは恋人らしいことがしたい。
「それじゃあ日曜の十一時、駅前で」
吉田はそう言って去ってしまった。残されたなまえは自分の鼓動を全身に感じながら吉田が消えた方を見る。今のは間違いなく、デートの誘いだ。素直に「デートしよう」と言ってくれればいいものの、明言はしないところが吉田らしいと思った。おかげでなまえは困惑と興奮を共に感じている。吉田の一挙一動に戸惑うのは付き合う前だけで、付き合ったら安心感ばかりがあるものだと思っていたけどどうやら違うみたいだ。特に相手が吉田では。なまえはしばらく呆けていた後、慌てて何の服を着ていくかと考え出した。
約束の三十分前に行くと、やや遅れて吉田が来た。
「吉田くん、早いね」
「なまえの方が早いだろ。どうせ三十分前に来てんだろうなと思って来てみたら、ビンゴ」
吉田は楽しそうに笑った。なまえは恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになる。これが「なまえの気持ちを弄んで楽しんでいる」様子だろうか。今はきちんと付き合っているので、一方的に弄んでいるということもないのだけど。
「三十分早く着いたけど、どうする」
なまえが首を傾げると、吉田は二枚のチケットを振ってみせた。どうやら吉田は映画館か何かを予約してくれていたらしい。時間が決まっているため、それまで空いてしまった。
恋人同士がすること。なまえの頭の中に、様々なことが駆け巡る。キス、ハグ、セックス。まさかいきなりセックスをするなんてことはないだろうけれど、相手が吉田であるだけに読めない。迷った末、なまえはようやく顔を上げた。
「さ、散歩でもしよ?」
「老夫婦かよ」
そう言いながらも吉田は付き合ってくれる。あまり人のいない街を歩きながら、これではいつもと変わらないなと思った。ただ二人で話をしているだけ。それなら学校の教室だってできる。ではデートでしかできないことは何かと言われれば先程のようなことに戻ってしまうのだけど、残念ながらそのようなことをする度胸はなまえにはない。
「手、繋ぎたい?」
「へ?」
突然のことに顔を上げると吉田が半歩先でヒラヒラと手を振っていた。途端になまえの体が固まる。そりゃあ、繋ぎたい。相手は長いこと好きでいた吉田なのだ。でも自分からそれを言い出すのは恥ずかしいと思っていた。今でも、繋ぐか繋がないかの選択権はなまえに委ねられている。どうせなら「手を繋ごう」と言ってくれればいいのに、なまえに選択させるあたりが吉田の意地悪なところだと思った。
なまえは答える代わりに吉田の手を取った。吉田の顔は到底見られなかったけれど、頭上で小さく笑う音がした。二人はそのままいつものように話をしたが手を繋いでいるという一点のみが違っていた。
三十分かけて映画館へと辿り着き、吉田指定の映画を観た。内容はありふれた恋愛ものだ。吉田がこういったものを好むのは意外だったが、上映中隣を盗み見ると吉田は退屈そうな顔をしていた。吉田が映画に熱狂している表情をするところも想像できないが、何故自分で選んだ映画で退屈するのだろう。その答えは簡単に導き出された。吉田はなまえのために映画を選んでくれたのだ。なんとなく恥ずかしくて、吉田には悪いが映画には全然集中できなかった。前も隣の席だったことはあるというのに、教室から映画館になっただけでこうも違ってしまう。
吉田にとっては退屈な、なまえにとっては落ち着かない二時間が終わった。吉田の後について行き、なまえは近くのレストランに入る。通常こういう時は映画の感想で盛り上がるものだと思うが、二人共映画をまともに見ていないので何も言えないのだろう。案内されたテラス席にて、吉田はハンバーガーを、なまえはスパゲッティを無言で食べた。食べ始めてから、もっと口の周りにつかないものを頼めばよかったと後悔した。
「デザートまで頼めよ」
その言葉に、吉田がレストラン代まで奢ってくれようとしているのだと悟る。
「いいよっ! ていうか、私が出すし……」
映画のチケット代は吉田持ちだったのだ。これ以上吉田のお世話になるわけにはいかない。なまえが言うと、「女に出させるなんてダサいだろ」と吉田が言った。その時、辺りに轟音が鳴り響いた。
「悪魔が暴走してる! 逃げろ!」
その声を皮切りに、レストランの客はみなどこかに逃げてしまう。目を見開いたまま何もできないなまえと、頬杖をついて悪魔を眺めている吉田がテラス席に残された。悪魔はもう、そこまで来ている。
「ただの高校生の彼女から、デビルハンターの彼女になる覚悟はある?」
吉田がなまえを見て尋ねた。その瞳には深い闇が鎮座していた。
「ある」
渇いた口から二音を絞り出すと、吉田は「了解」と言って立ち上がった。そのまま悪魔の元へ向かい、何やら交戦している。その様子をなまえは呆然としたまま見守っていた。なまえは今、とんでもないことを言ってしまったのではないだろうか。そう思いつつも、胸のときめきを抑えきれないのだった。
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