障害が恋愛を熱くさせる、とはよく言ったものである。通常ならば妨げられればられるほど二人の愛も深まるのかもしれないが、佳奈と英治が直面しているのは仕事だ。愛を白熱させる時間もなく、なだれ込む仕事に翻弄される日々である。漸くお互いに自由な時間がとれるという頃には、すっかり疲弊しきっていた。「月に一度は必ず佳奈と会う」そう豪語していた英治もメッセージアプリで音沙汰なしである。これは死んだように寝ているな、と直感した佳奈は、同じく死んだように寝ていたベッドからメッセージを送った。
「今回は会わずにいましょう」
 それは決して英治への愛が冷めたということではなく、むしろ英治を思うがゆえのことであると英治も理解したらしい。というより、英治も疲れ切っているのだ。
「そうだな。会わない方がいいこともある」
 文言だけ見れば不穏な空気すら漂っているように感じるが、これらはまず生活に必要な事項を済ませてから会おう、という意味だった。現に佳奈の部屋は数週間掃除されておらず、とても英治を招ける状態ではない。英治の部屋も掃除や洗濯が滞っているのだろうか。こんな時家に行って家事をしてあげるのが彼女だと言う人もいるかもしれないが、佳奈は古い価値観に迎合できなかった。とりあえず、ベッドから夕食のデリバリーを注文する。これが届く前にきっと洗濯機を回そう。佳奈は漸く重い腰を上げた。
 
 仕事の合間の僅かな休みは英気を養うのに使ってしまった。逢瀬を諦め休養をとったからか、翌日職場で見た英治の顔色は少し良いように思えた。知らぬ間に、出勤したら互いの顔色をチェックする習慣ができている。付き合う前、佳奈が夜更かしをした次の日などは顔色が悪いからとしつこく英治に注意されたものだった。当時は幼馴染だからと構いすぎだと思っていたが、今考えてみればその頃から佳奈のことを気にかけていたのかもしれない。ときめきに沸いている間もなく、次の仕事が舞い込んでくる。佳奈が仕事を終えたのは、二三時を回った頃だった。
「お疲れ」
 まだ残っているのは英治くらいである。コーヒーを一口飲んでから、佳奈は精力的に仕事に取り組む英治を見る。
「お疲れ様です。……まだ終わらないんですか」
 佳奈の声色から責めるような情を感じ取ったのだろう。英治は苦笑いをして腕をまくった。
「君も今の今まで仕事してたじゃないか」
「私は所詮巡査長ですから。警部補様の仕事内容とは違いますよ」
 仮にも職場であるからと、佳奈は恋人としてではなく部下として接したつもりだった。だが、佳奈の声が柔らかくなっているのは誰が聞いても明らかだった。英治は困ったように眉を上げて肘を机につく。
「そんなことを言うな。君は十分頑張ってるよ」
 暫く英治のタイピング音だけが響く。時計の針は着々と進んでいくのに、佳奈は一向に帰る気配を見せなかった。
「そろそろ出たらどうだ? 終電を逃すぞ」
 そう言う英治はまた職場に泊まり込む気である。佳奈は意地を張るような声色でわざとらしく言った。
「わざと逃してるんです」
 その言葉に英治は手を止める。仕事はあと二割ほどだ。咄嗟にオフィスに誰もいないことを確認する。
「佳奈、君が俺を信頼してくれるのは嬉しい。俺は常に佳奈との仲が知られないか気を張ってるし、今だって安全な状況を確保しているつもりだ。だが今は仮にも仕事中だよ。俺の我慢をふいにするようなことを言わないでくれ」
 普段ならば佳奈の方が率先して公私の区別をつけ、英治が踏み込んだ冗談を言った際にはトイレからお叱りのメッセージを送ってきたくらいである。だが今日はそのリミッターを外したらしかった。恐らく、大量の仕事と長くにわたり英治と二人で会えていないという事実が佳奈を変にさせているのだろう。
「ホテルなら部屋の片付けをしなくて済みますからすぐに会えますね。私が先に行って後から来てもらえば、仕事関係の人に見られることもないですから」
「佳奈」
 言いたいことは沢山ある。仮にも職場でホテルという単語を出すなとか、家はきちんと管理しているのかなどだ。家の乱雑さにおいては英治も人に言える立場でないのだが、上司として英治は佳奈を窘める立場にあった。だが、彼氏としてはここまで疲れ切っている彼女を放置するわけにはいかない。
「わかった。終電までに必ず行くよ。だから佳奈はもう行ってくれ。酔っ払いに気を付けて明るい道を歩くように」
 最後は佳奈ならば要らぬ用心だろうが、男としての一言だ。佳奈がどれだけ強かろうが、心配するのは彼氏の役目なのである。
 英治の了承に気を良くした佳奈は浮かれた様子で立ち上がった。
「やった! じゃあ行ってきます」
 その様子はまるでショッピングに行く高校生か何かのようだ。英治は目の前の仕事にため息をつきながら、むず痒い気持ちになる。普段クールな佳奈があれだけ感情を露にするのなら、激務も悪くない。と思ったところで今目の前の仕事が佳奈との逢瀬を妨げていることを思い出し考えを変える。仕事は好きだが過密スケジュールは悪だ。英治は今までにない集中力で仕事に取り組んだ。
 そのかいあってか、英治は終電前に仕事を終わらすことができた。佳奈にメッセージを入れるが、既読はつかない。スマートフォンも放り出して楽しんでいるのだろう。英治は息を吐いてスマートフォンをしまった。ホテルへ向かう足は自然と早くなっていた。
「早かったですね、宮原さん」
「ああ……」
 改めて見る佳奈は、どう見ても疲れ切っていた。それは英治も同じだろう。佳奈と英治は夜を楽しみにきたカップルという風貌ではないのだ。
 とりあえずジャケットを脱ぎ、ソファにもたれる。柔らかい感覚がして体が沈んだ。
「ああ……寝てしまいそうだ……」
「私もです。今にも寝そうです」
「風呂は?」
「入りました」
 英治は怠い体を起こし、風呂場へ向かう。洒落た作りの風呂場は一人で入るにはやや大きかった。浴槽へ浸かっていると思わず寝そうになる。だがもしここで溺れなどし、佳奈とホテルに泊まったことが知れたら大問題だ。英治は必死で自分を叩き起こし風呂を出た。ホテルに備え付けのバスローブがあったのでそれをまとい、部屋へ戻る。すると佳奈が窓際でうつらうつらしていた。
「寝ていてよかったのに」
「それだとホテル来た意味ないじゃないですか……っ」
 佳奈は今にも寝そうで、到底恋人とホテルに来ているとは思えない。英治は佳奈をベッドに寝かせてやると、自分もその隣に横たわった。
「今日って平日じゃないですか」
「ああ」
「明日も平日なんですよ」
 そう、今日は華金ではなかった。明日も当然仕事があり、明後日も、もしかしたら土曜日も仕事がある。だがホテルに泊まることを選んだのは、少しでも二人で過ごしたいという意識の表れだった。
「俺も仕事ですっかり疲れ切ったみたいで……到底できる気がしないんだ」
 英治が言っているのは、英治の下半身のことである。今の英治は、精力剤を飲みでもしない限り臨戦体勢に入ることは難しいだろう。情けないと思う余裕すらない。今の英治は、眠らないようにするので必死だった。
「じゃあ今日はしないってことでいいですか」
「ああ……また今度」
 最後の気力を振り絞ってアラームをかけ、英治は部屋の電気を落とす。目を閉じると共に深い眠りの世界へ入った。激務の中の僅かな睡眠時間はどれも変わらないものかもしれない。だが隣に佳奈がいるだけで、どこか安心した気になれるのだ。
 翌朝、喧しいアラームの音で二人は目を覚ました。睡眠時間が足りていないことには違いないのだが、二人共見事な目覚めの良さである。英治がアラームを止めると軽快にベッドを降りて洗面所へ歩き出す。
「服が昨日の分しかありません。家よりも職場の方が近いから、近くの服屋で適当に買って着替えないと」
「それじゃあ佳奈の方が早く出てくれ。俺は後から行く」
 仕事終わりはあれだけ疲労困憊していたのに、仕事前になるとスイッチが入るのは流石と言うべきだろうか。手早く朝の身支度を済ませ、佳奈はバッグを手にした。その姿は出勤前のOLそのものだ。
「では行ってきます」
 部屋のドアに手をかける佳奈を手で招く。佳奈は不思議な様子で近づいてきた。その顔まで屈み、英治はキスを一つ落とす。
「行ってらっしゃいのキスだ」
 佳奈があまりにも何も言わないものだから、英治まで気まずくなってしまう。これは佳奈にとってアウトだろうか。でも今は職場ではないしと言い訳をしていると、佳奈が顔を上げた。
「行ってらっしゃいのキスをするのって、奥さんですよ」
 佳奈は口に手の甲を当てて笑っていた。途端に英治は恥ずかしくなる。ロマンスが過ぎたと思われただろうか。
「おかげさまで昨日の疲れがとれました。ありがとうございます」
「そこは俺と夜を過ごしたから疲れがとれたと言ってくれよ」
 思わず英治が突っ込むと、責めるような視線が英治を捉える。
「昨日できなかったくせに」
 暗に不能だと言われているような気持ちになって、英治は言葉に詰まった。その通り昨日は使い物にならなかったのだから何も言えない。しかし佳奈だって寝る寸前だったではないか、とは喉の奥に飲み込んだ。こういう時はやられるのが男だ。
「す、すまない」
 英治が謝ると、佳奈は試すような表情で英治を見上げた。
「その代わり、今度二人で会う時はちゃんとしてくださいよ」
 英治は弾かれたように顔を上げ、佳奈に向かって叫ぶ。
「する! 絶対にする!」
「上司なんだから部下のスケジュールくらい確認してくださいね。私がオフの日は全部宮原さんのためにとっておきますから」
 英治のため、という言葉が胸に刺さる。長らく幼馴染という仲に甘えてきたが、想い人を明確に自分のものにするとは言葉に尽くし難い幸せがある。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
 今度こそ英治は佳奈を見送った。時間は限られているとわかっているものの、英治は髪を整える前に佳奈の寝ていたベッドに顔を近付ける。
「ふう……」
 ああ、幸せだ。


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