「君のことを僕に知ってほしい?」
 あまりに珍妙な物言いに、僕は足を止めた。教令院から出てきた時の出来事だ。目の前にいる男――なまえは、以前からよく僕のことを見てくる男だった。あからさまな視線を送って気付かれないわけないだろうと思うが、もう今の僕はファデュイの執行官ではない。関わるのも面倒だし、放置していればこれだ。
 そもそも、僕のことを知りたいと言われることはあっても自分のことを知ってほしいと言われることはなかった。前者の言葉を口にした者だって、僕そのものに興味があったわけではないのだろう。僕が持つ権力や地位、利用価値、そんなものにしか目が向かなかったはずだ。現にファデュイでなくなった今は近付く者など誰もいない。なまえを除いてだが。
 なまえだって、僕のことを知ったら離れていくだろう。僕の性格はきっとなまえからしたら良くないものだし、ファデュイとしてやっていたことはとても肯定できるようなものではない。たとえこの世界に痕跡がなくても、だ。仮に気が合ったとしても、人間のなまえは僕より先に老いていく。朽ちていく。そうしてまた、僕を裏切る。僕はせせら笑うような笑みを浮かべた。
「じゃあ君のことを教えてよ。君を嫌いになるために」
 僕となまえが交わることはあっても、一生連れそうことはない。交差した線がやがて別々の方向へ向かうように。
 なまえはきょとんとした後、「いいよ」と笑った。嫌味を言っていることに気付いているのかと確かめようとしたけれど、気付いていると言われたところで僕の方がもっと不快になるだけだからやめた。
 なまえはまず、僕の手にフルネームを書いてみせた。みょうじなまえ。彼もまた、ものや人の名前を重視する人らしかった。名前が象徴するものなんて何もないのではないかと思っていたけれど、彼の名は確かに似合っているような気がした。僕の名前は、と言いかけて止める。僕は一体、何の名を名乗ろうとしていたのだろう。

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