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その理由など知っているのに。

 降り注ぐ日差しは己の身には少しばかり刺激の強いもので、良い所を見つけたとばかりに庭園の奥まった位置にひっそりと建てられたその東屋へと足を運んだのはほんの気まぐれだった。
 郭嘉は手にしていた兵法書を置き、どしりと重厚に立つ柱へと背を預けた。今年の夏は暑く、また今朝方降った雨のせいか、息を吸うのも億劫になる程のうだるような湿気が纏わりついてくる。
 汗で額に張り付く髪を指先で払い、細く息を吐く。幸い今は近隣諸国も目立った動きは無い。例え戦になったとしても、この夏は小競り合い程度で済むだろうと郭嘉は考えていた。そうなると戦軍師である己が少しくらい仕事を放り出して休んだとしても何の問題も無いだろう。せいぜい口煩い軍師が「またですか、本当に貴方は」と小言をぶつけてくるくらいだ。
 このまま昼寝でもしてしまおうか、と柱に凭れたまま冠へと手を伸ばした時。

「――郭嘉様!」

 己が来た道とは反対側から東屋に駆け込んできたのは、郭嘉よりもいくつか幼く見える女性、暁蓮だった。己を見て無邪気に笑うその表情だけを見ていると、誰もこの女性が魏軍でも有数の将であるなどとは思わないであろう。――郭嘉が、この女性に対し特別な想いを秘めているという事も。
 小さな包みを両手で大事そうに抱え、小走りで屋根の下へと入った彼女は手でぱたぱたと首元を仰ぐ。そちらに視線をやれば、結構な距離を駆けて来たのだろう、つうと汗が一滴喉元を垂れ落ちて行くのが見えた。
「こんな所でどうしたんですか。まだ仕事中なんじゃ?」
「仕事仕事じゃ息が詰まると思わないかい?適度な休養は、心身の為にも必要なものだよ」
「……適度、ならいいですけど。郭嘉様は最近すぐにいなくなるってこの前荀ケ様が怒ってましたよ?」
 彼女の唇から鈴の音の様に軽やかな笑い声が零れる。そうして蒼く長い袖をひらりとゆらめかせ、暁蓮は郭嘉の隣へと立ち手にした包みを軽く上げて見せた。どこかで見覚えのある印の捺されたその包みからは、なんとも食欲をそそる香りが漂っている。
「でも丁度良かったです。一人で食べるのも少し寂しかったので。……郭嘉様、お饅頭って好きでした?」
 微かに紙の擦れる音。やがて包みの中からは白く小さな塊が二つ、その姿を現す。
 道理で包みに見覚えがあったはずだと郭嘉は内心一人納得していた。城下でも屈指の人気を誇る饅頭屋のそれは、女官達の間でも良く話題に上っている品物だ。何でも余りの人気ですぐに品切れてしまうのだという。つい先日も女官がようやく買えたと包みを嬉しそうに抱えていた。
「おや、もしかしてあなたが私の為に買ってきてくれたのかな」
「それなら良かったんでしょうけど、残念ながら違います」
 どうぞ、と饅頭を一つこちらに差し出されて有難く受け取る。己は余り間食を好んで取る事は無いが、折角の好意を無下にするのも憚られた。
 蒸し立てなのだろう。指先からまだほんのりと暖かい饅頭の柔らかな感触が伝わる。さすがにこの暑気の中での暖かい饅頭は決して喜ばしい物では無かったが、目の前で鼻歌でも歌い始めそうな程に上機嫌の相手を見たせいか、己の目にも段々と旨そうに見えてくるから不思議だ。

「さっき曹操様の視察に随伴させて頂いたんですが、そこで先の戦の褒美にと買って下さったんです」

 饅頭に口を寄せ掛けた瞬間に突き付けられた予想外の事実に思わず饅頭を落としそうになる。
 危ない、と慌てたような声が聞こえたが今はそれよりも。
「……ちょっと、待って」
「はい?」
「つまり、君主から賜った戦の褒章が、饅頭二つ……という事、かな?」
「ええ。何でも欲しい物をとの事だったので、お饅頭を」
 はく、と白い饅頭に噛り付く相手の顔はそれはもうとても幸せそうで。
「それは……曹操殿の面食らった顔が目に浮かぶね。私もその場にいたかったな」
 きっと先ほどの自分と同じような呆けた表情を見せたのだろうと郭嘉は思わず吹き出してしまった。
 己の仕える君主、曹孟徳は褒章を物惜しむ様な度量の小さい男ではなく、それは魏軍の誰もが知っている。
 無論、郭嘉も曹操の人徳に惹かれた一人だ。だからこそ尚更、曹操が配下が命を懸けた戦の褒章を饅頭の一つや二つで済ませるような事は無いだろうと分かる。――余程の事がなければ。
「だって曹操様、あんな立派な剣を渡そうとするんですよ?私、剣術が苦手なの知ってるはずなのに……勿体無いのでお断りしたら、ならばお前の欲しい物を述べよと」
「宝剣を勿体無いの一言で断る人も初めて見たけれどね」
「曹操様にも同じ事言われちゃいました。それで城下に連れて行って下さって。簪や香を勧められたんですが、どうしてもここのお饅頭を一度食べてみたかったんです。……曹操様には笑われてしまいましたけど」
 まだ幼さの残る顔を美味しい、と綻ばせる暁蓮からは何の下心も感じられない。ただ純粋に有名な店の饅頭が食べてみたくて、褒美として一番欲しかったのでねだった、というだけの話なのだろう。
 本来、主君からの褒章の品を断るという時点で不敬と見なされてもおかしくないのだ。そうならなかったという事は彼女もまた曹操自身から絶大な信頼を寄せられているという事か。
 郭嘉は軽く肩を竦めると相手に倣い饅頭に一口噛り付いた。ふかふかの生地と中に詰められた濃い味付けの肉とが絶妙に調和し、咀嚼するたびに食欲をそそる。人気が出るのも頷けた。
「うん、いいね。これは酒もよく進みそうだ。私も、今度買いに行ってみるとしようか」
「美味しいですよね。郭嘉様も気に入ったなら、今度二人で一緒に行ってみません?夜だと、お酒も出して貰えるみたいですよ!」
 すっかり饅頭を食べ終えてしまった相手が妙案だとばかりにぱちりと両手を打ち鳴らす。
 年頃の女性が夜歩きに男を誘う事がどういう事かを彼女は理解しているのだろうか。
 しかも郭嘉はただの男というだけではない。もはや曹魏の中心人物の一人としても重要な位置に就いている。己に取り入って出世を狙おうとする者も、己の失態を誘い失脚を図ろうとする者も多い中で、平民出身でありながら曹操や郭嘉、他の将軍達と親しくしている暁蓮への当たりは強いだろうに。実際に彼女が悪意のある言葉をぶつけられる場面に出くわした事もある。
 それでも、泣き言恨み言一つ漏らさずただ曹魏の為、曹操の為と尽力する彼女がとても眩しく見えるのだ。

 愛しくて、仕方がない。己には想いを告げる資格も、愛を育む時間ももう残っていないというのに。
 それさえも時にどうでも良くなってしまいそうなほど、彼女に惹かれているのだ。

 郭嘉は残り少なくなった手の中の饅頭を一口に頬張った。一足先に食べ終えていた彼女はうーん、と両腕を伸ばすと郭嘉の隣へと腰を下ろす。倣って郭嘉もその場へと座り、にこりと和らいだ表情を向けて見せた。そうして若干の色を乗せた声で、子供の内緒話の様に小さく囁く。
「あなたが私を誘ってくれるだなんてね。……これは、そろそろ期待してもいいのかな?」
 小さくふっくらと色づいた桜色の唇の端、僅かに付着していた饅頭の屑を指先で突いて払ってやりながら、ほんの僅かの期待を込めて。
「え。……まあ、一個くらいなら買ってあげてもいいですけど。でもお酒は自分で買って下さいね。郭嘉様が飲む分を全部買ったら私のお金がすっかりなくなっちゃいます」
「……そういう意味じゃないんだけれど。まあ、あなたらしいと言えばそうかもしれないな」
 しかしというかやはりというか。案の定正しく意味を拾うことは無い彼女に、郭嘉は楽しげに微笑んだ。そのまま手を上へと伸ばし、艶やかな黒髪に指を梳かせる様にしてその頭を撫ぜる。愛おしさを乗せた手の平は、しかしすぐに幼子を愛でるような単調な物へとその動作を変えた。
「……郭嘉様、私の事子供扱いしてません?」
「はは、そんな事はないよ。……あなたにはずっとそのまま、変わらずにいて欲しいね」
 もう一度だけ指先に黒髪を絡め、郭嘉は彼女から手を離す。小さく首を傾げる相手に軽く肩を竦めてから、郭嘉はゆっくりと立ち上がった。
 先ほどに比べると暑さは幾分和らいでいる。少し風が出てきたようで、爽やかに空気が流れていくのが分かった。
「さて、私はそろそろ戻ろうかな。ご馳走様」
「どういたしまして。さぼってばかりじゃ駄目ですよー、いくら郭嘉様でも、その内曹操様に怒られたって知りませんからね」
「確かに。その時は是非あなたに慰めて欲しいな?」
「少しは怒られないようにするという姿勢を見せて下さい、郭嘉様。もう、郭嘉様はこの曹魏に無くてはならない方なんですから、もっと自覚を――」
 どこかの軍師を思い出すような小言を紡がれては流石に分が悪い。郭嘉ははいはい、と苦笑を滲ませると重ねた兵法書を抱え、未だ東屋で休息を取るらしい彼女に背を向け歩き始めた。
 ざあ、と一陣の風が吹く。篭った湿気を吹き飛ばすかの様なその風に押されるようにして東屋を出たところで己を呼ぶ声に振り返ると。


「郭嘉様、約束ですよ?私、楽しみにしてますから!」


 夏の透き通るような眩しい青空の下、東屋から身を乗り出すようにしてこちらを見て笑う彼女がいた。
 風に乗って彼女の纏う仄かな香の香りが届く。

「……」

 既に病に蝕まれた己には持ち得ない、生命力に満ち溢れた美しさ。
 このまま戻り、誘われるがままに彼女の身を力一杯に抱きすくめてしまいたい衝動に駆られる。
 甘く愛を囁いたら。己の想いを告げたら。この身に巣食う病を明かし、それでも自分の物になって欲しいと懇願したら。
 そうしたら、あの純粋で美しい生命は自分の物になってくれるのだろうか。もうあと幾許も無い命を哀れみ、少しでも愛してくれるのだろうか。
 そこまで考えて、郭嘉は目を伏せた。馬鹿なことを、と自分自身を罵りながら。

「ああ、私も楽しみにしているよ。近い内に必ず、ね」

 一度頷いて見せると、今度こそ振り返らずに歩き始める。絶対ですよー、と明るく笑う声を聞きながら。
 


 不意に目の奥が痛くなり、しかし郭嘉は、それを夏の日差しのせいだと思い込む事にした。


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