揺れる、揺れる、青い芝。
たおやかに流れゆくせせらぎが鼓膜を打って、静かに静かに─、彼女を現実の裏側へと引っ張り込む。
遠くに重々しい鐘の音が響いて、名前は導かれるように瞼を持ち上げた。
ぱち、ぱち、
瞳を数度瞬かせた彼女は、ゆっくりと身を起こして初めて自らがどこかに寝そべっていたという事実に気がついたようであった。
ぐっと懲り固まった身体を伸ばせば、がんじがらめに結ばれたリボンが解けるように全身の筋が伸びてゆく。
さらりと頬を撫でる風は華やかなラベンダーの香り。
柔らかい草きれと太陽の匂いが名残惜しく髪を攫ってゆく。
夏、かしら。
名前はどうにも重たい瞼を擦って、辺りを見渡した。
「ここ.......は....?」
先程まで、自分はセバスチャンに与えられた青寮の教官室で瞳を閉じていたはずである。
胸にはスクラップブックを抱いて─、
「な、ない........?」
腕の中には、何もない。
あの古臭いクラフト紙の帳簿はすっかり跡形もなく消えてしまっている。
それなのに、自分が身に纏っているドレスは確かに前夜祭に着て行ったものなのだから、不思議であった。
「.......お昼.......?」
先程までは紺碧の幕の下ろされた夜だったというのに、辺りは燦々と日光の満ちる昼時の空である。
─あれから、寝過ごしてしまったのだろうか?
気がつかぬうちに世界は6月4日を迎えてしまったのだろうか?
とすると、もうシエルの試合は始まってしまっている.......?
名前は不安げにきょろきょろと辺りを見渡したが、彼女の視界一面を覆うのはため息の出るほど美しい庭園の風景ばかり。
広がる一面の芝生と咲き乱れるイングリッシュローズ、ずっと先にそびえ立つアーチの向こうでは、煉瓦造りの建物群の影が遠く見える。
もしかしたら、ここは夢の中なのかもしれない。
名前は身を横たえていたソファをそわそわと触ってみた。
重厚ながらも華奢なイメージを抱かせる白革張りに釦留めのチェスターフィールドソファ。
背もたれ部分を飾る金の飾り枠は、美しく上品に輝く。
続けて、そうっと忍ぶように天井を見上げてみた。
眩しいホワイトの天井........、そこから地に伸びる柱は六本。
すらりと足を伸ばす柱に沿ってパビリオンの中を見渡してみると、ここが狭いながらもティータイムを楽しむ程度の大きさのある六角形のガゼボであるということが見て取れる。
ソファの後ろ─、ガゼボの背面には緩やかな小川が流れている。
ガゼボの左手には簡単な桟橋が掛けられてあり、小さなボートが一隻停まっていた。
対岸は森に覆われていて何があるのかはよく分からないが、ボートに乗って川を下ってみればどこか人気のあるところへ出るだろうか。
そこまで考えて、名前は諦めるように首を振った。
ダメだ、そもそも私はボート遊びが苦手なのだった。
きっとこんなところで一人川へ出てしまえば、転覆して溺れるのがオチである。
それに─、
「居心地のいい場所.......」
この静寂に満ちた庭園は、ひどく心地が良い。
騒がしい人の声は一音として聞こえて来ないのに、ゆるやかな川のせせらぎと小鳥の鳴き声が寂しさを覚えない程度に耳を慰めてくれる。
ここがどこなのかは皆目見当もつかないが、離れるのが惜しい。
麗らかな夏の陽射しが柱の横からふわりと彼女を包み込む。
─ここでお茶でもして、本なんかを読んだらどんなに素敵でしょう。
もう少しだけなら、ここにいても大丈夫でしょうか.......、
頬を撫でるそよ風はどこまでも優しい。
ここはやはり私の夢なのですね。
こんなに居心地のいいところ、夢以外にはきっとありません。
すっかりここが夢の世界だと断じた彼女は、へにゃりと頬を緩ませてこの美しい庭園の空気を胸一杯に吸い込んだ。
芳しいイングリッシュラベンダーは、控えめに夏風に揺れて細かな薄紫の小花を踊らせる。
ちゅん、ちゅん、と微かに聞こえる小鳥の声は、さながら心地のよいワルツだ。
夢見るような表情で、彼女はふにゃりとソファに沈み込んだ。
*
何か面白い事を探していた。
それは例えば、女王のお使いをするとかあのお堅い緑寮の監督生をからかうとか、刺激的なものよりは肉体的な疲労を伴わないもの。
それは例えば、芝生の上で昼寝をするとか授業をサボって好きな本を読むとか、退屈なものよりはもっとずっと刺激的なもの。
そういう“面白い事“を、彼は探していた。
午後の授業が終わった後は、一日で最もつまらない時間である。
周囲の学生は慈悲のない量の宿題に音を上げたり、何か余計なことをしでかして喰らったYの消化に忙しく動き回っているが、そもそも頭の回転の早い彼は出された宿題はすぐに片付けてしまうし、不要なYを喰らうこともない。
彼と同じく優秀な他の監督生は、午後の余暇に自身の従える寮弟の世話を見てやったり、寮弟の寮弟の面倒までみてやったりと後進の育成に熱心な者もいるが、彼は寮弟の必要性を感じていなかったためかそうして世話を焼いてやるべき相手もいない。
頼まれれば下級生の勉強くらいは見てやるが、そもそも彼の率いる青寮の学生達は比較的頭のキレる者ばかりであるため、勉強を見てほしいとわざわざ先輩に声をかける学生はそうそういないのであった。
─つまらない。
彼は一つ伸びをすると、午後の余暇を消費するため青々と茂る芝を踏みしめてぶらぶらと進み始めた。
こういうとき、趣味がないというのは損である。
強いて言うならばゲームの類は好んでやる方だが、今のところ自分といい勝負のできる学生は見つかっていない。
となると、もはや暇を潰す手段としては読書くらいしか思いつかないのであり、どうせ本を読むなら誰かの邪魔の入らないところが好ましい。
6月の気温は、ともすれば軽く汗ばむ程度には暑い日もある。
さわさわと首筋を撫でる夏風はからりと乾いているが、瞳に飛び込む陽射しはどこか眩しい。
彼はテールコートを脱いで適当に肩に担ぐと、一般生では決して立ち入ることのできぬ場所─、白鳥宮へと至る庭園のアーチをくぐった。
庭園へ続くアーチを過ぎた途端、学舎のざわめきは突然として隣の世界のことのように遠ざかってしまう。
テストがどうとか、寮弟がどうとか、そういう煩雑な日常と切り離された静かなガゼボ。
屋根の上にブロンズで作られた羽ばたく白鳥のモチーフがあることから「白鳥宮」と名付けられたそこ。
基本的にはこの美しきガゼボへ足を踏み入れられるのは監督生のみであるが、彼以外の監督生達もそうそう白鳥宮で暇を潰すことはないため、読書や昼寝のためにこの庭園を訪れた時には、あのチェスターフィールドのソファの上はいつも無人である、はずだった。
「………」
夏の日の陽光を一身に受けたガゼボの中。
ソファの上に明るいブルーとグレンチェックのドレスの女がぼんやりと見える。
「そいつ」は鼻歌を歌っているのか、どこか音の外れた陽気なメロディにのせて足をふわふわと踊るように動かしていた。
ステップを踏むごとに揺れるスカートの裾からは、ちらりと肌の色の透けるストッキングがなまめかしい色を見せる。
彼は訝しげに眉根をひそめると、大股で芝生を横切り白鳥の飾られたパビリオンへと足を進めた。
何の曲かも分からない、不思議な旋律が一歩近づく度に彼の耳元を擽る。
一向に自らに近づく男の姿に気がついていないらしい「そいつ」は、くるりとソファの上へ足をあげると、身体ごと後ろを向いてテムズ川を楽しそうに見つめ始めた。
重たそうなドレスが、彼女の動きに合わせて波打つように揺れて惑う。
このあたりでは見掛けない、不可思議に腰の辺りが強調されたドレスを見下げて、彼はゆっくりと足を停めた。
ドレスよりもやや暗いサックスブルーの髪。
そっと飾られた薔薇のモチーフのリボン。
身につけたアクセサリー類はどれも高価そうである。
どこかの貴族の娘か。
ウェストンに通う婚約者にこっそり会いにきたりなどしたのだろうか。
彼はすうっと垂れがちの瞳を細めると、呑気そうに鼻唄を歌っている「そいつ」の肩に手を置いた。
「どちら様かな」
「………、!」
「6月4日の応援にはまだ早いんじゃない?」
声を掛ければ、女ははっと彼の方を振り返った。
見開かれた大きな瞳は、テムズのきらめきを散らしたように澄み渡る、赤。
まるで高価なピジョンブラッドルビーのような、大振りの宝石を思わせる深い紅。
垂れた瞳は穏やかそうな、ともすれば気の弱そうな雰囲気を人に抱かせる。
色の白い、さも貴族の箱入り娘といった様子の娘。
顔の方もなかなか可愛いと、彼は率直にそう思った。
一方、突然に声を掛けられた彼女はおろおろと怯えたように辺りを一度二度と見渡した。
気の弱さが一目で見て取れるその挙動。
彼は無言で彼女を見下ろしていたが、しまいには彼女はふにゃりと口元を歪め、くっ、と喉の奥を詰まらせたかと思うと、突然ぽろりとドロップ型の涙を落とし始めた。
「………」
自分が立ち入り禁止の男所帯を侵しているという自覚があるのか。
彼はぼろぼろと涙を流す女を見下げて、続けて無言で立ち尽くしていた。
回転の早い彼のブルーの脳細胞は、次々に対処すべき手段をいくつも浮き上げる。
こういう場合は教職員に通報すべきか?それとも他の監督生と情報を共有すべきか?
それともいっそ、馴染みのヤードに突き出してしまうか?
様々な手段を考えはしたが、結局彼は"大事にするのも面倒くさい"と自分一人で彼女を対処することに決めたのだった。
「ここ、一応ウェストン校の敷地だから」
部外者は退出を─、
そう続けようとしたのだが。
「おっ、おと、っおとーしゃまぁっ!!」
それは泡が弾けるような、軽い火薬爆発を見ているような癇癪であった。
わっ!とわななく口を大きく開いたかと思えば、小さな口元は次々に咽声を吐き出す。
いや、吐き出す─、というよりも。
むしろ、涙を暗い喉の奥から投げつけるようなコントロールの効かない咽び。
まさしく"火のついたような"泣き様である。
「泣かれても困るんだけどな.......」
おとーしゃま、おとーしゃまぁ!としゃくりあげる少女を前に、彼はすっかり成す術もないとブルネットの髪をかき上げた。
適当な言葉で女を唆し思い通りに動かすのは得意だが、それはあくまで相手に言葉を聞く能力が備わっている場合の話だ。
ここまでぎゃんぎゃんと赤子のように泣かれてはどうしようもない。
これは長期戦になりそうだ。
彼は極力この女を怯えさせないよう、静かにソファに腰掛けた。
ゆっくりと体重が沈むソファの革がギュギュ、と乾いた音を立てる。
「名前は?」
ひとまず、と女の名前を聞こうと試みるが、彼女はやはりこちらの話を聞く余裕がないとばかりに咽び泣くばかりである。
女の涙は時に彼女たちを魅力的に魅せる宝石だ、なとど言うキザな連中にこの女の凄惨な泣き様を見せてやりたい。
彼は軽く肩をすくめて息をつくと、女の紡ぐ涙に濡れた言葉をなんとか聞き取ろうとその小さな口元に耳を寄せた。
「っ、ごめんなしゃ、おとうしゃまぁ.......」
「あのね、君のお父様がどちら様か存じないけど、とりあえず名前さえ教えてくれれば君のお父様もここに呼べるから」
身柄保証人という名目で。
という一言は飲み込んで、彼は彼女の反応を待った。
彼女はうるうるとピジョンブラッドの瞳に雫の膜を張って、彼のウェストコートをためらいがちに握る。
弱々しいその力は、まさしく幼子のそれである。
見た目にはデビュタントを済ませていてもおかしくなさそうな年頃の少女であるが、どうも精神年齢が低いらしい。
彼は困ったように形ばかり眉を下げて口を開いた。
「大丈夫だよ、たぶん誰も怒らないから」
「ほんとですか.......?」
「うん、酷く怒られたりはしないよ。」
「.......お父様、ほんとに怒ってないのですか.......?私がダメな娘だから夢にまで出てきたんじゃあ.......」
「.......うん?」
ぺたりと貼付けた笑みを向ける。
すると少女は、“えっ、えっ、“と焦りのような素振りを見せた。
きょろきょろと辺りを見渡してはその白い頬を自分で引っ張ったりなどしている。
─変な女だな。
彼が穏やかな笑顔の裏側で彼女に“頭のおかしい女“とラベルを貼ったところで、女は金切り声で“痛いです!!!“と引っ張って赤くなった頬をさすさすとさすっている。
「い、痛いです!!えっ.......痛いです!!夢じゃないのですか!?」
「ごめん、何が言いたいのかよくわからないんだけど.......」
「こ、ここ......、私の夢の世界じゃないのですか!?お父様!!」
ぎゅう、と握られた掌。
真っすぐに向けられた紅の瞳。
なだらかなテムズの水際のきらめきを閉じ込めた彼女の涙が、キラキラと夏の陽射しに反射する。
「.......は?」
“お父様“。
たしかに自らを“お父様“と呼んだ少女を前に、彼─、ヴィンセント・ファントムハイヴは、ぴしりと固まったのであった。
(Last Encore U/ vincent)