Last Encore #1
英国屈指の名門男子寄宿学校ウェストン校─、
本来であれば女人禁制、近寄ることすらも許されぬこの学び舎にも一年に一度、女性の立ち入りが許される日が存在する。
6月4日、伝統行事クリケット大会の前夜祭とその後夜祭までの約一日である。



*
 

煌々と大食堂を照らすシャンデリア、轟々と燃え盛る松明。
溢れんばかりの光の奔流に満たされた会場は、男子学生特有の浮ついた空気が巡り巡る。
明日に控えたクリケット大会の高揚も相まってか、食堂内はどうにも蒸し暑く騒がしく、名前はぐったりと人酔いに近い倦怠感を覚えていた。
もはや食事に手をつける気も起きない胸の悪さ。
ただでさえ人が多い上、あちらこちらで学生に声を掛けられるのにもすっかり参ってしまう。
叔父と叔母に誘われて弟のクリケット大会の観戦をすべくウェストン校の敷地に足を踏み入れたが、常に四方八方で感じる、視線。
じろじろと学生達がこちらを見てコソコソと何やら話をしている姿を見るとどうも落ち着かない。
遂に前夜祭の会場である大食堂の扉をくぐった先では次々にウェストンの学生達に浮ついた声をかけられるものであるから、名前はひんひんとべそをかきつつここまでエリザベスに手を引かれてやってきたのであった。


「ほら.......、あの子。」
「ああ.......」
「最近P4組に入った1年に似てないか?」
「もしかしたら、家族かもな」


ぼそぼそとした低い声音が名前の敏感な鼓膜を打つ。
びくびくと肩を震わせると、エリザベスがぴったりと手を握ってくれた。


「お義姉様がかわいいからみんな見ているのよ!」


無邪気な彼女はそう言うが、名前は男子生徒たちの視線が自分に向けられている理由がそう喜ばしいものであるとは思えなかった。
ブラウン、ゴールド、澄み渡るブル─、
色とりどりの瞳が名前を─、名前の身体をじろじろと見ている。
ふええん、とぼろりと涙を頬に伝わせると、前を歩いていた叔母からギンっと視線で黙らされた。







*
        

汚れ一つない純白のテーブルクロスの掛けられた丸テーブルの上に用意された食事はメインに肉料理がやたらと目立つ。
彼女はちらりと料理を横目で見ると、げっそりと青白い頬を晒して口元を押さえた。
どれもこれも男子学生の好みそうなこってりとした味付けであることが、脂っぽいソースの匂いで分かる。
鼻先にべとりとこびりつくのは、ロックフォールソースのくどくどしいチーズと生クリームの香り。
ただでさえ人に酔ってしまった現状、この肉にチーズにアルコールの乱れ舞う大食堂が彼女にとって居心地のよい場所であるとは言い難い。
大会の各寮代表選手入場式では渾身の力を振り絞って青い顔でシエルに声援を送っていたが、もはやその痩せ我慢も通用せぬ領域に至っている。
先程、神経質そうな副校長がスピーチを終えて壇上から下りる際に見事に足を踏み外して転げ落ちていたが、名前の足取りもあのアガレス副校長に負けず劣らず危なっかしいのである。



「珍しいな、お前がそんな風に辟易しているのは」


明日の大会に緑寮代表選手として参加する従兄弟のエドワードはむしゃむしゃと骨付きのチキンを貪りながら(決勝まで戦い抜くためにたくさん食えと彼の先輩に言い付けられているらしい)、滅多にお目にかかることのない名前のげっそりとした面持ちを面食らったように横目で見ていた。
“モテないお前が男共に声を掛けられてるんだ、いっそここで婚約者でも漁ればどうだ“などと彼はからりと笑っているが、名前にはとうていそんな気が起こるはずもない。
男性から声を掛けられ慣れていないだけに、こうも次々にダンスの誘いやエスコートの申し出などを受けては気も萎縮してしまう。
上手く断る術も思いつかぬ上、相手は自分と同年代の男子学生である。
彼らの瞳がどうもドレスのフリルを押し上げる自分の胸元に注がれているような気がしてしまい、名前はぐすぐすと泣き言を言って叔母の後ろに隠れるのだった。(むろん、厳しい叔母からは“その気がないならきちんと断らんか“と叱責を受けたが)


「全く、ファントムハイヴ家の令嬢ともあろう者が男の一人や二人あしらえないようでどうする!お前はシエルのためにもまともな相手の元へ嫁がねばならん。その辺の男にへらへらと丸め込まれているようではお前の両親も安心できないだろう。」
「だって.......だってぇ.......」
「名前、お前とていずれは誰かの元へ嫁ぎ女主人として屋敷を取り仕切らねばならんのだぞ。」
「まあまあ、ママ。名前は大丈夫だよ。さあ、お前も飲み物でも飲んで。」


叔父であるミッドフォード侯爵はぽんぽんと慰めるように名前の肩を叩き、冷たいグラスに注がれたミネラルウォーターを差し出した。
名前はぐすっと鼻を啜ると、グラスを受け取り一口水を喉に流してこっそりと叔父のテールコートの裾でずびびと鼻を拭う。


ざわざわとしたざわめきが一層大きく、ざらざらと鼓膜を逆撫でする。
辺りではきゃあきゃあと女性達の黄色い叫声。(あの金髪の子、可愛い〜!)(エドガー様はやっぱりいつ見ても麗しいわ!)
料理の匂い。(鴨のロティ、ビーフのパイ、丸焼きのチキン、糖蜜パイにジャムドーナツ)
べっとりと身体中に絡み付く視線。(誰かの家族か?)(顔も結構可愛い)(すっげえ胸)
くるくると、くるくると、重たく視界が巡る。


名前が青白い顔でふらふらと叔母のドレスの飾り布を握り口元を覆うと、フランシスはやれやれと首筋を掻いていよいよ本気で失神しそうな姪の肩を支えた。
てきぱきと胸元から小さな銀の小瓶を取り出すと、情けない顔を晒す彼女に気付けのラヴェンダー水の香りを嗅がせてくれる。
すうっと鼻腔を通り抜けてゆくラヴェンダーの香りは、泥沼と化した頭をすっきりとクリアーに片付けるよう。
身を支えてくれる叔母に甘えるように寄り添うと、すかさず駆け寄ってきた弟も丸まった背をぎこちなく摩ってくれた。


「姉さん、」
「だ、大丈夫ですシエル......、心配には及びません。少し気分が悪いだけです....うぅ.......」


先程から微妙な顔をして姉の真っ青な顔を見ていたシエルは、不快そうに広い大食堂を見渡して眉間に皺を寄せた。
選手入場の際にちらりと見た時からやけに姉の気分が悪そうだとは思っていたが、よもやこのとろくさい姉が飢えた男子学生たちのエサ状態でこの場にぶら下げられているとは思いもしなかった。
元々、姉はどちらかといえば夜会でもモテるような素振りを見せたことがない上、今日はミッドフォード侯爵夫妻と共に前夜祭に参加するというのでそう心配はしていなかったのだが、どうも自分の読みは甘かったらしい。
皆が姉の凶悪に膨らんだ胸元に視線を注いでいるのが嫌でも分かってしまい、シエルはぐわあああっと身もよだつ不快に帽子を脱ぎ捨てて髪を掻きむしった。


「執.......、ミカエリス先生、姪をどこか休める場所へ連れていきたい。部屋を貸していただけませんか。」


危うくいつもの調子で彼を“執事“と言いかけたフランシスは、ごほんと咳ばらいを一つしてミカエリス【先生】に意味ありげな視線を走らせた。
先程までは面白そうに名前があわてふためきえぐえぐと泣き言を言いながらエリザベスに手を引かれる姿を見る以上の介入を避けていた彼も、ここまで彼女の状態が悪化した状態ではこの場から立ち去らせることが賢明であると判断したらしい。
フランシスの視線にいち早く反応したセバスチャン─、もといミカエリスは、にこりと人の良さそうな笑みを薄いレンズ越しに浮かべてグロッキー状態の名前をそっと貴婦人から受けとった。

「ええ、侯爵夫人。部屋ならいくらでも。レディは私がお預かりいたしましょう。」
「セバ、.......ミカエリス先生、姉をよろしくお願いします。」


これ以上姉を男子学生のいやらしい視線に晒したくないが故か、シエルもとてとてと深い闇色のマントコートを纏った彼に近寄り、眉を下げて形ばかりの懇願をする。


「(早く姉さんを連れていけ。絶対に他の連中のいやらしい視線に晒すな)」
「(Yes , My Load)」



ぼそりと主命を受けた彼は名前の胸部を包むようにマントで覆い隠すと、ふわりと風でも持ち上げるように軽々と彼女を抱き上げた。
背中から手を差し入れられて横抱きに持ち上げられると、不安定な浮遊感が彼女に押し寄せる。
名前はもう半分べそをかいているような面持ちでミカエリス【先生】を見上げると、ふにゅふにゅと鼻を啜って掛けられたマントにすっぽりと包まってしまった。


「おや.......、よほどご気分が悪いようですね。」


教育者として然るべきといった表情を見せたミカエリスは困ったように眉を下げて彼らに軽く会釈をすると、コートの裾をふわりと翻し大食堂を後にしたのであった。
ざわめきに揺れるフロアを革靴の底で踏み割るように、ひっそりと目立たぬように。
重たい木製の扉を片手で開けると、外は深い深い紺碧の幕を下ろした闇の中。
ぽつぽつと点る松明だけが辛うじて石畳で整備された歩行道を示してくれる。
“さて.......、“
腕に抱えた名前の震えがぴたりと止まったことを感じると、彼はやれやれといった嘆息を吐き出して青寮へと続く道中へ足を進めたのであった。
全く以って面倒臭い─、という本心を細いフレームの眼鏡の奥にしまい込んで。





                   
*


「せっかく男性にちやほやされるチャンスだったというのに、ここぞという所でご気分を悪くされてしまうとは。」
「うっ.......、うう、」
「いつもおっしゃっておられたではありませんか、“たまには沢山の男性から声を掛けられてみたい“と。」
「だ、だってぇ.......、声は掛けていただけても、あんな風にあからさまに身体をじろじろ見られてはいやなきもちになります.......それも示し合わせたようにみんな私の胸ばかり.......」


名前はふぇぇん.......、と顔を覆った指の隙間から情けない嗚咽を漏らすと、下ろされた椅子の肘掛けに顔を伏せてしまった。
それに眉根をひそめたのはセバスチャンである。
すっかり執事としての顔に戻った彼は、彼女の背をさすさすとさすると“お茶をご用意いたしますから、泣かないで“と仕方のない赤子をあやすように名前の頭を撫でて奥の暖炉へと姿を消した。



「.......、」



ぐす、と目尻に涙を残して、名前はセバスチャンの姿を消した後の室内を見渡した。
いつまたあの爛々と獣のような光を宿した学生達が入ってくるかと思うと気が気でないが、ここは青寮の教官部屋である。
ここで数週間教官として勤務している彼が言うには、学生達はノックなしには絶対にここへは足を踏み入れないという。
名前は喉の奥に残っていた涙の塵をひっくひっくと鳴らすと、手近なテーブルに置いてあったハンカチーフでずずっと鼻を拭った。
セバスチャンの私物だろう、今までもこのアンティークレースに縁取られたハンカチで涙を拭いてもらったことがある。
熱くなった目頭をふんわりと包むコットンの肌心地が、いつも通りひどく優しい。

えぐっ、えうっ、
一つえづいた音と共に厄介な涙の雫をすっかり体外に吐き出した名前は、真っ赤に腫れた瞳をうろうろとあっちへこっちへ動かし室内を観察した。
セバスチャンが生活している部屋。
屋敷で彼に与えている地下の使用人部屋には立ち入ったことがないので、こうしてセバスチャンの私生活のようなものが一部見えると、少し興奮してしまう。
先程までの不快と嫌悪をすっかり丸めて塵箱に捨ててしまうと、名前は現金にも頬を染めて肘掛け椅子に沈み込んだ。
─嫌な思いもしたけれど、こうしてセバスチャンのお部屋に連れてきてもらえたなら、よかったかもしれません.......
先だっての大騒ぎはなんだったのかと呆れ返らずにはいられないお花畑思考であるが、恋をする年頃の女などそんなものだろう。
すっかり頭の中から男子学生たちの嫌な視線を追い出した彼女は、細いフレームにスマートな神父服を着こなして教務にあたるセバスチャンで頭の中をいっぱいにして、そわそわと広い机の上を物色した。


教本がいくつか(難しそうで読めない)、瓶型の洒落たランプ(ぼんやりと点る明かりがムーディである)、先程彼女が勝手に使っていたハンカチーフ(いつもこの優しさに甘えてしまう)。
そして、机の端にぽんっと捨て置かれたような古くさいスクラップブックに目を留めた名前は、そわそわと腕を伸ばしてそれを手に取った。


「クリケット大会の.......スコアブック.......?」


ぼろい茶表紙のそれは、中を開いてみればなんてことはないクリケットのスコアと試合情報を書き留めた記録帳であった。
ざらりとしたクラフト紙の触り心地を掌に感じて、そっと表表紙に紅に滲む瞳を向ける。




《6th JUNE 1868. Cricket Tournament》







「1868年度のクリケット大会........」


なぜこんなものが机上に?
何気なくぺらぺらと薄い羊皮紙をめくってみると、そこには選手名簿だのポジションだのスコアだのとアルファベットと数字が踊るように書き留めてあり、元来こういった資料を読み解くことを得意としていない名前はぶり返してきた気分の悪さと頭痛に顔をしかめた。
こういったものも、明日の大会に役立つのだろうか。
各年度ごとの優勝チームの戦術でも参考にしようというのか。
そんな推測を適当に打ち立てながら最後のページをぺらりとめくる。


「.......っ、これ、」


印された名前に、はっと瞳を見開いた。
ぶわりと露出された肌を寒気にも似た驚嘆が滑る。
思わず息を忘れて、名前は震える指先を羊皮紙へ伸ばす。
長らく書面で見なかった名─、




【Sapphire Owl List Of Pleyer】


 
Bowler Vincent Phantomhive








「投手.......、ヴィンセント・ファントムハイヴ.......、」


青寮の選手リストの最上に印されていた几帳面なアルファベットを指先でなぞって、 名前はぽつりとつぶやいた。
黄ばんだ羊皮紙の下部には緑寮と青寮の決勝戦のスコアが印されている。





【BLUE 213】

【GREEN 120】






「碧の、奇跡.......」


スコアの下に、乱雑に書きなぐられた文字をゆっくりと唇に乗せる。



《Wonders Of BLUE》



先程鬱屈とした気分で聞いていた、叔父の語る父親の偉業をゆっくりと脳内で思い起こす。
ディーデリヒと父親の物語であり、そして万年最下位の青寮にとっての伝説的ゲーム。
叔父が語ったその時は、やはり周囲の視線が怖くて気分がわるくて.......、
ろくに話を聞くこともできず叔母の後ろに隠れていたが、彼女はほんの少し、“無理をしてでもきちんと聞いておけばよかった“とスクラップブックを抱きしめた。


「お父様の学生時代.......、」


亡き父親は、名前をそれはそれは可愛がってくれた。
時には行き過ぎともいえる愛情だったのかもしれないが、ともかく目一杯の慈愛を注いでもらった名前は、幸せだった。


「.......今の私をお父様がご覧になったら、なんとおっしゃるでしょう.......」


─お前の両親も安心できないだろう。
厳しくも優しい叔母の言葉がゆらりと蜃気楼のように蘇る。
本当に─、叔母の言う通りだと思った。
同年代の男子学生数人くらい、適当にあしらえないで吐き気まで催して逃げるようにここへ逃げてきた自分を父が見たら、悲しむだろうか。怒るだろうか。
それとも、すべてを許して受け入れて、幼い名前をどろどろの蜂蜜の中へ沈めて愛してくれたようにくすりと笑って“怖かったね“と言ってくれるだろうか。


「.......」


それは自分に都合の良い幻想だと、彼女は寂しげにスクラップブックをぎゅうっと抱きしめた。
逃げたことや気分を悪くしたことは許してくれるかもしれない。
けれど、こうして使用人の執事に熱をあげてでれでれと毎日あらぬ妄想をしていることについては、父は決して許してくれないだろうと思った。
“そんな子に育てた覚えはない“と、見放すような瞳で彼女の心を凍らせるだろうと。


「.......、」


死してなお父親を困らせる私は、ロクな娘でないに違いない。
名前はこの数十分の高揚と驚嘆を萎ませるとしょんぼりと頭を下げて、クラフトのスクラップ帳を胸元に抱いて瞳を閉じたのであった。


セバスチャンに守られて、すっかり屑箱に放り投げたはずの不愉快な気分と恐ろしさと吐き気がもう一度、胸元から競り上がってくる。
ぐるんぐるんと巡る自己嫌悪と叔父の語る伝説と、くどい料理の匂いと不快な視線をごちゃごちゃに混ぜて、瞼の裏に貼付けて。
名前・ファントムハイヴは瞳を閉ざしたのであった。




(sebasutian,vincent/ Last Encore T )
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