Last Encore #3
“お父様“─、
いずれはそのような呼称で呼ばれることもあるだろうと考えはしたが、それが今日であるとは夢にも思ってはいなかった。
握られた掌から伝わる直情径行な体温が、彼女とヴィンセントを繋ぐ。
女の指先から肘までを覆うドレスグローブ、その繊細なブラックレースの隙間から入り込む熱は、彼と同じく控えめな低体温。
─娘?
彼は思わず面食らった自身を宥めると、やんわりと女の手を振り払った。



「.......君、どこか病院に入ってたことはある?」






*
 

三年ぶりに姿を見せた父は、名前の記憶よりは随分と若いように見えたものの、それは確かに父だった。
突如として己の頭の中に展開された居心地の良い庭園の夢。
溢れるように競い咲く薔薇とラベンダー、穏やかな小川、柔らかい芝生。
まるでここがユートピアかと見紛うばかりのこの夢の中で、父親の幻影と出逢うということが何を意味するか、名前は重々と理解していたのである。
死んだ父は死してなお彼女を護るように、あるいは執拗に追うように─、
名前の自罰意識に深く絡まって、強く彼女を制限する。
きっと、眠る前に大勢の男性から声を掛けられたから父が怒っているのだ、
きっと、眠る前に執事にでれでれとしていたから父が怒っているのだ、
こと異性間の接触に関することに厳しかった父親の幻影に、彼女はひどく怯えていた。


しかし目前に姿を現したヴィンセント・ファントムハイヴは、彼女を叱るどころか名前の手を柔らかく解くように振り払うと、笑顔で冒頭のようなことを言ってのけたのである。
“君、どこか病院に入っていたことはある?“
病院.......、病院?
よく病院の世話になっていたのは病弱だった母や弟であり、幼い名前は医者にかかることすら滅多になかったはずである。
それを知らぬ父ではない。
名前はきょとんと雫に濡れた瞳を瞬かせると、不安げに指先をいじいじと弄って口を開いた。


「お、お父様........?わたしは病院に入ったことはありませんよ.......?10歳の頃、一度ひどい風邪を引いて入院を勧められたことはありましたけれど.......、ほら、お父様が入院なんてダメだとおっしゃたじゃないですか.......!フランシス叔母様は大事をとって入院した方がいいと最後までおっしゃっていましたけど.......」
「いや、俺が言ってる“病院“っていうのは普通の病院じゃなくて.......って、君どうしてフラニーを知ってるの」
「どうしてと言われましても.......、叔母様ですもの........」
「.......」



父は、それっきり黙り込んでしまった。
まるで、名前のことを精神異常者か何かかと疑うような目でこちらを見ている。
名前は、“あ、あの.......“、と小さく声をかけてみたが、隣に腰掛けた父はまるで名前のことなど知りもしないとばかりに─、
ただただ、冷たく瞬くダークブルーの瞳に彼女を映すばかり。
それは、かつて生前の父が時々見せた眼差しにそっくりであった。
まるでスラリと抜かれたサーベルのような、鈍く光る刃物の眼差し。
いっそ一思いに殺してくれた方がマシだと思わされる刺し穿つ眼光。
名前はぴくりと肩を震わせると、“あの、“と躊躇いがちに口を開いた。
しかし、ヴィンセントは変わらず凍りつくような眼差しを彼女に注ぐばかりである。
“あう.......、“
名前は困ったように一つ呟いて、恐る恐ると心の奥に引っ掛かっていたとある疑問を口にした。



「あの.......、お父様、わたしが誰か分からない.........のですか.......?」


言うと、彼は深いため息めいたものを吐いて長い足を組み替える。


「俺はまだ人の父親になったつもりはないんだけど。」


その呆れたような物言いには、彼の本心の全てが詰め込まれていた。
ぎっしりと隙間なく埋められたチョコレートボックスのように、そこに名前の懇願が入り込む余地はどこにもない。
全身全霊で“お前のことなど知らない“と宣告された名前は、ぶり返してきた涙をぽつりと頬に落とした。
父がこの私を知らないという。
それは、どこか寂寥にも似た痛みとなって彼女の胸を締め付けた。
彼は確かに父の顔をしているのに、あれほど愛した娘を前に異常者を見るようにこちらを見ている.......、
悲しみではなく、痛みに瞳が潤む。
ひっく、と喉を鳴らすと、彼は“だから、泣かれても困る“と恐ろしいほどに落ち着き払った声音で名前の頭上に残酷な言葉を落とす。



「もう少し理性的に話し合えない?」
「っ.......、ご、ごめんなしゃ.......」
「謝罪を求めてるわけじゃない。泣いていても問題の解決にならないからきちんと話がしたいだけ。」
「.......、っ、は、い.......」
「.......で、まず大前提だけど。」


名前が必死の思いで嗚咽を喉の奥に抑え込むと、彼は出来の悪い後輩に数式を教えるように一つ一つ、彼の方の事情を紐解いていった。
名前の瞳からぼろりと落ちる雫を鬱陶しげに横目で見ることはあれど、相手を萎縮させると余計に厄介だと感じたのか、特に何か毒を吐くこともなく懇々と説明を紡いでゆく。


「まず、俺は誰かの父親になった覚えはない。そもそも結婚すらしてないのに子供なんか作るわけないだろ。それも自分と歳の変わらない子供なんて不可能だ。分かるね?」
「.......?お父様、おいくつなのですか.......?」
「だから俺はお父様じゃな.......、ああ、もういいよお父様で。だから泣かないで。」


お父様ではないと言った瞬間に瞳を割れんばかりに潤ませるのも大概にしてほしい。
ヴィンセントは盛大にため息をつきたいのをやっとのことで堪えた。
That’s funny.呆れ返ってなにも言えない。
まったくもってこの娘を名乗る女の傷つきやすい硝子の心臓にはうんざりしてしまう。


「.........で、いくつだって話だけど俺は18だよ。君も見たとこ俺と年はそう変わらないだろ?」
「じゅ、じゅうはち........!?」
「うん。」
「えっ、じゅ、じゅうはち........!?お父様が!?わたしは17歳なのですけれど.......!!」
「ほら。俺が18年前に生まれたのに、妹ならまだしも1つ年下の娘なんて作れるはずがない。」


実際には、妹は彼女などよりもよほど気の強い女である。
超人的な剣の腕前を誇る体育会系の妹の姿を脳裏に思い浮かべ、ヴィンセントは呆れたように自嘲的な笑みで口角を歪めた。
あの清廉潔白な妹も、もう少し彼女ほどの気の弱さがあれば可愛いげがあったかもしれないが─、そんなことを本人に言っては華奢ながらも鋭いサーベルでグサリ、だ。


「じゅうはち.......、私が生まれた時、お父様は20歳だったと聞いたことがあるはずなのですけれど.......」
「ふーん、じゃあ君は未来から来たとでも言うのかな」
「そ、そうとしか考えられません.......ええ.......やっぱり夢なのでしょうか.......、でも頬は痛いですし........」



先程自らの手で引っ張っていた頬をさすさすと慰めるようにさすって、彼女はむむむ、と難しい顔をして俯いた。
鈍そうな頭ながら、自らの置かれた状況を解き明かそうと考えているらしい。
彼はだんだんと愉快になってきて、彼女に同調してぐるりと出来の良い頭を一回転させた。



「俺が20歳の時に生まれた子供で17歳ってことは、君がいた時代は........」
「1889年です。」
「はは、20年も先の時代か。ここは1869年なんだけどね。」
「!?!?」
「1869年。首相はグラッドストンだよ。去年変わったばかり。」
「わ、私の知っている首相はソールズベリー候爵なのです.......」
「ソールズベリー候爵?弟の方?兄の方?」
「ええと.......、弟さんかお兄さんかは存じないのですけれど、お名前はロバート・ガスコイン=セシル候爵です。」
「ああ、弟の方だね。奇しくも俺の先輩だよ。20年ほど前のウェストンの卒業生だ。.......しかし、インド担当大臣を早々に辞職した彼が首相とは。よほど出世したらしいね。」
「.......???」
「政治の話は得意じゃない?」
「ご、ごめんなさい.......、あんまり興味がないものですから.......」
「まあ、それが正しいレディの在り方だと思うけど。」




気がつけば盛り上がっていた話に、彼はいくぶんこの少女の素性を受け入れる気になっていたらしかった。
当初は怪しい発言に情緒不安定な泣き様からてっきり頭のおかしい女が精神病棟から逃げ出してきたのだと思っていたが、少し気をつけて柔らかい少女の心を刺激しないよう話してやれば、そこそこ教養のある話はできるようだ。
彼女を自らの“娘“であると完全に信じたわけではないものの、詳細に彼女の語る1889年はいやにリアリティがある。
何から何までぺらぺらと話せるというわけではないところが余計に“らしい“。
ヴィンセントは名前を、この退屈な午後の暇潰しにはちょうどよい相手だと考えたようであった。
当初の凍りつくような、不審者に向ける表情を一変させる。
脱いでいたテールコートを翻し袖を通すと、彼女に軽く微笑みかけてそっと手を差し出した。



「話を戻すけど、名前を聞きたい。.......悪いけどこの場の俺は18で、“娘“の名前を知らないものでね」
「.......ちょっぴり寂しいですけれど.......、仕方がないですよね、お父様がご存じないとおっしゃるのですから.......、」



女は伏し目がちに瞳を陰らせたが、きっぱりと意識を切り替えたように頬に柔らかな花の微笑みを乗せると彼の手にそっと右手を重ねた。
柔らかな、年頃の女の手。
伝わる体温は彼に似て控えめな35度と少し。
ふにゃりとはにかんだ彼女は、薔薇の花弁のごとき唇をおっとりと開いた。




「名前・ファトムハイヴです。」



名前、名前・ファントムハイヴ。
それはぴったりとファントムハイヴ家にハマるようなハマらないような、どこか不思議な響きであった。
少女の手を控えめに握り返し、彼も口を開く。


「知っているだろうけど、ヴィンセント・ファントムハイヴだ。」



微笑みあった親子を包む午後の陽光は、その黄金のシロップのような色合いにじわりと夕暮れになずむぺールパープルの色を織り混ぜつつあった。
暮れゆくウィンザーの空に、ちゅんちゅんとこの日最後の小鳥が一声鳴いて、どこかへ飛び去ってゆく。
バタバタとどこかから聞こえる羽音の行く先を追って空を見上げる名前の髪がふわりと風に持ち上げられて、隣に腰かけるヴィンセントの頬を撫でた。
柔らかな質感の、サックスブルーの髪。
それは確かに言われてみれば自身の髪と似た珍しい色をしていた。
高い空に向けられる瞳は、アイホールに嵌め込まれた眼球の色こそ違えど垂れ目がちな目尻は自分によく似ている。


「って、まさかね」
「?」


可笑しそうに一人つぶやく。
彼の呟きに、薔薇の花がひらりと揺れた。










「ファントムハイヴヴヴヴ!!!!!!!!!!!」
「「!?」」



穏やかな親子の夕時を壊す怒号。
繊細な薔薇やラベンダーの花を散らしかねないその怒声は、ある種の天災のように白鳥宮に響き渡った。
怒り心頭といったドスの効いた低音に、“ファントムハイヴ“を名乗る二人は各々の反応を示す。


「な、だ、誰か呼んで.......!?」
「あー、ややこしい奴が来た。」



びくびくと獲物に狙われたリスのごとく大きく跳ねた名前、“ややこしい“などと口に出しながら面白そうに口端を上げるヴィンセント。
彼は颯爽とソファから立ち上がると、ひらりとコートのテールを揺らして名前の手を取った。


「お、おとーさま......?」
「逃げるよ。あいつに見つかると面倒臭い。」
「あいつって─、っきゃあ!!!!」



繋がれた手を引っ張られ、勢いよく抱え上げられる身体に思わず声が出る。
セバスチャンに抱き上げられ慣れている彼女も、こうして突然に身体のコントロール権を握られるとさすがに不安を覚えざるを得ない。
しかし、ヴィンセントはそんな名前の不安など知ったことでないと言わんばかりに重たい彼女のスカートを纏めて抱え上げた。
彼女の足ごと布量の多いスカートと纏めて横抱きに持ち上げる。
あっ、と名前が庭園のアーチのあたりに背の高い人影を見た時には、ヴィンセントはさっさと革靴で芝を荒らして走り出してしまった。



「君、結構重いな......」
「ド、ドレスの重さですう!!」


サクサクと軽快に足元で弾む芝。
静かだった小川は心なしかその流れを早めたか。
とにもかくにも訳の分からないままに彼の逃亡に付き合わされた名前は、腕に感じる父親の体温にそうっと触れたのであった。
見上げれば、挑発的に勝ち気に笑む若き父親。
その口元でにいっと悪どく緩む頬に、名前は“やはりお父様だわ“と感じたのであった。
今、背後から猛々しく彼を追いかけている“誰か“の正体が何となくわかったような気になって。





(Last Encore V/ vincent)



prev top next
ALICE+