「寮だよ。俺の所属する寮。」
梟のオブジェが二つ、遥か上方から名前を見下ろす。
白塗りの煉瓦で組まれた正門は堂々たる高さで以って奥の寮舎を護るようにそびえ立っていた。
門を抜けた先には、ちょっとした上品なアパートメント。
ダークブルーの屋根や十字架の紋様の浮かぶ窓は小綺麗である。
辺りに誰もいないことを確認すると、ヴィンセントは名前を抱き上げたまま正門をくぐった。
「あの......、ここってもしかして入っちゃいけないとこですか......?」
「当然。さっきも言ったけど、この辺一帯は女人禁制のウェストン校の敷地だ。君を連れ込んだことがバレれば、俺は退学かもね。」
「えっ、え......ええ!?!?」
「こら、うるさいよ名前。バレたら退学なんだからもう少し静かに。」
shh!と長い指を唇に当ててみせるヴィンセントであるが、当の本人はさほど焦っていない様子で寮舎の正面玄関の扉を開いた。
ぽすん、と彼女を下ろすと、正門の鍵をスラックスのポケットに乱雑に突っ込む。
一歩、一歩、と音を立てぬよう玄関ポーチを登る名前の手を取ってエスコートすると、彼はにやりと“面白くて仕方がない“といった様子で口を開いた。
「ようこそ、ブルーハウスへ。」
それから。
ヴィンセントは名前を素早く、誰の目に触れさせることもなく自身の部屋─、最上階の監督生部屋へと連れ込むミッションを鮮やかに遂行した。
途中、名前がどこかにハイヒールを一足落としてきてしまったことに気がつきプチパニックにはなったが、ひとまずは彼女を宥めて広い一人部屋へと押し込んだのである。
白鳥宮から逃げる際にどこかで落としてきてしまったハイヒールはどうも彼女のお気に入りだったらしい。
名前はなんとか人目につかない部屋へ逃げきった後も、ヴィンセントのベッドに腰掛けて小一時間はしょんぼりと落ち込こんでいた。
彼は、“片足だけ靴を落とすなんてシンデレラみたいだ“と呑気なことを考えていたが、名前が落ち込んでいるこの状況はともすればまた面倒臭いことになるかと考え直し(また泣かれでもしたら大惨事である)、厨房へ下りていくつか茶菓子とティーカップをくすねてきた。
「わあ......、」
「屋敷で飲むようなティータイムには及ばないだろうけど、どうぞ。」
ミルクたっぷりの紅茶を彼女へ差し出す。
ついでに軽く茶菓子も出してやれば、名前は途端に瞳をキラキラと輝かせて機嫌を戻した。
─面倒な子かと思ったけど、結構扱いやすいな。
自身は勉強机の椅子に腰を下ろし、ティーカップに口をつける。
目前でにこにことイートン・メスを頬張っている名前は、よほど菓子が美味しいのかリズムを刻むように身体を揺らしていた。
ふ、と軽く微笑む。
ヴィンセントは“そんなに美味しい?“と彼女に問いかけてみた。
「はい!せっかくウェストン校へ来たのに、私ときたらここへ来る前は気分が悪くてイートン・メスが食べられなかったものですから......無事にいただけて嬉しいです」
「ここへ来る前も君はウェストンへ来ていたの?何をしに?」
「弟がクリケット大会に出るというので、その応援に。前夜祭の途中で気分が悪くなって......、それで、その、休んでいるうちに気がついたらあそこで目を覚まして.......」
名前は、言いにくそうにもぞもぞと後半の言葉をぼかした。
どうやらこの若い時代の父は彼女の記憶にあるヴィンセントよりは幾分厳格でなさそうであるが、やはり父親に“大勢の男性に話し掛けられたこと“や“恋慕している執事に助けられたこと“を語るには、あまりにも名前の記憶の底に巣喰うヴィンセント・ファントムハイヴの姿は恐ろしい。
父のことは大好きだ。
世界で何よりも大好きだった。
しかし、全てを明け透けに語りきれる相手ではなかった。
名前が父親に対して抱える気持ちは、そういう複雑な事情が絡まり混じり合った宵闇の中にある。
彼女はスプーンの先で柔らかいメレンゲをそっと掬い、俯きがちに唇へ運んだ。
甘い甘いメレンゲと、甘酸っぱいストロベリーの香り。
舌の上でどろりと形を失うメレンゲは、砂糖の塊となって喉元へ流れてゆく。
熱を持ったように痛々しいその甘さに、深みへ嵌まってゆくようにも感じられる。
一方、若いヴィンセントにハッと息を呑ませたのは、彼女の口から飛び出した“弟“という言葉であった。
彼は眉を歪ませ複雑な表情を浮かべると、ぽりぽりと頬を掻いて“弟ということは“と呟いた。
それに、名前も弾かれたように顔を上げる。
父が微妙な顔をしているのにこてんと首をかしげると、名前は“ああ、“と補足説明的に語り出した。
「私には弟がいるのです。お父様の息子ですよ。」
「娘だけじゃなくて息子までいるわけ?未来の俺には......」
「ええ、お父様にそっくりな子です。名前はお聞きになりますか?」
「いや、いい。これ以上未来のことを知って微妙な気持ちになるのは避けたい。」
ヴィンセントは珍しくその顔色を複雑に染めて頭を振った。
繰り返すが、彼女の言うことが全て真実であるとは思っていない。
それどころかこの女が娘であるとも確実に信じたわけではない。
しかし、それが仮に虚言だったとしても未来のヴィンセント・ファントムハイヴという人間はこうだ、と断じられるのは心地が悪い。
まるで頼んでもいないレールを無遠慮に引かれるような、そんなつまならなさが胸を締め付けるのだ。
ヴィンセントは整理のつかない心持ちを流し込むようにティーカップに口をつけた。
流し込まれる紅茶は、ブランドはおろか一体全体どの茶葉かも分からない。
適当に厨房から取ってきた缶に入っていた茶葉である。
もしかすると、誰かが適当にブレンドの真似事でもしたものかもしれない。
はっきり言ってとても美味しいと賛辞を与えられるものではなかったが(とはいえ不味いわけではない)、今はこのオレンジピールとレモンピールの効いたさっぱりとした香りが有り難かった。
「で?君は弟の応援のために1889年のクリケット大会の前夜祭で気分を悪くして休んでいたところで気がついたら1869年の白鳥宮で目を覚ましたと。そういうことかい?」
「はい......、状況的にはそういうことになりそうです......」
信じがたいですけれど、
そう言って名前はまた一口、硝子の器にスプーンを差し入れた。
掬ったメレンゲの上に、ちょこんと大振りのストロベリーが鎮座する。
はむ、と一思いに口の中へとそれを飲み込むと、名前はきゅうっと口元をすぼめた。
おおかた、ストロベリーが酸っぱかったのだろう。
今日の青寮のデザート当番は二年生だったはずだ。
熟れたストロベリーを見つけ出せず、適当なものをボウルに載せてしまったに違いない。
─こういうことがあるから寮弟ってあんまり欲しくないんだよね。
ヴィンセントはこっそりと含み笑いを浮かべて酸っぱさにきゅうきゅうと目をつむっている彼女を見つめた。
美味いデザートが欲しければ店で買うのが手っ取り早い。
取れたボタンは店で繕って貰う方が綺麗に仕上がる。
部屋の掃除は......、自分でやればいいだけの話だ。
寮弟のもっと有用な使い道は彼のヴィジョンにあるにはあるが、それには柔な後輩ではダメだ。
“あの男“でないと。
「ごめん、後輩の作ったものだからフルーツの目利きが甘かったかもしれない。」
「い、いいえ.......、食べられないというほどではありませんでした......。そ、それに、メレンゲがとっても甘かったですから、これくらい酸っぱいストロベリーの方が中和できてよかったのかもしれません。」
名前はへらりと微笑むと、きちんと器を空にするつもりらしく半分ほど減ったグラスにシルバーのスプーンを運びつづけている。
単に食い意地が張っているだけかもしれないが、よく出来の悪いスイーツを食べられるものだ。
ヴィンセントはほとほと感心した。
おそらくは“後輩が作った“と聞いて、全て平らげなければこのイートン・メスまがいの代物を作った人物に悪いと思っているのだろう。
よほどお人よしなのか、貴族の娘にあっては珍しい気性である。
「君がいなくなって、1889年は大騒ぎだろうね」
何とはなしに彼は呟いた。
ティーカップの中は綺麗すっかり綺麗に飲み干されている。
彼がブルーとホワイトのストライプ柄のソーサーにカップをカチャンと置くと、名前は唇にスプーンを含んだまま“うう、“と呻いた。
離れた弟のことでも気にしているのか、その大きな瞳に影を落とす。
「どうしましょう......、あの子のクリケット大会が始まるまでに帰らないと......」
心配そうに呟いて、すっかり空になったグラスをベッドサイドにコトンと置いた。
弟とやらがよほど好きなのか、ううん、と唸り続けている。
彼女は続けて、“フランシス叔母様もエドもリジーも......、セバスチャンも心配しているでしょうか“と悩ましげに呟いた。
ヴィンセントの耳にはフランシス以外は聞き慣れない名ばかりである。
よもや“エド“や“リジー“、“セバスチャン“まで自らの子の名前ではなかろうか、と彼は失敗した刺繍図案のような顔をした。
「あ、エドとリジーはお父様の子供の名前ではありません。」
ヴィンセントが難しい顔をしているのに気がついて、名前は両手をぶんぶんと振って否定した。
続けて、“私の従兄妹です“と続ける。
従兄妹─、従兄妹?ということはつまり、
「もしかして、フラニーの子?」
「ええ、フランシス叔母様の長男と長女です。エドの方は弟と同じくウェストン校の生徒で、クリケット大会に出場するのです。」
「結婚できたんだね......彼女......」
ヴィンセントはホッとしたような、これまた“複雑“に複雑を重ねたように笑った。
正直、彼はあの人間とは思えない強さの妹が結婚するのは不可能だと考えていたのである。
世の男連中が好む家庭の天使の姿には程遠い妹。
その凛々しい姿は“天使“というよりは“騎士“である。
先日も寄越してきた手紙に“女王陛下主催のフェンシング大会に出場する“と勇ましい一文が刻まれていた。
まさか彼女が無事に嫁ぎ、しかも長男と長女に恵まれるとは兄としては誇らしい。
しかし、同時に彼女の夫の心配をせざるを得ない。
「フラニーの夫になる人って......」
「お教えしていいのですか?」
「ちょっと、これはぜひ聞いておきたい。」
ヴィンセントは好奇心に勝てなかったといった表情でごくりと唾を飲み込んだ。
自分が知っている人物であるとは限らないが、仮に知り合いであれば“気の強い女“に耐性のある人間かどうか見極めることくらいはできる。
彼は長い足を組み替えると、名前の返答を待った。
「ミッドフォード候爵です。アレクシス・レオン・ミッドフォード候爵。」
「ミッドフォード......なんだって?ミッドフォード!?」
ヴィンセントは垂れがちの瞳を見開いた。
彼がこうして驚嘆を露にすることは至極珍しいことであるが、これほどの大珍事を耳にすれば驚くのも無理はないことである。
ミッドフォード......、あの愉快な緑寮の監督生の寮弟。
彼の知る限り、アレクシス・ミッドフォードは先輩の後を甲斐甲斐しくついて回り、怒りっぽいあの男を宥めるのに死力を尽くしている男である。
確か、ミッドフォード候爵家は代々英国騎士団の団長を務めてきた家だと聞いた。
次期候爵である彼も、いずれは騎士団を纏め上げるのだろう。
その割にはどちらかというと穏やかな男に見えたが、よもや彼が妹を娶るとは......。
彼女の言が詭弁であったとしても、愉快な未来予測であると言って差し支えない。
ヴィンセントは目を細め、“はは、“と吹き出すように笑った。
「面白いね、名前の語る“未来“は。」
「そうですか......?私にとってはただの日常なのですけど......」
「充分おもしろいよ。やっぱり君をここへ連れてきてよかった。」
退屈な午後、退屈な学園生活、その全てがくるりと一回転して虚像のように翻る。
校則破りをして女を部屋へ連れ込んだというだけでもリスキーで胸が疼いた。
それが、リアリティのある“未来“を語る女とあらばもっと愉快だ。
「はあ......、」
名前は不可思議そうに機嫌の良いヴィンセントを見上げている。
─それに、まあまあ顔も可愛いしね。
そんな下卑たことも考えないことはない、夕時。
ヴィンセントは立ち上がりぐっと身体を伸ばすと、窓外に沈みゆく夕陽を視界で溶かした。
さも“寄宿舎“といった風情の木枠に囲われた窓硝子には十字の紋章が薄く刻まれている。
その向こう側、ウィンザー城に落ちるように垂れ下がる日の名残。
これは女王の使いで裏社会を駆け回るよりも面白いかもしれない─、
ヴィンセントはくるりと背後を振り返ると、呑気そうに瞳をぱちりと瞬かせた名前に微笑んだのであった。
その夜である。
ひとまずは名前に帰る場所がない以上、彼の部屋に泊めてやるという選択肢以外に解決法がないのは仕方がないとして、彼女をどこに寝かせるかというのが最大の問題であった。
監督生であるヴィンセントは他の学生よりは比較的広い部屋を与えられているものの、当然ベッドは一つしかない。
天蓋はかろうじてついているものの、簡素な寝台である。
ファントムハイヴ邸の彼の部屋にあるものと比べれば、語るに忍びない量産型のもの。
何とか二人で眠れないこともないが、さすがに婚前の少女と(仮に自分の娘であったとしても)同衾するには1869年の倫理意識は高すぎた。
とりわけ、相手が下着も同然の姿であると思えば。
「お父様......、」
「いいって。君はそこで寝て。」
「でも.......、」
「俺は向かいの空き部屋のベッドを使うから。名前はそこでゆっくり眠るといいよ。」
俺の部屋には、下級生は勝手に入らないから。
そう言い残し、ヴィンセントは巧妙に名前から視線を外して部屋の扉を閉めた。
ガチャン、蝶番が噛み合う金属音が静かな消灯後の寄宿舎に大きく響き渡る。
暇潰しに、と部屋から持ってきた小説本を肩に担いで、ヴィンセントは“参ったな“とこぼして向かいの空き部屋の扉を開けた。
本人曰く、“気がついたら1869年の白鳥宮で目を覚ました“ということであるが、となれば彼女が寝間着一式を持っていなかったとしても不思議ではない。
むしろ、持っていない方が自然である。
無論、堅苦しいコルセットや重たいドレスで眠るには窮屈であろうし、ドレスを脱いで眠ってしまうという選択は合理的だ。
分かっている、それはよく理解できる。
しかし、
「......かと言って、抵抗感なく脱ぐのはさすがに......」
脳裏に焼き付くフランネルの青いペチコート、くっきりと腰のくびれを形作るロイヤルブルーのコルセット。
繊細な手縫いのレースで胸元を飾るそれは、いつか同級生たちがこっそりと回し読みをしていたポルノグラフィーの表紙モデルが身につけていたものとよく似ていた。
豊満な胸を押し上げる針金の細さ、肉体に跡を残して締め付ける拘束具のくせに飾り付けられたフリルやリボンは、年頃の青年たちの倒錯した感情を煽る
パチン!と金釦を外してコルセットを脱ぎ去れば、中には衿口の大きく開いた細いシュミーズ......、
「あれは少し言って聞かせたほうがいいか……」
いくら父親(?)の前だからといって、年頃の少女が恥ずかしげもなくシュミーズやペチコート一枚の姿を晒すのは体裁が悪い。
それもあの格好で“頑張ればベッドで二人眠れます!“など!
何かの手違いが起こる可能性は著しく低いがゼロではない。
普段からあの様子でへらへらと下着を晒しているのだとしたら、わが娘(?)ながら傑物である。
勿論、皮肉であるが。
「1889年は、もしかすると倫理が死んでるのかもしれないな」
ぐっ、と伸びをすると、ナイトシャツの裾が腕に引っ張り上げられて足元に風が通る。
ひやりとした夜の冷気を足先で払って、ヴィンセントは自嘲の入り混じる空笑いを浮かべて向かいの空き部屋の扉を開いた。
ギギ、ギ、
かなりの期間油の注されていない扉は苦しげな呻き声をあげて彼を室内へ迎え入れる。
まず第一に鼻先を通り抜けた曇天のごとき湿った匂いに、ヴィンセントは顔をしかめた。
埃っぽい部屋である。
しかし、眠れないほどではない。
“明日になったら、彼女も跡形もなく消えてたりして“
一つ気を紛らすように言って、彼はごろりと古いベッドの上に横になった。
ギイ、ギイイ......、
軋む木の音が深夜の空気を伝う。
─明日になったら、彼女は消えているかもしれない。
もう一度、同じことが頭を過る。
1889年へ帰った未来の娘か、それともこっそりと隙を見て逃げ出したほら吹きの侵入者か。
どちらにせよ、あの不可思議な少女は、太陽の訪れと共に自分の前から姿を消してしまう。
そんな気がする。
「そうだとしたらつまらないけどね。」
静かに呟いた彼は、読書灯としてベッドサイドの棚に置いてあった蝋燭に火をつけた。
マッチを擦れば爆ぜる火花。
蝋に触れれば、燃え上がる灯。
はだけるシャツも気にせず、ごろりと俯せに横になる。
持ってきていた小説をさして面白くもなさそうな顔で開くと、彼はぺらぺらとアルファベットの羅列を追う作業に集中した。
自然と下りて来る睡魔がその意識を侵すまで、ただ淡々と。
前時代的な派手派手しいカーテンの向こうでは、“明日“が刻一刻とその足音を響かせつつある。
ヴィンセントは一向に訪れる気配もない睡魔を待って、一夜を明かすのであった。
たとえそれが、非日常の終焉へ向かう眠りだったとしても。
そして同時に、定められた予定調和の崩壊を望んで。
(Last Encore W/ Vincent)