柔らかな芝を裸足で踏み締める感触が、やけに生々しい。
丁寧に刈り込まれた芝と、どこからか漂う薔薇の香り。
密やかに風に乗せられた香りはラベンダーだろうか。
注ぐ夏の陽射しがキラリと輝いて、彼の首に下げられたロザリオに反射する。
“待ってください“─、
深い闇のような黒衣は私を嘲笑うように、手を伸ばしても届かない。
声を掛けても、あの人は振り返ってはくれないのだ。
まるで自分で追いつけとでも言うように、早足で先へと進んでしまう。
思い通りに動かない脚は縺れてバランスを失って、重たいドレスのスカートはどこまでも私の邪魔をする。
“待って......、待って!!“
“彼“は一度も私を見ることなく、煉瓦のアーチの向こう側へ言ってしまった。
ー叫んだはずの声は喉の奥で潰れて凹んで、上手く響かなかった。
「......名前!」
「......、っ!?」
肩を揺すられる衝撃が、彼女を夢の残骸から引っ張り起こす。
はっと目を覚ますと名前は視界を覆う見知らぬ天井にほんの一瞬、ぽかんと思考を止めた。
剥き出しの木製の梁、装飾性のない深紅のカーテンが周囲を取り囲む。
─、ああ。
肩に添えられた腕の先をゆっくりと辿ると、呆れたように睫毛を伏せる青年がこちらを見ている。
ブルネットの髪は癖のないストレート、どこかカジュアルに着崩された制服。
コートが嫌いなのか、今朝もテールコートは身に纏うことなく肩から掛けていた。
ほの暗い瞳を嵌め込む垂れた目。
万人が“整っている“と評するであろう甘いマスク。
本当に自分はこの人の遺伝子を継いでいるのかと不安になる美青年─、
若き日の父は、いつまでもぐうたらと惰眠に囚われる名前を見下げると大きくため息をついてみせた。
「俺はてっきり、朝になれば君は消えてしまうかと思ったんだけどね。夜露が消えるみたいに、俺に何も言わずに。」
品の良い漆黒のテールコートをサイドテーブルに掛け置くと、彼はどかりとベッドに腰掛けた。
“その方がストーリーとしては完成してるだろ“
意味ありげに片眉だけを吊り上げる。
彼は未だシュミーズにペチコートという裸も同然の姿でシーツに包まる彼女の額にぺしっと中指を突き立てると、“それから“、と口を尖らせた。
「いつまでもぐうたら他人のベッドで惰眠を貪っていたのはいいとして。君、その格好で恥ずかしげもなく男の前に出るのは辞めた方がいいんじゃない?」
「え......、?」
ヴィンセントは説教のようなことを口にしながらシーツを摘み、彼女の胸元までを覆った。
婚前のレディがほいほいと素肌を晒してよいはずがない。
脚は辛うじて隠されていたにしても、問題はそういうレベルでなくより根幹にあるのである。
ヴィンセントは続けてぺしっともう一発彼女の額をつつくと、皮肉っぽく口角を上げた。
「1889年では、裸も同然の姿で男女が同衾するのが慣わしにでもなってるの?」
「あっ、あの、その、そうじゃないのですけど......、」
「君だけがおかしいのかな?」
「ち、違います......、その、あの、......お父様だから気にしなくていいかと思って......」
ようやく恥ずかしそうに頬を染めた彼女は、大急ぎでシーツを胸元まで引き上げると“ごめんなさい“とぺこりと頭を下げた。
揺れるサックスブルーの毛先がひょこひょこと彼女の首筋を擽る。
顔が燃えるほど恥ずかしい。
相手は父親だから下着を晒してもいいと考えていたなんて、私はなんてはしたない娘なのだろう。
父親にも見たくない物くらいあるだろうということに、この抜けた頭では思考が及ばなかった。
名前はうじうじと両手の人差し指同士をつつき合わせると、困ったように俯いた。
「その、たとえお父様だとしてもお見せしてよいものと悪いものがありましたね......、ごめんなさい、お見苦しい姿をお見せして......」
「いや、見苦しいとかじゃなくてね、」
「幼い頃は苦しいコルセットをつけてドレスを着るのが嫌で......、お着替えの最中に逃げ出しては肌着で屋敷を駆け回ったり、お父様に泣き付いたりしていたものですから、ついうっかり.......、この格好でも大丈夫かと思って.......」
「はあ.......、」
一体いくつの時の話だよ!
この場にエドワードやシエルがいれば、盛大にツッコミを入れられていたに違いない。
しかし、残念ながらこの場に常識人の彼らはいない。
そもそも、まだ生まれてすらいないのである。
名前は腕を伸ばすと、あせあせと床に落としていたドレスをずるりと引っ張り拾い上げた。
なんとか衣服を着ようと、たっぷりのフリルとバッスルに悪戦苦闘して身支度を整える。
しかし布量の多いドレスは一人で支えるにはあまりにも重く、首もとのバックボタンは一人では留められなかった。
そもそも、ベッドに腰掛けながら着替えを済ませようというのが無理があるのだが、かと言ってシーツから出てしまえば再び父親の前にだらしのない下着姿を晒す羽目になる。
加えて、ふと気がついてみれば名前は一人でドレス着替えをしたことがないのであった。
普段、屋敷ではただ棒のように立っていればメイリンやセバスチャンが着替えを済ませてくれる。
女学校に通っていたときも同様で、時に正装でパーティなどに出る場合には同級生たちとお互いの着替えを手伝いながら身支度を整えていた。
女学校の制服や普段着のピナフォアならば一人で着替えもできるが、さすがにイブニングドレスのような大振りのものはどう考えても世間知らずの貴族の娘の手に負えるものではない。
名前はへにゃりと眉を下げて情けない困り顔を晒すと、長い脚を組んで椅子に腰掛けているヴィンセントの方を振り返った。
「お、おとうさまぁ......、」
助けを求めるように彼女の視線がヴィンセントを照らす。
“後ろのボタンを留めてください“
彼女の言わんとしているところはそんなところだろうか。
どこか間抜けにも見える名前の着替えを思案げに見つめていた彼は、にやりと凶悪な笑みを浮かべた。
エドワードやシエルのように、常識的な行動など彼に期待すべきではない。
あの従兄弟と弟ならば、恥ずかしげに俯いて白い項から視線を外してボタンくらいは留めてくれるだろうが、彼がそう易々と衣服の着替えを手伝うであろうか。
それも、ちょうど“男の前で素肌を見せるな“と説教をした後に。
─答は否、である。
ヴィンセントは早速と面白そうに口元を歪ませた。
立ち上がり、ベッドにゆっくりと腰掛ける。
そっと隣に座れば、名前は安心しきってくるりと釦のある背中を向けてきた。
ギイッ、彼が片手をついて体重を預けると、古いベッドが苦しげに軋む。
上手くドレスが着られずにふにゃふにゃと布に埋もれてる彼女の耳元に、ヴィンセントはふうっと吐息を流し込んだ。
囁く声音は腰に響くテノール。
細められた瞳には、ギラリと焔が灯る。
「今日は手伝ってあげるけど。気を付けてよ。俺だって多少興奮することもあるから......ね?」
「!!!」
パチン!
細長い指で留められたアンティークゴールドの釦が、かっちりと首元を固定する。
勢いよくドレスの衿口から顔を覗かせた名前の頬は、先ほどとは違った羞恥で染まっていた。
艶めいたディープピンクに染められた頬。
咄嗟の防衛本能か、身を守るように両腕で胸を隠す姿がどうしようもなく滑稽である。
とぼけた顔の割には“そういう“事柄も理解できるらしい彼女に、ヴィンセントはくつくつと可笑しそうに喉を震わせた。
「なんて。嘘だよ、嘘。」
「ひ、ひどい......お父様ったら!からかわないでくだしゃいっ!!」
「くっ、はは、噛んでる噛んでる」
「もう!おとうしゃまあ!!」
時刻は午前10時を少し回った頃。
下級生たちが上から下へと寮内を駆け回る寮弟の時間である。
同級生たちは自らの抱える弟に部屋の掃除をさせたり給仕をさせたりと様々な雑用をやらせたりなどして、自分は溜め込んだ宿題を消費したり筆マメな者は家族や婚約者に手紙を書いたりなどしているのだろう。
ヴィンセントは立ち上がると部屋の窓を大きく開け、外の空気を取り込んだ。
吹き込む風はラベンダーの香りを運ぶ、午前の陽気。
外からは先輩から申し付けられた雑務に悪戦苦闘する下級生たちの呻き声が賑やかな喧騒となって耳元を撫でる。
景色の奥に佇む堂々たるウィンザー城には、王室旗の代わりに国旗がはためいていた。
顔を真っ赤にしたからかい甲斐のある“娘“は、ベッドから降り立ってドレスのスカートの襞を慌てて整えている。
「今日もいい天気だな」
吹き抜けるウィンザーの風に髪を靡かせて、彼は一人機嫌よく呟いた。
午後一番の授業は退屈窮まりない数学だった。
彼は各教科の中でもとりわけ数学を嫌っている。
苦手というよりはむしろ得意な方であるが、考える余地もなく決まった公式に当て嵌めて計算をして、答を出す。
この言われるがままに変則の効かない科目は退屈で退屈で仕方がないのであった。
最も、そんなことを言ってしまえばどの科目も結局は退屈なのであるが。
授業の後半30分は昼寝をしていて寮監から目を付けられたものの、授業の最後に出題された応用問題(彼は応用も何も淡々と公式に当て嵌めるだけじゃないかと文句をこぼしていたが)に難無く解答したお陰でYを喰らうのは避けられた。
寮監の“そういうところですよファントムハイヴ君!“という激昂と共に、授業終了の鐘が鳴る。
ガラン、ガラン!
大きく鐘の揺れる振動が古ぼけた教室の木机を揺らす。
彼は早々にテキストとペンを纏めると、すたこらと教室を後にしたのだった。
「やっぱすごいよなあ、ファントムハイヴ君は。あの場面であの問題、正解できないよね、普通。」
「別に、たまたま予習してただけだよ。」
「授業中に昼寝して罰則喰らわないのお前くらいだぞ」
「まあ、そもそも昼寝する奴自体ブルーハウスには少ないけどね」
「全くだよ。僕はつくづく君が何故ブルーハウスにいるのか不思議でたまらない。」
「授業態度は悪くても勉強はできるから」
「厭味な奴だなオイ!」
「あはは」
授業後の午後休みには、各々がどこで過ごそうかと校内をさまよい始める。
ウェストン校の設立者、ヘンリーY世の銅像の置かれた中庭を囲む廊下はいつも通りの喧騒に満ちていた。
他の生徒と違わず、午後のクリケットの練習までは適当に休みたいところではあったが、彼にはそうはいかない事情があった。
午後一番の授業が始まる前、受けとった一枚の紙切れ。
胸ポケットに突っ込んでいたそれを引っ張りだし、ぺらぺらと太陽に翳してつまらなさそうに目を通す。
何の装飾もない、ただの羊皮紙の切れ端に無骨な字で寄越してきたのがさも“あいつ“らしい。
「?なんだそれ」
「いや......、ただの紙切れさ。」
「?」
からりと笑うと、ヴィンセントは“じゃ、俺はここで“と同級生達に手を振った。
テキストを小脇に抱えると、堂々と芝生を横切り白鳥宮へと脚を進める。
前時代的なヘンリーY世の銅像の前を振り返りもせずに通りすぎて、彼は校舎の裏へとひょっこり消えていった。
フラワーホールに挿した寮花がひらひらとその花弁を揺らす。
午後2時の空は、澄み渡る快晴。
ちぎった綿のような雲がぽつんぽつんと浮いている。
彼は代わり映えのない空に大きく欠伸をすると、校舎裏の庭園へと続くアーチをくぐった。
何か話があるとかで午後休憩の時間に他寮の監督生から呼出しを食らっているのである。
どうせ大した話ではないのだろうが、こういう監督生同士の呼出しに顔を出さないというのはさすがにまずい。
せっかくの午後休憩を潰される苛立ちに大きくため息をこぼす。
ヴィンセントは白鳥宮の前で仁王立ちをしている背の高い男の姿を視界に入れると、面倒くさそうに歩みを進めた。
「何の用かなディーデリヒ。わざわざファッグに手紙を持って寄越させてまで俺に話したいことでもあるのかい?」
仁王立ちを続けていた緑寮の監督生─、ディーデリヒは、険しい表情のままに彼の呼びかけに応じた。
このままクリケットの練習に行くつもりであろうか、左手にはバットやウィケットをしまっておく木箱を抱えている。
くるりとヴィンセントの方を振り返ると、額に刻まれた皺がくっきりと見て取れた。
きっちりと釦の上まで締められたタイ、姿勢の良さは四角四面なその性格を映すようで息苦しい。
ヴィンセントは肩を竦め、片足に重心を置いて彼の話を聞く体制を整えた。
元々、ディーデリヒとヴィンセントは犬猿の中である。
いや、より正しく言えばディーデリヒがヴィンセントを一方的に嫌っていると言った方が正しい。
ヴィンセント本人は彼に対して特に思うところはないのだが(そういう態度が余計にディーデリヒに言わせれば“腹が立つ“らしい)、サボりの常習犯であるヴィンセントのとばっちりを食っているのがなぜか毎回あの強面の彼らしく、一方的に敵視されているのだ。
そういえば、確かに昨日も“ファントムハイヴヴヴヴ!!!“と凄まじい怒声を上げていたが、よくよく考えてみれば昨日の午後には各監督生による期末テストの結果張り出し業務があったのだった。(当然、名前を匿っていた彼は準備に参加していない)
なるほど彼が昨日怒号を響かせていた原因はアレかと手を打ちそうになったのを寸でのところで我慢をして、ヴィンセントは涼しい顔で自分よりいくぶん長身の相手に視線を向けた。
「いつも通り機嫌は良さそうだね。」
「そう見えるならお前の目は節穴だな。何故呼び出されたか、自分でも予測くらいはついているだろう。」
「期末テストの張り出しに参加しなかったことだろ?ごめんごめん、サボったんじゃなくてすっかり忘れてて。悪かったね。」
ヴィンセントは少しも“悪かった“などと思っていないような顔で、ディーデリヒの肩を叩いた。
これで話は終わりだ、とでも言うように“6月4日の準備は忘れず行くから“と言い残し、革靴の向きをくるりと変える。
長居は無用だと長い脚を庭園の出口へと向けた彼に、次はディーデリヒが肩を掴む番だった。
ギリ、
骨でも砕くつもりかと疑わざるを得ない力が、彼のどちらかと言えば華奢な肩にずっしりとのしかかる。
振り返れば、ディーデリヒは先程よりもずっと難しそうに眉根をひそめて彼を睨みつけていた。
「.........なに?」
「単刀直入に聞くぞ。お前、昨日ここで何してた?」
低い声が辺りに響く。
─面倒なことになったみたいだな。
ヴィンセントは脳裏に名前の呑気そうな笑顔を浮かべ、口角を歪ませた。
水を打ったように静まり返った庭園の中心で、二人の青年は風に髪の先を泳がせて睨み合う。
普段ならちゅんちゅんと心地良さそうに歌う小鳥たちも、今日は静かだ。
ヴィンセントは慎重に言葉を選ぶと、はぐらかすように笑って口を開いた。
「何してたって?本を読んでたんだよ。成績貼り出しのことをすっかり忘れていたから、いつも通り昼寝のついでに読書をしていた。そこのソファに寝転がってね。」
軽くソファに手を翳すと、目前の男は更に険しく顔を歪ませた。
─まずいな、見られてたかも。
冷静に頭は状況判断を下す。
危機的状況である。
普通の人間ならば冷や汗の一つでも流すだろう。
しかし、彼の表情はあくまで平静そのもの。
ディーデリヒはそれが気に入らなかったのか、苛々と舌打ちをすると手にしていた簡素な箱から一足のシューズを取り出した。
ゴトン、と蓋が外される。
がっしりとした男の手によって中から姿を現したのは、高価そうなブルーのハイヒール。
明らかに女物と分かるそれには、踵部分にロイヤルブルーの薔薇飾りがついていた。
昨日、名前の髪についていたヘアアクセサリーと揃いのデザイン。
紛れもなく、それは昨日彼女がここで落とした靴の片方であった。
「昨日、落としただろう。」
「ああ、本当だ。俺が落とした靴だね。」
「......」
「......返してくれるんだろう?」
手を伸ばして靴を受けとると、同時に手首を掴まれる。
問い掛けても、ディーデリヒは無言でこちらを見つめてくるばかりだ。
ぱし、と彼の手を弾くと、ヴィンセントは靴を片手に掴んで“じゃあ、“と今度こそその場を立ち去ろうとした。
「待て!」
「......」
「昨日の女は誰だ。」
「女......?さて、俺は知らないね。」
「嘘をつくな!その靴、お前が昨日抱えて逃げた女のものだろう!」
追ってきたディーデリヒが靴を取り上げる。
明らかで確実な疑惑。
靴を拾われた上に名前の姿まで見られていたらしい。
状況的には不利に限りなく近いものの、こうして胸を擽るスリルは心地がよかった。
退屈な日常に顕れて、背筋を伝う緊迫。
“追い詰められる“ことの愉しみ。
学園に報告される?退学?放校?
この状況、口先一つでひっくり返せるか?
─最高に楽しいね。
ぺろりと唇の端を嘗める。
ヴィンセントは困ったように眉を下げ─、しかし愉快そうに口角を上げた。
「俺の靴だよ。俺って細い方だし女の靴も似合うかと思って買ってみたんだけど、どう?」
「ふざけるな!」
予想通り、彼はげっこうしてヴィンセントに掴みかかった。
ぐっとシャツの胸倉を掴まれる。
引き上げられるシャツが、呼吸すら許さぬと彼の首もとをギリギリと締め付けた。
頭に血が上っているのか、己を締め上げる男は怒りにうち震えていた。
しかし、一向に苦しくなさそうににやついたヴィンセントは、“落ち着けよ“と滔々と口ずさむ。
まるで反省の色が見えない彼に、生真面目な監督生らしくディーデリヒは瞳孔を大きく開いて吠え立てた。
「お前!女を学園に連れ込むなんて何を考えてる!!!」
ディーデリヒが取り落とした靴が、撃ち落とされた鳩のように鈍い音を立てて芝の上へ落ちる。
落ちた衝撃で薔薇の飾りが取れてしまったのを横目で見て、ヴィンセントはやれやれと頭を掻いた。
─お気に入りだったって、無くして落ち込んでたのになあ。
呆れたような微笑みを浮かべた彼は、同時に自身の“勝ち“を確信して鼻先を鳴らした。
おとなしく掴まれていた胸倉から男の手を振り払い、ラフに開けられたシャツの衿を正して靴を拾う。
壊れた薔薇飾りは、一番外側の花弁が欠けてしまっていた。
「そんなに言うなら、申し開きをしようか?」
「......なに?」
「説明するよ。“彼女“のこと。君だって伝統を守る監督生として、俺だけをしょっ引いただけじゃ満足しないだろう。」
“共犯の女“も処罰しないと。
ぼそりとディーデリヒの耳元に囁いた彼は、勝ち気な笑みを浮かべた。
一歩下がると、ついて来い、と手で合図をして彼をどこかへと誘う。
「......」
ディーデリヒは少し思案するも、箱を抱えて迷いなくヴィンセントの後を追った。
規則破りは許されない、伝統の崩壊を見逃すわけにはいかない。
ただその一心で、自らが罠にまんまと掛けられたとも知らずに。
「......あの女、一体誰なんだ。お前の婚約者か」
「その辺で引っ掛けた女。」
「なっ......、なんだと!!!お前とんでもない奴だとは思っていたが不純異性交遊にまで手を出していやがったか!!!」
「あー、てきとうな女で遊ぶのは楽しいなあ、後腐れもないしなあ」
「そこへ直れ!!!お前のその腐った精神ごとたたき直す!!!」
「落ち着けよディー。憤怒は身を滅ぼすぞ。」
午後の一幕、彼の言葉は巧に生真面目な青年を怒らせる。
テムズの支流、フェローズエイトの水面に自らの顔が映りこむのをにい、と見下げて、彼は呟いた。
「身を滅ぼすよ。......言葉通り、ね。」
(Last Encore X / vincent )