水の器 閑話休題
「……鳴上くん、氷鷹さん、二人ともそろそろ部活に戻りなさい。最終下校時刻まで30分しかありません。後片付けをする時間です。」
「おや、もうこんな時間でしたか。お時間を取らせてすみません………愛称ちゃん、部活の後片付けが終わったら裏の駐車場で待っていてください。一緒に帰りましょう」
「……うん、」
力なく頷いて仕事を受けると約束した彼女は、終始父親の顔色を伺っていたように見えた。
学院内で見せる顔とは明らかに違う、びくびくと落ち着かない上目遣い。
綺麗な能面とでもいえばよいのか、まるでグラビア撮影に入るモデルのような作り物の顔をして、彼女は立ち上がった。
本来ならば感情表現の豊かな彼女が、父親の前では「畏怖」以外の感情を全て殺して怯えている。
頭を垂れたまま、鳴上嵐に連れられて応接室を出ていく後ろ姿が震えているように見えたのは、錯視だろうか。
否、錯覚などではないと、彼は本能的に理解していた。
誰だって─、それこそ自分でさえ、この男に「できますね」などと圧力を掛けられれば怖い。
その時、椚はただならぬ予感を感じていた。
何か危険な予兆─、
よもやこの父娘には家庭内暴力の兆しでもあるのではないか?
そう思い至るも、すぐさま自らの解答を自らで否定する。
確かに、氷鷹誠矢は普通の人間ではない。
そしてやや人間らしさに欠けているのも事実ではある。
しかし、娘に暴力を奮うような野蛮な真似をする人間でないことは確かであった。
倫理意識の問題というより、単純に一時の感情で自らの立場を失うリスクを犯す男ではない。
計算づくの行動しか取らない彼と暴力とは、どう考えても結び付かない。
長らくの付き合いのある「先輩」という立場にある彼のことは、それなりに理解しているつもりだ。
だからこそ、「氷鷹先輩に限って」と理屈と私情が冷静な推理の邪魔をする。
眼鏡のブリッジを押さえつけ、彼は疲労困憊といった様子で息を吐いた。
─やはりどうかしている。氷鷹先輩に限って家庭内暴力など。腕っぷしが強いようには見えない彼に限って。
─けれど、それが物理的な暴力でないとしたら?
─それが先ほど娘にかけていた圧力のような、精神干渉によるものだとしたら?
「章臣くん、ありがとうございました。お手数をおかけしましたね。」
鳴上たち二人を追い払った後の応接室。
先程までの騒ぎがどこへやら。閑散とした静かな室内で、彼はにこりと機械のような微笑みを浮かべてそう言った。
─精神干渉による暴力。
プログラミングされた人工知能のような薄い笑みを浮かべる彼を見て、胸には無限に不安が沸き上がってくる。
精神的なDV─、いや、本人はそれが暴力の形をとって娘を追い詰めているとは知らないかもしれない。気がついていないかもしれない。
しかし、それが不可視の拳となって彼女を傷つけていたとしたら。
彼女が17年間もの歳月をこの父親の下で、「氷鷹誠矢の娘」として。
彼が最も権力を奮いやすい芸能界という名のフィールドで、その「庇護下」に囲われ怯えながら生きていたとしたら?
つう、と額に汗が伝う。
室内が暑いわけではない。
応接室の気温は"国王陛下"を迎えるため、快適な温度に下げられていた。
スーツの胸ポケットからハンカチを取り出し、額を拭う。
背中にぞくりと這う悪寒が、嫌が応にもその汗の理由を裏付けた。
─恐ろしい。
我が子に何の躊躇いもなく無理を強いて思い通りに動かすこの男が。
我が子ですら、まるで駒か何かのように扱うこの男が。
これがあるべき親子の形であるはずがないと、椚は氷鷹誠矢から視線を逸らしながらも口を開いた。
「……先輩、私には他所のお宅の教育方針にまで口を出す権利はありませんが……。」
「おや、学校の先生からそんな風に切り出されるとドキドキしますね。父親失格だと叱られてしまうのでしょうか?」
氷鷹誠矢はソファに腰かけたまま、困ったように眉を下げた。
しかし、その口角はこの状況を楽しむように吊り上げられている。
まるで「ドキドキ」などという言葉からは程遠い様子で長い脚を組み替えた彼にごくり、と畏怖の唾を飲み込み、椚は頭を下げた。
「………あまり、彼女を叱らないでやってください。ご家庭での教育が厳しいのではありませんか。どうもあの子は先輩に怯えているように見えて仕方がない。」
「そうですか?僕にはいつも通りの愛称ちゃんに見えましたけれど。」
氷鷹誠矢は、顎に手をやって中空を見つめた。
惚けているという風に見えなくもない、軽い口調。
「あの子は変わった子ですから、僕の前ではいつもあんな感じですよ」と口端を吊り上げたままに言葉を続ける。
そのあまりに飄々とした物言いに、椚は眉をひそめた。
未婚であり人の親になったこともない身では、何を言ったとしても理想論にしかなり得ないことは理解している。
家庭を持ったこともない夢想家の妄言が、現実の父親に聞き入れられるとも思えない。
それでも、まるで相手にされないこの状況のまま引き下がることを真面目な彼はよしとしなかった。
ここは刺し違えてでも物申してやらねばならぬと、己の内の正義感が顔を出す。
依然として口角を上げたままの氷鷹誠矢に向き直り、椚はもう一度と頭を下げた。
「先輩、お願いします。あの子に自由を与えてやってください。私は現役当時の名前さんを詳しく知っているわけではありませんが……、あの子はもう、充分に働いたでしょう。」
「……おやおや、君も先生らしくなりましたねぇ。可愛い生徒のために頭を下げますか。それもこんな『悪い』父親に二度も………ふふ、すみません。ふざけていい空気ではありませんでしたね。」
目前で頭を垂れたままの後輩を少しも気にした様子もなく、氷鷹誠矢は微笑む。
まるで、久方ぶりに会った後輩と他愛もない戯れに興じるかのように。
もともと、人の話を聞きもしなければ自分の話を相手にきちんと伝わるよう配慮して話すということすらしない相手である。
こうしてあっちへひらりこっちへひらりと振り回されているうちに、彼のペースにまんまと嵌められて会話の主導権を取り戻すことも困難な方向へと進行させられる。
氷鷹誠矢というのはそういう、一筋縄どころか何本縄を用意したとて人類に対処できる相手ではなかったのだと、椚は今更になって思い出した。
「章臣くん、心配しなくとも僕はかわいい愛称ちゃんを叱ったりはしません。」
眉間の皺を深くして、自らの策の甘かったことを思い知る。
氷鷹誠矢に少しでも真剣に話を聞こうという様子はなく、いつも通りの掴みどころのない態度で自分の上申が躱されてゆくのを刻一刻と感じながら、椚は「正しく」彼の都合の良い方向へと追い立てられるのであった。
「言ったでしょう。僕はあの子を叱るのが苦手なんです。……どうにも『加減』というものが分からないものですから。」
意味深は言葉を残して、彼は立ち上がった。
くす、と寸分の狂いもない機械的に美しい微笑を彼に向けて、ひらりと手を一振り。
ガタンと閉められた応接室の扉の音を背後に聞いて、椚は言い知れぬ無力感に掌を握った。
「……。」
まるで一生分の気力を使い果たしたような、それでも何の成果も得られなかったような、そんな漠然とした『疲弊感』だけを身体中に巡らせて。
☆
部活動の後片付けというのが、どれほど時間のかかるものなのかは分からない。
しかし、彼は分からないなりに時間を潰す術を頭の中で一通りシミュレーションしながら駐車場で娘を待っていた。
あの子が何部に所属しているのかは知らない。
しかし、一緒に連れてこられた「鳴上くん」がランニングにショートパンツ姿だったことを鑑みると、陸上部か何かだろう。
娘の所属する部活動を推測しながら、彼は煙草をふかしながらふと懐かしい校舎を見上げた。
自身も通った学び舎は、古臭く煤けた汚れなどもそのままに無言で立ち尽くしている。
自分が学生だった頃のことを思い出すことはあまりない。
しかし、さすがに息子と娘が自らの母校に通っていると彼にも何か思うところがあるのか、何を考えているのか分からない光を瞳に宿して、ふう、と煙を吐き出した。
「おい、ここは禁煙だぞ。……というか、校舎内で煙草を吸うな。」
「おや、校則破りが委員長に見つかってしまいましたねえ。」
突如として前方から響いた咎めるような口調に、彼は視線を声の持ち主へと合わせた。
前方。校舎の裏口から肩を怒らせ大股に歩み寄ってくるのは、生真面目という概念に人型を与えたような青年─、紛れもなく自らの息子である。
風に揺れる黒髪は彼と全く同じ色質。
やや吊り気味の瞳が面立ちに与える印象は、紛れもなく父親譲りだった。
全体として色の白い、線の細い印象を抱かせる体躯も学生の頃の自分とよく似ている。
本人は父親譲りの黒髪やロイヤルブルーの瞳など、己を飾る色相環が地味であることを気にしているようだが、父親の誠矢から言わせれば多少の贔屓目はあれども息子は十分に整った容姿をしていると感じていた。
こうして、キッと顔をしかめて険しい表情をしていればなおのこと。
「ほっちゃん、もう完全下校時刻だと聞きましたが、もう帰るんですか?」
スーツのポケットから携帯用の吸い殻入れを取り出し、そこに煙草の先端を押し付ける。
先が軽く押しつぶれるくらいにまでそこへ押し付けると、火種はみるみるうちに勢いを失って、そしてただの吸い殻へと姿を変えた。
灰と化した吸い殻を黒色の吸い殻入れへと収め、ライターと一緒に胸ポケットへと戻す。
息子は父親を「親の仇」であるかのように睨みながら、口先を尖らせて質問に答えた。
「これからグラウンドに名前を迎えに行ってから二人で帰る。俺たちは電車で帰るのでお前の送迎は不要だ。」
「ふうん?愛称ちゃんは先に僕と一緒に帰る約束をしていたのですがね。ちょうど、僕は今ここで愛称ちゃんを待っているところです。」
「……何?」
名前の名を出すと、やはり息子は過敏に反応した。
父親の目から見ても妹に対してやや「過剰な」愛情を抱いているらしい北斗は、誠矢が名前に近づくことを何よりも嫌がる。
それとなく名前を誠矢から遠ざけようとすることは日常茶飯事。
加えて、名前と話をする際には必ず北斗が付き添いのようについてくるものであるから、「過保護」の域を越えて「異常」であると、誠矢はこの頃には薄々と気がついていた。
異常─、つまるところ、普通の兄妹の関係性とはいくらかズレが生じているようだと。
「というわけで先に愛称ちゃんと一緒に帰る約束をしていたのは僕なので、グラウンドにあの子を迎えに行っても意味がないと思いますが?」
まあ、ほっちゃんが僕たちと一緒に帰りたいというのなら仲間はずれにはしませんけど。
嫌味ったらしく言う父親に、北斗はむっと瞳を吊り上げた。
ただでさえ吊り気味の瞳であるから、こうして本気で凄まれるとそれなりの迫力がある。
しかし誠矢はヘラヘラと「可愛いお顔が台無しですよ」と北斗に言ってのけ、車のキーをくるくると指先で回した。
「せっかくですから一緒に帰りましょう、北斗。」
「名前が父さんと一緒に帰るというのなら、俺は一人で帰る。二人で勝手に家でもどこへでも行けばいいだろう。俺に構うな。」
少しからかってやるだけのつもりだった。
だというのに、息子は予想した以上にご機嫌を悪くしてしまったらしい。
肩を怒らせながらくるりと踵を返した北斗はそのままスタスタと駐車場を抜け、いくらか乱暴な足取りで裏門の方へと向かって行く。
「おや、」と父親が呟いた時には、北斗は道端のゴミ箱でも蹴飛ばしそうな勢いでズシズシとアスファルトの道路を踏みしめて校外へと去っていってしまった。
「(言い過ぎては……いませんよね。)」
いつも通りの軽いノリで飛び出した言葉を、もう一度再生する。
─先に愛称ちゃんと一緒に帰る約束をしていたのは僕なので、
─まあ、ほっちゃんが僕たちと一緒に帰りたいというのなら仲間はずれにはしませんけど。
それほど北斗を怒らせるとは思えない、いつも通りの軽口だった。
何度再生してみても、やはりそれほど問題があるとは思えない言葉の羅列。
しかし、「名前が父さんと一緒に帰ると言うなら」とわざわざ妹の名を出したあたり、どうも名前が父親と一緒に帰ることを了承したのが気に入らなかったらしい。
「(あぁ……なるほど、そういうことでしたか……。)」
誠矢はそんなことを考えながら、どうにも嗜虐心を抑えられない自分に眉を下げた。
─いけませんね、どうにもちょっかいを出したくなってしまって。
北斗は名前を「愛して」いるのだ。
この先どうなることかは分からないものの、現在の北斗にとって名前がこの世界で一番大切にしている異性であることは間違いない。
美しき兄妹愛─というにはあの二人は少しばかり距離感がおかしいが、どちらにせよ愛し合う二人であることは間違いない。
そんな大切な女の子が、実の父親とはいえ自分の嫌う相手と一緒に帰ることを了承したとあっては、嫉妬心も疼くというもの。
「(本当に……あの子たちは仲良しだ。)」
仲良しの、お互いに愛し合う双子の兄妹。
我が子が喧嘩一つしない仲の良い関係でよかったと思う。嬉しいとも思う。
しかし、それが家族愛であれ何であれ、北斗が一番大事にしている女の子にちょっかいを出したくなってしまうのは、自分が父親だからだろうか。それとも、ろくでなしだからだろうか。
「ほっちゃ〜〜ん!」
校門の外、大通りを一本挟んで向かい側の歩道を進む息子に声を張り上げる。
夕暮れになずみ始めた世界の端で、息子はぴたりと足を止めた。
遠視の始まりなのか、近くよりはむしろ遠く離れていた方が明瞭に見える自らの視力に感謝をして、誠矢は機械的に口角を引き上げた。
「愛称ちゃんは少し渋りましたが、モデルのお仕事をやってくれるそうです。ふふ、新郎モデルを務める子がかっこよかったからでしょうかねぇ」
その時、北斗の瞳がみるみるうちに見開かれたところまでは、遠視気味の誠矢の視界においても捉えることはできなかった。
そして、可愛い息子の瞳孔が夕焼けの光を取り込んで大きく開かれたところも。
しかし、氷鷹誠矢は一つ満足そうに頷いて踵を返したのであった。
「(あぁ………すぐに息子をからかいたくなってしまう。悪い癖です。)」
悪い癖、と自ら断じたものの改善するつもりはないらしい。
いつの間にか星が瞬き始めた薄暗闇に向かって、父は歩き出す。
未だ道路の向こう側で唖然としている北斗に少しも構う様子を見せず、彼は先ほどと同じようにくるくると人差し指の先で車のキーを弄んだ。
アスファルトに伸びる世界の影は、夜に侵されてかなり薄くなっている。
その中で一つ─駐車場に停めておいた愛車の影に人間の影が隣り合っているのを視認して、誠矢はふ、と視線を上げた。
「早かったですね。愛称ちゃん。」
瞳の奥に夕焼けの名残をなじませたまま、娘は愛車の側に立っていた。
ほっそりとした身体をいくらか縮こまらせて、父のご機嫌を問うように。
上目遣いにこちらを盗み見る彼女の面立ちが「いつも通り」であったことにすうっと瞳を細めると、誠矢は慣れた手つきで娘の肩に腕を回した。
「さあ、帰りましょう。帰ったらお仕事の話をしましょうね。」
俯きがちの娘を車へ乗せる彼の顔は、非の打ち所のない理想的な父親そのものであった。
優しく細められた瞳、壊れ物のように娘に触れる手つきの柔らかさ、どれを取ってもフィクションの世界に負けず劣らずの「よくできた」父親の姿。
仲睦まじく帰路に着く父娘のアイコンとしては、これ以上のものはないと思わせる姿だった。
触れられたその時、彼女がびくりと肩を揺らした以外は。
(水の器 閑話/氷鷹誠矢)