数日前から、妹の様子がおかしいことには気がついていた。
顔がぼうっと赤らんでいることにも、自分と同じつり気味の瞳がとろんと蕩けていることにも、口調に覇気がないことにも、薄々と気がついてはいたのだ。
理由をつけて体育をサボりたがるのはいつものことだが、最近はいつにも増して身体を動かすことを嫌がった。登校中ですら駅へたどり着くまでに息が上がっていたし、授業中は力尽きるように居眠りに落ちる。
あれほど仲の良い鳴上嵐に誘われても部活に顔を出すことを断っていたし、放課後のプロデュース中もぼうっとして反応が鈍いようだったと、Ra*bitsの後輩からそれとなく聞いてもいた。
体調が悪いらしい─、という結論にたどり着くことは容易だった。
しかし、彼は「疲れてるだけ」という名前本人の申告を鵜呑みにしてしまった。
確かに、ここ数日の違和感は「疲れてるだけ」と言われればそれで納得できてしまう程度の異変だったのだ。
取り立てて苦しそうだったわけでもない。吐き気などがあるようにも見えなかった。
端的にいえば、名前は決定打となるような弱みを見せなかったのである。
妹の言葉を過信しすぎた。
─このことに北斗が気がつくには、二人が自宅に帰るのを待つ必要がある。
ここ数日、なるほど確かに誰の目から見ても名前がそれほど重症であるようには見えなかった。
少し疲れているだけ、すこし寝不足なだけ……、その程度の異変。
しかし、いまいましいことに名前は父親に似て嘘つきだ。
彼ほど悪質でないものの、妹は巧妙に嘘をつく。
自分の状態を悟られぬよう隠す術に長けている。
そこを計算のうちに入れなかった自分の甘さに、北斗はぎり、と歯を食いしばった。
母親は公演が続くと家にいないことが多い。
特に、地方巡りの公演などが入ると半年ほど自宅を空けることも珍しくはなかった。
今夜はちょうど、そういう夜だったのだ。
千秋楽を福岡で迎えるとかで、母は九州。
父はいつも通り、どこで仕事をしていることやら帰ってこない。
そういう日には祖母が自宅まで様子を見に来てくれることもあるが、たいていは彼ら兄妹二人で家事全般を賄うことが常であった。
その日もいつもと同じように夕飯を摂って、それから二人並んで食器を洗っていた。
名前の嘘が通用しなくなったのは、そういうタイミングだった。
「それで、あまりにも衣更が忙しそうでな」
「ん……、真緒くんっていつみてもいそがしそうだよね」
「まあ、俺達は衣更に厄介事を押し付けている張本人という側面がなくもないのであまり大きな口は叩けないのだが」
「……うん、」
覚束ない。
皿を洗いながら、北斗は隣で食器を棚に戻している妹を盗み見た。
覚束ない─、手つきだけではない。足取りもどこか危なっかしい。
すらりとした立ち姿はいつも通りだが、首筋から耳のあたりが病的に火照りを帯びているように見えなくもなかった。
日中、校内ではいつも通りに感じられたが、自宅に戻って夕飯を済ませてからは明らかに様子がおかしい。
会話のテンポも一拍遅れている。
さすがに「疲れているだけ」とは断定しがたい妹の様子に、北斗は眉をひそめた。
ここ数日、彼女の体調が優れないらしいことは把握している。
しかし、これは単なる疲れからくる症状にしてはあまりにも、重い。
熱を帯びた額には汗がにじんでいる─、この暖房を入れている霜夜に?
更に彼女の目尻に生理的な涙が浮かんでいることに気がついて、彼はますます疑念を深めた。
これはもしかすると、本格的に発熱しているのではないか。
そんな懸念が、ゆっくりと脳裏に持ちがる。
「……名前、」
ふらふらとした千鳥足で棚に大皿を納めていた彼女は、名前を呼ばれて顔だけを彼の方に振り返らせた。
へらりと力無く笑い、色味を失った唇をゆっくりと開く。
「みんな、あんまり、真緒くんにめいわ、く─、」
その言葉の先を聞くことはできなかった。
爪先から徐々に、下から上へと力の抜けてゆく身体は重力に従って床に膝をついた。
コマ送りの映像のようにやたらと明確に、苦しげに歪む眉根や光を失った瞳が彼の光彩に映し出される。
糸の切れた人形のように身体の支配権を手放した名前は、華奢な音と共に床にその身を投げ出した。
「名前!」
ずるりと膝から崩れ落ちた彼女は、力尽きたとばかりにぴくりとも動かなくなった。
慌てて駆け寄ると、これまでの我慢の箍が外れたか荒い呼吸が彼の鼓膜を打つ。
ひゅうひゅう、と明らかに危険域に踏み込んだ音を鳴らしている喉にそっと掌を当てて、北斗は妹を抱き上げた。
「っおい!しっかりしろ!」
抱え上げた身体は、熱かった。
触れずとも感じる熱気を纏う額にそっと己のそれをぶつけてみると、予想した以上に発熱しているらしいことが手に取るように理解できる。
人間の体温というより、人工的な熱に近い。
まるで、身体中が熱の膜に覆われているようだった。
37度やそこらの熱でないことは火を見るより明らか。
これは、間違いなく40度近くまで熱が上がっている熱の出方だった。
彼女の額に居座る熱源に慄然として、軽く肩を揺さぶる。
軽く揺すられ、二拍遅れて瞳を開いた名前は息も絶え絶えといった様子で喉を震わせた。
「だいじょーぶ……ん、ほんと。」
「倒れておいて大丈夫なわけがあるか。……ひとまずソファに下ろすぞ。」
冷静な語り口ではあったものの、彼女の熱が伝染したかのように頭の中はごちゃごちゃだ。
落ち着いて対処しようとどれほど考えても、次から次へと問題が沸いて来る。
ここ数日の体調不良─、妹は「疲れてるだけ」などと言っていたしそう重症にも見えなかったが、あれはすべて虚構だったのだ。
そこに気が付けなかった自分の鈍さを呪いながら、北斗は柔らかいソファの上に彼女を下ろした。
目立ち始めた汗を手近なタオルで拭ってやると、名前はぶるりと震えてクッションを抱きしめる。
「寒いか」
「……、」
言葉を発するのも怠いらしい。
くた、とソファのアームヘッドに頭を預けて、緩慢な動作で頷く。
悪寒に背筋を粟立たせてはいるものの、頬はどんどんと赤みに染まっていた。
「……、」
北斗は無意識に掌を握り締めて、自分が着ていた部屋着のパーカーを彼女にかけてやった。
本当は、寝室から毛布を持ってきて身体を覆ってやった方がいいと理解している。
氷嚢を探して額に乗せてやるか、もしくは濡れタオルで熱を吸い取ってやった方がいいに決まっている。
しかしほんの数分であれ妹から目を離すのが恐ろしく、彼はそっとソファの横にしゃがみ込んだ。
冷たい掌を彼女の額に乗せてやると、みるみるうちに冷え症の指先から手首までが熱の膜を纏う。
それがやはり恐ろしくて、彼は遠慮がちに手を離した。
「……名前、」
返事はない。
その上に問題が山のように積み上がりつつあることを、聡い彼は察していた。
だらりと力無く投げ出された名前の手を取って、目を瞑る。
病院、診察券は、保険証はどこにある?
この時間に診察をしている病院が近くにあるか?
そもそも夜間診察をしている病院が見つかったとして、どうやって行けば……タクシーを呼ぶか?
しかし夜間の特別診療など混んでいるに決まっている。
待合室で待つにもこの状態の彼女に堪えられるか、それに何より昨年まで派手に芸能活動をしていた妹を連れて病院など、パニックになるに決まっている─。
「っ……、名前……。」
八方塞がりとはこういうことを言うのかと思った。
なんとかして病院へ連れて行く算段を立てている間にも、彼女の呼吸は不安定になってゆく。
遂には肩で呼吸をし始めた彼女の姿に、北斗はぎりりと歯を食いしばった。
症状の悪化というものは、これほど早いものなのか。
それともこれは、名前が無理を重ねたせいで引き起こされたことなのか。
自らが健康優良児であるだけに、体調を崩した妹にしてやれることが何一つ思いつかない。この熱の進行を止めることもできない。
─何もできない。
自分が、これほど役立たずだとは思わなかった。
何をしていいか分からない。助けを求めようにも、誰に、どうやってSOSをだせばよいか分からない。
その夜の彼は、明らかに「らしくない」様子であった。
パニックに踏み込みかけているのか、いつもの理性的な判断力は剥落してしまっている。
ずる、とフローリングに膝をつき、彼は悔しさに妹の手を強く握った。
苦しんでいる彼女を楽にしてやる術が思いつかない。
どうすれば問題が解決するのか、分からない。
頭を垂れて名前の苦しげな呼吸音を聞いていることしか、できない。
こうしているうちにも、彼女の胸は不規則に鼓動を打つばかりだというのに。
「ただいま〜。……あれ?誰もいないんですか?ほっちゃ〜ん?愛称ちゃ〜ん?」
「……!」
階下の玄関が開く音に気がついた時には、二階のリビングの扉は開かれていた。
ガチャリと無遠慮に開けられた扉の方へ、信じられない思いで視線を遣る。
絡んだ視線は、よく似たコバルトブルー。
電灯に煌めく黒髪には、北斗と揃いの青みがかった綺羅が散っている。
開かれた扉の先。
リビングの入口には自分と同じようにいくらか瞳を見開いた父親が呆然と突っ立っていて、驚いた様子を隠しきれずに彼らを見ていた。
「父さん……、名前が、」
言葉の紡がれる先を聞くことなく、父は迷いなく名前の横たわるソファサイドに膝をついた。
そっと掌で彼女の額に触れ、その荒々しい熱の膜に険しく眉をひそめる。
「どうしたんですか」とも「風邪ですか」とも、何の言葉も発しない父ではあるが、その姿にするすると肩の力が抜けてゆくのを、北斗は感じていた。
先ほどまで頭の中でごちゃごちゃに絡まっていた思考の糸が、ゆっくりと一本一本、解かれてゆく。
保険証はおそらく名前の財布の中だ。診察券も同じところにある。
夜間診療をしている病院はスマホで調べればすぐに見つけられるし、そもそも冷静に考えてみれば彼女が倒れた時点で祖母に電話をすればよかった。
よりにもよって予想外に帰宅してきた父の姿に安堵したなどと認めたくなくて、彼はぶんぶんと頭を振った。
反抗期真っ只中の彼にとって、父親の帰宅をきっかけに平静を取り戻すなどという出来事は屈辱的ですらあった。
この男が大嫌いなはずなのに、妹の危機を一人で乗り越えられず心細い中で現れた救いの手が父親であったなど。
本当なら、「おまえの助けは必要ない」と吐き捨ててこの状況を乗りきってみせたい。
しかしこの状況で己のくだらない反抗心を見せるのは妹のためにも適切ではないと、聡い彼は冷静に判断することができた。
「さっき倒れた。ここ最近は体調不良が続いていたようだったんだが」と、隣の父に事の経緯を報告しておく。
こういうことをすると、まるで自分よりも父の対処の方が的確だと認めることになるようで気に食わなかったが、彼はぐっと溜飲を下げて父の挙動の先を視線で追った。
ふむ、といくらか険しい顔で、父は熱にうなされる彼女の頬へと掌を滑らせる。
労るように赤らんだ名前の頬をするりと撫でて、彼は静かに唇を開いた。
「北斗。名前の部屋からブランケットを取ってきてください。」
ようやく発した一言に頷くと、父はそっと立ち上がってスーツのポケットから車のキーを取り出した。
そして「それから、名前の保険証と診察券もお願いします。」と続けて、ぐったりとソファに埋まっている華奢な娘を抱き上げる。
先ほど北斗が抱き上げた時と同じ横抱きだったが、自分の抱きかたよりも遥かにがっしりと抱え上げていて、無性に胸が嫉妬に騒いだ。
そんなくだらないことで腹を立てている場合ではないのだが、ほんのすこしやり場のない苛立ちを感じていると、父は「おや、」と背後で声をあげた。
「どうした。」
「いえ……、このパーカー、ほっちゃんのですか?」
「ああ、寒そうだったので先ほど掛けたものだが。」
父は名前の手に握られた黒いパーカーとカットソー一枚の北斗の姿を交互に見遣って、困ったように微笑んだ。
「寒いでしょうけど……。これ、貸してあげてもらえますか?どうにもこの子が離さなくて。」
これ、というのが何を指しているのかは明らかだった。
名前がぎゅうっと握り締めている、彼のパーカー。
じきにブランケットを掛けてやると言っているにも関わらず彼女がパーカーを離さないのだというのがどういうことだか理解が及んで、北斗は白い頬にほんの少し朱を差し込ませた。
「体調の悪いときは心細くなりがちですから。……ほっちゃんの匂いがして安心するのでしょうね。」
父は慈しむように彼女を見て、ふっと微笑んだ。
それがどうにもむずがゆく、そして赤らんできた頬を父親に悟られたくなくて、くるりと父と妹に背を向ける。
ブランケットや必要なカード類を取りにずんずんと廊下へ飛び出すと、リビングよりは幾分ひんやりとした冷気が彼の頬の火照りを冷ました。
嬉しい、という表現には語弊がある。
この瞬間にも妹は、高熱にうなされて苦しんでいるのだから。
それでも、父の腕に抱かれていてもなお自分に縋るようにあのパーカーを手放さない名前の態度に一定の満足感を得たことには違いなかった。
妹の部屋へ入って、ベッドサイドに置かれていたピンク色のブランケットを腕に抱える。
それから、鞄の奥底に突っ込まれていた水色の財布の中に必要なものがすべて揃っていることを確認し、彼は財布ごと持って階下の玄関ホールへと急ぎ足で下りた。
外では、車のエンジンの唸り声が低く響いている。
北斗は縺れる脚のままにスニーカーに足を納めて、玄関を飛び出した。
外は、骨にまで凍みる霜夜の下。
澄んだ冬の空気が肺の底まで凍らせて、吐き出す吐息を白く染める。
その寒天の中を薄いカットソー一枚で駆け抜けて、ガレージの中の車へと彼も飛び乗った。
「少し、病院まで時間がかかります。名前を見ていてあげてください。」
「分かっている。」
後部座席でぎゅうっと手を握り合う二人の子供をルームミラー越しに見て、氷鷹誠矢はふっと、父親の顔をして笑った。
それは、ちょうど妹の汗で張り付いた前髪を整えてやっていた北斗の目には入っていないようであったが、彼は気に留めることもなくアクセルを踏み込んだ。
冬の夜。吐息を白く染める凛々たる夜を、ブルーブラックのミュルザンヌが走る。
妹に水を飲ませてやりながら、「もう大丈夫だ」と語りかけている逞しい息子の姿をもう一度だけミラー越しに見て、彼はそっと視線を前方に戻した。
少し見ないうちに、息子は随分と頼りがいのある青年になったものだと感じながら。
(hot with Fever)