「ご飯にする?お風呂にする?それとも……、」
「……。」
「そ、それとも……、」
「……それとも?」
「そ、それとも……それとも……わ、わ……、」
「わ?」
「う、うううううう!!!!ごめんほっちゃん……忘れて……。」
「?」
突然込み上げてきた羞恥心に耐えきれず、床に膝をつく。
両手で顔を覆うと、頬が尋常でなく熱かった。
─こんなこと言うんじゃなかった。
後悔しても遅いと分かってはいるけれど、さすがに今回は悪ふざけが過ぎた。
指の隙間から、玄関口に立ち尽くしたほっちゃんをちらりと見てみる。
彼は「何が何だか分からない」と怪訝な表情を浮かべて、わたしを見下ろしていた。
「ちょっとふざけてみただけだったんだけど、あの、なんか途中で恥ずかしくなっちゃって!!ごめんねほっちゃん!!」
「ふざけたって……、ネタはやり始めたら最後のオチまでやり遂げなくては意味がないと双子が言っていたぞ。」
「違うんだって、ネタとかそんな崇高なものじゃなくて、その、」
そうなのだ。
別にネタとか、ウケを狙ったとか、そういう大仰なものじゃなくて。
本当にただふざけただけで、「お風呂にする?ご飯にする?それとも、わ・た・し?」って聞いたりなんかしたらウブなほっちゃんは照れるだろうと思っただけで。
早い話が、この堅物な兄をからかってやろうと思ったのだ。
けれど結果は惨敗で、「わ・た・し?」の直前で口ごもってしまった。
信じられない、こういう小恥ずかしい台詞は現役の頃に何度だってファンサービスで口にしてきたのに。
安売りだと言われても仕方がないくらい、それこそファンにも業界の人にもいくらでも言っていた。
こうして甘い言葉ととろけた瞳で誘惑してやれば簡単に男の人は落ちていったし、ファンも仕事もいくらでもついてきたから余計に。
それなのに─、
それなのに、視線の先に佇む相手がほっちゃんだというだけでこんなにも恥ずかしくて、うまく音にならない。
ぐぬぬ、と悔しさに喉の奥が締まる。
わたしは髪が床につくのも構わず、ごり、と額をフローリングに擦り付けて絶望した。
「お、おい?どうした……いつも以上に様子がおかしいが……、」
「なんでもない……。」
想像してしまったのが悪い、と思う。
「ご飯にする?お風呂にする?それともわ・た・し?」とスムーズに言えたとして。
きっとほっちゃんは「な、何を言っているんだ!」って慌てるか、「おまえまでそんな下らないことを言いはじめたか……クラスのアホ共の影響だな」ってため息をつくか、そのどちらかだと思うけど。
でも、もしかしたら「じゃあ、」ってわたしの手を取るかもしれない。
もしかしたら、「いいのか?」って聞くかもしれない。
今日は都合よく地方公演中でママが家にいない。
パパはどうせいつも通り帰ってきやしない。
そんな桃色の妄想が一瞬で頭の中をぐるりと巡って、何も言えなくなってしまったのだ。
悔しい。
元トップアイドルの名折れだ。
恋をしただけで、このわたしがこんな風になってしまうなんて。
今まで何千という人を夢中にさせてきたこのわたしが─、たった一人の人間にここまで参ってしまうなんて。
こんなのまるで、普通の女の子みたいだ。
「と、とにかく変なことしてごめんね。ご飯作ったから食べる?それとも先にシャワー浴びる?」
よろよろと立ち上がり、ほっちゃんのスクールバッグを有無を言わせず奪い取る。
相変わらず怪訝な顔で靴を脱いだ彼は、「おまえは何を考えているかよく分からない時がたまにあるな。」と言いながらしゅるしゅるとネクタイを緩ませていた。
頼むから、大人しくお風呂場に直行してほしい。
きっと、ほっちゃんがシャワーを浴びているうちにわたしの頬の熱も引くはずだから。
彼は察しが悪い。
あんまり人の心の機微を読むのは得意じゃない。
けれど、ずっと赤いままの頬を晒していればさすがのほっちゃんだって何かおかしいと思うはずだし、そうなった時に素直に自分の目論見が失敗した経緯や浮かれた妄想のことなんか話したくない。
わたしはそっと目を逸らして、リビングへ逃れようと足を進めた。
「そういえば、さっきおまえがやろうとしていたネタ、」
「ネタじゃないんだってば。ほんと、マジで。」
「いや、あれだろう?『ご飯にする?お風呂にする?それとも私?』とかいう……、」
「ヒンッ、」
な、なんで知ってんの……。
わたしのぎょっとした顔を見て、ほっちゃんは眉間に皺を寄せた。
「新婚の夫婦がやるとか。」
「えっ、あの、ほっちゃん、そういう知識あったの……?」
「失礼な奴だな。あるにはあるぞ。先に夕食を摂るか風呂に入るか相手と─」
「ほ、ほっちゃんそれ以上言わなくていいから!!!!」
むぐ、と間の抜けた音と共に彼の口を封じる。
掌で押さえつけるとほっちゃんはむぐむぐ言っていたが、次第に落ち着いてきてわたしの手首を掴んだ。
べりっと自分の口元から私の手を引きはがし、「突然何をするんだ」と不満げに言う。
「ほっちゃんが突然そういうこと言うから……!」
「……そういうこと?」
「だ、だから、『わたしにする?』みたいな……、」
「ああ、せっかく振られたネタだしな。ご飯でもお風呂でもなくおまえを指名しようと思って。」
「!?!?」
え?
ぴしりと固まっているわたしの手首をそのまま引いて、廊下の先へとずんずん進んでゆく彼。
その細い背中を視界に入れながら、わたしは惚けた表情を取り繕うこともできずに瞬きを繰り返していた。
おまえを指名しようかと?
え?
─今日は都合よく地方公演中でママが家にいない。
─パパはどうせいつも通り帰ってきやしない。
う、うそっ、え、えっ、
「ど、どっちの部屋でするの!?」
「……?リビングでいいんじゃないか?」
「リビング!!」
一つ叫んだ私をまたもや奇異なものでも見るかのような目で射抜いて、ほっちゃんは「むしろリビング以外にどこで……」と呟いた。
リ、リビング以外の選択肢はないの?
そういう性癖なの?
脳内ではいくつも爆竹が鳴っている。
これはいけない。
確かに仕掛けたのは私だけど、こんなの絶対ダメだ。
こんなの、帰ってくるはずはないけれどもしもパパに見つかったら……。
「パ、パパが帰ってきちゃうかもじゃん!?」
「……?帰ってきたら一緒にすればいいだろう」
「い、いいいい、い!?一緒に!?パパと!?そんなのダメに決まってるって!!!!!!っていうか、私とほっちゃんですること自体が大問題なんだよ!!」
もうこの際、頬の赤みなんてどうだっていい。
多少おかしな家庭環境が災いしたせいか、きっとほっちゃんは妙な道へ足を踏み外そうとしている。
そうに違いない。
ご近所の迷惑になりそうなくらい大きな声で叫ぶ。
私の大声にびっくりしたのか、彼は切れ長の眼を一瞬だけ丸く見開いた。
「…………?俺とお前は映画鑑賞をしてはいけないのか?」
「……………は?」
「ご飯でもお風呂でもなく、お前と過ごす時間を優先しようと思ったが……。『それともわたし?』というのはそういうことだろう?映画鑑賞は嫌なのか?」
「……え?」
「昨日、地上波でやっていた映画を録画していただろう。あれを一緒に見ようかと……」
「ちょ、ちょっと、あの、え?……そ、そういう……ああ……………」
ずるずると膝から力が抜けていく。
ぺたん、と再びフローリングの床にくずれ落ちた私をまたまた「意味不明」という視線で見て、彼は困ったと頬を掻いていた。
「もう〜〜!!無駄にドキドキした私がバカみたい!!信じられない!!」
「な、何の話だ?」
「こ、この私を………こんなに振り回すなんて……」
「おい待て、俺を置いていくな。お前が何を言っているのかさっきから全く分からない。」
「この私が……こんな……うぅ……許せない……」
「俺が何をしてしまったのかはわからんが、とりあえずお前のプライドを傷つけてしまったらしいことは察した」
「うう……うう……!!」
「本当にどうしたんだ……?」
「っだから!!生意気だよ!!ほっちゃんなんかずっと私にドキドキしてればいいの!!ずっと私を見て可愛いなって顔赤くしてればいいの!!こんな風に私を振り回したりせずに─、大人しくドキドキしてればいいの!!」
兄の瞳と視線が絡まる。
普段は大人しくしていようと律している自分の壁が剥がれて、ワガママで横暴な自分が顔を出していることに、気づいている。
気づいてはいるけれど、勝手に一人でおかしな勘違いをしていたことが恥ずかしくて悔しくて、ぐすぐすと鼻を鳴らしていくつか恨み言を言った。
けれど、私の突然のワガママに慣れている彼は動じない。
同じ空色の瞳に映るほっちゃんはぱちくりと一つ瞬きをして、滑らかに口を開いたのだ。
「言われなくても、お前を見て可愛いと思わなかった時はない。」
そういうのが振り回してるって言ってるのに!!!!
もう許さない!!
(悪ふざけ)