病院といえば、幼い頃に風邪を引いて祖母に連れて行ってもらった記憶しかない。
小学生の頃だったか、クラスでインフルエンザが流行った時に一度だけ、病院にかかったことがあった。
祖母に手を引かれてアルコール消毒液の匂いに満ちた建物の中へ足を踏み入れた時の記憶が、北斗にとって一番鮮明に残っている病院の印象である。
がやがやとしたざわめきに揺れる午後の待合室、むずがる子供の泣き声、子供の足でも優に一周できてしまう小規模の敷地。
今にして思えば、あれはパートタイムで働きに出ていたのだろうか、忙しなく動き回っていた数人の看護師はみな近所のおばさんたちだった。
祖母の家の近くにある小さな個人経営の医院の門をくぐったのも遙か遠い昔のことで、いまや記憶には靄がかかって細部まではよく思い出せない。
もともと生まれついて身体は頑丈な方で(名前は「もやしのくせにどうしてほっちゃんは風邪引かないの?」といつも不思議そうにしている)、自己管理も欠かさない北斗は滅多に体調を崩さない。
事実、中学校に上がってからは病気やケガとはほとんど無縁の生活である。
そのせいか、彼にとって病院という場所は非日常の象徴のように感じられる場所であった。
それも幼少期にすらお目にかかったことのない、こうも大規模な病院とあれば。
「では、僕は受付に事情を説明していきますので。名前を頼みます。」
パタン、と閉じられたフロントドア。
深闇に沈む駐車場の中、異様にその音が大きく響く。
正面受付へと進む父の背中を窓ガラス越しに視界に入れながら、北斗はきょろきょろと辺りを見渡した。
「病院まで少し時間がかかります」と父が申告した通り、確かに自宅を出てから小一時間は車を走らせただろうか。
車窓を過ぎ行く景色は都心部へと近づき、そのうちに彼も知らない風景へと切り替わった。
恐らくは東京のどこか─、ではあろうが、土地勘のない場所に突如現れた大きな病院に父は車を停車させた。
広い駐車場の中、辺りに停められている車はどれも外車ばかり。
暗闇の中にあって唯一煌々と明かりに照らされたエントランスの入り口には、彼も名前を聞いたことのある大学病院の傘下である旨がそれとなく記されている。
なんとなく、ここが「特殊」な施設なのだという空気を感じながら、北斗はぐったりと肩にもたれかかっている妹の髪を撫でた。
「ん……、」
「起きたか。」
「うん……。」
「もう病院についた。じきに診察─、む?」
コンコン、と軽く叩かれた窓ガラスに視線を上げると、「事情」とやらを説明してきたらしい父が背を屈めてこちらを見ていた。
手を伸ばして後部ドアを内側から開けると、父はいつも通りの胡散臭い笑顔で上半身を車内に滑り入れ、名前の頬をするりと撫で下ろす。
「愛称ちゃん、もう診てもらえるそうです。裏口から入れば人目につきませんから、さあ行きましょう。」
華奢な妹の背に腕を回して軽々と抱え上げた父親は、北斗に視線だけを向けて「一応、お水を持ってきてください。」と短く言った。
それに頷いて、先ほどまで飲ませていたミネラルウォーターのペットボトルと、それからピンク色のブランケットを抱えて彼も父の後ろに続く。
バタン、と北斗が車の扉を閉めると、父は器用にも娘を抱えながらドアをロックして、車のキーをスーツのポケットへとしまった。
「ここは、」
「おや、覚えていませんか?君たちが生まれた病院ですよ。」
父はくすりと笑って、「ああ、もう17年も前のことになるんですね。」と郷愁に瞳を細めた。
星屑の散りばめられた夜の下。
暗い冬の空気を一つ吸っては、想い出に浸るように父は瞳を閉ざした。
相変わらずパーカーを名前に貸したままの北斗は薄いカットソー1枚の身でぶるりと寒気を取り込んで、父の腕に抱かれた妹と自分の手を交互に見遣った。
冷たい夜の底で、父の言う「裏口」はひっそりと彼ら三人を出迎える。
正面エントランスの影に隠れるようにやたらと小さな出入口をくぐると、非常灯の赤い電燈と心ばかりのソファが、ちょこんと薄暗い待合室に置かれていた。
このつんと鼻に刺激を与えるアルコール消毒液の匂いは、彼の記憶の底に沈む医院と同じである。
しかし、ここは明らかに「普通」の待合室ではないのだと瞬時に察する。
この小さな待合には、自分たち以外の誰も存在していない。
煌々と明かりに照らされていた正面エントランスから隔離されている─、「他の患者と切り離すため」に作られた、非日常用の小部屋。
ここからつながる診察室は一つだけ。
あの大女優の母親がここで出産を行ったという事実と、事情次第で診察の順番が繰り上げられるらしい父親の発言と、先ほど駐車場で見かけた夥しい数の外車をぼうっと瞼の裏に貼付けて、北斗はここが「どういう」施設なのかをはっきりと理解した。
ここは、それなりの富裕層や業界の人間が利用する病院なのだと。
「君たちは結構な早産でね。出産予定日よりもかなり早かったんです。」
自動ドアがすうっと滑って外と内を隔てると、ようやく暖気が足元から競り上がって来る。
父はこの空気に慣れた様子で簡素なソファに腰掛けて、彼にも隣に座るよう促した。
扉一枚を隔てた向こう側─、正面の待合からは、深夜だというのにがやがやと賑やかな患者の声が響いてくる。
その現実から一枚剥離されたような裏の待合室で、よく似た親子は静かに言葉を交わしていた。
「ママはギリギリまで入院を拒みましたから、あの日は自宅にいて─、ええ、『ギリギリまで誠矢くんと一緒にいたい』と言って聞かなかったんです。かわいいでしょう?……と、まあそんなことで自宅で突然破水したんですよ。さすがの僕も慌ててしまって、急いでここまで車を飛ばしました。」
今夜のように、と付け加えた父をじろりと睨み上げて、北斗はすかさず口を開いた。
「今夜は慌てているようには見えなかったが。」
「そう振る舞っていただけで、内心は結構動揺していますよ。」
そこで言葉を切って、父は苦しそうに呼吸をする名前の背をぽんぽん、と擦った。
「生まれるのが早かったせいか、君も名前も幼い頃は同年代の子よりも小さくて。何故か君はその後順調に成長して身体も頑丈な方になりましたが、名前は子供の頃から病院通いが多かったようですね。いまでも、この子は身体が弱い方でしょう。」
そんなことを言われても、知るはずがなかった。
幼い頃から両親について芸能界に導き入れられた名前と過ごした時間は、正直なところそんなに長くない。
小学生の頃に正式にアイドルとしてデビューしてからは、妹は事務所の寮に入って彼とは違う学校に通うようになったので、それ以降のことは余計によく知らない。
そもそも名前と1日1日を丁寧に暮らせるようになったのも、この春─、彼女が芸能界を引退して夢ノ咲学院に転校してきてからの話だ。
そういう状況で育ってきた自分たちの特殊な関係のことを明るいブルーの瞳に浮かべて、彼はぽつりと言葉を返した。
「……知らん。なんとなく、丈夫な方ではないというのは察していたが。」
「ええ。実のところ、僕も詳しくは知りません。名前は身体が弱くて、少しの風邪でも入院沙汰になりやすい─という情報だけは、この子のマネージャーだった人から知らされていたので知っていますがね。実際にこうして娘が倒れたのを見たのは初めてです。」
父は、困ったように笑って「どうしましょうね」と北斗に問いかけた。
赤色灯の影に眉を下げた、情けない顔だった。
先程まで寸分の狂いもなく的確にここまで娘を運んできたとは思えない、情けない父親の顔。
いつも涼し気な顔で何の感情もないように振る舞う父がこんな顔をしたのを、北斗は初めて見た。
こんなに─、不安に瞳を揺らす機能がこの男に備わっていたのか。
この男にも誰かを心配して、無力に唇を噛みしめる機能が備わっていたのか。
生まれて初めて見た父親の顔に、彼は初めて「自分と父は似ている」と実感することができた。
これまで誰に言われても納得できなかった「お父さんにそっくりだ」という言葉を、胸の奥で溶かす。
似ている─。
この男と自分は、紛れもなく血がつながっている、と。
「北斗。名前の血液型を知っていますか。」
「……知らん。」
「……僕もです。血液型も知りませんし、アレルギーの有無も知りません。」
「……あんたは、俺のことも何も知らないんだろう。」
「ええ、」
そこまで言って、父は言葉を切った。
腕に抱えたままの名前の額に浮かぶ汗をそっとハンカチで拭いて、睫毛に影を落とす。
「これまで父親らしいことをしてこなかった自分を責められている気分です。」
彼女の荒い呼吸音が、ひゅうひゅうと鳴る肺の音が、重い。
それは、足を掴まれて海底に引きずり込まれるような錯覚すら覚える音だった。
額に浮かぶ汗を何度ハンカチで拭ってやっても、これが果たしてどの程度彼女の苦しさを和らげるものなのか分からない。
「パパ、わたしのこと何も知らないんだね」─。
北斗とは違ってこれまで父親を責めたことのない名前の恨み事が初めて聞こえた気がして、氷鷹誠矢は困ったように微笑んだ。
「……おい、そんな顔をするな。俺まで不安になってくる。」
「まるでいまは不安ではないという言い振りですね。僕が帰宅した時にはぐったりした妹の側で泣きそうな顔をしていたのに。」
「うるさい黙れ。泣きそうな顔などしていない。」
「自分がどういう顔をしているか、自分では確認のしようがありませんからそういう風に強がることもできますがね、他人の目から見てあの時のほっちゃんはほとんど泣いていましたよ。名前の手を握って、まるで死にゆく妹を看取るような顔でした。」
「おまえも今そんな顔をしているぞ。」
「……ええ、ほっちゃんが逞しくなっていたおかげで、何とかギリギリのところで泣かずにすんでいるのかもしれません。」
「……、」
予想外にそんなことを言われて、北斗はつり気味の瞳を大きく見開いた。
この父親が、自分を評価するような言動をしたのはこれが初めてではあるまいか。
そして、息子の前で自らの弱みを晒すような発言をしたのも初めてではないか。
海の底を覗くように開かれる息子の瞳にふっと苦笑して、氷鷹誠矢は娘を撫でつつ口を開いた。
まるで諦めたかのように、白旗を振るような口調で言葉を紡ぐ。
「僕は今年度に入ってからは君を評価しています。リバースライブの時にもそんなことを言ったでしょう。」
「言っ……たか?そうだったか……?」
「まったく、あんなにいい話だったのに忘れてしまったんですか?……まあ、いいでしょう。僕は君を評価しています。それはもちろん、この世界に生きるアイドルの一人として、という意味合いだけではなく……。」
「……、」
「人間として、君は立派な大人になりつつあるという評価も含んだつもりです。だから、僕はもう君の前で強がる必要はない。素直に自分の手の回らないことをお願いすることもできる。」
「……。」
息子は、逞しい青年になった。
もう小さな子供ではない。
自分の腕に抱えきれない事柄をいくらか息子の腕に載せてもびくともしないくらいには、彼は強くなった。
荒い呼吸を続ける娘の髪をそっと撫でて、氷鷹誠矢は息子の顔をじっと見つめた。
「北斗。……僕が名前をここまで連れて来られたのも、何とか平静を保てたのも、君がしっかりしていたからです。君が名前をよく見ていてくれたから、僕は何とか父親らしい働きができた。」
その言葉と同時に、診察室の扉が静かに開いた。
ガチャリと開かれた扉の先では、暖房の温風に白衣をはためかせた中年の男性医師がぽりぽりと頭を掻きながらこちらに視線を向けている。
その医師は父よりもいくらか年上なように見えるが、そもそも父親の外見がもはや加齢に逆らっているので、確かな確信は得られない。
なんとなく、見た目の上では父よりも年上か、もしくは同い年くらいかのように見えるが実際にはこの医師は父よりも若いような気もした。
腰元に手を遣って、じろりと名前を見回すその仕種からは呆れが滲み出ている。
彼はカルテと思しき書類を片手に抱えて、ぐったりと意識を失っている名前の青白い頬にやれやれと嘆くように息を吐いた。
「まったく……。名前ちゃん、いつも手遅れになる寸前で病院に駆け込んでくるんですから。無理は厳禁だといつも言っているのに。どうも学習しない子ですね……。」
掠れた中低音で呟かれた言葉に、父が朗らかに笑う。
先ほどまで息子の前で見せていた瞳の影を幻のように消し去って、父はスマートにするりと会話を続けた。
「すみません。僕も妻も忙しくて彼女の様子をきちんと把握できていなかったもので。」
顔見知りなのか、「氷鷹さんが娘さんを連れて来るのは珍しいですね。」「ええ、今晩はたまたま自宅にいたので」と会話を交わしている医師と父を交互に見て、北斗は待合のソファから動けなかった。
「点滴を打ちますけど、時間は大丈夫ですか」と慣れたように尋ねる医師に導かれ、妹を抱いて父は診察室に入ってゆく。
その後ろ姿をぼうっと見つめながら、北斗は父親の言葉を噛み砕いていた。
─君が名前をよく見ていてくれたから、僕は何とか父親らしい働きができた。
あの完璧主義の父がそんなことを言った。数秒前に、自分の目をしっかりと見つめて。
それは俄には信じられない出来事であり、未だにソファから立ち上がれない程度には脳内での処理活動が追いついていない。
あの、憎らしい父親が。あの、いつでも余裕をかましている父親が。
今晩は、らしくないことをいくつも口にした。
父は嘘つきだ。
どうでもいい嘘をちょくちょくと吐いてはこちらの反応を楽しんでいるかのように貼付けたような顔で笑っている。
─それでも。
「(今夜あいつが言ったことは、嘘ではない、ような……気がする。)」
嘘ではないような気がする。気がするだけだ。
名前の体調不良にあわてふためいたことも、北斗の人間的成長を感じているらしいことも、確かにあの偶像めいた父親の胸に生まれた感情であると証明することは不可能だ。
けれど、今夜の発言はどれも嘘ではない。
そうであると信じたい。
診察室の中から聞こえてくる医師と父のやり取りをどこか鼓膜の奥でぼんやりと響かせて、北斗はこつん、と壁に頭を預けた。
柔らかい黒髪がするりと白い首筋を擽る。
そのくすぐったさに身じろぎをして、彼はぼうっと長い睫毛を伏せた。
この先、診察室から出てきた父親がどんな顔をしているのかは分からない。
いつも通り飄々とした顔つきで名前を抱えて出てくるのかもしれない。
もしくは先ほどのように─、どこか頼りなく瞳を揺らして、ひとまずの安静を得た名前を背中におぶって出てくるかもしれない。
しかしどちらにせよ、北斗はどういう顔で父親に接すればいいのか、それなりの解答を掌の中に掴みつつあった。
「(─いつも通りでいい。)」
彼の本心の吐露を聞いたからと言って今さら仲良し親子ぶる必要はないし、聞き分けのいい息子に戻る必要もない。
きっと、父もそんなことは望んでいない。
ただ今夜の出来事を自分が忘れさえしなければ、きっとそれでいい。
壁を一枚隔てた向こう側では、変わらず一般待合のがやがやとした雑音が響く。
北斗はふう、と一息ついて、スマートフォンを取り出した。
人工的な暖房の温風にそよぐ黒髪を耳にかけて、するするとスマートフォンの液晶画面に指を滑らせる。
明日は彼女を休ませなければならない。場合によっては、自分も看病のために休むことになるかもしれない。
ひとまず明日の授業のノートのことやユニットレッスンのことを仲間に頼まなければならないと、用意周到に彼はSNSのトークルームを開いたのだった。
∞
「北斗、あいつ大丈夫なのか?」
「っていうか、ホッケ〜も名前の看病のために学校休むかも〜って言ってなかった?登校して大丈夫なの?」
翌日。
不本意ながらもいつも通りの時間に一人で登校してきた北斗に、Trickstarの三人は口々に質問を浴びせかけた。
騒がしい朝の教室では、何かあったのかすでに神崎が抜刀していたり、珍しく規定通りの時間に登校している逆先が妖しい薬の小瓶を机に並べていたり、朝練後らしい乙狩がランニング一枚(暖房がついているとはいえ、真冬である)で神崎の抜刀を収めようとしていたりと、いつも通りの喧騒が踊っている。
ひとまず真緒の問いに「大丈夫だが大丈夫じゃない」と曖昧な返答を返しておいて、彼は手始めに背中にのしかかってくるスバルを引き剥がした。
「看病はあいつがやると言って聞かないので俺は定刻通り登校した。」
「あいつ?」
「あ〜……お父さんか?」
無言で頷いて、席につく。
スクールバッグを机の横にかけて、彼はぶつくさと文句のようなものをこぼしながら教材や筆記用具類を机の中へと押し込んで行った。
数時間前に父と交わしたやり取りを臓の煮え繰り返る思いで反趨して、イライラと眉間に皺を刻んでゆく。
「『愛称ちゃんは僕がきちんと見ていますから、君は学校へ行きなさい。心配はありませんよ。』だと……、心配しかない。まともな人間らしい生活を送ったこともないくせに、あんな奴に名前の看病ができるか甚だ疑問だ。帰宅して名前の容態が悪化していたら今度こそ俺はあいつを窓から突き落とす。」
「ひ、氷鷹くん……大丈夫だよ、きっと。お父さんだってもういい大人なんだし……。」
「いい大人は病気の娘の写真など撮らない。」
むすっと膨れ面で言って、北斗は朝一番に提出の課題を机上に乗せて頬杖をついた。
昨夜は殊勝に娘の看病をしていたはずだったが、一夜明ければこのザマだ。
「ママに名前の様子を伝えておきます。」と言って無遠慮にぱしゃぱしゃと高熱にうなされている娘の写真を撮って(とはいえ、無音カメラで撮っていたので彼女の睡眠を妨げるような音は出なかったのだが……)、「愛称ちゃんが熱で苦しそうです。早く帰ってこられますか?」と母にメッセージを送った後も自分が撮った写真をちゃっかり保存していた。
親子二人の朝食の席で、「ああ……、こんなことを言うと不謹慎かもしれませんが、あの子は苦しそうにしていてもかわいいですねえ。」と、常軌を逸した発言を繰り返して朝から北斗を逆上させたのだ。
その旨を怒りにうち震えながら語ると、Trickstarの面々は互いに互いの顔を見合わせ、三人そろって微妙な顔をした。
芸能界の大御所、国王陛下の奇行を咎めることなど、学生アイドルの自分たちにできることではない。
しかし仲間の気持ちを察することはできる、と北斗の肩をぽんぽんと摩る。
「もしかして、放課後に俺らでお見舞いとか行っちゃったら迷惑になる感じか?」
「もし大丈夫そうなら駅前で名前ちゃんの好きなアイスでも買ってお見舞い行こうって話してたんだけど……。」
「お父さんがいるなら俺たちは遠慮した方がいいっぽいね。」
口々に身を引く三人に、カッと目を見開く。
北斗は逃がすまいとでもするように三人の制服のブレザーをまとめて引っ張って、血眼で仲間たちを見上げた。
一語一語、はっきりと言い聞かせるように言葉を吐き出す。
「来てくれ。頼む。俺とあいつの二人だけでは気が狂いそうだ。頼む、家に来てくれ。本当に頼むから来てくれ。」
いつになく必死な─、というか血走っている北斗の瞳を三人揃って苦笑いで見遣って、ぽりぽりと頬を掻く。
この親子はいつになったらそれなりに平常な関係を築くことができるのだろうと、昨晩の氷鷹誠矢の様子を知らぬ三人は、そんなことを考えながら北斗の肩を再度ぽん、と叩いた。
「やべ、そろそろ予鈴鳴るな。じゃあ俺、そろそろ教室戻るわ。」
「はーい、じゃあサリ〜、放課後にA組集合ね〜!」
「それまでに僕、お見舞いグッズでも調べとくよ。」
真緒の言葉通りに鳴りはじめた予鈴の音に合わせて、北斗もふりふりと駆けてゆく彼に手を振る。
すっかりあの赤紫色の髪が見えなくなってから、彼はやれやれ、と窓外に呆れた視線を向けて、スマートフォンをいつでも取り出せるブレザーのポケットにそっと滑りこませた。
「名前に連絡するの?どうせなら三人で動画撮って送ろうよ〜!!」
「あっ、いいねそれ!僕も今日はお昼の放送の当番じゃないから昼休みに動画撮影できるよ〜!!」
「分かったからおまえら席に着け。ベル着していないとまた見回りの椚先生に叱られるぞ。」
肩越しにしがみついてくるスバルと真を追い払い、彼はガラリと開いたドアにも動じることなく静かに提出課題を手に取った。(スバルと真はよもや椚先生かと大慌てで滑り込むように自分の席に座ったが、扉から中に入ってきたのは今朝もだらしない担任であった。)
時刻は八時を少し回ったところ。
じきに、どのクラスでもHRが始まる時間である。
夢ノ咲学院の朝は、変わらずの騒がしさに揺れていた。
教室の窓の外からはまた誰かが廊下を走っているのか、それこそ椚先生の怒鳴り声とどたどたと騒がしい足音が伝ってくる。
彼女のいない1日が始まることにどこか物足りなさを思えたのは、自分だけではあるまい。
どことなくいつもより静かな教室をぐるりと見渡して、北斗はそっとポケットに入れたスマートフォンを握った。
朝礼が終わったら、さっそく妹に安否確認の連絡を入れようと考えながら。
(#2 Hot with Fever/氷鷹北斗 氷鷹誠矢)