彼は非常に聡い少年で、不在がちの両親に子供らしいワガママや癇癪をぶつけることすらしない子供だった。
両親に嫌われないように。
いい子でいよう、手のかからない子でいようという意志は、年月が経るにつれて彼から子供らしさを奪ってゆく。
気が付けば、小学校五年生になった北斗は生真面目で大人しい─、人間味の薄い少年に成長していた。

 そんなある春の日のことである。
始業式を終えた北斗は、普段よりはいくらか軽いランドセルを背負って川沿いの道を一人で下校していた。
いつもならば双子の妹と共に家路につくはずであるが、この日ばかりは一人きりでの下校。
というのも、五年生にもなればいつまでも妹とべったり行動を共にするのは"ダサい"らしいと先程知ったからである。
帰りがけ、"愛称ちゃん"の姿を探してきょろきょろと廊下を見渡していたところで同じクラスの男子からそう揶揄されたのだ。
「いつまでも妹と一緒なのはダサい」「一人で帰れないのかよ」
確かに彼は大人しい。
同級生と喧嘩をして先生を困らせるようなこともしない。
しかし、ここまで言われて腹が立たないほどお人好しではない。
言い返しこそしなかったものの、腹の底では熔岩がどろりと融けるようなむかつきが煮えていた。
こういう激情に身を任せるのは得策ではないと知っている。
むっと頬を膨らませた北斗は、予想通り自分とは違うクラスに振り分けられた"愛称ちゃん"をおいて、苛立ちに任せて一人での下校に踏み切ったのであった。

 ちなみに、男子たち曰く妹を"愛称ちゃん"などと愛称で呼んでいるところも"ダサい"行為なのだそうだ。
何を馬鹿げたことを─と思わないでもなかったが、"ダサい"と知らされてもなおその行動を改めないことはもっと"ダサい"。
今日は必ず一人で帰る。
そして一人で(おそらくは"なんで一人で帰ったの!"と文句を垂れて)帰ってきた妹を"おい"とか"お前"とか呼んでやるのだ。
 密かな決意を胸に宿し、少年は真昼の空の下をてくてくと進んで行く。
瞬時に通りすぎた春休みを象徴するかのように、つい昨日までは昼日中にも聞こえていた子どもたちの歓声は消えている。
辺りには、人っこ一人いなかった。








「やあ、ちょっといいかな」


対向からやってきた黒い車が北斗の前で停止する。
キュッ、とアスファルトに擦れたタイヤの音に顔をあげると、彼よりも頭一つ分高い位置にあった運転席の窓がサーッと開いた。

「この近くのショッピングモールに行きたいんだけれど、道を教えてもらえないかな」

運転席の窓から顔を覗かせた男は、ぼさぼさの髪をげっそりとこけた頬に垂らしてじっとりと北斗を見下げていた。
─なんだか汚ならしい人だな、
そう思いつつも生まれもった親切心には逆らえずに人差し指で道路の先を示す。

"この道をまっすぐいって、あそこのミラーを左に曲がって、"

"うんうん、"

 男はおとなしく北斗の説明に耳を傾けている。
彼の華奢な指先が示す道の先を、三日月のように瞳を細めて熱っぽく見ていた。

"左に曲がったら大きい病院が見えるから、病院の角を右に曲がってすぐそこ"

"うーん、難しいなあ……"

 困ったように頭頂へ手を遣った男は、いやにわざとらしい声音でそう言った。
樹木の虚のように落ち窪んだ瞳には、小柄な少年が映し出されている。
男が瞳を細めると、その瞳に映った華奢な北斗の姿がぐにゃりと歪む。
男は用意されたト書の台詞のように、すらりと次の言葉を紡ぎだした。

「ちょっと分からないから、車の中で詳しく道を聞けるかな」

ガチャリと開いた車のドアに"しまった"と思った時には遅かった。
流れるような手つきで乱暴に肘の辺りを掴まれる。
車内へと引き込まれかけて、北斗は瞳を大きく開いた。

まずい─、まずい!!
"知らない人に話し掛けられても返事をしてはいけないよ"
いつもおばあちゃんに言われていることだった。
世の中には一定数、おかしな人間がいる。
何がしたいのかは分からないが、確かにこの世の中には存在するのだった。
幼い子供を拐って、家族の元へ帰すまいとする"悪い大人"が。


 大人の力で車内へ引き込まれながら、優しい祖母やここ2ヶ月ほど会っていない両親や、そしておいて帰った"愛称ちゃん"の顔が走馬灯のように脳裏を駆ける。
懸命に抵抗を試みても、男は何やら荒い呼気を吐きながら、
"怖くないよ"
"痛いことはしないよ"
"ちょっと仲良くしたいだけなんだ"
と不気味な言葉を彼の耳元で囁き続ける。

「や、やめろ!!」
「大丈夫大丈夫、ちょっと写真を撮るだけだから。可愛く撮ってあげるから。」

ショッピングモールへ行きたいというのは嘘だったのだ。
男の姿の向こう、助手席にはいやにテカテカと黒光りした大きなカメラと女の子が着るようなフリルのスカートが見えた。
写真を撮る─、それがただの写真撮影でないことは明らかである。
まさかあのスカートを履かされるのか。
そのまま写真を撮られるのか。
大人の腕は観念しなさいとでも言うように彼を腰元から掬い上げて車内へ引っ張り込もうとする。
もはやこれまでかと、北斗はぎゅうっと瞳を閉ざした。




「おまわりさん!!ここにへんたいが!!」


ガツン!と。
傘の柄のようなもので車のボンネットを叩く音。
舌ったらずに使い慣れない罵倒を紡ぐ音。

「お、お嬢ちゃん!?やめなさい!」
「ほっちゃんをはなしなさい!このしょたこん!変態!社会のごみ!」

 ガツン!ガツン!と力任せに叩かれて、車内は軽く揺れ動いた。
恐る恐ると細目を開けて見れば、キッと瞳をつり上げている名前が傘でフロントガラスを突き破ろうと攻撃を加えている。
母から命じられていつも肌身離さず持っている傘─小学生には似つかわぬ小綺麗な日傘だ。
男は助手席側から急いで出て行くと、車への攻撃の手を緩めない名前をがばりと抱き上げた。


「きゃあっ!さわんないで変態!」
「愛称ちゃん!!」


 転がり落ちるように彼も車を降りると、抱えあげられた妹はスカートをぐちゃぐちゃにして暴れていた。
振り回していた傘は男に取り上げられたか、道端に転がされている。

サァッと血の気が引いた。
愛称ちゃんまで連れていかれてしまう。いや、もしかすると─、可愛い愛称ちゃんだけが連れていかれてしまうかもしれない。
妹を助けようと、一歩踏み出した足はガクガクに震えて動かない。
膝が笑っている。踏み出す一歩がこれほどに遠い。
動けよ、─動けよ!
どんなに頭で唱えても、恐怖にすくんだ身体は言うことを聞かなかった。


「はなしなさいよ!ただでわたしにさわって許されると思ってるの!?」
「あまり暴れないで……、落ち着いて、お友だちかな?あの子と一緒に写真を撮ってあげるから!ね!?」
「はぁ!?写真!?そういうのはうちの事務所を通してくれる!?」
「じ、事務所?」
「しねっ!」
「う"っ、」


 その時であった。
どこでそんな技を覚えたのか、人差し指で男の眼球に容赦ない一撃を加えた彼女は、突然に手を離した男の腕から投げ出された。
ふわ、と浮き上がる小さな身体は、スローモーションのように風に乗る。
北斗の薄いブルーの瞳に写し出された名前は、それからゆっくりゆっくりと降下を続けて、そして。
そのままべしゃりと頭からアスファルトに叩きつけられた。


「愛称、ちゃ……」


血だ。
頭から血が出ている。
ぽた、ぽた、とアスファルトに滴り落ちたどす黒いそれに、カタカタと指先が震えた。
へにゃ、と崩れ落ちるように道路に膝をつけば、目頭がじわじわと熱くなるのを感じる。
頭から血が出ている。
─愛称ちゃんが怪我をしている。
震える唇のまま妹の名を呼ぶ。
すると先程までぐったりとしていた彼女は、ぐっ、と短く呻いてからがばりと勢いよく立ち上がった。


「今のうちに!!はやく帰ろう!!」


予想外に力強く手を捕まれて、溢れかけていた涙はすぐさま引っ込んだ。
こめかみのあたりから細い血筋を垂らしながらも、妹はぐいぐいと北斗の手を引いて現場から走り去る。
思わずちらりと背後を振り返ると、かなり派手にボンネットが凹んだ車のわきで、男は目を抑えて蹲っていた。


「ほっちゃん!はやく!」


怒ったように言う妹の言葉に頷いて、一目散に自宅への道のりを走る。
カメラ、誘拐、怪しい男。
何が起こったのか、記憶は既に半分曖昧だ。
しかし、ただ一つだけ─、
名前が自分のせいで大きな怪我をしたらしいという事実だけが、彼の胸の中でぐるぐると巡っていた。



それから。
名前は祖母の手で病院へ連れて行かれ、頭を2針縫ったということだったが、本人はけろりとして処置室から出てきた。
曰く「めいよのふしょうだから平気だよ」とのことである。
彼女が処置を受けている間、待合室でぽろぽろと抑えきれない涙を流していた北斗であるが、頭に包帯を巻いて処置室から出てきた名前が「ほっちゃん、大丈夫?」とむしろ心配そうに自分を見るものだから、余計に情けなさに息が詰まりそうだった。
こんな思いは二度としたくない。
少年は拳を握って、熱い涙を拭ったのだった。



結局、あの不審者がどうなったのかは分からない。
祖母の手で学校へも連絡がいったのか授業を潰して防犯訓練が何度か行われたが、その後あの男が校区内をうろつく姿は目撃されていない。

しかし、そんなことよりも幼い北斗により衝撃を与えたのは、あの日彼に「いつまでも妹とべったりしているのは"ダサい"」と意地悪を言った男子達の本心であった。
「あいつら、名前ちゃんのこと好きなんだよ。」
「いつも北斗くんが一緒にいるから、名前ちゃんとお話できなくて悔しかったみたい」
「だからあんまり気にしなくていいよ」
 同じクラスの女子たちは、口々にそう言った。
彼女達の話を聞く限りでは名前のことが好きな男子が学年に何人もいて、その誰もが常に名前の隣を独占している北斗を疎ましく思っているということだったらしい。
「名前ちゃん可愛いから、他の学年の男子からも好かれてるみたいだよ」
なるほど、と頷いた。
確かに名前は可愛い。どの角度から見ても、百パーセント完璧に可愛い。
既に母親と同じ事務所に所属してたまにキッズモデルの仕事などをちらほらこなしていることも、きっと彼女が男子たちから特別視されている一因なのだろう。
彼はぼうっと窓の外を見ながら、妹のことを考えた。
 そうか、可愛い名前は人に好かれるんだ。
学年にも学年外にも、名前を好いている男子が大勢いる。
それはいつか小学校の垣根を越えて市内の別の学校へ、いつかは市外へ、そして県外へ。
─名前は、いつか父さんや母さんみたいになるのかもしれない。
全国に、そして世界中にファンを持つようになって、簡単には会えない存在になる。
そんな確信が、心に芽生え始めていた。

「ほっちゃ〜ん!帰ろー!」
 今はこうして、手を繋いで自宅まで帰ることができるけれど。
いつか彼女も、この手を離して両親のいる場所へ行ってしまう。
それまでは妹を大切にしようと、彼は子供心にそう思ったのだった。
未だ外れない妹の頭の包帯を優しく撫でて、仲好く手を繋いで帰路につく。



 
妹の手を繋いでいられる「今」を大事にしようと、そこまでの願望しか抱いていない、まだ何者でもない彼。
離れていく妹や両親を追って自分が芸能界の門を叩くことになるのはそれからわずか四年後のことであるとは、11歳の北斗は知る由もない。
そしてそれが、それなりに困難を伴う道であるということも。


(防犯/氷鷹北斗)

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