「ただいま〜。」
「む?今日、母さんは家にいるのか?」
「今日も撮影だって言ってたから、たぶんいないんじゃない?」
「なら『ただいま』なんて言ったって無意味だろう。誰も聞いていないんだからな。」
「でも、もしかしたらパパがいるかもよ?」
「いるわけがないだろう。あいつが家にいることなんてそうそう……、」
そして玄関口で靴を脱ごうとして、ほっちゃんは動きを止めた。
「ただいま」の言葉を無意味だと吐き捨てたままの顔で、玄関ポーチのあたりを親の敵でも見るかのような顔で見下ろしている。
明らかにぴたりと動作が停止したほっちゃんを訝しく思って、ひょいひょいと彼の髪を引っ張ってみるも反応無し。
「おーい」と声を掛けて細い背を叩いてみたけれど、ほっちゃんは微動だにしない。
彼はこんなに細っこいくせに背丈はそれなりにある方だから、前に立ち塞がれていると何があるのかよく分からない。
何がほっちゃんの動きを止めたのか─、
彼の背中からひょいっと顔を出して、私もその視線の先を追った。
「あっ!」
「チッ……、」
「パパいるの!?パパ!!」
お行儀の悪いほっちゃんの舌打ちを気にも留めず、私はローファーを脱ぎ去った。
私とほっちゃんの前には、行儀良くスマートにそろえて置かれた革靴。一目で分かる上等な張りのそれは、紛れもなくパパの靴だ。
丁寧に手入れのされた小綺麗な靴は、ほっちゃんの足よりも少しサイズが大きいのでパパのものだとすぐに分かる。
普段ならいないはずのパパが自宅にいるらしいのが嬉しくて、私はローファーを揃えもせずに脱ぎ捨ててバタバタと螺旋を描く階段へと駆け出していた。
「パパ!」
階段を登りきって、バタン!と二階リビングの戸を押し開く。
扉を開くと、途端にママが気に入って使っているルームフレグランスの清潔な香りがふわふわと漂ってきた。
送風に設定されたエアコンの風が、そうっと私の髪の先をさらってゆく。
微風になびいたサイドの髪を耳に掛けて、プレゼント包装を解く時と同じ高揚感を抱きつつ広い居間を見渡す。
するとリビングの奥の方─、ウィングバックソファに腰掛けていた人影が、くすりと微笑みの音に乗せてこちらを振り返った。
するりとエアコンの風に流れる暗色の髪、ほっちゃんとよく似た涼しげな目元、そしてどことなく感情の薄そうな口角。
こちらを振り返ったのは紛れもなく本物の、いつ見てもどの角度から見ても完璧にかっこいい、私たちのパパだった。
「おや、早かったですね。おかえりなさい愛称ちゃん。」
「ただいま!パパはお仕事終わったの?今日はもうお仕事ないの?」
曲線に形取られた北欧デザインのソファはカジュアルだけれど洒落ていて、やはりパパがそこで寛いでいると絵になる。
ぴょん、と跳ねて飛びつくと、パパはソファに深く腰掛けて私を抱き留めてくれた。
スプリングを軋ませて、ぼふん、とパパごと一緒にソファに沈む。
ちょっとだけ甘い香水の匂いがふんわりと学校帰りで疲れた身体を包んでくれて、私はごろごろと喉を鳴らしてパパの胸元に頬を擦り付けた。
お仕事お疲れ様とか、この間公開されたパパの主演映画観たよとか、今日もかっこいいとか、伝えたいことはいくつもあるけれど、そのうちの一つだってうまく言葉になってくれない。
パパを前にするといつもそうだ。この甘くて色っぽい香りに脳髄がとろけて、言語中枢までぐずぐずにやられてしまう。
とりあえず、パパが自宅にいることが嬉しくて仕方がないのだ。
そういう時、いつも私の頭は思考を放棄しているらしかった。
「名前!靴を揃えてから家に上がれ!」
ドタドタという乱暴な足音が、階段を上ってくる。
怒号と共にリビングに押し入ってきたほっちゃんは、パパに目を向けることなく私の首根っこを掴んでパパから私を引き剥がした。
べりっ、という音すら聞こえて来るような乱暴な手つきでほっちゃんの腕の中に捕われる。
いつも冷静な彼がこうして乱暴に私に触れることは珍しい。
けれど、パパが近くにいるとほっちゃんはいつもこうだ。
いつだってパパの近くでは我を失っている。
せっかくパパに甘えていたのに、どうして邪魔するのかな。
私が気負いなくパパに甘えられる時間なんてそんなにないのに。
相変わらず正気を失っているらしい兄を恨めしげに見上げる。
むすっとほっちゃんを睨み続けていると、彼も不満を隠そうともせずに眉間にシワを刻んでいた。
「靴をそろえろ。おばあちゃんも家に上がる時は靴を揃えなさいと言っていた。」
口うるさい母親のようなことを言って(私はおばあちゃんにそんなことを言われた記憶がないのだけど)、ほっちゃんは私の額に人差し指を突きつけた。
こうして小言を言うときのほっちゃんは頑固だ。(いつも頑固だけど)(そして、こういう時の彼は悔しいけれど正しいことしか言わない)
仕方なしに、はあい、とむくれて返事をする。
すると、ひとまずはそれで満足したのか、彼は私を腕の中に捕らえたままずるずると引きずってリビングから撤退し始めた。
ソファに座っているパパに構うことなく「今日は英Tで課題が出ていただろう。早めに終わらせてしまおう。」と早口に言って、リビングの扉に手を掛ける。
自分の部屋に私ごと連れて戻るつもりらしい。
いつもよりちょっとだけ早口な彼は、私の肩を抱いたまま廊下へと足を踏み出した。
「俺は英語があまり得意でないからな。お前が教えてくれると助かる。」
「ちょっ、ほっちゃん……せっかくパパがいるのに……っていうか、ほっちゃんもパパにただいまの挨拶しなよ!」
「ん?飲み物が欲しいのか?わかったコンビニにでも買いに行こう。ついでに何かつまめるお菓子も買いに行こう。勉強をするとお腹が減るからな。」
「違うってば!ちゃんと言葉のキャッチボールして!あとコンビニなんか行かなくてもキッチンにお菓子も飲み物もあるでしょ!」
「これ以上この場に留まると俺の精神衛生上よろしくない。」
私の言葉は、すっかりほっちゃんの左耳から右耳へと受け流されてゆく。
完全にパパの姿を視界から削除しているらしいほっちゃんには、聞く耳すら持ってもらえない。(そのうえ会話がうまく噛み合わない)
力いっぱいにほっちゃんの腕を退けようと押してみたが、その細腕のどこにそんな力があるの?と思わずにはいられない馬鹿力で逆に腕を掴まれてしまい、私は大人しく外へ連れ出される他なかった。
「ほっちゃん、ほっちゃん。パパにただいまの挨拶はしてくれないんですか?」
「む、何かおかしな声が聞こえるな。名前、早く行こう。これ以上一秒だってこんなところにいたくない。」
「……まったく嘆かわしい。不出来な息子だとは思っていましたが、この子は挨拶もできないんですかねえ。」
「……なんだと?」
あ、これは本当の本当にダメなやつだ。
「ようやくパパの方を向いてくれましたねえ。さあ、ただいまの挨拶は?」
「人に挨拶を要求する前に、お前は自分が挨拶を受けるに値する人間なのかどうか考え直した方がいい。」
パパとほっちゃんとでは、身長差がある。
7pほど上にあるパパを睨み付けるほっちゃんは、もう完全に頭に血が上っています、という顔をしていた。
私の腕を掴んだまま、それとなく私を庇うように前に立つほっちゃんをパパは面白そうに瞳を細めて見ている。
にこ、と不気味にも思えるほど綺麗に笑うと、パパはするりと唇を開いた。
「十分に値するでしょう。ほっちゃんこそ僕が誰だかもう一度考え直しなさい。僕は君たちの父親としては不適格かもしれませんが、“業界の先輩“としては挨拶を受けるに十分すぎるほどの資格がある。─いえ、むしろ『挨拶をさせてやっている』くらいの差がありますかねえ。君と僕とでは、ね。」
「っ、お前のそういうところが嫌いなんだ!!」
「ええ、嫌いで結構。個人の感情にまで僕は干渉する権利を持ちませんから、君が僕を嫌っているならそれまででしょう……と、こういうことを言うから嫌われるんですかね?」
「ちょ、ちょっとお!!どうして二人ともすぐ喧嘩するの!?そうやってすぐ突っ掛かるほっちゃんもほっちゃんだし、パパもほっちゃんをからかわないでよ〜……。」
フーッ、フーッ、と天敵を威嚇する猫みたいに肩で息をして、今にもパパに掴みかからん勢いのほっちゃんの腰元に腕を回して彼の動きを制する。
煽り耐性がないというか、ほっちゃんもこう見えて喧嘩っ早くて血気盛んだから止めるのも一苦労だ。簡単な挑発に乗ってしまうんだから、この先も彼が芸能界でやっていけるのか、一応芸歴的には“先輩“にあたる私としては不安である。
ぎり、と歯を噛み締めてパパを睨み上げているほっちゃんの頭をよしよしと撫でて、私はパパに呆れの視線を投げ掛けた。
「ほんと、もう……お願いだからあんまりほっちゃんを怒らせないでね。ほっちゃんは私やパパと違って繊細なんだから。」
「ええ、軟弱とも言いますね♪」
「殺す!」
「ああもう〜!ほっちゃん落ち着いてよ……!パパもやめてったら!」
ムキになって怒るほっちゃんを面白そうに見て(スーツのポケットからしれっとスマホまで出して写真も撮っている。ほっちゃんはそれで余計に機嫌を損ねたみたいだった)、パパはへらりと笑った。
ひとしきり可愛い息子をからかって満足したか、「で、ほっちゃんが僕の存在を認識したところで本題ですが」と口を開く。
「本題……だと?」
「ええ、お仕事のお話です。」
仕事─、Trickstarに何か仕事を持ってきてくれたのだろうか。
私は未だにご機嫌斜めなほっちゃんを宥めながら、首を傾げた。
「─と、いうことで。新作ウェディングドレスのカタログモデルをお願いしたいんです。」
パパとほっちゃんと私と。
ダイニングテーブルに三人そろって顔を合わせたのは三ヶ月ぶりだ。
それなのに、机上に上がる話題は仕事の話である。
パパはいくつかドレスの画像をタブレットに表示して私たちに見せてから、淡々とした口調で説明を終えた。
タブレットに表示されたドレスは、裾のフリルやヴェールの下部レースがほんのりと青紫がかってていて、見るものにクールな印象を抱かせる。
それでもウェディングドレスには珍しく、袖はパフスリーブ。
袖口やスカートの裾、そしてヴェールにあしらわれたレースは細かい紫陽花の花のような模様になっていて、クールな色調に可憐なデザインがぴたりとハマっている。
ウェディングドレスといえば純白、という従来の固定観念を打ち壊すというコンセプトの元に作られたらしいそれは、確かに革新的だった。
紫陽花の花が咲き乱れるチャペルなんかで撮影をしたらどんなにか素敵だろう、敢えて雨の日に撮影をしても映えるかもしれない。
完全に好みにドンピシャだったドレスにテンションが上がって、私は歓声をあげた。
「かわいい〜!!これ、すっごく可愛い!!」
「でしょう?ママのウェディングドレスをデザインしてくださった方の作品なんですがね、ちょうど昨年の初夏から温めていたデザインだそうですよ。」
「ふむ……で、この撮影モデルを名前に任せたいと?」
「ええ、デザイナーの方がどうしても愛称ちゃんにお願いしたいと。僕に直接連絡を下さったんですよ。」
「えっ、Trickstarのお仕事じゃないの?」
私は不意を突かれて正面に座るパパと隣に腰掛けているほっちゃんの顔を交互に見やった。
完全にTrickstarに仕事を持ってきてくれたものだと思っていたから、うまく言葉を返すことができずに頭上にクエスチョンマークを乱立させるしかない。
ほっちゃんはそんな私にやれやれと視線を寄越して、呆れを隠そうともせずに口を開いた。
「Trickstarの誰がこんなひらひらしたドレスを着るんだ。」
「誰でも着れるでしょ……それこそほっちゃんが着てもきっと似合─、」
「似合うわけあるか。冗談も休み休み言ってくれ。」
パパは私たちのやりとりを聞いて、くすくすと可笑しそうに笑っていた。
それから肩を震わせながら口を開いて、「ほっちゃんだと仏頂面の花嫁になってしまうでしょう?」と揶揄うように言った。
「お前もおかしなことを言うな。悪趣味だぞ。」
「ええ、すみませんね。思春期真っ盛りの息子にこういう冗談はよくありませんでした。」
「相変わらず厭味な言い方だな。」
チッ、と、本日二回目の舌打ち。普段ならそうそうお目にかかれないそれに新鮮な気分になりながら、私はパパの方へとタブレットを押し戻した。
「……で、愛称ちゃん。このお仕事、やってくれますか?」
「えっ、う、う〜ん……。」
すぐに言葉は出なかった。
パパがお仕事を私に持ってきてくれたのは嬉しいけれど、もう私は芸能の仕事からは引退した身だ。
私がどう言ったって、芸能界には一度身を引いた人間に居場所はない。
パパなら私の居場所を作ることは容易いだろうけれど、そうしてパパに無駄な労力を割かせることはそのままパパが私を厭う原因になってしまう気がして、私はなんとなく怖かった。
「モデルか〜……もう随分長い間、ご無沙汰だったしな〜……。」
私が普通の女の子になって、ようやく普通の親子に戻れたのだと思った。
まだちょっとだけパパが私を見る目が苦しくなることはあるけれど、これからゆっくり普通の娘になれると思っていた。
ある意味で、アイドルでなくなった自分に安心しているところがあったのかもしれない。
もう頑張らなくていい、もう怯えなくてもいい、と。
─君には失望しました。
─貴女はもう少しできる子だと思っていました。
ゾク、と背筋が寒くなる。
パパにまたこんなことを言われたら、私はもう生きていけない。
その時は今度こそ、「娘」としての死を迎える時だ。
慎重に言葉を選ぼうと、視線を空に漂わせる。
パパはこの仕事を、私にやらせたいに決まっている。
私がアイドルを引退した時、一番失望していたのはパパだったから。
パパはこの仕事を、私の業界復帰の足掛けにするつもりだ。
なんとなくそんな気がして、私はパパの目を直視することができなかった。
ふい、と曖昧に視線を逸らして、喉の奥を絞る。
「えーと、先方が私を希望してくれてるのはすごく嬉しい。でも、私はもう事務所に籍もないし事実上の引退状態だから……、」
「いいえ。事務所に所属しているかしていないかが問題になるのなら、今から所属してしまえばいい。貴女ならどこも大手を振って大歓迎でしょうし、何ならママと同じ事務所に所属すればいいんじゃありませんか?あそこなら電話一本で事が済みます。」
言って、パパはスーツの懐からスマホを取り出して軽く振ってみせた。
ママが所属している事務所は、私が小学生でキッズモデルの仕事をちらほらとやっていた頃に名前を置いていた場所なので、復籍することは容易い─、それも氷鷹誠矢の直々のお願いとあらば。
つまり、そういうことだった。
パパは私にこの仕事をやらせるためならば、多少の労力は厭わないつもりだ。
しかしその熱意の傾け方がやはり、パパに失望を抱かせる原因になる気がする。
パパが私に入れ込めば入れ込むほど、その期待に応えられなかった時の失望が大きくなる。
身を以ってそれを知っている私は、ぞくりと背筋をはい上がる寒気に気がつかないフリをした。
「でも、でも……、そうだよ、私の名前……ユニットで活動してた時の名前は前の事務所がまだ手放してないから、私の名前自体が使えな─、」
「ユニットで使っていたのは『名前』のカタカナ表記でしょう。それなら今度は本名を登録すればいいでしょう?『氷鷹名前』の名義でなら芸能活動が可能です。」
「……、」
「ねえ?後は愛称ちゃんの気持ち次第ですよ。」
パパは反論は許さないとばかりに私の手を握って、にこりと機械みたいに笑った。
─分かっている。パパに悪気はない。
この人はいつもこういう顔をしているから、不意に家族の前でも機械じみた冷たい目が出てしまうだけで、私にこの仕事を強制するつもりはない。
いつのまにか、エアコンは送風から冷房に設定が切り替えられていた。
冷たい風が音もなく私に吹き付けてきて、髪の先を揺らしてゆく。
三人分のカップからカラン、と氷が溶けた音がして、私は無意識にぎゅっと隣に座るほっちゃんの手を握った。
「名前……、嫌なら嫌だとはっきり言うんだ。」
「……ええ、僕も愛称ちゃんの口からはっきり『嫌だ』と聞けば諦めますよ。」
ほっちゃんの心地よい掌の温度を感じながら、唇を開く。
けれど、普段からこうしてパパは業界の人間の大半を支配下に置いているのだと思うと、やはり小心者の私には首を横に振ることはできないのだった。
(水の器/氷鷹誠矢 氷鷹北斗)